人間牧場

〇豊後・大山ひびきの郷にて

一昨日に大分日田市に立ち寄り、今は合併して日田市になった大山町を訪ねました。大山の入り口にある木の花ガルテンと道の駅水辺の郷おおやまに立ち寄り、大山町の情報を仕入れようとしましましたが、残念ながらかつての大山町を語れる人に巡り合うこともできず、目と鼻の先の小高い丘の上にある目的地の豊後・大山ひびきの郷に午後3時半過ぎ到着しました。高速道路や地道を走り継いで来たため、多少の疲れもあってお宿あさもやで勧められた梅の香温泉なごり湯と岩盤浴に入り、久しぶりにすっかりリラックスさせてもらいました。

ひびきの郷

 

 

 

 

 

 

  夕方総支配人の緒方さんが部屋に見えられ、二人水入らずで久しぶりに懐かしい話に花を咲かせました。午後6時からふるさと料理ひびきで三苫社長さんと緒方さんと私の三人で会食させてもらいました。いずれの料理も料理長さんが腕によりをかけ、地元大山の食材を使って作ったものばかりで、特に鍋物の野菜類が美味しくて緒方さんのお給仕で何倍もお代わりをして満腹の手合いでした。三苫社長さんは元大山町長さんらしく、知られざる大山の物語を一杯聞くことができました。

三苫社長さん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
緒方総支配人さん
職員研修の講演会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 講演会は70人もいるという職員の殆んどが集まり、私の2時間近くに及ぶ話を熱心に聞いてくれました。私も「新しい発想で生きる」という演題で極力サービス業に関わる人たちに関係のあるようなお話をさせてもらいました。
 ひびきの郷のあちこちには、何年か前わが双海町から球根を送った水仙の花が可憐に咲いてい、嬉しい出会いでした。

双海町からお輿入れした水仙が咲いていました
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 講演後早々にお暇し、日田インターから九州自動車道に乗り、由布岳を見上げたり、別府湾を見下ろしたりしながら大分宮河内~佐賀関~九四フェリー~三崎~国道197号~ごぜヶ峠~夕やけこやけラインを通って、夕方双海町へ帰って来ました。心配された積雪もなくホッと一息と言ったところです。
 
  「『水仙の 花一輪や 旅の宿』 一句浮かびて 披露をしつつ」
  「水仙の 嫁ぎし異郷 霜降りて なごり湯もらい 体温める」
  「梅林の 姿頭に 浮かべつつ 妻連れいつか 来たいものだと」
  「大山も 時代の波に 洗われて 昔の光 見えず寂しく」
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人間牧場

〇日田一人ぶらり歩き旅

大分県日田市は平成の大合併で天瀬町、大山町、前津江村、中津江村、上津江村と旧日田市が合併して日田市になりました。日田といえば天領日田といわれる幕府の直轄地として発展してきた町です。ゆえに豆田などの古い町並みが今も色濃く残り、今は由布院や黒川温泉の影に隠れているようにも見えますが、大分屈指の観光地として多くの観光客を集めているのです。
 日田は古くから山紫水明の水郷(すいきょう)として知られ、そのシンボルが三隅川で日田盆地の中央を東から西に、筑後の沃野を潤しながら遠く有明海に注いでいます。隅地区旅館街裏の三隅川に浮かぶ屋形船は夏の風物詩で、遊船からは400年の伝統を持つ鵜飼を見ることができます。また日本三大美林のひとつに称される林業地で、その昔より三隅川は水運が発達し、木材の運搬手段として利用されていたようです。

日田市街マップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私も何年か前、観光協会の招きで講演に来て夏の三隅川界隈の賑わいを見せてもらいましたが、それは見事なもので今もその印象を忘れることができないのです。

 

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人間牧場

〇自家用車の修理が終る

 悪夢のような雪の伯耆大山での自損事故で、わが愛車は甚大な被害を被りましたが、東広島市に住む稲井さんが台車に乗せて蒜山インターチェンジから、雪の積もった山陰の峠を越えて瀬戸大橋を渡り、夜10時に松山インターを降り、砥部町の車ハウス砥部の修理工場へ運んでくれました。以来一週間車ハウス砥部の親友稲葉さんの手によって修理加工が行なわれ、昨日の朝9時に修理が終って無事わが家へ帰って来ました。
 稲葉さんは一昨日、人間牧場で開いた餅つきとピザ釜開きにも参加してくれていましたが、聞けば息子さんが休みを返上して整備をしてくれたようで、あちこちにえらい迷惑をかけたものだと、事故の反省をしきりにしているところです。一番心を痛めたのはやはり妻で、事故の一報を携帯電話で知らせた時は気が動転して、「大変なことになった」と思ったそうです。その後の様子が伝えられる度に、まるで実況中継のようだったと述懐するのですが、車は破損したものの相手がガードレールだったし、体の怪我も全然なく、修理費や廻送料がかかるので、先ずは目出度しとは行かなくても、我慢しなければと諦めているようです。

