人間牧場

〇今昔

 今朝は北西の季節風が吹き、西国四国愛媛県といえど小雪が舞う寒い朝を迎えています。こんな日はストーブを焚いた暖かい部屋で、コタツに入って丸くなって過ごすのが一番ですが、こんな寒い日だからこそ外に出て体を動かした方がいいと、朝食が終って孫希心を保育園まで送って行って帰ると直ぐに、一人で裏山へ散歩に出かけました。毎朝の日課として約5千歩、杉や桧の林の中を少し意識的に早足で歩くと、厚着をしているためか汗が滲んで適当な運動になるのです。
 帰宅後親父の隠居に行ってコタツの中に入り、久しぶりに93歳の親父と二人で積もる話をしました。同じ敷地内に住んでいながらこのところの忙しさで、親父の隠居に顔を出すことも殆んどなく過ごしていましたが、そんな反省の心もあって少し耳が遠く、歩くこともおぼつかなくなった親父の話を聞いてやりました。親父のもっぱらの不安は、家族(私と妻、息子と嫁と孫二人)とは毎日顔を合わせ言葉を交わすものの、娘二人と息子、つまり私の兄弟がたまに訪ねて来る以外は殆んど人と出会わないことの寂しさのようでした。特に私は忙しく日々を過ごしているため、親父と話をする機会はそんなに多くはないのです。ましてやこの寒さゆえ親父も外に出て野良仕事をすることも殆んどないため、人と出会わないのです。それでも昨日はあの寒空の中7キロ先の診療所まで自転車で行ったのですから、驚く他はないのです。

 今朝はお餅を焼いてもらい3個も食べました。正月についたお餅を寒の冷水につけて保存しているため、正月からは毎朝のようにパンに替わってわが家では、お餅が主食となっています。今年の餅は少し小さめの丸餅です。そのため2個では少な過ぎる感じがするので、3個焼いてもらいました。焼き上がった餅を醤油につけ黄な粉を塗して食べるのですが、これが意外と美味しく只今のところはまっているのです。
 昔は漁村だったため力仕事をする若者たちが、大きな丸餅を30個近くも食べ、それをさも自慢のように話していました。私もさすがに30個までは食べたことはありませんが、漁師をしていたころは10個くらいは食べたような記憶があるのです。芳我というお菓子屋さんの作った羊羹やタルトを賭け喰いで三本も食べたり、石井で売っていたたいこまん(大判焼き)を20個も平気で食べたりすることが、青年団の話題になるほどで、今考えればテレビもパソコンもなく話題の乏しい時代だったようです。

 昔は雪が積もったり、氷柱ができるなど今以上に寒かったように思います。それもそのはず暖を取るのは主に炭と火鉢で、着る物も洗い古しでお下がりのものを重ね着していましたし、蒲団も煎餅蒲団を何枚も重ねて、湯たんぽやコタツを入れて寝ていました。ダウンのコートや羽毛布団の軽さは未だに不思議な感じがするのです。母が裸電球を入れて繕ってくれた靴下や、つぎの当たったズボン等、今では3丁目の夕日に出てくるようなセピア色した懐かしい記憶ですが、それでも子どもたちは青鼻を垂らして、子どもは風の子とばかりに元気に外で遊んでいました。「寒かったら体を動かせ」とはけだし名言で、今朝も寒い戸外へ思い切って出て坂道を歩くと体がポカポカして、そのうちじんわり汗が滲んできました。
 寒かったり腹が減ったり、貧しかったりした当時の記憶は思い出せば時として、何かほのぼのとするものです。はてさて今の暮らしを10年後20年後そのように、懐かしく思うことが出来るかどうか、不景気だとかいいながら食べれないほど貧しい訳でもないし、寒さもその気になれば暖かい小春日和のような部屋で過ごすことができるため、記憶には残らないような気もするのです。

  「久方に 親父とさしで 話する 親父安心 したよな仕草」

  「寒かった ひもじかったと 思い出す 子どものころの 懐かしことを」

  「パチパチと まるで怒かった 人のように 炭火が跳ねて 温もり伝え」

  「つぎはぎの 靴下ズボン 履いたっけ それでも元気 風の子なりて」 

 

 

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