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○移動年輪塾あらし山④(丸太輪切りの看板)

 年輪塾の分家に看板を作ろうと思いつき、高知県馬路村の木下さんに頼んで、魚簗瀬杉の丸太を輪切りにしたものをリクエストしました。木下さんは私の要望に応えてほぼイメージどおりの板を宅配便で私の元に送ってくれました。私は親父の助言を得て極力割れないように川を剥き、丸太の周りに傷をつけないように針金で締め上げました。そして倉庫で約1ヶ月寝かせて陰干し乾燥をしました。

 近所の大工さんにお願いして表面をカンナで削り、小番頭の松本さんと綿密な打ち合わせをして松本さんが文字を書き込んでくれました。看板のことを気にしていた清水さんは出来上がった看板が気に入ったらしく、事前に持って帰って大工さんにかけてもらったようです。

 早速清水さんから看板をこのようにかけたとメールに写真を添付して送ってくれていたので、看板を楽しみにして出かけました。

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(メールで送られてきたあらし山山荘に掛けられた看板)

 清水さんは看板にこだわる人です。何日か前清水さんの自宅に所用でお邪魔した時、部屋の隅に銀河鉄道や雨ニモ負ケズで有名な詩人宮沢賢治の「下ノ畑ニイマス」という黒板書きの写真を掲げているほどの人なので、私も松本さんも思いを込めて製作にかかりました。

 私はこれまでにも自分の自宅横に設置した私設公民館「煙会所」の分家に看板を全国各地に17箇所17枚も
贈っていますが、今回は年輪塾の分家看板は久々なのです。


 移動年輪塾開催のため八幡浜日土のあらし山山荘を久々に訪ねましたが、松本さんの運転する車を降りると直ぐに、倉庫を通って下り坂を歩いて、やっと看板に出会いました。掲げてからまだ2~3日しか経っていないのに、看板は夏の強烈な日差しを浴びて、後のヨドヤ壁にもすっかり馴染んでいるように見えました。松本さん労作の書芸文字も中々味のあるものでした。「看板倒れにならぬように」と駄洒落を言いながら二人で色々な話をしました。次々訪れる皆さんに誇らしげに看板の話をしている清水さんを見て、いい贈り物が出来たと喜んでいます。年輪を数えてみましたがこの木でも有に80年を越えているようです。考えてみれば人間の寿命などこの杉の木の板に比べたら何と短いことでしょう。

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○移動年輪塾あらし山③(思い出)

 ・酒と涙と女

 私は若い頃の18歳から26歳まで、8年間地元の青年団に入り青年活動にうつつを抜かしました。その当時は仲間の手助けもあって訓練が行き届き、反吐を繰り返しながら酒の量を増やしていました。妻と見合いした時、「お酒はどのくらい飲むのですか?」と問われ、「小瓶一本程度」と大嘘をついていましたが、本当はかなりの量を飲んでいました。しかし役場に入るきっかけとなったのは、皮肉にも寝不足と酒である日意識不明になったことでした。以来酒の量は慎みましたが、10年前胆のうを摘出手術をしてから酒を断ち、現在に至っています。

 青年団につき物の女は、ご承知のこの顔ですので、自分が思っているほど持てもせず、結局見合いでお茶を濁し、ホールインワンをかたくなに守って現在に至っていますが、青年団には可愛い女性が沢山いて、社交ダンスを伴ったパーティなどでは、汗握る体を密着させて踊るとまるで宇宙を遊泳しているような幸福感で心臓がしびれたものでした。その相手も殆どがおばあちゃんとなり、たまに会うと見まがうほどに老けているのです。

 青年時代は何事にも敏感で、腕を組み肩を抱き合ったり歌を歌っただけで感動しました。また激論や殴り合いのような喧嘩もしょっちゅうで、涙も随分流しました。ある意味私の人格は酒と涙と女によって、若き日々に形成されたのかも知れません。