修理の終ったわが愛車カローラ・アクオス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 修理の大部分は後のバンバーとバックランプで、新品の部品交換となったようですが、修理の終った愛車は事故の痕跡もなく、修理後のワックスかけで以前にも増して綺麗になったようにも見えました。一週間私の手足となっていた社長の愛車プリウスも代車としての役目を終え、社長自らが運転してわが家から帰って行きました。
 稲葉さんは帰り際、修理前の事故の様子は写真に撮っているので、必要とあらば息子さんに頼んでPCで送ってくれるそうですが、事故ゼロの自戒もあり送って欲しいと頼みました。昨日の夜稲井さんに、その節はお世話になったこと、稲葉さんの手によって修理が終ったこと、そして事故に遭わないよう運転したい旨の電話を入れました。稲井さんは笑いながら雪道を事故車を運んだ武勇伝を控え目に話してくれました。

 何の因果でしょうか。今日から愛車を運転して出かける場所は、鳥取県と大分県こそ違え、また「だいせん」と「おおやま」と読み方こそ違え、漢字で書くと同じ「大山」なのです。妻は一週間前の事故のこともあるので、また冬型の季節風がこの3~4日吹き荒れたり雪の話題が何かと多いので、公共交通機関を利用するよう勧めてくれていますが、大分県日田市大山は、海を渡らなければならないこと、隣県ながら意外と遠いこと、公共交通機関だとかなり時間がかかることなどを考慮し、「気をつけて行くから」と了解を得て、車での移動を決断したところです。そのため忙しかった先週の骨休めをするよう妻に言われ、昨日はどこへ出かけるでもなく、もっぱら自宅でゆっくりのんびりコタツの番をしました。日ごろはしないウトウとの昼寝をしたせいでしょうか、また少し早く就寝したせいでしょうか、今朝はいつもより早く目が覚めてしまいました。今日のノルマのブログを二本書き上げ、ハガキを3枚書いて朝飯を食べて、出かけようと思っています。くれぐれも無事故で・・・・。

  「事故車両 修理を終えて 帰郷する 一週間ぶり 懐かし顔を」

  「もう二度と 事故はすまいと 言い聞かす 悪夢ありあり 頭を巡る」

  「大山(だいせん)と 大山(おおやま)呼び名 違うけど
                       どこか似ている気を付けなくちゃ」

  「破損した 痕跡どこも 見つからず たいしたもんだ 餅屋は餅屋」 

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人間牧場

 

〇人間牧場での餅つき

 人間牧場ですっかり年末恒例行事となった餅つきの噂を聞きつけ、日ごろ何かと私的に交流している、ほたるの里の西岡栄一さんから数日前、自分が作ったというもち米が紙袋に入れて2袋、何と60キログラム1俵も届きました。また一山越えた大洲市田処に住む年輪塾塾生の亀本耕三さんからもち米を洗ってかし、ヨモギも茹でたのを持って行くと連絡がありました。さらに西予市野村町山奥組のわが蜜蜂の師匠から、粟とキビを餅にできるように調合して参加する旨のメールが、年輪塾メールで小番頭松本さんに届いていました。内子町小田の商工会女性部長さんからは餡子の差し入れまでありました。いつもの事ながら多くの人の善意に助けられて、餅つきの準備は前日までに全て順調に進められました。
 妻は西岡さんからいただいたもち米を、前々日の夜洗ってポリバケツにかしてくれ、私もモロブタセイロと蒸し器、竹ザル、下敷き布巾、それに水用のポリタンクを2個全てを倉庫から取り出して、寒風吹く中で水洗いし用意万端整えていました。餅を入れるプラスチックパックと餅取り粉は妻が買って準備をしてくれました。

 

