shin-1さんの日記

○腐葉土づくりのための落ち葉拾い

 「今年の冬は寒いねえ」と、会う人ごとに言葉を交わすように、今年の冬は個までの暖冬騒ぎを打ち消すような寒さで、ここ南国四国でも山に冠雪が見られたり、高速道路が一時通行止めになったりタイヤチェーン規制があったり、何かと騒がしいようです。昨日は小寒、しかも7日なので七草でした。これから寒さは大寒に向かってますます寒くなることでしょう。

 寒いといっても南国四国は日中になると8度くらいまで温度が上がるのですが、東北や日本海側は寒さが厳しく、重いドカ雪が一日に1メートル近くも降って、除雪に悲鳴を上げているというニュースを聞くと、南国に住む幸せを思うのです。

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(道の横に溜まった落ち葉)

 昨日は腐葉土づくりのための落ち葉拾いにに軽四トラックで出かけました。人間牧場ができてから毎年行っている私の恒例行事です。わが町は海沿いなので周防灘から伊予灘を通って吹き込んでくる北西の季節風が、まともに吹きつけることから体感温度はかなり低く感じられます。そのため戸外へ出る時は防寒が必要なため、妻が用意した厚めの防寒作業着を着て、頭には先日買ってもらった作業用毛糸の帽子に、娘が高校生の時に愛用していたマフラーを首に巻き、靴下は2枚重ね履きと凄い出で立ちでした。

 この時期は山の落葉樹もすっかり葉を落とし、道端の風の吹きだまりには人間が集めたのではないかと見まがうほどに、沢山の落ち葉が集まっていました。人間牧場に通じる道は細い農道のような道なので通る車もまばらで、道の真ん中に車を止めて作業しても3時間で2台しか出会わず、その度に車を待避所へ異動しての作業でした。

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(トラックの荷台に積んだ落ち葉)

 トラックの荷台の両側に家から運んだコンパネベニヤを立て、そこへテミで落ち葉をかき集めて乗せて行くのです。このころの落ち葉はまだ落ちて間がないため濡れていないため、吹けば飛ぶような軽さで、荷台は踏みつけながら乗せるのですがあっという間に山のようになりました。この日は例年通りトラックに2回積む予定なので、とりあえず1回目を人間牧場の苗床まで運びました。4WDなので畑の中へもいとも簡単にスリップすることもなく入って行けるのです。

 苗床の表面に置いた昨年の土をスコップで外へ出し、そこへバックで乗り付けたトラックの荷台から落ち葉を落として行くのです。毎年のことですが集めた落ち葉のフワフワベットの上に寝転び、誰はばかることなく寒いながら束の間の至福を味わいました。冬の風に乗って雲が飛ぶように走っていました。我に帰り急いで落ち葉をコンパネで仕切られた苗床踏み込んで行くのです。落ち葉は面白いように沈んで行きました。

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(表土を取った苗床)
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(トラックから苗床へ落ち葉を入れる作業)
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(2回の作業で苗床は山のようになりました)

 再び元の道まで引き返し同じような作業を2度繰り返してほぼ予定通りの作業を終えました。踏み固めた落ち葉の上に牛糞ペレットを4袋ばら撒き、その上に大洲の亀本さんから3年前にいただいていた本物の牛糞3袋を撒き鍬で均し、その上に水をかけてビニールをかけました。近々米ぬかと油粕を振りかければ発酵が始まるものと思われます。

 こうしておけば3月中旬にサツマイモの種イモを伏せる準備が出来上がり、芋から伸びたツルでサツマイモの命のリレープロジェクトがスタートするのです。来年度のプログラムはまだ決めていませんが、人間牧場としても子ども塾として位置づけて続けて行きたいと思っています。


  「何するの? 通りすがりの 車止め 不思議な顔して 通り過ぎ行く」

  「農業は 土を作るの 基本だと 言いつつ今の 農業省略」

  「落ち葉から 自然循環 考える 環境エコは 身近にありて」

  「さあこれで 準備万端 整った 今年も美味い 芋が出来るぞ

 追伸 表土を掘り返していると中から4匹のカブトムシの幼虫が出てきました。カブトムシ保育専用のバケツに  

     移しました。大切の育てたいと思っています。 


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○間もなく53年の歴史に幕

 昨日は二宮金次郎探検隊の調査のついでに、私の母校である下灘中学校を訪問しました。この学校はあとヶ月余りで53年の長い歴史の幕を閉じる予定です。私たちが中学生だった頃は300人もいた生徒が10分の1の32名に落ち込み、学校の授業や部活に影響が出ていて、将来的にも生徒数の増加が見込めないことが原因のようですが、学校が消える寂しさは卒業生のみならず地域にとっても大きな問題で、ただでさえ冷え切った世相にの中で、暗い影を落としているようです。