 ・雑魚寝

 若い頃にはよく雑魚寝をしました。一昨日のように暑いころならいざ知らず、冬の寒さの中でも堀炬燵に男女を問わずみんなが足を入れ、足や又くらを足でまたぐりながら、よからぬ仕草もしたりもしましたが、横にお目当ての女性が寝ようものなら中々寝付かれず、軽いいびきと寝顔に見入ったりもしました。私の家は私が教育委員会で社会教育主事をしていたこともあって、青年のたまり場となり雑魚寝はしょっちゅうでした。

 一昨日は残念ながら清水さんの配慮で女性は二階に上げられ、酒に酔ったへべれけ男性の酒臭い匂いとまるで壊れたオルガンのようないびきにさいなまれ、中々寝付かれませんでした。ふと10年間で40回廃屋を借りて開いたフロンティア塾を思い出しました。この時は時計一回りの塾活動だったので、毎回必ず雑魚寝でした。寝ないで朝まで議論したり酒を飲む人もいましたが、体力減退気に入っていた40回の後半は私も雑魚寝の仲間に加わっていたようです。

 雑魚寝人間の本当の姿を垣間見ることが出来ます。着の身着のまま寝る人もいれば、枕やタオルケットを持参して寝る場所をきちんと確保し、靴下を脱ぎ枕元に時計やメガネ、財布、携帯、着替えなどをきちんと置いて寝る人もいます。また就寝時間を守って早々と寝起きしたりする人もいれば、酩酊不覚になって前の日の記憶が消えている人もいるのです。


 ・お国自慢の土産

 県下各地や今回のように隣国高知県からも集まる場合、色々なお国自慢の品々を手土産に集まります。高知県は酒の国、美酒銘酒「南」を持参した依光さん、山奥組参加の井上さんは「城川郷」という名の知れた冷酒です。松野に住んでいる和田さんは特産の桃を持ってきました。目立ちはしませんでしたが大西の大河内さんは数日前から焼肉のたれを仕込み、松本さんは魚をお母さんが料理をしてくれて持参、花を添えてくれました。鎌田さんは自分で作ったスイカとマクワウリを差し入れてくれました。饅頭もおにぎりも漬物もまああるわあるわの大盛況でした。

 昔はこれらを即興で競り市をやり、集めた資金を当日の足りない運営費に当てたこともありましたが、今は会費制なのでそんなことをする必要もなく、みんなの胃袋に消えたようです。生ゴミと空いた酒瓶やビール缶は清水さんのあらし山で処分と相成りました。


  「酒辞めて 十年経った 体内に 酒の匂いは 完全消えて」

  「飲むほどに 饒舌進む 姿見て 俺もあんなに なっていたのか」

  「雑魚寝する まるで蛙の 大合唱 寝るに寝られず かなり寝不足」

  「寝た人が 勝ちとばかりに 大いびき 目覚めて指摘 だが証拠なく」

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○あらし山での移動年輪塾②(交流会そして夜話)

 夕方からは戸外に出て駐車場で夕食を兼ねたバーベキューパーティを行いました。清水さんが準備したものに加え、大河内さんや松本さん、亀本さんが持ち寄った品々が火を起こしたドラム缶の上の網に乗せられ、空腹だったこともあったし美味しかったこともあって、香ばしい匂いに誘われ存分に食べました。飲める人は生ビールが振舞われ、飲むほどに酔うほどにボルテージが上がって、楽しい交流の夕べとなりました。谷の向こう山から満月に近い月が印象的に昇り、月を鑑賞しながら大いに語り合いました。

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 片づけを終えて9時からは第2弾の催しです。馬路っくクラブの木下さんと依光さんが今回もすっかり腕を上げたマジックを披露してくれました。風船を膨らませて色々な動物を作る大道芸や紐を使ったマジックなど、ステージがないだけ見る人に身近で存分に楽しませてくれました。