勇ましく腕まくりで手臼をする私

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 午前7時までにそれらを軽四トラックに積み込み、昨日の朝は冷え込んだので朝食を済ませて、少し厚手の服を着込み8時に自宅を出発しました。国道沿いでは市役所支所の職員さんがボランティア活動の一環としてゴミ拾いをしていました。顔見知りの職員さんを見る度に、短めのクラクションをあいさつ代わりに鳴らして通り過ぎました。
 人間牧場に到着すると、ピザ釜を製作してくれた戸田さんが、既にピザ釜に火を入れて準備が整ったので、手羽先を試験的に焼いているようでした。私はは釜を洗い持参したポリタンクの水をは釜一杯に入れ、かまど二つに杉葉を焚き付けにして火を焚き始めました。持参した竹ザルにポリバケツにかしていたもち米を移し、4つの蒸し器セイロに下敷き布巾を敷いて入れ、かまどにかけました。30分もすると蒸し器せいろのあちこちから蒸気が勢いよく噴出し、暇を見つけて洗った臼や杵も整って、人の来るのを待ちました。

臼と杵で餅つき

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのうち県内各地から子どもを含めると30人近くの人が集まり、賑やかな餅つきが始まりました。私が手臼を一人でしなければならないので、かまどの世話はもっぱら青木晴美さんに任せっきりになってしまいましたが、青木さんは要領を得ていて全てを一人でこなしてくれました。つき上がった餅は田処組にえひめ地域政策研究センター研究員河野さんの奥さんも加わって、テキパキと小餅に丸められました。それを45個のポリパックに白餅、粟餅、キビ餅、みかん餅、ヨモギ餅、餡子餅と色とりどりを50個近くも作りました。これは参加者のお土産用と禽獣へ配るためです。
 それぞれつまみ食いをしたり餅つきをしたりして、昼ころまでいい交流ができましたが、田処組が持参してくれた手づくりの豆腐とコンニャク、そして美味しい手づくりの漬物類を食べながら、来年4月に行なうことが決まっている田処大杉年輪塾の内容が、チラシで発表されました。一区切りついた2時半に中締めして流れ解散となりましたが、寒かったものの水平線の家も今年初めてストーブが焚かれ、中はポカポカでした。

餅とり風景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 青木さん、浜田さん、松本さんと私の4人で全てを片付け、日ごろお世話になっている
近所周りに餅を一パックずつ配り、お礼に紅まどんなという高級みかんまでいただいて自宅へ帰りました。使った道具類を水荒らして夕観所に干し、餅をあちこちに配って長くも短い一日の作業を日暮れと共に終えました。青木さんからお礼のメールが携帯に入り、また亀本さんからは一足早いメールが届いています。年輪塾も今年で4年が終りました。来年春早々には金子みすゞの故郷へ修学旅行をする予定だし、4月には田処大杉年輪塾、7月には宇和島藩年輪塾、そして9月には地域づくり全国大会と、ハードな計画が進められようとしています。「人でも仕事でも愛する所に集まってくる」は私の持論ですが、今年も充実した年輪塾であったと、後片付けをしながら一人思いました。

 

  「手臼した 手の平未だ 火照ってる 余韻残して 餅を食うなり」

  「夜遅く お裾分けした 餅御礼 独居老人 電話がかかる」

  「粟やキビ それにヨモギと みかん餅 まるで信号 彩り添えて」

  「「持参した 豆腐コンニャク 手づかみで 口に頬張る 野趣も豊かに」

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人間牧場

〇中国の古書「大学」を読む

 古いことなので日時までは正確に覚えていませんが、出張に行った帰りに大阪梅田の古本屋で古い古いノジの抜いた一冊の「大学」という本を手に入れました。その本が手元にありながら、「一家仁一國興仁一家譲一國興譲一人貪戻一國作亂其機如比」という二宮金次郎の銅像が読んでいる一節しか、読めず意味も理解できない私ですが、いつかこの難しい本を読んでみたいと思いながら20年以上も時が経ってしまいました。ところが先日私の親友で大の読書家である年輪塾塾生第1号の浜田久男さんから、思いもかけず「大学・中庸」という一冊の文庫本をいただきました。いただいたころは忙しくてその本も無造作に私の書斎の隅に積んどいていましたが、先日机の周りを整理していて目に留まり、早速中を開いて少し読んでみました。中には大学の読み方と意味が解説されていました。直ぐに今は台所となっている私の書斎だった部屋に行き、あの古本屋で手に入れた古い「大学」という本を取り出して、浜田さんから貰った本と付け合せながら読み始めました。