 私たちが学んだ学校の姿はその後の新築によって跡形もなく、僅かに残る思い出はすり鉢の底のような運動場から見える原風景しかありませんが、45年も前にこの学校へ通った思い出ながら、今もありありとその記憶が蘇って来るのです。

 私たちの育った時代は子どもの数が多い時代でしたから、こんな田舎でも1学年2学級もあり、学校は活気に満ち溢れていました。体育館などなくスポーツは全て屋外、便所もポテンと音がする溜置きでしたし、学校の裏には畑があって、汲み取りした人糞を平気で撒いていた長閑な時代でした。

 それでも淡い初恋を感じる青春時代の幕開けを感じる果敢な年齢でしたから、一番思い出の多い学校かも知れません。ここで学んだ3年間ですっかり逞しくなって、私は宇和島水産高校へ遊学するためふるさとを後にしたのですが、この学校が私の人生の礎になったことは間違いないのです。

 居合わせた二宮校長先生と、この学校の卒業生の中嶋教頭生成を交えて職員室でストーブにあたりながら雑談をさせてもらいました。校長先生の話しによるとこの学校の卒業生は3489人だそうです。私も3489分の1なのですが、閉校後当分は新しい体育館も運動場も地元の人に開放されて使われる方針が決まっているそうですが、校舎は耐震のこともあって閉鎖され、やがて消えゆく運命をたどることでしょう。63回目の卒業式や、閉校式はもう間近に迫り、1年生・2年生は新しくなる現上灘中学校に出来る双海中学校へ引き継がれるようです。

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 歴史の歯車は否応なしに回りむしろ逆転さえします。下灘中学校は後戻りできない逆転の歯車かも知れません。日本全国を巡っている私が全国各地で目にした廃校地域のその後を思うと、この地域も決して右肩が上がりになるとは思いませんが、何か妙案はないものかと4階建ての校舎を見て思いました。

 歴史は全てではありませんが人が作るものです。仕方がないと社会や時代、それに人のせいにしてしまうと宿命になります。でも同じ命がついた言葉でも運命があります。運命は考えや行動で変えられるのです。変哲もないこんな町が、夕日の町として少しだけ輝いた時期がありましたが、あれは宿命と思って諦めず運命の扉を開けたからではなかったかと述懐するのです。ギブアップは一でも出来ます。ノーギブアップの精神で頑張って欲しい、そんなエールを学校に送り下灘中学校を後にしました。


  「わが母校 廃校間もない 聞く度に 在りし日偲び あれやこれやと」

  「久方に 母校訪ねて 見渡たせば 空山全て 変わらぬ姿」

  「ああここも 時代の歯車 逆転す 廃校なれば 有が無になる」

  「人生は あの日ここから 始まった 記憶たどりつ 校庭歩く」 

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○二枚の懐かしい写真に出会いました

 年末年始の慌ただしい日々も一段落したので、昨日は久しぶりに尻に火がついた形で色々な仕事を片づけました。年輪塾のチーフプロデューサーである清水塾頭が年末から年始にかけ、腕まくりして今年のテーマである二宮尊徳に傾注している姿を見て、塾長も動かねばと止むに止まれぬ行動です。清水さんから「塾長の年頭のあいさつをメールで」との督促もあり、急いで書き上げました。また今月で廃刊となる予定の「自悠くらぶ」の連載エッセー記事を書いてメール送信したり、はたまた動き出した今年の仕事の段取りメールもしたりと、パソコンもフル稼働しているようです。

 昨日は二宮金次郎銅像探検隊などと戯言のような名前をつけ、一人で町内の小学校3校を訪問し、居合わせた校長先生たちとその来歴や二宮金次郎について意見を戦わせました。双海町の由並小学校と翠小学校には二宮金次郎の立派な銅像があることは知っていたのですが、私の母校である下灘小学校には私の記憶の彼方には二宮金次郎の思い出があるものの、銅像が二宮金次郎から野口英世に変わっていて、そのルーツも興味があったので、ぶらり立ち寄ってみました。