 私と大河内さん、鎌田さんと晴美さんがコールされ、紐を使った知恵の輪に挑戦しました。交差する紐を外すマジックは、種を知っている私はすぐに輪抜けできましたが、知らない鎌田さん晴美さんのペアーは、最後まで苦戦していました。

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 さてその後は私の落伍ライブです。この日のために亀本さんにお願いして作ってもらった行燈を使って若松進一翁夜話なる夜話を演じることになりました。電気をすべて消し、行燈の小さな灯りを頼りに私が話すのです。明るい暮らしに慣れている私たちゆえに、行燈の灯りだけの世界はかなり暗いものですが、そのことが話に集中させる結果となって、かなりいい線をいってるような反響でした。

 亀本さん作の行燈は、小枝で表に人、裏に間を象徴的に使い、高さも今回新しく生まれ変わろうとする新東京タワーの高さにあやかって634mの千分の一の大きさにこだわった労作で、ほとほと感心しました。来月20日には夕方から落伍ライブをやるので、この小道具を利用したいと思っています。

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(右隅に見えるのが亀本さん労作の行燈)

  「飲むほどに お国自慢の 饒舌さ 月も驚き 山の端に顔」

  「行燈の 灯り便りに 夜話語る 恥かし顔が 見えぬもまた良し」

  「腕上げた マジック披露 する友は 隣の国来る いわば外人」

  「ガラクタと 思いし器 五千円 酔った勢い 高値に驚く」



  



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○あらし山での移動年輪塾①(築70年を越えたあらし山山荘での年輪塾)

 年輪塾を本格的に始めて3年目を迎えました。これまではならし運転のつもりで人間牧場を主会場に開催してきましたが、今年から積極的に外へ出ようということになって、移動年輪塾を八幡浜市日土の清水塾頭の小民家あらし山で昨日と今日の2日間泊り込みの研修となりました。集まる人数も20人そこそこと丁度良い規模となり、昨日の午後三々五々県内外から参加者が集まってきました。

 八幡浜市日土といえ金山出石寺の麓に位置するかなり急峻な地域で、山肌を縫うように急峻な道を登って行きました。私はボタン桜の咲く頃に一度お邪魔しているし、人間牧場へ続く急峻な近道と比較すると、そんなにw類道でもないので別に気にはなりませんでしたが、下灘コミュニティセンターから同乗した大河内さんや鎌田さん、米谷さん、浜田さんなどはかなり驚いた様子でした。

 昨日は猛暑日で暑い一日の午後でしたが、高台絶景にある清水さんの自宅は、下から吹き上げる風が天井の高い小民家に入って、何ともいえない心地よさでした。参加した人たちは皆一応に「涼しい」を連発していました。また急峻な谷を挟んだ向うの高台にはみかん畑や長閑な中山間地の集落が一望できて、これまた「眺めがいい」も連発していました。

 二宮尊徳翁夜話の輪読学習は清水塾頭をコーディネーターにして延々3時間です。前回の反省の上に立って1話から順番に進め11話まで続きました。

 第1話 誠は天地の間の現実の活動の中にある。それを見出して、人の世のために活用せよ。

 第2話 天道と人道。天理には善悪の区別がない。人道は、人に役立つもの、便利なものを善とする。

 第3話 人道は天理に従い、天理に逆らう。

 第4話 人道は、欲を押さえ、情を制して、努力することで完成する。それが推譲の精神のもととなる。

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 第5話 人道は維持に努めるべき道、天理に従う部分もあるが、ほとんどが作為の道である。

 第6話 人道は使用に克って、努力して守るべきもの。

 第7話 傍観者は罪人。

 第8話 真理に至る入り口は幾つもあるが、真理は一つ。

 第9話 物の値段や賃金が高いのは、それだけの力があるからである。それを上手く活用できないで、他の国

      へ出て行くのは間違っている。

 第10話 指導者は、信念に基づいて一生懸命努力し、決して見返りを求めてはいけない。

 第11話 学問のための空疎な学問ではなく、世の中のためになることを実行できる学問こそ価値がある。 

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 一人一話ずつ輪読して自分の考えをその場で述べるには事前学習が必要で、この日は自分の意見が上手くまとまらない人もいて、その分その後の議論が活発だったように思いました。11話までの話の中で面白く理解できたのは、第3話の水車の話、第8話の山登りの話、第9話のミミズの話は具体的な話で、参加者一同すぐに意味を理解することが出来ました。 