大学の一節

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二宮金次郎が読んでいる本の一節の頭の部分に、「右傳之八章釋修身斉家」とあるので思わず、八章と九章を勘違いしてしまいました。つまり縦書きゆえ項目目次は右と書かれているのですから、之まで述べてきたことの総論で、「以上が伝の八章である。八項目のうちの身を脩と家を斉うとを解釈したのである」と読めばいいようです。
 最初から難解厄介です。でも少しずつ読み解こうと思っています。漢文はレ点や一、二など返して読まなければならず、中学や高校で習ったことはもうすっかり忘れていて、浜田さんからいただいた本が頼りのようです。

 さて「一家仁・・・・」で始まる二宮金次郎の読んでいる本の前文、「所謂治國必先斉其家者其家不可教而能教人者無之故君子不出家而成教於國孝者所以事君也弟者所以君也弟者所以事長也慈者所以使衆也」
 「康誥日如保赤子心誠求之雖不中不遠矣未有学養子而后嫁者也」

 謂わゆる国を治むるには必ず先ず其の家を斉(ととの)うとは、その家に教うべからずして能く人を教うる者はこれ無し。故に君子は家を出でずして、教えを国に成す。孝とは君に事(つか)うるゆえん(所以)なり。弟とは長に事(つか)うる所以(ゆえん)なり。慈とは衆を使う所以なり。康誥(こうこう)に曰わく、「赤子(せきし)を保(やす)んずるが如し」と。心誠にこれを求むれば、中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず、未だ子を養うことを学んで而(しか)して后(のち)に嫁ぐものは有らざるなり。

 いやあ難しいことです。まず書かれている漢字をパソコンの部首索引で探して見つけるのに、こんな短文なのに一苦労でした。そして読み方の本を引用して読むのですが、これがまた難しく、結局は解説まで到達しないまま時間切れとなって、ブログの記事は中断と相成りました。この九章の続きは正月休みにでもと考えています。

  「漢文の 文字を探すに 一苦労 一画二画 部首を数えて」

  「八章と 思っていたが 九章で いきなりのっけ 勘違いする」

  「解読は 当分先と 腹くくる 急がず少し 慌てず少し」

  「大学に 行ってないのに 大学を 読むは無謀と 分かっているが」 

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人間牧場

〇新しい卓上カレンダーが届く

 以前は金融広報委員会から毎年届いていた卓上カレンダーを、20年を越えて使っていましたが、財政難と無駄を省くため印刷配布が中止になってから、愛媛県商工会連合会が作成配布しているWriting Calemdarという細長タイプのカレンダーを使っています。地元商工会の記帳指導員さんにお願いして、今年も何とか手に入れましたが、来年はこの顔見知りの記帳指導員さんが定年退職する予定なので、どうなることかと心配しているところです。今年のカレンダーはウグイス色とでもいうのでしょうか、真新しい表紙をめくり、今年のカレンダーの末尾ページに無造作に書き込まれている1月の予定から、早速あれやこれやと書き写しました。退職して7年目を迎えていますが、書き込む講演等の予定は相変わらず多く、既に1月や2月はかなりの頻度でスケジュールが入っています。

今年のカレンダー(左)と来年のカレンダー(右)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分では気力も体力も若いと思っていますが、最も身近な存在で毎日私を見ている妻に言わせると、気力も体力も確実に下降線を辿っているので、余り無理なスケジュールを組まないように指摘を受けています。「呼ばれたら刑務所以外どこへでも行く」と頼まれれば断わらなかった講演依頼も、前後を見計らい余裕を持って組みたいと、数年前から月に一度は4~5日程度予定を意識的に入れない日を設けようとしていますが、中々思うようにならないのです。
 私は退職を機に色々な公職を引きましたが、いつの間にかまたかなりの公職が付きまとっています。21世紀えひめニューフロンティアグループの代表や年輪塾塾長などは公職と言えないボランティアグループの代表なので、それなりに自由が利いて私の予定に合わせてもらえますが、他の公職は相手に自分の予定をあわせなければならないので厄介で、少しだけ気を揉んでいます。