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(由並小学校の二宮金次郎)
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(翠小学校の二宮金次郎)

 辻井校長先生とは一昨年、青少年赤十字大会の記念講演を頼まれたりして面識があるので、気ままに案内された校長室でお茶をいただきながらお話ししたところ、学校の史料室からアルバムを探して持ってきてくれました。早速お目当ての写真を探していると、何と私たちの卒業記念写真が出てきました。私が下灘小学校を卒業したのは、昭和31年ですから双海町という町が合併誕生した明くる年なのです。

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(私が写っている昭和31年度卒業記念写真)

 古い木造校舎をバックにして、先生全員とともにお行儀よく写真に収まっている自分の顔写真を見て、歴史の重みをしみじみと感じました。お目当ての二宮金次郎の銅像の写真もほどなく見つかりました。

 記憶をたどれば、「二宮金次郎が何の本を読んでいるのだろう」とこの銅像の台座によじ登ったのは確か小学校2年生の時でした。運悪く通りかかった黒田丈衛校長先生に見つかり、校長室で天罰として1時間正座をさせられました。校長先生は私に、「お前はなんであんな危な所へ上がったのか」ととがめました。「何の本を読んでいるか調べたかった」、「バカたれ、あの本にはいろはにほへとしか書いていない」と戯言のお叱り言葉を返されました」。私はその後も二宮金次郎の読んでいる本は「いろはにほへと」とばかり信じていたのです。

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(見つかった幻の下灘小学校の二宮金次郎写真)


 早速卒業記念写真と二宮金次郎の銅像写真を、西尾先生にお願いしてスキャンしてCDに入れていただきました。自分の卒業写真もさることながら、下灘小学校の思い出の二宮金次郎に出会えるなんて、思いもしなかっただけに大きな大きな発見でした。

 ちなみにその後この金次郎は受難したエピソードがあるので付け加えておきます。下灘小学校は運動場が狭く、子どもたちや地元の人がソフトボールをするのには窮屈で、少し大きなフライを打つと講堂の屋根やシンボルのイチョウの木によく当たりました。その都度勝手に決めたルールのエンタイトル2ベースなどが適用されるのですが、このボールが二宮金次郎の手に当たり、ポッキリ折れてしまったのです。ゆえにかなり長い間この二宮金次郎は身体障害を余儀なくされたのです。こうした学校の裏話はもう私のような古い人間とともに記憶から消えて行くのでしょうが、願わくば金次郎の銅像の思い出は長く伝えて欲しいものだと思いました。


  「偶然に 見つけた二枚の 写真見て 感慨深く 少し涙が」

  「この台座 上がり校長に 見つけられ お仕置きされた 昔懐かし」

  「バカたれが いろはにほへとと 書いている 嘘を教えた 校長悔し」

  「この写真 やっと陽の目を 見ましたね 皆に言っても それがどしたん?」 

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○みかんがおいしい季節です

 わが家は私が子どもの頃は漁家でありながら細々と農業を営んでいました。農道などなかったため畑で作った作物は全て背中に背負って細い道を行き来したのです。当時は農家も車舟と称するもので畑で作ったみかんを力づくで下ろしていましたが、急な下り坂をすらし棒一本であやつる名人芸とでもいうべき姿を感心しながら見たものでした。

 その当時はプラスチックのキャリーコンテナなどなかったので、箱は全て木製でした。木箱に入れられたみかんは当時貴重品で、自宅で食べるのハネモノと称する傷や腐りのあるものばかりでしたが、それでも冬になるとコタツに入って手が黄色くなるほどみかんを沢山食べたものでした。

 母親が亡くなりみかんを作らなくなってもう10数年が経ちました。みかん畑だった土地は一時耕作放棄地となって一時荒れていましたが、人間牧場を造るために再び開墾され、もう一ヶ所のみかん畑も耕作放棄地を友人の稲葉さんがせっせと耕して遊んでいますが、みかんを作っていないことを知っている糠の友人からは毎年食べきれないほどのみかんをいただくのですが、食べきれなくて結局は腐らしてしまうのです。

