人間牧場

〇今日は散髪に行きました

 私はどちらかというと、頭は丸刈りなショートカットのため、大体1ヶ月に一回程度馴染みの理髪店へ散髪をしに出かけます。もうこの歳ですからそんなに小まめにやらなくても、人に迷惑をかける訳でもないので、たいがいでいいと自分では思うのですが、まだこの歳になっても講演等に出かける機会が多いので、相手に不快な思いをさせないように、せめて散髪くらいはした方がいいと、妻が勧めてくれるものですから、それもそうだと自分自身が納得して出かけるのです。
 今日は朝一番に散髪に行こうと昨夜から決めていたので、田舎の散髪屋は朝から混んでいないだろうと鷹を食って、いつもの通り予約もなしに午前8時30分に理髪店に入りました。この店のお客になったのはアメリカから帰った明くる年の昭和52年ですから、もうかれこれ35年になりますが、大将の髪が薄くなったり、奥さんが少し歳をとったくらいで、店の設えも散髪の仕方もまったく変わっていないのです。

 

散髪して男前を上げた私の似顔

 奥さんに促されて3席の真ん中へ座ると、切った髪の毛が付着しないようマントのようなカバーがかけられ、髪をぬれタオルで拭き、直ぐに大将にバトンタッチして、頭の下半分を電気バリカンで切り落とし、その後はハサミと櫛で刈って行くのです。椅子の前の大きな鏡に写る、自分の姿が変容していく姿を眺めながら、大将と世間話をするのですが、いつものことながら日ごろの疲れが出るのか、ついウトウトしてしまうのです。
 やがて頭を刈り終わると奥さんが髪の毛を払い落として片付け、マントを取って顔剃りに入りました。自分の妻でもこんなに頭や顔を撫でたりさすったりしてくれないのに、奥さんはしっかりとケアーしてくれるのです。洗髪を終えドライヤーで髪を乾かし、香料を振りかけて一丁上がり、50分で3400円の散髪料を支払い、お礼を言って理髪店を出ました。

 昼に家に帰った妻は、私の凛々しい姿に目を細めて、「お父さん、男前が上がったね。これで松山でも東京でも、何処へでも行けるね」と冷やかされました。最近は伊予市街の理髪店の中には1100円という超格安のお店もあるようで、知人は「年金暮らしなので格安の散髪屋に替えた」などと自慢をしていますが、その癖呑みに行ったりゴルフに行ったりしているのです。
 私は少々高くても散髪屋を替えるつもりはありません。散髪屋は地域の情報源といわれるように、様々なことを教えてくれるのです。それらの話題に対する対価だと思うと安いものなのです。さて男前が上がったところで、明日は隣町のお寺さんへお話を頼まれているので出かけます。お寺から講演の依頼がある度に、妻は「説教が仕事のお坊さんの前で何を話すの?」と不思議がられますが、話す私でさえ不思議なのですから、妻が不思議がっても不思議ではないのです。

  「散髪屋 月に一度の 散財で 男前上げ 鼻を高々」

  「散髪を すると頭が 軽くなる 僅かな重さ だのに不思議だ」

  「今頃は 安く散髪 する店も 出来たが俺は 義理があるので」

  「明日お寺 もしも衣を 着たならば 坊さんですか? 訪ねられそう」

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人間牧場

〇愉快な仲間たち

 私には青年時代の仲間、公民館に勤めていたころの仲間、現職のころ培った地域づくりの仲間、ボランティア活動を志した仲間に加え、退職後自分自身の意志で造った人間牧場につながる仲間など、人も羨むほど沢山の仲間がいます。それらの仲間は今も陰陽に私を支え続けてくれていますが、中でも退職後の私の生きがいともなっている人間牧場つながりの年輪塾というグループは、私が塾長をしているだけに、心許して夢を語れる愉快な仲間たちなのです。
 私塾年輪塾は5年前に立ち上がりました。私が代表を務めている21世紀えひめニューフロンティアグループが私の肝入りで、双海町東越の廃屋を借りて始めたのは、平成3年5月11日でした。春は青春塾、夏は朱夏塾、秋は白秋塾、冬は玄冬塾と称し、1年に4回、10年で40回を目指して開塾したフロンティア塾とは少し違っている年輪塾は、今のところ不定期ながら先人に学ぶことを塾是として、2年1期でこれまで2期を終えました。1期目は民俗学者宮本常一、2期目は二宮金次郎(尊徳)、3期目の現在はジョン万次郎をテーマに学習を続けているのです。