 午後4時30分からは塾生の大河内結子さんが講師になって朝フルについて話しました。人間の体のバイオリズムは朝4時から12時までが排泄、12時から夕方8時までが摂取と消化、夕方8時から朝4時までが吸収と利用だと理解し、朝の胃が空っぽの時にフルーツを食べることの意味を実践を通して学んだことなどを熱っぽく型って貰いました。朝はリンキャベの私は輪が意を得たお話でした。  

  「俺の歳 越えてかくしゃく 凛として 存在誇示の 古民家さすが」

  「吹き抜ける 自然の風に 癒されて 大の字なりて 少し眠りぬ」

  「谷またぐ 向うに見える家畑 住む人ありて どこか懐かし」

  「春夏と 来たから今度 秋冬に 三度四度も 訪ねてみたい」   

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○メールでやり取り

 私への外部からの連絡は、FAX兼用のわが家の電話と携帯電話、それにパソコンを使ったて送られてくるでメールです。携帯電話やパソコンのなかった時代は家か職場への電話、それに手紙やはがきといったアナログな手段しかありませんでした。職場だった役場に初めてFAXが導入された時は、文字まで送れる優れものの出現に驚いたものでしたが、今では優れものと思っていたFAXでさえ自宅にありながら、殆ど使わないようになってしまって、時代遅れの感がぬぐえないのです。

 その点携帯は自分の体について動くものですから、電波さえ届けばリアルタイムで連絡が取れるのですから、これ以上の優れものはないと思って使っています。しかし私は携帯電話のメールが苦手で、余程のことがないと携帯でのメールはしないのです。最近の若者は聞き手一本で起用に素早くメールを打ち込んでいるようですが、私にはとてもとてもあの芸当は出来ません。それでも相手からメールを受信すると無視もできないので、簡単な返事を書いて送信するのですが、左手で携帯を持ち利き腕の右手で打つ姿はたどたどしく、若者の前などではとても見せられるような光景ではないのです。

 最近一番多い連絡手段は何といってもパソコンを使ったメールです。知りませんでしたがパソコンメールにもEメールとGメールがあるそうで、Eメールが不具合になってからはGメールを使っています。この3~4日前から年輪塾ネットのメールに不具合が生じましたが、清水塾頭のお陰で私のGメールも無事復旧しました。

 まあ何だかんだと言いつつ一喜一憂しながらメールを使っていますが、今では毎日パソコンの前に座ってメールを開かない日はないくらいで、すっかり私の必需品となっているのです。「最近パソコンの前に座る時間が長くなった」と妻に指摘されるように、確かに私の日常生活におけるパソコンと向かい合う時間は長くなっています。その分何かに使っていた時間を削っているのでしょうが、考えさせられる一言のようです。

 私のメール相手は200件を越えていますが、よくやり取りをする人はその中の50人くらいで、中でも20人の人は頻繁に受信発信を繰り返しています。まあ音信は必要の論理なので、デジタル仲間として大切にして行きたいと思っています。

 先日小学生とキャンプに行きました。ここだけの内緒の話ですが、ある小学生は携帯電話を持っていました。私の携帯電話の番号を聞かれましたが私は教えませんでした。ところが二日前、その子どもから電話が入ったのです。教えなかったのに何故?と不思議に思いましたが、金融連絡網の書かれた「実行委員長若松進一」の電話番号を目敏く見つけ電話をかけてきたようです。電話の話は「先日のキャンプは面白かった」という他愛のないものでしたが、思わず「ウーン」と考え込んでしまいました。少し安心、少し心配です。