 わが家の敷地内にある家庭菜園の隅には、甘夏蜜柑を中心にした果樹園があり、その隅に4~5本温州みかんが植えられています。母が存命中に植えたものですが、今年は興津早生という品種に沢山の実がなりました。先日親父と二人で収穫したのですがキャリーに3つも収穫しました。そのひとつは叔父方へ、そのひとつは姉方へおすそ分けしましたが、もうひとつは自家用に置いています。正月休みも終わったのでそのみかんを篭に入れコタツの上に置きました。食べてみるとこれが飛び切り美味しいのです。無農薬なので見栄えはしませんが甘みといいコクといい申し分のないのです。(先日友人の玉井さんから送っていただいた無農薬のみかんと同じ器量)


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 最近は果物の糖分が太る原因などと、まるで悪者のように言われていますが、私の友人たちがやっている朝フル、つまり朝の空腹のときにフルーツを食べるといくら食べても太らないそうで、友人たちはそのルールにしたがって朝フルして、ダイエットに成功した人たちなので実証済みなのです。彼らが言うのには食後の果物なんて食べ方は自殺行為だそうで、私も彼らの助言を得て極力朝フルしていますが、別に太ることはないのです。

 日本一のみかん産地こそ和歌山に生産量では追い越されていますが、愛媛に住む人は愛媛はやはりみかん王国だと誰もが思っています。だのにみかんの食べ方ひとつさえも日本全国に向かって発信できていないのです。私たちが子どもの頃のようにみかんをもっと食べる方法を考え実践すればいいのに、何故か高く売ることばかりを考えて、みかんの消費を増やす方法は置き去りのような気がするのです。

 私はこの冬、みかんを沢山食べれば風邪を引かないというジンクスでも作ってやろうかと、毎日10個程度のみかんを食べることを目標に頑張っています。

 愛媛のみかんは今が旬で美味しいですよ。勿論旬のみかんを食べている私も旬な人なのです。(自画自賛)


  「篭みかん コタツに入り 一つ剥ぎ 二つ目剥いで 口にほおばる」

  「見栄えなど どうでもいいや 自家みかん 安心安全 ゆえに美味しく」

  「一級品 県外送り わが家では 二級三級 紺屋の袴」

  「太陽の 恵みのような 果汁持つ みかんはやはり 愛媛の自慢」

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○ほたる保存会長の河野喜由さんが亡くなりました

 私の友人である河野喜由さんが亡くなりました。68歳の少し早い人生を区切った旅立ちに衝撃を受けています。河野さんが亡くなったという第一報は、年輪塾大番頭の米湊さんから出張先の八幡浜へ携帯電話でした。わが耳を疑うようなニュースに驚きましたが、「詳しいことは後ほど」という米湊さんの電話を受けながら、私の従兄の夫である豊岡強さんも亡くなっていて、通夜も葬儀も同じ時間だと困惑を隠せませんでした。こんな場合は身内の葬儀が優先するので、夕方身内の通夜に列席しました。最近は通夜も冠婚葬祭センターですることが多く、月心会館港南で通夜を済ませて、帰りに河野さん宅へ向かいました。この夜は河野さんの死を悼むように河野さん宅へ着いたころには雨がポツリポツリと、まるで涙雨のように降ってきました。

 河野さん宅には既に身内や友人が沢山詰め掛けていて通夜の真っ最中でしたが、一通りのあいさつを済ませ遺体と対面をさせてもらいました。奥さんの照子さんも時折涙で顔を濡らしながら気丈にも笑いながら思い出話をしてくれました。

 河野さんと私の出会いはかなり昔で、実家の跡を継ぐために就職先の愛知県から奥さんとともに実家にUターンした時からです。その頃私は町の中央公民館主事をしていて、河野さんの住んでいる三島自治公民館は夫婦学級などの学習活動が盛んで、私も月に一度程度その場にお邪魔していましたが、河野さんも奥さんもどこかと階の匂いのする異文化を持っていて、何かと気が合い何かと話し込んだものでした。河野さんは帰郷後生命保険会社へ就職し、詳しいことは分らないものの会社の所長などを経て定年退職後は奥さんと農業をやりながらのんびりと充実した暮らしをしていました。

 請われて地元のほたる保存会の会長に就任してから急速に私との縁が深くなり、何かにつけてまちづくりについて大いに語り合ったものでした。河野さんは一昨年双海町も分科会場として参加した地域づくり団体交流全国大会の分科会実行委員長として事務局を担当した米湊さんとともに、実行委員会にも欠かさず参加をしていただきました。私が全国の実行委員長をしていたこともあって、まるで親衛隊のように付かず離れず名サポーターぶりを発揮してくれたのです。