 毎月最終木曜日に開催されてきたコープえひめの理事会も、早いもので6年の最終年となり、6月の総代会で辞することが決まっています。3年が任期ながら30年を越えて務めてきた金融広報アドバイザーの仕事は、今期が最後と決めていたのに押し切られ、もう一期務める予定になったので、変わらず予定が入るものと思われます。愛媛海区漁業調整委員も8月で4年の任期切れを迎えます。
 真新しいカレンダーを開いて1年の予定を入れ、古いカレンダーを書棚の引き出しにやがて終う私の人生の年毎の節目が、今年も間もなくやって来ます。来年はどんな年になるのだろうと期待に胸を膨らませる一方、右肩下がりの人生への不安も、親父や妻を含めるだけに多少気になるところです。幸い今年は息子家族と同居するという、将来へのわが家の土台だけはしっかりと据えることができました。
 さあもうひと踏ん張り、余り無理をせず来年も楽しく頑張りましょうか。

  「今年また かくてありなん カレンダー 残りの日々が 少なくなりて」

  「来年の 予定書き込む カレンダー 希望と不安 入り混じりつつ」

  「何となく 月日重ねる 愚かさよ 心体共に 進化を目指す」

  「新しき ことに挑戦 するゆえに 若さ保てる 基本忘れず」

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人間牧場

〇藁細工の鶴と亀

 昨日の夕方、「せいよ再発見」地域づくりグランプリの審査のためのプレゼンテーションがあったので、審査のため西予市へ出かけました。西予市は県内でも一・二を争う広い面積を持ち、海抜ゼロメートルの海岸部から高知県境山間地まで高低さのある街です。この事業の一年目はまつり、二年目は食べ物、三年目の今年のテーマは活動なのです。既に応募のあった23事例の書類審査と一次審査を終え、昨日は二次審査のためのプレゼンテーションなのです。審査員はまちづくり支援えひめの前田さんと愛媛新聞社の門田さん、それに人間牧場主の私の3人です。今回の審査は参加団体代表も評点に参加できるよう配慮がされた公開審査なのです。
 審査員の中で年齢が一番高い私が、互選によって審査委員長に選ばれていて、すっかり忘れていましたが、企画調整課長さんい続いて審査委員長のあいさつまであり、お見合いの話を引き合いに出しながら、相変わらずアドリブで思わず吹き出しそうなずっこけたあいさつをしてしまいました。

 

せいよ再発見グランプリプレゼンテーション

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 発表は各団体7分、質問時間5分で、パソコンを使って発表が始まりましたが、タイムキーパーの三好さんが鳴らす予鈴、本鈴の鐘もどこ吹く風で、まあこれも余興とばかりに11団体の発表が終ったのは午後8時30分でした。発表に要した時間は2時間30分ながら、地域特性5点、自立性5点、チャレンジ性5点、活動内容5点、総合評価10点、総点30点をその都度採点するのですが、聞けば聞くほど活動の内容は奥が深く、甲乙付け難く頭を悩ませました。発表者の中には知り人も沢山いて、目が合う度に思わず目を伏せたりしました。
 集計の結果発表は来年1月末に野村町乙亥会館で行なわれる表彰式を兼ねたシンポジウムまでお預けのようですが、グランプリに輝けば10万円、準グランプリ5万円、審査委員特別賞3万円の賞金が出るものですから、審査結果が気になるところです。

 

上甲さんにいただいた鶴と亀と注連飾り

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰り際、宇和わらぐろの会の上甲会長さんから珍しくて見事な出来栄えの藁細工をいただきました。鶴と亀なのですがこの置物を作るのにどれほどな手間隙をかけたことでしょう。名人芸とも思われるこれらの腕技手業はお百姓さんの真骨頂を見る思いがしました。一緒にいただいた注連縄飾りも見事で、この3点セットはわが家の海の資料館「海舟館」に収蔵しておきたいと思いました。
 宇和盆地の田圃のあちこちに見られたわらぐろも、コンバインの普及で次第にその姿を消そうとしています。これも時代の流れでしょうが、上甲さんたちの技と思いを受け継いでくれる人の出現を心待ちにしているものの、残念ながら厳しいようです。
 それにしてもさすが文化の里西予市です。この3年間で見聞きしたまつり、食、活動はとても素晴らしいもので、目を見張るものばかりでした。暇ができたら願わくばこれらの事例路見聞きしに、行脚をしたいと思っています。
 帰り際審査員に配られたわらぐろの形をしたスイーツを美味しく食べました。スイーツを食べたから審査に手心を加えるようなことはしませんでしたので、もうし添えておきます。(笑い)

