人間牧場

○昭和は古くなりにけり(写真が語る昭和史②)

 古い写真は時代を語る語り部だとしみじみ思います。今のようにカメラが普及していなかった子どものころは、どの家も貧乏でカメラ等なく、私たちが日常的に写真に写ることも殆んどなく、学校の記念写真に納まる程度でした。私がカメラを持ったのは水産高校時代、それも親類の叔父さんから譲ってもらった一眼レフの古いカメラで、そのカメラを持って実習船愛媛丸に乗船し、南太平洋へ遠洋航海にでかけましたが、残念ながらその時の写真は手元に僅か一枚しか残っていないのです。

 

昭和30年当時の3丁目の浜から見たお旅の松

 先日史談会で「えひめ、昭和の街かど」という講演を聞きました。その折スライドで紹介された双海町上灘付近の風景写真の一枚が目に留まりました。
 この写真は現ふたみシーサイド公園辺りから撮影されたものですが、まだ港も整備されておらず、道も県道だったため商店街を通っていました。砂浜には生簀という魚を活かす竹で作った大きな籠が引き上げられていて、ひっくり返された船も係留されている船も全て木造船なのです。

 最も目を引くのは天一稲荷神社の前にこんもりとした松が見えることです。この場所はお宮の前だったことから宮崎(宮先き)とかお旅と呼ばれていましたが、そこには大きな松の木が何本かあって広い緑陰でした。そこには昭和10年頃寿座という回り舞台や花道まである常小屋があり、戦後は海栄座と改称されたそうですが、娯楽とて殆んど無かった時代なので多いに繁盛していたようです。県道が国道に昇格し、国道のバイパス工事や松くい虫の被害で松の木は全てが跡形もなく無くなりましたが、上灘駅界隈の桜並木とともに風情のある海岸線だったようです。

宮崎劇団の演劇上演風景

 この写真は当時五丁目の人たちが宮崎劇団という劇団を作って常小屋で公演をしている様子です。その後演劇は映画に変わりましたが、東峰や高岸の人はテーラーで引っ張る台車にムシロを敷いて乗り合わせ、見にやって来たそうです。
 いずれも古きよき時代の思い出でしょうが、長閑な中にも文化の薫りを感じさせてくれるのです。その映画もテレビの普及によって姿を消してしまいました。

 

 

 

  「風景も 人の暮らしも 一変し 僅かな記憶 写真しかなく」

  「松の木や 桜並木が 風景を つくった昔 今はいずこぞ」

  「悲しいが 時代は後に 戻れない 残し伝える せめて写真で」

  「語る人 次第に数が 減って行く 記録留める これぞ史談か」 

[ この記事をシェアする ]