 穏やかながらしっかりとした理念や理論を述べる、翠小学校を中心としたグリーンツーリズムの中心人物的存在として、これからもリーダーシップを期待していましたが残念でなりません。

 河野さんとはこの2年間、伊予商業協同組合理事長徳本さんとともに、私がお世話している限界集落の勉強会

にも殆ど欠かすことなく参加して、楽しいおしゃべりをしていました。

 最近は健康診断で引っかかって入院するなど体調の変化もあったようですが、年末に風邪を引き少し体調を崩されたことが引き金で、あっという間の天国へ召されてしまいました。年末に丸山町長さんの葬儀で出会ったのが最後となってしまいました。

 退職後も都会暮らしのダンディーさは変わらず、田舎暮らしの私などは酔わせるような河野さんのカラオケの歌声に、何度感心したことでしょう。偶然にも聖浄苑で豊岡さんと同じ時間の待ち時間だったため、葬儀には出席できませんでしたが、奥さんの照子さんやご遺族ともあいさつを交わすことができました。

 年末年始は葬儀が多くこの二日間は通夜や葬儀のまるで梯子のような忙しいくも悲しい二日間でした。河野さんと豊岡さんのご冥福を心からお祈りします。


  「枕辺で そんなに急いで 何処へ行く 心で語り 涙流しぬ」

  「Uターン したころ彼の ダンディーな 姿見ながら 憧れました」

  「通夜葬儀 まるで梯子の 忙しさ 悲しみながら 二日過ごしぬ」

  「惜しまれる 人は早いと 俺に言う じゃあ俺要らぬ 人なのかしら?」

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shin-1さんの日記

○お墓でカメラを壊す大失態

 「お父さん、お墓にまでカメラを持って行くのは止めて」と、妻に笑いながら忠告されたものの持参した罰が当ってしまいました。妻の実家のお墓を掃除して、古いシキビを墓地内にある焼却場まで運ぼうとして背をかがめた瞬間、ポケットに入れていたデジカメが地上のコンクリートに落下しました。慌てて手を助ましたが、その手までコンクリートに激突してしまい、人差し指の根元から少し血がにじむほどこすりました。手は自然治癒力で治るのですが、カメラはバッテリーとチップを入れる片隅が少し変形して開かなくなってしまいました。妻の忠告を聞くべきだったと悔やみましたが全て後の祭りでした。

 カメラは落とした衝撃で写らなくなりなっていましたが、少しいじくっていると回復したものの、扉は開かないままなのです。自宅に帰ってマイナスドライバーの小さなのを取り出し何とか蓋を開けましたが、窮屈でいよいよこのカメラも請われたかも知れないのです。

 妻は笑いながら「お父さん、年末に自分の貯金箱を郵便局へ持って行って開封したデジカメ貯金があるでしょう。それで買い変えたら」と、早くもバリアーを張ってきました。確かに郵便ポスト型の貯金箱を開封して貯めたお金がかなりあるので資金面では心配しないのですが、自らの不注意でせっかく息子が買ってくれたカメラを壊したことが悔しいのです。今朝はそのことが気になって朝早く目が覚めました。外は昨日の好天とは打って変わって冬特有の突風がもがり笛のように音を立てて吹く大荒れの天気のようです。

 早速親父が仕事場にしている倉庫に行ってペンチを取り出して書斎へ持ち込み、カメラの曲がった部分を修正してみました。多少へこみはできましたが、何とか修復することができました。当分は使えそうなので、その間に機種を選んで購入しようと思っていますが、今回も息子に相談して買おうと思っています。


 ブログを毎日飽きもせず書いている私にとって、今やデジカメは、日々の暮らしになくてはならない大事な持ち物となりました。持ち歩き過ぎて時々カメラを忘れる小知った芋繰り返して人様に迷惑をかけてきましたが、カメラが記憶した写真の数々はブログもさることながら、私の最近の生き方を記録する上で貴重な存在となっているのです。道端の草花を見ても一枚、孫の成長も一枚、人間牧場の様子も一枚と、枚数を重ねてきました。初心者ゆえ上手くゆかなかったパソコンへの取り込みや活用も、失敗を繰り返すことによって何とか下手ながら上手く使いこなしています。

 写真に撮るという行為は私の心の目を開かせることにもなりました。今まで気づかなかった出来事や季節の移ろいをファインダーを通して感じ取り、それらの写真に文字文章を加えることで私の平凡な暮らしも、少しは生き生きと輝いているのです。


