shin-1さんの日記

○町は生き残れるか

 宇和島市・西予市・八幡浜市・大洲市・伊予市・松山市・東温市・今治市・西条市・新居浜市・四国中央市と平成の大合併で市と名のつく街は11になりました。ところが町は大幅に減って愛南町・松野町・鬼北町・内子町・伊方町・松前町・久万高原町・上島町の9つに激減し残念ながら村はなくなりました。

 かつて県内の町村が加盟して組織力を誇っていた愛媛県町村会も、合併による町村の現象で存続の危機にさらされていましたが、組織をスリム化して生き延びようとしているのです。

 毎年この時期になると町村会では、人事異動の終わったこの時期を選び、職員のレベルアップとスキルアップを目的として県立中央青年の家で研修を行っていて、私も講師の一人として「地域づくり」に関する講話を担当しています。

 昨日は係長研修があって出かけて行きました。かつてのように研修室いっぱいの参加者ではなく僅か13人のこじんまりした研修会でしたが、一時間50分の講義中は午後1時から2時50分までの時間帯にもかかわらず眠る人もなく、皆さん熱心に話を聞いてくれました。


 世の中の不況で給料も思ったほど上がらず、仕事はパソコン時代で多忙多岐、加えて昨日は鳩山首相が辞任するというショッキングな政治的閉塞感の漂うこの時期に、これ以上レベルとスキルをアップせよと言われても中々真剣になれないと思うのですが、世の中は何時の時代もこうした難解な問題があるもので、その都度難局を乗り切って今日まで来ているのですから、その気になってやれば地域は活性化するものだと力説しました。

 昔を持ち出して見習えという気はさらさらありませんが、最近の職員を見ていると時代背景こそ違え、余りやる気が感じられないことも事実のようです。

 このままだと自治体の基本である集落は存続集落から準限界集落へ、準限界集落から限界集落へ、限界集落から消滅集落へ確実に移行するのですから、まさに自治体存亡の危機だと思わねばなりません。残念ながらその妙案は未だ見つかっていませんが、せめて役場職員はそのことに危機感を持ち、新しい時代に対応した政策を打ち出して町を救わねばならないのです。

 はてさて私の話をヒントに、そんな気概を持ったやる気の職員が現れるかどうか、小さな期待を持ちながら会場を後にしました。


  「このままじゃ 自然消滅 待つのみか やる気創造 スキルアップを」

  「やる気さえ あれば町など 直ぐ起きる 一人の馬鹿と 十人気違い」

  「総理さえ 辞めたくなるよな 世の中を はてさて誰が 救世するか」

  「気がつけば 縁もゆかりも ないはずの 私が腕を 捲くることじゃない」

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shin-1さんの日記

○伊能忠敬は伊予灘の夕日を見たかも知れない

 伊能忠敬といえば江戸時代に日本中を歩き回って測量し、日本地図を完成させた人として学校で習いましたが、名前は知っているもののその業績がいかに凄いかは知ることもなく、またどんな生い立ちをしたのかも知りませんでした。友人門田眞一さんなどのご苦労で、今年8月5日から8月8日まで伊予市しおさい公園市民体育館で開催が決まっている伊能図公開を前に一昨日、愛媛県歴史文化博物館安永純子学芸員をお招きして、「双海地域における伊能測量について」「長浜~双海を中心として~」という講演会が行われました。私が所属している双海史談会設立5周年を記念して開かれたもので、気がつけば年輪塾の双海町メンバー全員が顔を揃えるなど、嬉しい学習会となりました。

若松進一ブログ

 伊能図ができるまでを、①中世・戦国時代の日本図のかたち、②世界とつながる日本、③参勤交代と地方文化の向上などについて分かりやすく解説、伊能忠敬の人物像を、①少年時代ー学問を父や寺子屋から学ぶー、②青年・中年時代ー夢を持ち続けるー、③壮年時代ー夢の実現へー、世界の先進国へ挑むー高橋至時と伊能忠敬の生涯をかけた夢ー、そして最後は伊能忠敬と伊予測量ー伊能忠敬著「測量日記」と柴山伝左衛門著伊能測量隊員旅中日記を中心としてー、①伊能測量とは、②伊予を訪れた伊能忠敬隊のメンバー、③伊予の地図史、④伊能忠敬を待ち望んだ伊予の測量家、⑤伊能測量を支えた文化人のネットワーク、⑥伊予の人々の協力、⑦想像を超えた官民一体の大事業についてを、スライドと資料でかなり詳しく話してもらいました。

 伊能忠敬の人物像も、伊能忠敬の伊予測量も興味のある話で、特に49歳で隠居してから77歳で病没するまで、ひたすら日本中を歩き続け自分の夢を実現した話にはただただ驚かされるばかりでした。

 

 伊能忠敬測量日記という古文書には長浜から双海に至る地名や関わった人々の名前が沢山出てきて興味を惹かれました。双海町の記述の中ではなく、松山藩での記述の中に、「松山馳走舟青雀丸ニ乗テ出船の所、大潮ゆえ引汐ニ通引隙取、日西ニ落、依之小船ニ乗取、急テ瀬七ツ半頃三津町江着」という記述を見つけました。日没の状況を詳しくは書いていませんが「日西ニ落」ですから、伊能忠敬は伊予灘に落ちる夕日を確かに見ているかも知れないのです。

 夕日にいささかなりの思い入れを持っている私としては、こんなに嬉しいことはないのです。また家の前の借景として朝な夕な見ている双海町のシンボル本尊山も同行の絵師青木勝次郎によって描かれたであろう絵もスライドで見せてもらいました。

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 日ごろは歴史などに殆ど目もくれずに日々を過ごしている私ですが、教育長時代の最後の仕事として中尾さんや米湊さん、松本さんや大森さんなどとともに改訂版双海町誌編纂にかかわり、その後も双海史談会のメンバーの一員に加わって二月に一度の例会に参加していますが、お陰様でいい学習ができていて嬉しい限りです。

 8月には私が会長をしている子ども教室の学習で伊能図フロア展を見る計画が赤石さんの方で計画されているようで、今から楽しみです。

 伊能忠敬の隠居後の生き様は私たち日本人に夢を持って生きることの大切さを教えています。私の夢など他愛のないものですが、せめて小さな夢でも一生涯持ち続けて生きてゆきたいと思いました。


  「古文書に 伊能忠敬 夕日見た かも知れないと 線引きなぞる」

  「朝夕な 毎日見てる 本尊山 絵師は筆にて ちゃんと記録す」

  「世の中にゃ がいな生き方 した人が いるもんだなと しみじみ思う」

  「俺にでも 伊能鼻くそ くらいなら 夢持ち続け 生きられるかも」

 

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