  「いながらに して消息が 届く友 まるで毎日 会ってるように」

  「ねえ元気 思わず子ども 携帯の 電話に出でて 驚きました」

  「メールなど 所詮バーチャル 馬鹿にする だけどこれなきゃ はてな?どうする」

  「ボールペン 指でクルクル 回す子を まるで手品師 携帯打つ子も」

 

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○刈っても植えなくても生えてくるものな~んだ

 「使っても減らないものな~んだ?」と、子どもの時に謎々をして遊んだのと同じようなことを考えてみました。とりあえず「使っても減らないものは知恵」なんて答えを出しましたが、お金や物は使えば減りますが、どうやら無形なものは減らないようです。

 この季節になると、厄介者の代名詞のように言われるのが雑草です。土の世界を感じないで生きている都会の人や、庭のないマンションに住んでいる人には分からないかも知れませんが、田舎に住んでいると雑草の持つ生命力にはただただ驚かされることが多いのです。

 先日人間牧場への道すがら、カズラに覆われ行くみかん畑の放任園を目の当たりにしました。園主が元気な頃は立ち木品評会でも度々入賞するそれは見事なみかん畑でした。ところが3年前奥さん、ご主人が相次いで亡くなり、世話をする人がいなくなったのです。一年目は都会に住む子どもさんがみかん採集をしたようですが、二年目の昨年は採集もせずに放置され、野鳥の餌となって啄ばまれました。そして今年は見向きもされず放置されたみかん畑はあっという間に雑草やカズラに覆われてしまったのです。

 勿体ないなあと思いつつ足を止めて見ていると、近所の農家の人が通りかかりました。話しかけてくるその人も私と同じようなことを考えていたようで、自分の園地に隣接しているので、「もし良かったら譲って下さい」と購入話を持ちかけましたが、「先祖の財産は売らない」と断られたようでした。

 放任園が隣接して困るのはこの農家で、幾ら自分のみかん園を消毒しても病害虫の巣になった放任園から病害虫がどんどん飛んできて、いいみかんは望むべきもないようでした。住む人が絶え崩れ行く民家も哀れですが、カズラに覆われて行くみかん畑を見るのも寂しいものです。あと10年もすれば限界集落が多くなったわが町では、こんな風景は当たり前になるのだろうと胸が痛みました。

 他人事ではありません。わが家だって鼠径ヘルニアで親父が少しの間畑仕事を休んだだけで菜園は草だらけになったし、人間牧場だって私が草刈をしなくなったら草に埋もれてしまうのです。「そんなこと気にしなくてもいい。息子があなたと同じように世話をするから」と妻は楽観視していますが、はてさて親父や私の目に見えない汗の作業は、息子夫婦に受け継がれるかどうか心配です。


 問「刈っても植えなくても生えてくるものな~んだ」。答「雑草」。「ピンポン正解」。てな調子で雑草の存在にスポットを当てて見ました。余談ですが間もなく8月6日の原爆投下の日を迎える広島は、おそらく50年間は草木も生えないだろうといわれていたのに、ものの見事に草木は蘇りました。また多くの犠牲者を出したロシアのチェルノブイリ原発事故の現場も、いつの間にか立ち入れないほどの草木に覆われているそうです。ある人が「地球を原子力の汚染から蘇らせるには人がいなくなればいい」といった言葉を思い出しました。

 最近は人間牧場を造ったお陰で草刈などの野良仕事に精を出すようになって、幸か不幸か少し体力が回復し、野良仕事で日焼けした顔も精悍に見えてきました。地下足袋を履き麦藁帽子を被り、野良着を着た私は自分でも惚れ惚れする格好良さです。あと10年はこの姿が似合うような暮らしを続け、草と格闘したいと思っています。