 人は覚えるために忘れる動物かも知れません。日々の暮らしの中で覚えている何気ないことも、明日になったら「はて?」と思い出せないくらい忘れてしまいます。このことはしっかり覚えておこうと自分に言い聞かせても全てを覚えていることは不可能なのです。記録をしておくことで記憶をよみがえらせることができるのですが、記録なしで記憶することが不可能な年齢になると、まさに記録は記憶です。これからも記録による記憶をしっかりと行いたいと、壊れかけたカメラに感謝しました。

 

  「妻注意 聞かずに罰が 当たったか カメラ壊れて ペンチで修理」

  「デジカメは 今や私の 宝もの 肌身離さず お守りのよう」

  「お墓など 写真撮る人 いないわよ 妻に諭され それでもパチリ」

  「記録する ゆえに記憶と して残る もう歳だから それしか記憶」

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○仏様のお正月

 私の住んでいる双海町では、仏様のお正月とでもいうのでしょうか、正月三が日が明けた1月4日に、短冊に切った餅や小みかん、干し柿などを持って親類縁者のお墓を参り、線香を手向けてねんごろにお祈りをする風習があります。毎年行われる風習なのでまず自分の家のお墓に参ってから、決めている順番に沿ってお参りをしました。昨日の朝は今年一番の冷え込みでしたが冬としては珍しい風のない穏やかな日だったため、墓地では多くの知人友人に出会い、正月のあいさつを交わしながら回りました。

 わが家のお墓は家から約1キロ程度の近くにあります。親父がこまめに毎週お墓参りや掃除をしているので、お墓は綺麗に片付いていました。私たちの出発が少し遅れたため、既にどな鷹は分りませんがわが家の墓地にも線香やお供え物が置かれていました。私も死んだらこの墓地へ入るのかと思うと不思議な気持ちがしますが、私は不信心なため正月、春彼岸前後、お盆前後、秋彼岸前後、正月前の年8回くらいしかお墓にお参りしないので、大きな顔は出来ないのです。

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(わが家のお墓)

 上灘を終わって下灘の墓地へ向かいました。墓地は三か所とも離れているのですが、いずれも海を見下ろす高台にあって、墓地から眺める下灘の漁港や伊予灘の海が一望できて絶景の場所にあるのです。私が昭和19年に生まれた眼下に見える下灘下浜の地も、海や海岸が手の届くところにありましたが、漁港整備の一環として漁民団地などが立ち並び、様子は一変しているのです。墓地に通じる道々沿いには冬の訪れを告げる自生の水仙が満開で、馥郁とした香りを漂わせていました。

 合わせると約10ヶ所のお墓を回り終え、妻の実家の墓地がある八幡浜まで車で走りました。別名夕やけこやけラインと呼ばれる海岸国道378号も穏やかで、沿道には冬に咲く珍しい赤いアロエの花が咲いていました。

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(下灘の豊田漁港と咲き誇る水仙の花)
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(珍しいアロエの花)

 妻の実家の墓地は大宝寺という菩提寺のすぐ裏にあります。八幡浜の湾が一望できるここも双海町に負けず劣らぬ眺望が開けていて、いつ来てもいい眺めだと感心しながらお墓に通じる急な石段を上って行きました。
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(妻の実家のお墓)
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(九州に向かう船が出入りする八幡浜湾)
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(菩提寺である大宝寺)


 墓地に散らばった落ち葉などを掃除して、持参したシキビを活け水をたっぷり入れて線香を手向けひと通りの墓参りを終えました。ちょうど正午だったこともあり、日本一のみかんどころだけあって、正午の時を告げるチャイムは「みかんの花咲く丘」のメロディーが長閑に流れ、私も下手糞ながらメロディーに合わせ大きな声で歌いました。遠望の彼方には耕して天に至ると形容される段々畑が山の頂まで続いて、まさに絵になる光景です。

 八幡浜湾は宇和海に面していて黒潮が流れ込むため、瀬戸内海に面した私たちの町とはどこか違う気候風土を肌で感じながら、帰りは夜昼峠を通って帰りました。妻と結婚する前にはこのトンネルは未開通でしたが、妻は嫁いでくる時開通間もないこのトンネルを、花嫁衣装で、小柳ルミ子の瀬戸の花嫁の歌が流行った時期でもあったので、感慨深く通ったそうです。あれから30数年が経ちました。ある意味このトンネルは私たち夫婦にとって思い出のトンネルでもあるのです。