夢を語れる愉快な仲間たち

 宮本常一から学んだ「歩く・聞く・見る」も、二宮尊徳から学んだ「経済と道徳の融合」も、私たちには全て新鮮で、1期毎に開く公開セミナーもノンフィクション作家佐野眞一さんや、二宮尊徳七代目子孫の中桐万里子さんから多くのことを学びましたが、3期目はジョン万次郎を研究している高知県土佐市の青野博さんを講師に迎え、第一歩を踏み出していますが、今回はジョン万次郎の生誕地に近い四国南西部に住んでいる塾生が中心になって、運営に深く関わっているものの、それぞれが県境を越えた遠隔地なため、メールや電話でのやり取りしかできず、打ち合わせは塾長の私と清水和繁塾頭、米湊誠二大番頭、松本宏小番頭、浜妥久男塾生第一号、真鍋幸一運営委員、永井誠一運営委員がその都度打ち合わせと称して集まり、他愛のない話を織り交ぜながら楽しくやっているのです。

 昨日も大番頭行きつけの「ふじ」という松山市駅裏の居酒屋で、夕方6時30分から始めました。この店の特徴は料理がビッグで美味しく、とにかく安いのです。会費3千500円2時間飲み放題ですから、いつも「これで儲けるの?」と首をかしげますが、薄利多売とでもいうのでしょうか、いつもお客さんが絶えない普段着で行けるお店なのです。
 昨日は12月15日に迫った年輪塾の打ち合わせと、今後の進め方にについての議題でしたが、それぞれがそれぞれの思いを持っていて、今後の展開が中々楽しみになってきました。人間は楽しく日々を暮らすことも大切ですが、明日に夢を持ってきることはもっと大切です。気がつけば愉快な仲間たちは退職組と現職組に色分けされていますが、どうやら人生の生き方や目指すものは同じ方向のようです。

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人間牧場

〇中国地方800キロの旅(その4・三原市シルバーセンター30周年記念講演)

 何度か講演に来ている三原市中央公民館ですが、この日はかつて中央公民館長を勤めていた安森さんが理事長を務めている、三原市シルバー人材センターの30周年記念式典の記念講演でした。安森さんは10年も社会教育をした大ベテランで、退職してから請われてこの役職に赴いたようでした。10年も前に私が話したことをよく覚えていて、懐かしい再会となりました。
 この日中央公民館の内外では生涯学習フェスティバルが賑やかに開かれていて、大ホールの高齢者作品展は、応接室で出会った市長さんが自慢するだけあって、かなりレベルの高い作品が所狭しと並べられ、多くの市民が訪れて賑やかでした。

 公民館の中庭ではテント村が作られ、また屋外ステージではキッズたちの素晴らしい活き活きとした創作ダンスがビートの効いた音楽に乗って踊られていました。今の子どもたちは私たちの子どものころとはまったく違い、想像もつかない演技力でいいものを見せていただきました。
 レストランで役員さんんと一緒に昼食をいただき、用意された応接控室で記念式典の終るのを待ちましたが、表彰が長引き、私の話は10分ばかり短縮すなければならなくなりました。主催者は時間を延ばしても結構だといわれましたが、私は終る時間ぐらいは守ろうと、予定されていた15時きっかりに話を終えましたが、殆んど満席の参加者は午後の一番眠い時間にもかかわらず、眠る人もなく大爆笑をしながら熱心に私の話を聞いてくれました。

記念講演会場

 この日の参加者は来賓や一部の人を除けば殆んどの人が、65歳以上の高齢者なので、私はこの日ばかりは少し話すスピードを落とし、ゆっくりとした口調で話すことを心がけたため、自分の感触としてもいい状態でした。どんないい話でも相手の心の扉を開けなければ届かないし、ましてや眠ってしまうと元の木阿弥なのです。この日私は手持ちのハーモニカで井沢八郎の「ああ上野駅」と、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」の2曲を吹きました。すると会場の中から何処からともなく口ずさむ声が聞こえ、やがてその声はかなり大きなハーモニーとなって会場を包み込みました。
 講演が終わって帰り際、参加者の何人かに玄関口で出会いましたが、「私涙が出た」とか、「いい講演だった。ありがとう」「又来てください」と声をかけていただきました。いやあ講演冥利につきました。

私の帰りを出迎えてくれた瀬戸内の夕日(北条辺りでの夕日を車窓から)

 この一週間は忙しかったため、あっという間に終ってしまいましたが、高校生から一般成人、高齢者に至るまで、様々な年齢層の方々に、幸せと感じて日々楽しく田舎で生きている私の思いを、お話をするという手段でお裾分けをすることが出来ました。
 世の中が不景気なため、GNPなどと経済成長ばかりに目が行っている昨今ですが、私はむしろブータン王国の国王が述べた幸福感こそ、今の日本に欲しいものではないかと思うのです。経済成長は1~3パーセントで満足できるような暮らしをしつつ、むしろ自分の人間力成長に重きを置いて生きたいものです。今回の旅はそんなことを考えさせられる旅でした。