  「審査会 十一団体 競い合う 予鈴ベルなど 無視して喋る」

  「スイーツを 配られ食べる 様子見て わらぐろならぬ 腹黒詮索」

  「端々で 元気活動 息づいて 頼もしきかな 西予の街は」

  「手土産に 貰った鶴亀 藁細工 感心しきり 手に取り見つめ」 

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人間牧場

〇食べごろになった干し柿

 10年前から体の都合で酒を飲まなくなったせいでしょうか、私は最近果物を食べる機会が多くなってきました。勿論私の住んでいる四国愛媛県伊予市双海町は、瀬戸内海に面した温暖な気候なので、みかん類は言うに及ばず年中果物が採れるのです。私は毎朝リンキャベと称してリンゴを半個ずつ食べますが、最近は友人からカキやリンゴやキューイフルーツ、みかん類が沢山届き、自宅で採れたみかんと共に、食べても食べても減らないのです。そんなこともあってお菓子類、肉類は殆んど食べないものの果物は大好物なので、糖分の摂取量が多いのではと気にしながら毎日美味しく食べているのです。
 先日愛媛新聞社に勤める浅野さんから干し柿用の渋柿が沢山届きました。私は干し柿も大好きなので早速同居している息子嫁と二人で干し柿作りに挑戦しました。皮剥き専用のピューレという道具で息子嫁は器用に、綺麗に80個もの渋柿の皮を剥いてくれました。剥いた渋柿に熱湯をかけて殺菌をしました。剥いた皮は干して漬物用に使う予定です。

 そこからは私の出番で、用意したビニールの紐にヘタの部分にある小枝をくぐらせて、1本10個程度の暖簾を8本作り、外の洗濯物干し場の物干し竿に順番に吊るしました。暖簾は結構重いので物干し竿のつり紐近くに集中して吊るしました。
 運よく干し柿を干してから少し温度が下がった寒波と季節風が吹いて、柿色の干し柿は1週間ほどで少し黒ずんできました。10日以上経つと更に色は黒ずんできたので、よく手を洗い手袋をして柿の表面を揉みました。柿を揉むとまだ硬い柿の内部の種等に手の感触が行き当たりますが、表面を破らないよう注意をしながら全ての柿を揉みました。
 暇を見つけてこの作業を3回ばかりした昨日、出張で2~3日家を空けていた外出先から帰って洗濯干し場を見ると、飴色の柔らかい干し柿が目に付きました。一個失敬して食べてみましたが、渋も完全に抜けて美味しい干し柿が出来上がりました。

食べごろになった干し柿

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 息子嫁にも勧めましたが、とても美味しくてほっぺたが落ちそうでした。昨日から毎朝一個ずつ朝食に食べようと思って食べていますが、甘いものとてそんなになかった子どものころ、甘干しといっていた干し柿を、まだ渋いのに母に内緒で食べ、大目玉を食らったほろ苦い思い出が蘇りました。孫たちはこれが食べられることすら知らないのです。
 今年の干し柿は息子嫁の皮の剥き方が良かったのか、私の揉む時期が良かったのか、いや浅野さんが送ってくれた渋柿の品種が良かったのか、満足の行く最高の出来となりました。毎日毎朝一つ二つと減っていくのでしょうが、干し柿の幾つかは正月飾りのお供え物として使う予定です。
 今年も残り少なくなり、あと半月もすればお正月です。これから何かと慌しい日々が続きますが、ビタミン豊富な干し柿を沢山食べて、風邪を引かないようにしながら正月を迎えたいと思っています。

  「干し柿を 盗んで食べた 幼なころ 渋い味して 顔をゆがめた」

  「息子嫁 私と二人 合作で 干し柿今年 純度も高く」

  「干し柿は ビタミン類の 王様と 風邪の妙薬 言い訳食べる」

  「正月に 神に供える 前失敬し 味見をしたが これなら神も」   

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人間牧場

〇久しぶりの忘年会

 大酒を飲んでいた若いころは、師走のこの頃になると妻が、「お父さん師走は松山から双海町へ通っているほど忘年会をしていたよね」と、懐かしむほど連日忘年会がありました。私が誘うのか仲間が誘うのかは、もう賞味期限の切れた話なので、深く詮索するつもりはありませんが、確かによく飲んだものだと、すっかりへこんだ下腹を撫でながら、当時を懐かしく思い出すのです。
 若いころの私は、酒を松山辺りで飲むと必ず妻に迎えに来てもらっていました。仲間内から妻のことを「10円タクシー」とあだ名が付けられていました。携帯電話が普及していなかったため、もっぱらお店や近くの公衆電話から家に電話して、迎えに来てもらっていました。妻が家を出て松山に到着するまでの約40分を有効に使おうと、2次会3次会に繰り出し、妻の迎えに来たことも忘れて飲んだこともありましたが、最後頃は待ち合わせ場所を「市駅前の角」と定めていたので、寒風吹きさらすベンチで酔いがすっかり覚めたことも幾度となくありました。

