shin-1さんの日記

○メールでやり取り

 私への外部からの連絡は、FAX兼用のわが家の電話と携帯電話、それにパソコンを使ったて送られてくるでメールです。携帯電話やパソコンのなかった時代は家か職場への電話、それに手紙やはがきといったアナログな手段しかありませんでした。職場だった役場に初めてFAXが導入された時は、文字まで送れる優れものの出現に驚いたものでしたが、今では優れものと思っていたFAXでさえ自宅にありながら、殆ど使わないようになってしまって、時代遅れの感がぬぐえないのです。

 その点携帯は自分の体について動くものですから、電波さえ届けばリアルタイムで連絡が取れるのですから、これ以上の優れものはないと思って使っています。しかし私は携帯電話のメールが苦手で、余程のことがないと携帯でのメールはしないのです。最近の若者は聞き手一本で起用に素早くメールを打ち込んでいるようですが、私にはとてもとてもあの芸当は出来ません。それでも相手からメールを受信すると無視もできないので、簡単な返事を書いて送信するのですが、左手で携帯を持ち利き腕の右手で打つ姿はたどたどしく、若者の前などではとても見せられるような光景ではないのです。

 最近一番多い連絡手段は何といってもパソコンを使ったメールです。知りませんでしたがパソコンメールにもEメールとGメールがあるそうで、Eメールが不具合になってからはGメールを使っています。この3~4日前から年輪塾ネットのメールに不具合が生じましたが、清水塾頭のお陰で私のGメールも無事復旧しました。

 まあ何だかんだと言いつつ一喜一憂しながらメールを使っていますが、今では毎日パソコンの前に座ってメールを開かない日はないくらいで、すっかり私の必需品となっているのです。「最近パソコンの前に座る時間が長くなった」と妻に指摘されるように、確かに私の日常生活におけるパソコンと向かい合う時間は長くなっています。その分何かに使っていた時間を削っているのでしょうが、考えさせられる一言のようです。

 私のメール相手は200件を越えていますが、よくやり取りをする人はその中の50人くらいで、中でも20人の人は頻繁に受信発信を繰り返しています。まあ音信は必要の論理なので、デジタル仲間として大切にして行きたいと思っています。

 先日小学生とキャンプに行きました。ここだけの内緒の話ですが、ある小学生は携帯電話を持っていました。私の携帯電話の番号を聞かれましたが私は教えませんでした。ところが二日前、その子どもから電話が入ったのです。教えなかったのに何故?と不思議に思いましたが、金融連絡網の書かれた「実行委員長若松進一」の電話番号を目敏く見つけ電話をかけてきたようです。電話の話は「先日のキャンプは面白かった」という他愛のないものでしたが、思わず「ウーン」と考え込んでしまいました。少し安心、少し心配です。

  「いながらに して消息が 届く友 まるで毎日 会ってるように」

  「ねえ元気 思わず子ども 携帯の 電話に出でて 驚きました」

  「メールなど 所詮バーチャル 馬鹿にする だけどこれなきゃ はてな?どうする」

  「ボールペン 指でクルクル 回す子を まるで手品師 携帯打つ子も」

 

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shin-1さんの日記

○刈っても植えなくても生えてくるものな~んだ

 「使っても減らないものな~んだ?」と、子どもの時に謎々をして遊んだのと同じようなことを考えてみました。とりあえず「使っても減らないものは知恵」なんて答えを出しましたが、お金や物は使えば減りますが、どうやら無形なものは減らないようです。

 この季節になると、厄介者の代名詞のように言われるのが雑草です。土の世界を感じないで生きている都会の人や、庭のないマンションに住んでいる人には分からないかも知れませんが、田舎に住んでいると雑草の持つ生命力にはただただ驚かされることが多いのです。

 先日人間牧場への道すがら、カズラに覆われ行くみかん畑の放任園を目の当たりにしました。園主が元気な頃は立ち木品評会でも度々入賞するそれは見事なみかん畑でした。ところが3年前奥さん、ご主人が相次いで亡くなり、世話をする人がいなくなったのです。一年目は都会に住む子どもさんがみかん採集をしたようですが、二年目の昨年は採集もせずに放置され、野鳥の餌となって啄ばまれました。そして今年は見向きもされず放置されたみかん畑はあっという間に雑草やカズラに覆われてしまったのです。

 勿体ないなあと思いつつ足を止めて見ていると、近所の農家の人が通りかかりました。話しかけてくるその人も私と同じようなことを考えていたようで、自分の園地に隣接しているので、「もし良かったら譲って下さい」と購入話を持ちかけましたが、「先祖の財産は売らない」と断られたようでした。

 放任園が隣接して困るのはこの農家で、幾ら自分のみかん園を消毒しても病害虫の巣になった放任園から病害虫がどんどん飛んできて、いいみかんは望むべきもないようでした。住む人が絶え崩れ行く民家も哀れですが、カズラに覆われて行くみかん畑を見るのも寂しいものです。あと10年もすれば限界集落が多くなったわが町では、こんな風景は当たり前になるのだろうと胸が痛みました。

 他人事ではありません。わが家だって鼠径ヘルニアで親父が少しの間畑仕事を休んだだけで菜園は草だらけになったし、人間牧場だって私が草刈をしなくなったら草に埋もれてしまうのです。「そんなこと気にしなくてもいい。息子があなたと同じように世話をするから」と妻は楽観視していますが、はてさて親父や私の目に見えない汗の作業は、息子夫婦に受け継がれるかどうか心配です。


 問「刈っても植えなくても生えてくるものな~んだ」。答「雑草」。「ピンポン正解」。てな調子で雑草の存在にスポットを当てて見ました。余談ですが間もなく8月6日の原爆投下の日を迎える広島は、おそらく50年間は草木も生えないだろうといわれていたのに、ものの見事に草木は蘇りました。また多くの犠牲者を出したロシアのチェルノブイリ原発事故の現場も、いつの間にか立ち入れないほどの草木に覆われているそうです。ある人が「地球を原子力の汚染から蘇らせるには人がいなくなればいい」といった言葉を思い出しました。

 最近は人間牧場を造ったお陰で草刈などの野良仕事に精を出すようになって、幸か不幸か少し体力が回復し、野良仕事で日焼けした顔も精悍に見えてきました。地下足袋を履き麦藁帽子を被り、野良着を着た私は自分でも惚れ惚れする格好良さです。あと10年はこの姿が似合うような暮らしを続け、草と格闘したいと思っています。


  「人間が 営々築いた みかん園 ほおっておくと 自然に帰る」

  「そのうちに 人間牧場 草むして あれがどうなら 人が言うかも」

  「草刈りて 綺麗になった 思いきや 一雨降れば またまた伸びる」

  「百姓は 草と戦う 戦士にて 草食う牛馬 昔は仲間」

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