  「ハーモニカ 吹けばみんなが 口ずさむ 涙が出たと 握手求めに」

  「経済の 成長よりも 幸福を 感じるような 成長したい」

  「10年も 前の私の 講演を 覚えていると 内容披瀝」

  「2日間 出歩きわが家 帰ったが やはり落ち着く 家族いるから」

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人間牧場

〇往復800キロの旅(その3)

 今日は二日間800キロという旅の疲れを少々感じているため、このワード・プレスブログの原稿記事を書く意欲が湧かないので、この続きは明くる日にして、少しテレビを見ながら休憩したいと思います。お休みなさい。

 昨日の夜はこんな書き込みをしてから、日ごろより少し遅い夕食を、旅の話を妻に聞かせながら食べました。そして孫たちと久しぶりの風呂を楽しんだ後、テレビを見ながらコタツの中で横になりでウトウトしました。妻に促されて布団の中へ入りましたが、やはり少し疲れていたのか、昨夜はぐっすり寝込んで朝を迎えました。
 今朝は疲労もすっかり回復して、気分爽快な朝をいつものように迎え、朝4時に起床しました。それにしても昨日で終わった先週は、月曜日・宇和島市(宇和島市少年補導委員研修会)、水曜日・四国中央市(土居高校講演会)、木曜日・松山市(四国高校教頭研修会)、金曜日・双海町(伊予市民生委員役員研修会)、土曜日・鳥取県岩美町(まちづくり講演会)、日曜日・広島県三原市(シルバーセンター30周年記念講演会)と、つい最近にない超ハードなスケジュールをこなしました。妻が感心して言うように、よくも行く所があるものです。

 

船着場近くにあるヤッサ踊りのモニュメント

 

戦後引き上げ船として活躍しここで解体された興安丸の錨のモニュメント

 昨日は宿泊先の岡山市内のホテルを少し早めに発って、高速道路を乗り継ぎ尾道から、国道2号線バイパスを走り三原市へ向かいました。この道も何度か通っているのですっかり見慣れた光景を三原市内へと入りました。会場となっている三原市中央公民館が近くなるにつれて、生涯学習フェスティバルや健康祭りの開催を告げる何本かの幟が、小雨に濡れてはためいていました。この日の講演会は午後1時からなので、それまで新幹線の窓越しに時折見えていた三原浮城城址を一目見ようと思っていたので、新幹線と在来線が同居する駅前の有料駐車場に車を入れて、軽装のままで歩き始めました。三原城址はまるで三原駅構内に戦国時代のジオラマのようにあるのです。国の史跡ともなっているのに、これらの文化財を壊してまで「ひかりは西へ」という高度成長時代の合言葉を信じて、新幹線を引き込んでいるのです。

三原駅の構内に隣接する三原城跡台
城跡にある珍しいチリメンウバメガシの木

 私は若い頃、新幹線で東京へ行く時は、当時松山観光港から三原港まで水中翼船が走っていて、宇品港から新幹線の乗り場までの距離が遠い広島市内に比べ、港と新幹線の乗り口が目と鼻の先で便利だったため、よく利用した思い出の場所なのです。さすがに港も駅もすっかり様変わりしていますが、三原城址は当時のままでした。駅構内から城址台に登りました。午前中でしかも夜来の雨で濡れていたため、私以外人の気配は感じられませんでしたが、時折高速スピードで通過する新幹線列車の風圧で地面が揺れるのを感じ、百日紅の紅葉をゆっくり眺めながら散策しました。城址はその昔小早川隆景が小島を使って城を築き、それが満潮になるとあたかも浮き島に似ていることから、浮城と呼ばれていたそうです。そのことを示すように城跡には何本かのウバメガシの老木がありました。しかもそのウバメガシはチリメンウバメガシという珍しいもので、葉が突然変異でちじれているのです。他にも珍しい始めて見る木々もありました。

  「2日間 中国地方を 旅をする さすがに疲れ 眠りの床に」

  「若い頃 水中翼船 利用して 三原の港 乗り降りしたっけ」

  「駅構内 城の石垣 あるという 世にも不思議な 光景見つつ」

  「浮城と 言う別名は なるほどと チリメンウバメ 身ながら思う」

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人間牧場

〇地元で話すのは・・・・

 昨日は双海町にある潮風ふれあいの館という宿泊研修施設で、伊予市民生委員会の研修会が開かれ、日本銀行松山支店内にある愛媛県金融広報委員会から、講演を依頼されていたので出かけました。研修会での私の講演予定は午後3時からでしたが、少し早めに行く私の癖が功を奏し、「全員集まっているので早速始めましょうか」というアバウトさも手伝って、20分も前に開会しました。
 会長さんのあいさつの後直ぐに私の講演です。会場に集まった人は伊予市民生委員会の役員さんで、よく見ると半分以上の人の顔を私は知っていて、相手も私のことを殆んどの人が知っているようでした。見ず知らずの人の前で話すのは馴れていますが、顔を知っている地元の人の前で話すのは、何とも気恥ずかしいもので、こちらもいい話をしようと身構えるため、最初は歯車がかみ合いにくく感じましたが、話し始めて5分もすると普通どおりのペースに戻っていました。