 10年前、体の都合でお酒を断ってからはそれもなくなり、「10円タクシー」は姿を消しましたが、「10円タクシー」で帰宅途中馴染みのラーメン屋に立ち寄って、ラーメンを食べビールを飲んだ、今にして思えば不健康極まりない行動もなくなり、妻も私も飲食門限午後8時を守る健康夫婦に生まれ変わっているのです。
 昨日は私が委員を務めている愛媛海区漁業調整委員会が水産会館であり、その流れで道後グランドホテルで忘年会をしました。委員と漁業関係団体、県庁農林水産部との合同忘年会なので、かなりの数の賑やかさでした。ホテルでの忘年会には大学生と思しきコンパニオンが5~6人呼ばれていたようでしたが、酒を飲まない私の前にはコンパニオンも必要ではなく、横の席に座った委員さんや団体関係者も、あちらこちらに酒を注ぎに出て席が空くため、私はもっぱら料理に舌鼓を打ちながら、2時間という長丁場を過ごしました。中締めをしたのは午後8時でしたので、2次会の誘いもありましたがすんなり車を運転して午後8時45分にはわが家へ帰り、優良亭主と妻に褒めてもらいました。

 現職を去ったせいか、年齢を重ねたからか、はたまた酒を飲まなくなったからかは分かりませんが、忘年会の数も年々減って今年は4回のようです。既に昨日で3回は終ったので後一回で幕引きです。まあこの程度が今の私には丁度いい回数のようです。
 自宅に帰って居間に入ったころを見計らったように、携帯電話がかかりました。電話の向こうの相手は日ごろ親しい仲間でした。かなり酒に酔っていました。聞けば忘年会が終って繰り出した2次会の店からのようで、電話の声もカラオケの音に紛れて聞き取れないほどのボリュームでした。酒に寄った人の話は同じような話を何度も繰り返すのです。自分が酩酊した経験があるだけに、邪険にすることもできず延々と15分も話を続けました。
 私が朝早く起きることを知っているその人から、今朝6時前に携帯電話がかかってきました。聞けば昨晩は3次会まで行って、帰宅したのは12時近くだったそうです。奥さんに叱られたそうです。それでも私と電話で話したことはおぼろげながら覚えているようで、あれこれと詫びていました。
 忘年会は忘れたい忘年もあれば夢を語る望年もあります。一年のうちには忘れたい事もたくさんあったことでしょうが、忘れたいことは早く忘れ、新たな気持ちで新年を迎えるような望年にして欲しいものです。私はどちらかというと望年のポジティブタイプで、あと一つ予定されている最後の忘年会を乗り切りたいと思っています。

  「忘年会 望年会と したいもの 忘れたいけど 忘れられずに」

  「十円で 妻を呼びつけ 懐かしい これも思い出 忘れられない」

  「飲んだあと ラーメン食べて 下腹に 溜めた贅肉 やっとなくなり」

  「二次会の 呑み屋カラオケ 賑やかに 電話かけ来る 友の話し聞く」

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人間牧場

〇読書感想文

 先日私が学校評議員を務めている地元の双海中学校から学校便り「夕陽」第17号が届きました。忙しさにかまけて学校へもそんなに覗かないため、時々届く学校便りは貴重な情報源なので隅々まで丹念に読ませてもらっています。時々学校のホームページへもアクセスするのですが、ホームページは終ったことの報告が多く、これから起こるであろう出来事は意外と知ることができないのが少し残念です。そのことについてはアンケートに書かせていただきましたが、学校も限られた人員でやっているので中々手が回らないというのが正直なところのようです。第17号に近所に住む徳山栞奈さんの読書感想文が、愛媛県審査で優良賞に輝いたニュースと、全文が紹介されていました。栞奈さんは親の教育が行き届いているからでしょうか非常に礼儀正しく、子どものころから出会う度に私のような人間にでも、笑顔であいさつが出来る子どもです。いい文章だったので記録に留めたいと思いました。