  「人間が 営々築いた みかん園 ほおっておくと 自然に帰る」

  「そのうちに 人間牧場 草むして あれがどうなら 人が言うかも」

  「草刈りて 綺麗になった 思いきや 一雨降れば またまた伸びる」

  「百姓は 草と戦う 戦士にて 草食う牛馬 昔は仲間」

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○夕やけ徒然草・火の書発刊

 3年前、人間牧場水平線の家に置かれている高知県馬路村産150年生魚簗瀬杉の切り株の、年輪に触発されて落伍本の執筆と落語ならぬ落伍話芸をセットにした企画を打ち出しました。一年に30話の創作落伍を作り、5年間で150話を完成させるという遠大な構想は未熟ながらも宮本武蔵の五輪の書にあやかり、地の書(1~30話)・水の書(31話~60話)を発刊してきましたが、この度概ね予定通り火の書(61話~90話)の執筆を終え無事発刊の運びとなりました。出来不出来は別として何はともあれ目標にしていたハードルをひとまず越えたことに安堵しています。

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(左から地の書・水の書・今回出版した第三巻目火の書)

 今回も構成と校正は清水和繁年輪塾塾頭が、製本は今治の村上太さんが前2回と同じように担当してくれました。「思考は危機の産物」といわれるように、今回もギリギリまで原稿執筆のモチベーションが高まりませんでした。しかし書き始めるとすんなり4~5日ですっかり書き上がってしまいました。

 発刊に寄せてという表紙裏の1ページに「自分の発想は湧き出る泉の如しと、過信して始めた百五十話への挑戦も、わが頭や心の中にある書き言葉と喋り言葉を組み合わせた素材が少しずつ減り始め、悪戦苦闘しながら最初の目論見より少し遅れて、この度夕やけ徒然草地の書・水の書に続いて、第三巻目となる火の書を発刊することになりました~。」と書かれているように、今にして思えば150話など無謀とも思える挑戦に、今頃になって気がつきましたが、時既に遅くまだ60話も残っているのです。

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(村上さんのアシスタントとしてやって来た女性とツーショット)

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(ニヤニヤしながら支払った自著本の本代を数える村上太さん。領収書代わりの証拠写真です)

 昨日は約束どおり製本担当の村上太さんがアシスタントの女性と一緒に人間牧場へ納品にやって来ました。草を刈りながら汗を流して待っていました。軽四に積んだ千冊の本は無事人間牧場水平線の家の倉庫に収まりましたが、さあこれからが大変です。この30話を元に落伍話芸の実践練習を始めなければなりません。素人の話芸といいながら、そこはこれまで以上に真剣に取り組みたいと思い、早速村上さんたちが帰り、一人だけ残った水平線の家の切り株高座に上がって、聴衆のいない中で一人話芸の練習をしました。

 明日は八幡浜市日土の清水塾頭が看板を掲げたあらし山年輪塾で、行灯の灯りを頼りに「塾長夜話」をやる予定です。初演に向けた練習は出来ておらず、相変わらずぶっつけ本番の手合いですが、心を引き締めてこれから一年間話芸を披露したいと思っています。

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○キャンプで水天宮花火大会を見学

 毎年暑い夏が来ると、21世紀えひめニューフロンティアグループを作って無人島キャンプなどをやっていた頃は、「サバイバルキャンプに参加しませんか!」と誰彼となく誘っていましたが、その役割を終えた今は逆に「青少年のキャンプへ参加しませんか!」とお誘いがあります。その都度自分の予定表を見ながら空いていれば参加するようにしていますが、自分が主催していた無人島キャンプとは内容も運営も程遠く、むしろ参加してもイライラが募るような感じがして、どこか不完全燃焼で終わる場合が多いのです。

 さりとて昔を持ち出して相手をけなすことも出来ず、キャンプから帰ると妻に不満を漏らす程度にしているのです。妻は無人島キャンプの折には留守本部長、つまり無人島キャンプに参加した人たちからの連絡を、わが家の電話口で一手に引き受けてこなした経験を持っているのです。

 ある時無人島キャンプ中に台風に逢い、無人島キャンプに参加した子どもの親から心配の電話が殺到しましたが、「信じて待ちましょう。必ず元気で帰って来ますから・・・」と、不安を一掃するような殺し文句を言ったことが、親の感想文の中に書かれていました。