 私は民生委員になった経験はありませんが、双海町時代におおよそのことは知っているし、私の妻も双海町時代に5期15年の長きに渡って、民生委員や役員を務めた経験があるので、内情も分かったつもりで話をさせてもらいました。「心豊かに生きる」というタイトルで、2時間近くお話をさせてもらいましたが、お疲れな時間帯にもかかわらず眠る人もなく、熱心に聞き入って貰い感心しました。
 数日前地元双海町の世話役である西下さんから、「講演会終了後の懇親会にも残って欲しい」と頼まれ出席をすることにしていたので、ギノー味噌さんからいただいた味噌を配って、「裏が味噌」の名刺と共にPRをさせてもらいました。

 この日集まった人の中には、「双海といえば夕日」と思われている人が多く、時間帯を夕日の沈むころに設定していたため、みんな楽しみにしていましたが、残念ながら西の空が曇って自慢の夕日を見てもらうことはできませんでした。それでも雲間から海を照らす夕日がチラッと見えたり、茜色の夕焼けが見えましたが、関心はもっぱら懇親会に目と心が行き、鑑賞する人はいなかったのが何よりの救いでした。
 私は夕方から来客がある予定を組んでいたため、1時間弱で早々に引き上げて帰りましたが、皆さんは迎えのタクシーが来るまで、たっぷり2時間食談飲み会を続けたようでした。「名刺をください」「今度人間牧場を訪ねたい」「うちでも今日のような講演を計画したいのでその時は宜しく」などという、言葉を交わしながら話した民生委員さんの顔を思い出しながら、昨日のことを今朝早く記録にとどめました。

 私はこれから早い朝食を済ませ、兵庫県境にある鳥取県岩美町へ瀬戸大橋を渡り出かけます。午後から夕方にかけて岩美町で講演したあと岡山まで戻って一泊し、明日午後は広島県三原市で講演が予定されているので、帰りは明日の夜になる予定です。今週は月曜日の宇和島市からずっと出ずっぱりの少々ハードなスケジュールが続くため、妻は旅先での安全と私の健康のことを案じているようですが、私は今回もプラスワンを何処にするか少しワクワクしながら、今日のノルマのブログを2本書き終え朝を迎えています。
 たった今4時45分小さな地震があったようで、書斎の椅子にその振動が伝わりました。東日本大震災以来、私も地震に少し敏感になっているようです。

  「地元では 話しにくいと 思いつつ 始めたけれど 何のことなし」

  「西の空 少し曇って 雲隠れ これもまた良し 今度に期待」

  「人の世話 する人たちは 何となく 穏やか心 見え隠れする」

  「出発だ 兵庫県境 岩美町 どんなドラマが 待っているのか」

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人間牧場

〇四国内の教頭・副校長先生たちの前で講演しました

 昨日は「四国高等学校教頭・副校長会」という団体から、第27回研究協議会での講演を頼まれ、会場となっている松山市道後の「にぎたつ会館」へ出かけました。松山は私のホームグランドのようなもので、殆んど毎日出かけていますし、「にぎたつ会館」もよく会合に使われる学校共済施設なので、到着時間や講演開始時間を逆算し、少し早めに自宅を出て、ギノー味噌と愛媛新聞社、それにえひめ地域政策研究センターへ立ち寄りました。ギノー味噌では100gの味噌を200個受け取り、愛媛新聞社では事業局の浅野女史を訪ねてカルチャースクールの打ち合わせを行い、えひめ地域政策研究センターでは河野研究員を訪ねて、週末の明日出かける鳥取県岩美町の知人から預かったという名刺をいただき、少し雑談して所用を済ませ会場入りしました。