 「希望を植えた男」(書名「木を植えた男」 著者ジャン・ジオノ)
 たった一つある泉にも水はなく、何もかもが枯れ果てているような荒地。そこに男は木の実を植えた。小さな袋に入ったどんぐりの中の大きくて無傷なものだけを残し、何万粒も一人で植えていく。その繰り返しだった。「自分の土地でもないところに、木を植えようとしていたことが、私には不思議だった。しかも、そんな荒地に植えたところで水分も十分に与えられるわけではなく、枯れてしまうだろう。それでも男は、もう三年も荒地に木を植え続けていた。十万個の種を植え、根づいたのがたった一万本だ。あとの九万本は無駄になったということだ。私だったら途方もなく悔しく辛い。長い年月をかけて植えたというのに、十分の一しか根が張らなかったら、やる気をなくすと思う。なぜ男にはそれができたのだろうか。その男は、家族をなくしてから孤独な世界にこもっていた。もし私が孤独な世界にこもってしまったら、と考えると恐ろしくなる。周りの人がいれば、希望もわくと思うが、一人だと、立ち直る勇気を失い、ただ生きているだけになってしまうかもしれない。

 しかし、男は、そこで思い立つ。「ただのんびりと過ごすより、何かためになる仕事をしたい。」私は衝撃を受けた。なんて人としてすごいのだろう。だが、心の底で、納得した部分もあった。自分のためだけに何かをすると、必ず限界が来る。しかし、だれかのためにしようと思えば、実力以上の力が出せたり一人では困難な目標を達成できたりする。私は、バレー部のキャプテンをしている。バレーは、個人の力も大事だが、何よりチームの結束力が重要だ。キャプテンとして、どうチームをまとめたらいいのか、どうすればチームの力を引き出し最高のプレーが出きるのか常に考える。すると視野が広がり、予想以上に動けたり、やる気が高まったりするのだ。
 そして男は木を植えた。「神の創造にも等しい仕事」という言い方で表現されているから、荒地とは真逆の土地になっているのだろう。見渡す限りに広がる緑が、眼の前に広がっていくような気がした。しかし、ここで問題が発生する。木炭ガスで走っていた自動車のために木材が大量に必要になり、伐採の手がつけられた。ところが、自動車道が遠すぎて、計画は中止になる。これは単なる偶然なのか。男が努力してきたことを無駄にしないために、そうなったのではないか。「努力は必ず実る」という言葉が当てはまると思う。孤独な作業も、努力を続けることで、救いの手や無言の応援があるということではないだろうか。

 私がこの話の中で一番心の中に残ったのは、「どんな成功のかげにも、逆境にうちかつ苦労があり、どんなに激しい情熱を傾けようと、勝利が確実になるまでには、ときに絶望と戦わないとならぬ」という言葉だ。成功は、簡単にはつかめない。苦労と絶望、苦しみを味わい、それを乗り越えないと手に入れられないことだと思った。勝利することも同じように、楽なことばかりでは、絶対に無理だと思う。この男も「孤独」から始まり、気の苗が全滅したり、絶望のふちに立たされたこともあったりしたが、それがあったからこそ、今の自分がいるのだと思う。
 「自然の森」を守ために、もくもく木を植え続けた男。彼は死ぬまでそれを続けた。本当に根性があると思う。「いまはすっかり変わっていた。空気までが変わっていた。」男が植えた木のおかげで、こんなに自然が変わるものだと思わなかった。自然の力はすごいものだと改めて感じた。自然環境は、人間自らが壊すこともできるが、作り出して美しく、すばらしいものにもできる。この地球上が破壊されるか、再生されるかは、人間の力次第だなあと思った。

 わずか八年間で、大地に生気とやすらぎが広がり、水が流れを取り戻し、見違えるほど、なごやかな心で生活を楽しむようになれたのは、一人の男のおかげだ。自分の肉体と精神の限りをつくして、荒れ果てた地をよみがえらせることは、人としてすばらしく、誇りに思う。どんなに辛くても、諦めかけようとしても、その苦労や努力は、必ずどこかで報われる。だから私も、一度始めたことや、やろうと決めたことは最後まで自分が納得できるところまで、粘ってやろうと思う。
 「限界を決めるのは自分」。途中でやめるのも自分、最後までやりとげるのも自分だ。全ての戦いは、孤独から始まる。だが、孤独には必ず光がさす。あの荒地に、緑が広がったように。この話の男のような人間に、私はなりたい。

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