人間牧場

○送られてきた一冊の同窓会会誌

 昨日赤岡旭先生から年賀状にしたためた便りと共に一冊の本送られてきました。
 「ご無沙汰しております。若松会長におかれましては、益々お元気でご活躍のご様子に、心より敬意を表します。さて先日昔むかしの書類を整理していたら、宇和島水産高校同窓会誌(創刊号)が出てきました。若松進一氏の寄稿文が掲載されております。すでに所蔵とは存じますが、ここにお届け致します。宜しくお計らい下さい。50年も前なのに当時の漁業科はじめ各科の生徒の名前や顔、彼らの関わりも思い出せるのは、不思議なものです。・・・・・ ~中略~ では、若松会長の益々のご健勝とご家族の皆様のご多幸を記念申し上げて、乱文ながらご挨拶といたします。ご無礼はお許し下さい。私は教壇生活51年目も聖カの予定です。赤岡旭」と書かれた年賀状の裏には、宇和島水産高校3年を皮切りに宇和高校9年、松山南高校10年、東温高校6年、松山工業高校8年、聖カタリナ女子高校13年と色分けした丸印がプリンターで印刷されていました。

同窓会会誌

 

 私が赤岡先生と出会ったのは松山工業高校でした。私は松山工業高校のPTA会長を6年間やりましたが、その折先生は各課の課長としてPTAの役員に名を連ねていました。ハガキによると先生が数学の新採教員として初めて赴任したのが宇和島水産高校だったようです。そのこともあって赤岡先生とは何かにつけて気が合いお互いが声をかけるようになっていました。送られてきた名簿を見て驚くのは後に宇和島東高校の校長となった谷口正志先生や、国語で著名だった秋田忠俊先生、歴史に詳しかった三好昌文先生などなど、私は層々たる先生たちに教えてもらっていたようです。
 さて送られてきた同窓会誌は奥書きによると発行が昭和44年6月17日と書かれています。つまり私はこの頃は漁師をしていたのです。目次をめくると同窓会会誌創刊号といっても68ページの殆んどは同窓生の名簿で、寄稿は発刊に寄せた2人の文章を除けば、僅か6人のみなのです。その6人に何故選ばれたのかは不明だし、どんな想いで書いたのかも分からず、まさに拙文で汗顔の至りなのです。

 「早いものである。母校を卒業したことがつい昨日のように思えてならない。今ではまったく不振、いや一寸先が闇といわれる沿岸漁業に取り組み日夜孤軍奮闘をしている現在の自分を見たとき、何かしらわびしさが込み上げてくる。だが今に見ていろの初一念に生涯をかけようと思う私の姿もそこにある。」で始まる「今に見ていろ」というタイトルで書かれた文章には、漁業への執念のような想いが熱く書かれているのです。私はその明くる年、青年活動と漁業の重労働が重なって体調を崩し入院、そして傷心の中で止む無く漁業を断念して転職し、役場職員となる道へと進んだのです。既にこの文章にはそうした緊迫した予感が読み取れるのですが、私の手元に残る若き日の文章は、第十四回NHK青年の主張で県代表になったものと、今回赤岡先生から送られてきたものだけで、貴重な資料となりました。
 これからもこの同窓会会誌は大切な宝物として保存して置きたいと思っています。

  「五十年 ぶりに手にした わが文章 赤面しつつ 恐る恐ると」

  「元漁師 していた頃の 文章に 赤裸々綴る 漁業の実態」

  「この文章 書いた明くる年 転職を するとは努々 思わざるなり」

  「PTA 辞めても未だ 連綿と 続く出会いに 感謝をしつつ」

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