講師席から見た講演前の会場の雰囲気

 昨日の日中は風もなく穏やかな秋晴れの好天に恵まれ、道後界隈は秋の行楽シーズンに入ったからでしょうか、平日ながら観光客も少し多いような気がしました。研修会が始まる20分前に玄関先に入ると、150人近くの参加者が受付をしている最中とあって、少し混雑していましたが、講師なので専用の小さな控室へ通され、担当の女性がお茶を差し出してくれたりしました。聞き及べばこの女性は私が現職の時代に私の話を聞いたことがあるそうで、その当時話したことをリアルに覚えていて、内容を話してくれ驚いてしまいました。
 その後も年輪塾の仲間である宇和島南高校の近藤教頭先生も控室へ顔を出してくれて、すっかりリラックスしました。四国中の教頭先生や副校長先生が集まる研修会なので、余り私のことは知らないだろうと思いきや、どうしてどうして沢山の顔々を知っていて、少しやばいと思いましたが時既に遅しでした。

 講演は13時30分から始まる予定でしたが、開会行事のあいさつが長引いて、10分ばかり遅く始まりました。この分だと私の話を90分すると、ボタンの掛け違えの連鎖反応が起こるので、時計を予定通り元に戻して15時には終ろうと決意して壇上へ上がりました。会場は150人の満席で迫力を感じながら、いつものようにアドリブで「新らしい発想で生きる」と題して、まあ淀みなく話をさせてもらいました。
 謝辞は副会長で私が学校評議員として関わっている、松山工業高校の別府教頭先生なので、私の話を上手くまとめられて話してくれました。講演が終わってから誘いを受けた教育懇談会と称する懇親会が始まる午後6時までは、3時間も待ち時間があるので、会場の近くにある娘のマンションへ行き、孫二人を誘って近くの道後温泉椿の湯へ出かけ、3人でのんびり温泉を楽しみました。

 30分前再び会場へ戻り懇親会に出席しましたが、高砂の席とでも言うべき上席をおこがましくも与えられ、沢山のオードブル料理が円卓に並ぶ会場で1時間弱、入れ替わり立ち代りやって来る馴染みの人や懐かしい人、私の話に食いついた人などと名刺交換をして、別の会場で予定されている仲間内との打ち合わせ会に参加するため、少し早めにお暇しました。私の誕生日に高知県大月町の堀光恵さんから届いた手紙で予告されていた、高知県大月分校の教頭先生にも出会い、またわが妻の知人である八幡浜工業高校の内藤教頭先生にも出会い、持って行った名刺が恥をかくほどの交遊でした。

  「知り人も いないと思い 鷹を食う ところがどうして 顔々知りて」

  「講演の 開始時間が 遅れたが 元に戻して 連鎖を断ちぬ」

  「集まりし 人の中から 校長が やがて誕生 するのか思う」

  「またやった アドリブ話 教育と いうお堅い場所 わきまえもせず」

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人間牧場

〇大きな鯛が届きました

 昨日の夕方玄関先から、「おじいちゃん大変大変!、大きな鯛が届いた」と、甲高い孫希心が家中に大声を響きわたらせながら、台所横の部屋にいた私の元へ走って報告にやって来ました。私は孫に手を引かれて玄関に出てみると、5キロもあるような立派な鯛が置かれていました。息子嫁の話によれば長男息子の仲の良い漁師さんの和田さんが、持って来てくれたそうです。孫の声に釣られて妻も出てきましたが、家族全員が立派な鯛を見ながら、「ここはおじいちゃんの出番ですね」と、妻も若嫁も私に鯛の調理を頼み、妻は「今晩はこの鯛の刺身で握り寿司をしよう」と決め込み、準備のためさっさと引き上げてしまいました。

大きな鯛が届き大騒動の孫たち

 私は少し肌寒くなったため着ていた、薄手のジャンバーを脱ぎ、早速調理の準備を始めました。調理の前に鯛を持った孫たちの写真を撮ってやろうと、デジカメを持ち出し、鯛の尻尾付近に手が汚れないようキッチンペーパーを巻きつけて持たせましたが、3歳と5歳の孫には重過ぎて、用意した発泡スチロールのトロ箱の上に何度も落として終いました。また二人が動くためピントがずれましたが、まあ何とか鯛の姿だけは記録に留めました。
 さあ私の出番です。裏の調理台にまな板と魚専用の出刃包丁、それに鱗取りを用意し、鱗が極力飛ばないよう水を掛けながら、まず鱗を取りました。これくらいな鯛になると鱗も半端ではなく引いた鱗が四方八方に飛び散りました。

 次の作業は頭と胴体を切り離すのですが、鯛の骨は硬くて中々です。ましてや切り離した頭部分からエラとカマを外し、頭を真っ二つに割る作業は、馴れた私でも一番難儀な作業なのですが、とりあえず順調に二つに割れホッと一息です。内臓には食べたであろう大量のイワシが胃袋に収まっていました。それらを潰さないように丁寧に取り除き、三枚に下ろしました。そしてパレットに二つに分けて、妻と若嫁に渡して流し台を洗い、汚物を猫に食べられないよう、頑丈なゴミ箱に入れて電気を消し、私の役目を終えました。
 孫たちも新鮮な鯛の刺身はご馳走だったようだし、わが家でも妻が酢飯を作って、握り寿司を食卓に並べてくれました。いやあ実に美味しい握り寿司で、思わぬご馳走に夫婦の顔もほころびました。