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 一昨日までの2日間、私が実行委員長を努める子ども体験塾のサマーキャンプがありました。職責上全てのプログラムに酸化しなければならないのでしょうが、あいにく外せない予定が入っていて、第一日目だけの参加となりました。目的地は国立大洲青少年交流の家です。私たちが過去にやった危険極まりない非日常な無人島キャンプから比べれば、全てにおいて安心安全なキャンプですが、安心安全ゆえに日常性が高く多少物足りなさを感じますが、それでも担当者の赤石さんは思いを込めて一生懸命その運営に当たっていました。

 青少年交流の家は施設設備や運営サポートが群を抜いて立派です。バスでの駅までの迎えもオリエンテーションも、夕食準備も全てかゆい所に手が届くような微細な援助の手を差し伸べてくれました。これは多分私がこの施設の運営委員を長らくやっているために所長さん以下職員が最大限の配慮をしてくれたものと感謝しているのです

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 今回の国立大洲青少年交流の家を使ったキャンプは自主プログラムを選択したため、夕食の片付けが終わると、大洲名物の水天宮花火大会見学をするというスペシャルプログラムが組まれました。水天宮の花火大会は風の噂で知ってはいましたがこの目で見るのは初めてでした。

 3台のワゴン車で子どもやリーダーをピストン輸送して8時からの花火を絶好の見学スポットで見ることができました。約一時間半余り、これでもかと打ち上げられる花火の、体を揺るがすような音と光のショーを堪能しましたが、キャンプで花火を見学できるなんて思ったこともありませんでした。

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 私と由並小学校の武田校長さん、翠小学校の和田校長さんは翠小学校の西岡PTA会長さんの運転する自家用車で、キャンプ会場からお暇させてもらい、花火の音を背中に聞きながら海岸周りで双美町まで帰ってきました。昨日の夕方担当の赤石さんから私のルポブログにコメント書き込みがあり、全員無事帰った旨の報告がありました。キャンプは安全が第一ですからそれはそれとして喜ぶべきですが、幾つか機がついたこともあったので、今日あたり教育委員会に出向いて来年度に備え意見交換をしたいと思っています。

 そうそう忘れていましたが、このキャンプで競り市という私が考案した「指を使ったレクレーションをマスターしなければ連れて帰らない」と子どもたちに約束させていたので、次の機会にテストをしたいと思っています。(笑い)


  「無事帰る コメント書き込み 記事届く 何はともあれ 喜ぶべきか」

  「常識を やれば安全 違いない 主催満足 俺不満足」

  「この歳に なっても未だ 足洗う ことなどなしに キャンプに参加」

  「終わったが 来年のため 反省を よりよいキャンプ するため意見」


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○ローカル線の列車旅②(まるで貸切)

 そのうち子どもたちが列車に乗るため集まって来ました。切符を渡す担当の松田さんが名簿をチェックし、子どもは半額なので前もって団体割引で購入していたチケットを二人に一枚ずつ渡しました。二番ホームへ入ってきた1両編成の列車はのぼりの列車の待ち合わせがあって15分近くも上灘駅で停車するのですが、暑いさなかなので冷房の効いた車内で待つ方が得策とばかりに後乗り前降りの列車に乗り込みました。高野川駅から乗った赤石さん引率の子どもたちと合流し、大洲目指していざ出発です。

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 昼間の時間帯ということもあって一般の乗客は少なく、私たちの一行がまるで貸切のように陣取りました。線路の両側には視界を遮るように夏草が繁り、その隙間を塗って右側の車窓には夏の凪いだ海や島影が美しく見えましたが、キョロキョロと眺める大人たちを尻目に子どもたちは楽しいおしゃべりをしていました。列車の運転席の直ぐ横に立って、列車の進む方向を注意深く見ている私とはまるで違った過ごし方のようでした。

