shin-1さんの日記

○論語の言葉「慎終追遠」

 論語カレンダーの今月のお題は「慎終追遠」(学而第一)です。「終りを慎み遠きを追う」と読みます。「年をとった親をよくお世話して、遠い祖先の恩を忘れぬ」という意味ですが、人情紙風船といわれるこのご時勢にあって、最も近しい人間といわれる親の世話など、忙しく毎日を過ごす子どもたちにとっては煩わしい存在のようです。ましてや体が不自由となった親の介護は大変で、「年をとれば高齢者介護施設」という考えが常識化していることも、ある意味理解できるのです。

 親は子どもを育てるために色々な苦労をします。しかし子どもたちは大きくなると、さも自分の力で育ったような顔をして、親の恩などすっかり忘れるものです。「親孝行しろ」と恩着せがましく言う人もいますが、殆どの親は恩返しなど期待することなく、ただひたすら子どもの成長を願うものなのです。

若松進一ブログ

 私たちは、「家付きカー付きババー抜き」が流行語となった高度成長時代に結婚しました。多くの人が流行語通りの暮らしをしている中で、親と同居をもう40年もしているのです。私は生家なのでどおってことはないのですが、嫁いで来た妻は嫁と姑、同居兄弟姉妹との目に見えない軋轢にひるんだり不平を言うこともなく今日まで同居してくれました。祖母と母を送り今もなお91歳の親父の世話をしてくれる妻には、感謝しても感謝しきれない恩があるのです。親の恩と同じくらい妻の恩を感じながら暮らしていますが、同居している親父への孝行は論語の通りこれからも尽くして行きたいと思っています。

 最近不調を訴えて鼠径ヘルニア手術のため入院した親父の、入院したり通院したりする世話をしたため、これまで以上に親父の傍にいました。次第に小さくなってゆく親父の姿を見ながら、恩返しをしなければ申し訳ないと思うようになりました。

 論語の後段に出てくる「遠きを追う」は先祖の恩ですが、私という人間が存在するには親父とおふくろ、親父にも親父とおふくろ、おふくろにも親父とおふくろがいる訳で、先祖をさかのぼると十代前には1024人の先祖がいるという計算になるのです。つまり私というジグゾーパズルの絵を描くのに1023枚のピースが必要なのですから驚きです。

 私は幸せか不幸せか分かりませんが長男に生まれました。子どもの頃から長男教育を受けていて、「この家の先祖祀りをするのはお前だ」と決められているのです。ゆえに最近は朝な夕な仏壇に手を合わせる仕草も少し板についてきました。論語の「慎終追遠」の4文字は私の永遠の課題であると同時に、わが長男息子への諭しの言葉でもあるのです。


  「日めぐりの 論語目にして 読んでみる  慎終追遠 深い意味あり」

  「このところ 少しい小さく 見える父 孝行せねば 罰当たるかも」

  「長男に 生まれたお陰 気付くこと やらねばならぬ 長男教育」

  「俺の絵を ジグゾーパズル 書いたなら 千二十四個の ピースが必要」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○健康食はマゴワヤサシイ

 昭和19年10月生まれの私は戦後の物のない時代に生まれました。主食であるはずの白米のご飯さえも食べられず、麦ご飯におやつはサツマイモという質素な食事で、肉などは年に1度か2度お目にかかるのがやっとでした。幸いにも家が漁家兼農家だったため、魚ととサツマイモは腹いっぱい食べれることが出来たのは不幸中の幸いだったようです。しかし不幸中の幸いは、むしろサツマイモと魚にありつけたことよりも、貧乏の代名詞だった麦ご飯に加え、サツマイモと煮干が健康食の代名詞だったからなのです。「また麦ご飯やサツマイモか」と、親に不満を言いながら食べたものは、物が豊かになった現代ではむしろ贅沢な食べ物、観光に意食べ物として注目されているのですから世の中は分からないものなのです。

 何年か前、子どもの好きな食べ物やお母さんの手抜き料理を言い表す言葉として、「カアサンヤスメ」という言葉が流行しました。カはカレーとカップラーメンと鳥のから揚げ、アは甘いもの、サンはサンドイッチ、ヤは焼き飯と焼きソバと焼肉、スはスパゲティ、メは目玉焼きだったと記憶しています。つまりカアサンヤスメの頭文字を取った簡単に出来る食べ物をママは作り、子どももそれらを欲しがるのです。これらの料理は日本食ではなく戦後アメリカからやって来た食べ物で、何かにつけて油が使われているようで、そのことが原因なのか定かではありませんが、現代の子どもは一応に太っていて、時には大人しかかからない成人病にまでかかっている子どももいるほどです。


 昨日ある本を読んでいたら、現代の日本人の理想の食事は「マゴワヤサシイ」だと述べていました。マは豆、ゴはゴマ、ワはワカメやヒジキなどの海藻類、ヤは野菜、サは魚、シはシイタケ、イはイモ類だそうです。何とこれらの食べ物は私たちが不平不満を言いながら子どもの頃に食べさせられた貧乏食の代名詞のような食べ物なのですから驚きです。

 白米は籾殻を食べているようだとよく言われます。食味のいい白いご飯は玄米を加工する過程で栄養のある場所はどんどん削られ、まさに抜け殻のようなものなのです。玄米や麦ご飯の効能はミネラルやビタミンが豊富なのに、それを取り払って美味しい美味しい食べているのですから理解に苦しむのです。それは物のない時代に抱いていた「白いお米のご飯を腹いっぱい食べたい」という願望への回帰かもしれないのです。


 「頭の良い豊かな心の子どもを育てるにはどうすればよいか」聞かれたら、「豆」と答えればよいと思います。頭は豆辺、豊かにも豆が下に書かれているのです。そういえば私が日常食として毎日妻が料理をして食べさせてくれる料理は、「マゴワヤサシイ」を材料としたものが殆どのようで安心しました。人には食べ物に好みがあって好き嫌いがありますが、人のことは別として、私は「マゴワヤサシイ」が大好きなので、これからも健康保持のためにしっかりと食べたいと思っています。

 人間の生命は口から入れる食べ物や飲み物によって保持されます。これまでどちらかといえば食べ物や食べ方に無頓着でしたが、いいことは即始める、悪いことは即止めるを基本に実践したいですね。


  「理想食 マゴワヤサシイ 頭文字 喰えば長生き するのだそうな」

  「頭よく 心豊かな 人になる 豆を食べろと 漢字に表記」

  「今の親 カアサンヤスメ 手を抜いて 子ども育てて 子豚のように」

  「貧乏で 育ったゆえに 元気です 今は豊かで 病人ばかり」 

 

[ この記事をシェアする ]