 田舎は漁師や百姓のの知人や友人、親類が沢山いて、かように豊かな食生活ができるのです。秋の実りの季節を迎えているため、サツマイモ、ジャガイモ、みかん、野菜、秋刀魚、鱧、煮干、ブドウ、梨、柿、新米などなど、もう食べきれないほどの農産物や海産物が、居間の横のローカに海産物を除いて置かれていますが、これらを早く食べなければならないので、近所や友人にお裾分けしながら、味覚の秋を楽しんでいます。
 一昨日は友人に頼んでいた極早生みかんが届き、妻は第一便を全国に発送したようです。早くも届いた旨の電話やメールが届いているようです。深まり行く秋の中で、妻も私も少々馬肥ゆる秋のようです。

  「おじいちゃん 鯛が届いた 呼びに来る 孫も私も みんな興奮」

  「この鯛は じいちゃんお願い 視線向く 私も心得 調理始める」

  「ダイニング 鯛の刺身が 握り寿司 美味い美味しい 二人連発」

  「鯛兜 今日の夕方 妻の手で 鯛めし炊いて 昨日の続き」

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人間牧場

〇祭りも忘れて働く私

 昨日は私たちの町の年に一度の秋祭りでした。4~5日前からそのことを知らせるように、氏神様の天一稲荷神社の境内や氏子集落の辻々には、4メートルを越すような大きな幟が、氏子の手によって何本も立てられ、秋風にはためいていました。秋祭りといっても私たちの地方では、大人の神輿と子どもの神輿、それに唯一ある両谷の獅子舞が出る程度で、南予の牛鬼や、東予の太鼓台・だんじりのような珍しいものもなく、比較的特徴のない静かな地域です。
 それでも運悪く前夜来から降り出した雨と風の中を、午前6時半に宮出しした神輿がワッショイワッショイという掛け声も勇ましく、町内を練り歩いて祭りの雰囲気を盛り上げていました。

 わが家では祭りの前日、22日の宵祭りに孫たち二人が、上灘保育園の可愛らしい花神輿を担いで、町内を練るというので、息子嫁がビデオカメラを持って出かけたようです。妻は仕事場である歯科医院の前を花神輿が10時頃に通るというので、仕事の合間を縫って見たようです。私も息子嫁から見に行かないか誘われましたが、昨年から間の拍子が合わず、今年も運動会や花神輿を見ることができず、孫たちにすまなく思っています。来年は孫希心も保育園の年長組になるので、何としても見に行きたいと思いながら、楽しかったと話す家族の神輿守の話に聞き入っていました。

 昨日は祭りだというのに、それさえ忘れて私は、金融広報委員会から請われるままに、講演の予定を入れてしまいました。その講演先が少し遠い東の端の四国中央市土居町にある土居高校なので、「雨が降っているので事故のないようくれぐれも気をつけて」という、妻に見送られてお昼過ぎに出発しました。目的地が新居浜インターと土居インターの真ん中にあるため、新居浜インターで降り、国道11号線を走りました。
 途中土居町のJA直売所に立ち寄り、市場調査をしました。土居地方はサトイモとツクネ芋の産地だけあって、サトイモやツクネ芋が所狭しと並んでいました。サトイモも産地らしく安い値段で売られていましたが、私は妻が大好物の大きなツクネ芋を2個買い求めました。妻はこのツクネ芋をすり下ろしてとろろにしたり、うどんや蕎麦に山かけして食べるようで、とても喜んでくれました。

 土居高校では校長先生が、県教委の生涯学習課に勤務していた顔馴染みな人で、驚いてしまいました。3時40分から体育館で開かれた講演会には3年生100人が集まっていました。金融教育関係の話はどちらかというと硬い話になるので、生徒の6割が高校を卒業後就職するという進路事情も察して、生徒たちの関心を引くため、むしろ生活設計に重きを置いたお話をさせてもらいました。
 授業時間に合わせた50分という講演時間は、あっという間に終りましたが、生徒たちは熱心に耳を傾けてくれました。50歳も年齢的に離れた私の話は、生徒たちにとって時代錯誤かも知れませんが、これからの人生の一助にして欲しいと願いました。