 やがて列車は下灘駅構内に入りました。見慣れた子どもたちが手を振りながら乗り込み、ここで全員の参加者34人が勢ぞろいしました。

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 かつて日本で一番海に近い駅と形容された下灘駅も、私にとっては日本で一番思い出煮の頃駅でもあります。

 列車は長浜で4~5人の乗客を降ろし海岸線から肱川に沿って大洲を目指して走りました。今日から夏休みの気の緩みか、また朝早くからの緊張が緩んだのか、中にはコックリコックリ居眠りする子どもたちもいました。出石・白滝・八多喜・春賀・五郎と進んでお酔い予目的地の大洲駅に到着しました。

 僅か1時間程度のローカル線の旅でしたが、夏の澄み切った青空やひなびた沿線の風景は、車では味わえないどこかノスタルジックな懐かしい感じがしました。できれば孫と一緒にこんな長閑な旅をしてみたいものです。

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○ローカル線の列車旅①(上灘駅の思い出)

 昨日は予讃線海岸周りの列車に乗って、上灘から大洲まで子ども体験塾参加の子どもたちと一緒に小さな旅をしました。日ごろは車オンリーの暮らしをしている私にとって、この路線の列車に乗るのは久しぶりで、見るもの聞くものが懐かしく、少年の日に帰ったような気持ちになりました。

 午後1時15分に上灘駅に集まる予定でしたが、妻に駅まで見送ってもらったので少し早めに駅に到着しました。駅前の上田のお店に立ち寄り奥さんやご主人と雑談をしましたが、この家のおばあちゃんも今日はショートスティに出かけたらしく留守でした。実はこのおばあちゃんは、忘れられない思い出の人なのです。

 もう忘れるほど何年も前の出来事です。私を主人公にしたNHK明るい農村「村の若先生」というテレビ番組の取材で東京からやって来たカメラマンとディレクターが、上灘駅に迎えに行ったのに下りて来ず、間違って下灘駅に下りてしまったのです。その人たちを不思議そうに待っていると、あの当時は若かったおばあちゃんが、「若松さん幾ら待っても来ないよ。どうも間違って次の下灘駅へ降りたらしい。今役場から電話があってそちらへ迎えに行くよう伝言がありました。早く行かないと日が暮れるよ」と、息せき切って伝えに来てくれたのです。

 私は急いで下灘駅へ向かいましたが、下灘駅で今まさに西瀬戸の水平線に沈まんとするダルマの夕日を見たディレクターが「この夕日は綺麗。感動した」と発した言葉が私の心の中に潜在する夕日の思い出を顕在化し、その後の雄飛によるまちづくりにつながったのですから、世の中は分からないものです。携帯電話とてなかった当時のことゆえ、NHKのディレクターは下灘駅前の福井商店から役場へ、役場は上田商店へ声のリレーをして私に伝言が伝わったのでした。その発信源はこのおばあちゃんなので、今でもその当時の思い出がリアルに蘇ってくるのです。

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 久しぶりに訪ねた上灘駅は昼間のことゆえひっそりとしていました。プラットホームの傍には誰が植えたか知るよしもない、夏を告げるオニユリやハマユウの花がひっそりと咲いていました。かつては蒸気機関車がわがもの顔に走り隆盛を誇っていた鉄路も、夏の暑さや最近の雨で赤錆が目立ち、少し疲れているようにも見えました。列車の来ないことを確かめてプラットホームから線路に降りて、町のシンボルである本尊山をバックのロータッチな写真を一枚撮りましたが、この風景も味があって私のお気に入りの場所なのです。

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  「夏告げる オニユリ・ハマユウ ひっそりと 咲いてローカル 駅の風情を」

  「駅前の おばちゃん伝言 思い出す あのことなくば 夕日気付かず」


  「この鉄路 かつては蒸気 機関車が わがもの顔に 黒煙上げて」
  「あの駅長 今頃どうして いるのやら 懐かし顔の 幾つか思う」

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