種田山頭火の句碑の前で

 玄関先に種田山頭火の句碑が建っていました。種田山頭火はこの学校へぶらりやって来て句を残しているようです。自由律詩なので少し型破りな句ですが、若者に贈る句としては最適ではないかと思いながら、講演が終わって帰る途中、手持ちのデジカメを取り出し写真に収めました。お世話くださった進路課長さんから勧められて、私も句碑の前で記念の写真を撮ってもらいました。
 山頭火は昭和14年に旅の途中、宇摩実業学校と称していた土居高校を訪ね、「湧いては 消えては 山の高さと 雲の」という句と、「競技を見たり 或いは山を眺めたり」という句を残しているようです。

  「秋祭り それさえ忘れ スケジュール 入れてしまって 後の祭りに」

  「孫たちの 担ぐ神輿も ワッショイと 町内練って 祭り盛り上げ」

  「高速道 使えば遠い 土居町も あっという間に 世の中便利」

  「高校の 前庭辺り 山頭火 句碑を見つけて 写真納まる」

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人間牧場

〇思い出の宇和島を訪ねる

 果敢な青少年時代に大きな漁師になるため3年間、親元のふるさとを離れて3年間遊学した宇和島市は、私にとって第2のふるさととでもいうべき場所なので、西予市宇和町から宇和島市吉田町に通じる法華津湾を見下ろす国道辺りを通るといつも、何故か郷愁のような胸騒ぎがするのです。当時はふるさとを離れ宇和島入りするのは蒸気機関車でした。急勾配な法華津峠のトンネルを幾つも出入りする時感じるときめきも、もうすっかり過去のものになりましたが、何時通っても変わらぬ懐かしい風景を、昨日も横目で見ながら自家用車を運転して、講演を頼まれ宇和島入りしました。

正面玄関横のえひめ丸慰霊碑

 講演会は午後2時からでしたが、講演に招かれた宇和島市青少年補導委員連絡協議会長の藤田光弘さんから、前日電話が入り、昼飯でも食べようとお誘いを受けました。少し早い時間に宇和島へ入ったため、とっさの思いつきで、母校の宇和島水産高校を訪ねました。校門に入ると穏やかな秋の日差しを受けて、えひめ丸事故の慰霊碑に祈りを捧げました。2001年2月10日にハワイ沖で起こった事故で、9人の尊い命が奪われましたが、さすがに10年を超えると人々の記憶も遠ざかりつつありますが、慰霊碑の前には今も綺麗な花が飾られていました。

私が乗船した初代の愛媛丸

 正面玄関から学校校舎の中へ入り、窓口で名刺を差し出し校長先生に面談を申し込んだところ、運よく校長先生も在校していて校長室へ通されました。この学校の漁業科の卒業生であること、実習船愛媛丸で遠洋航海に珊瑚海まで出かけたことなどを一通り説明し、和やかにお話をしました。校長先生はわが町に住む磯田先生のことをよく知っていて、縁の不思議を感じました。正面玄関の脇には宇和島水産高校の顔とも思える実習船の模型が、5隻並んで展示されています。アメリカの潜水艦グリーンビルと衝突して沈んだ船は4代目の船で、現在は5代目の船が活躍していますが、私が半世紀50年前に乗船した愛媛丸は、初代の214.5tの小さな船なのです。この実習船で赤道を越え、南太平洋を航海したのかと思うと無性に懐かしく、船首部分にあったキャビンでの生活や、甲板後部にある延縄倉庫を食い入るように見つめました。この船での体験は私の人生観を大きく変えたのです。

ハワイ沖で沈没した4代目のえひめ丸

 学校を出て待ち合わせ場所のかどやというレストランに行き、藤田さんと日替わり定食を食べながら色々なことを話しました。その後藤田さんは準備があるというので一旦別れ、私は腹減らしの散歩に出かけました。宇和島市体育館や造船所、市場や築地、港の風景を見ながらのんびり歩いていると、フォークリフトに乗った野本さんに偶然出会いました。かつて私と一緒の時代に青年団活動をしていた頃の野本さんは、真珠養殖業をしていましたが、長引く不況で生業を断念し、今は秀長水産に勤めているそうでした。40年も逢っていない人に、行きずりで逢うなんて奇遇だし、ましてやお互いが一発で顔と名前を思い出すのも嬉しいことでした。

 講演会場となっていた福祉センター駐車場へ明神教育長さんたちの案内で車を止め、エレベーターで4階まで上がりましたが、伊予銀行上灘支店の田中元支店長さんと義兄弟姉妹という人に声をかけられたり、何年か前この場所で、パネラーとしてご一緒したという女性と出会ったり、現在愛媛新聞カルチャスクールに来てくれている脇谷さんと出会ったり、まあ沢山の人たちと出会い、会話を交わしました。
 講演は80人ほどの前でどうにか楽しくお話しすることができ、会場を出て即高速道路に乗り、大洲から地道を長浜回りで走り、夕方無事自宅へ帰って来ましたが、私にとって忘れられない一日となりました。

  「久方に 半世紀前 住んでいた 宇和島訪ね 思い出浸る」

  「玄関の 慰霊碑頭 深々と 下げて合掌 感慨深く」

  「この船で 南太平洋へ 行ったのか 模型見ながら 在りし日思う」

  「宇和島は かけがえのない 土地ゆえに これから先も 見守り続けて」

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人間牧場

〇蜂蜜の商品化

 人間牧場でのアウトドア学習プログラムには、人間牧場の農場で育った農産物を使うことが大事と考え、梅・スモモ・ブルーべりー・フキ・サツマイモ・コンニャクイモ・野草、日本ミツバチ蜂蜜等を利用して様々な物を作ってきました。既に梅干しと梅酒はその域に達し、スモモもブルーベリーも生食やジャムを作り、フキも佃煮にして結構楽しんで、何とか四季毎のプログラムが軌道に乗りつつあります。ただサツマイモだけは思わぬイノシシの被害にあって、発展途上といったところだし、イノシシがその灰汁どさから、見向きもしないコンニャクに至っては、茎の太り具合から考えれば、芋は太っていると思われるものの、まだ一度もそのプログラムを実施していないのです。これら全ての成果物は只今のところ、参加者や人間牧場来訪者へのお裾分けに留まっていますが、人間牧場の維持管理のサポートしてくれている長男息子は、これらを製品から商品へワンランクアップする目論見をしているようです。

 そのひとつが蜂蜜です。日本ミツバチの養蜂は息子の発案で始めましたが、巣箱を構えたり設置したり、その世話は言い出しっぺなのにまったく関わらず、今のところは師匠である井上登さんの絶大なる協力を得て、私が全てを引き受けていますが、私の目論見どおり1年で1升、2年で2升~5年で5升の目標を達成し始めると、がぜん収穫した蜂蜜の商品化に向けて研究するようになり、さも自分が収穫したような顔をして、糖度計を買ってまるで科学者のように水分量を飛ばして、糖度を80パーセント以上にしたり、漉し器で漉して純度を高めたり、蜂蜜を採集してから殆んど毎日、仕事から帰るとその作業を楽しそうにゴソゴソとやっているのです。
 日本ミツバチの生態を書き記した本を読んだり、インターネットで知識を吸収したり、また蜂蜜を詰める小瓶・中瓶までネット通販で購入して、熱湯煮沸するなど準備をしているようです。

ラベルを貼った試作第1号の瓶詰め蜂蜜

 昨日の朝息子が小瓶に詰めた蜂蜜を、「試作第一号完成」と言って私の所へ持って来ました。見ると小瓶には琥珀色の蜂蜜が入り、ゴールドの蓋にはセロファン封印までして、「はちみつ-haney ninngen bokujo-人間牧場」、反対側には友人エリザベスさんのミツバチのコミカルな挿絵が、印刷されて貼ってありました。それを見た妻は、「ここまでしなくても」と開口一番言っていましたが、私は妻の意見に同調しつつも、「さすが設計を仕事にしているだけのことはあるな」と感心したのです。
 若し私が蜂蜜を商品化しようとすれば、もう少し大きな中瓶に採蜜した蜂蜜を、純度や糖度も考えずに入れ、外から読めるような大きな文字で、「人間牧場産・蜂蜜」などと、中身も見えないように貼るだろうな」と少し感心しながら見ました。息子は私のOKのサインが出た商品1号を、早速自分のダイニングにあるわが家の仏壇に供えて、収穫の感謝をしていました。

 今年はお陰様で蜂に刺されることもなく、目標の5年目5升をはるかに超える9升7合の蜂蜜を採蜜し、スズメバチの攻撃にも負けず、4つの巣箱に種蜂を残してシーズンを終えました。そして息子の協力によって採蜜した蜂蜜も製品から商品へワンランク格上げすることもできました。人間牧場の蜂蜜は商品化したからといって売るのが目的ではなく、自家消費と活動消費に重きを置いていますが、こうしてレベルをアップしようとする活動そのもののプロセスが、地域づくりにとってはとても大切なことだと実感しました。
 先日も人間牧場で開かれたふるさと子ども体験塾で、野草グランプリの賞品として子どもたちに差し上げたりしましたが、商品が出来上がったらお世話になった人たちに、一瓶づつでもお裾分けをして、収穫の喜びを分かち合いたいと思っています。

  「採蜜を した蜂蜜を わが息子 純度高めて 商品作る」

  「蜂蜜を 小瓶に詰めて ラベル貼り お洒落に作る 息子中々」

  「瓶詰めを した蜂蜜を 仏壇に 供え収穫 感謝の祈り」

  「何につけ レベルアップで 完結を 目指す活動 大事にせねば」

 

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