  「三が日 明けてお墓の 梯子参り どの家々も お墓は立派」

  「懐かしき 墓地より望む 出生地 昔の姿 跡形もなく」

  「ふるさとは 遠くにありて 思うもの たまに見るから 思いも新た」

  「この墓に いずれは入る わが身かな はかなき命 思えばはかなく」

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○アド・ホクラシー(特別な目的を持った集団)

10年以上も前のことなのではっきりとは覚えていませんが、アルビン・トフラーという未来学者が「未来の衝撃」という一冊の本を出しました。当時は「第三の波」という言葉が流行していた時代でした。田舎の役場に勤めていた私は、がんじがらめに縛られた年功序列のピラミッド型組織の上下関係にある意味癖々していましたから、食い入るように読んだものです。発展途上な私の頭にはやたらと横文字の出てくるトフラーの本はやや難解過ぎましたが、それでも明治維新の志士たちが外国の書物を読んだような新鮮な気持ちで何度も読み返したものでした。上士と下士という宿命とも思える身分組織に癖々していた、坂本龍馬の時代と重ね合わせながら、「煙仲間」や「21世紀えひめニューフロンティアグループ」というアド・ホクラシーを立ち上げ、組織の中で果たせなかった夢を次々に実現してきました。

 多分この本に出会わなかったら、「煙仲間」や「21世紀えひめニューフロンティアグループ」の立ち上げもなかったし、無人島に挑む少年のつどいや丸木舟瀬戸内海航海、竪穴式住居製作など次々と新しい企画を生み出し、実行することもなかったのだろうと思うのです。

 私のアド・ホクラシーはその後30人委員会、青年会議、エプロン会議などへとシフトし、夕日によるまちづくりに進んで行きましたが、凡人の私がよくぞここまでと自分でも驚くほど過去の生き方は、今までの生き方を否定するものでした。自分という人間が町の仕事の分業の一部を担当しているに過ぎないと思ったり、自分がヒエラルヒー(ピラミッド組織)の命令系統に組み込まれていると思ったり、一部担当や命令形とは永久的に自分を支配すると思っていた心を根本的に覆すものでした。

 私はひょっとしたら、組織の中では生きて行けない人間かも知れません。一時的な組織を作っても、その役目が終わると自分を否定しながら組織を解体して、新しいプロジェクトを組織して新しい仕事に取り組むからです。

フロンティア塾40回や無人島20年などと、常に目標を定めて区切りをつけ、目標に到達するといとも簡単にそれを壊してしまうのも、アド・ホクラシーかも知れないのです。

 私は今、人間牧場を場とした年輪塾という新しいアド・ホクラシーを構築しつつあります。この3年間ほどでやっとその方向なるものが見えてきましたが、この指止まれのこの集団もある意味アド・ホクラシーなのです。年輪塾には子ども塾と大人塾が必要と考えています。特に少子化で子どもたちがかつてのような、子ども会を組織して地域で自立する子どもを育てることが難しい時代になると、昔々の寺子屋のような子ども塾で、生きる力を身につけさせなければならないと考えています。

 これからは組織なき組織とでもいうべき人間牧場で、アド・ホクラシー運動を起して行きたいと思っています。

  「何年か 前に一冊 読みし本 アド・ホクラシー 分らぬままに」

  「三が日 明けて今日から 世の中は 平常戻り 私そのまま」

  「義理張りを せずに生きてく 心地よさ 組織はどうも 窮屈過ぎる」

  「上もなく 下ない世界 これ自由 へつらうことなく 生きる幸せ」  

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○未来を生きるためのギヤチェンジ

 箱根駅伝を見たり、年賀状を見たり、帰省している孫と遊んだり、ブログを朝夕書いたりと、目的を持って何する訳でもない正月三ヶ日があっという間に過ぎ去りました。年末の慌ただしさに比べたら、正月のゆったりとした時の流れはまさに至福の時のようで、久しぶりにゆっくりとした正月を過ごすことができました。

 世の中の動きを反映するように、昨日は正月をふるさとで過ごした人々の帰省ラッシュで、リフレッシュというよりは正月疲れをしょい込んで、今日からいよいよ新しい年の仕事が始まるようですが、多分今週は時差ボケのような気持ちが続き、新年会なども重なって、日本列島全体が少しタガの緩んだ桶のような雰囲気ではないかと思われます。

 昨日は同級生のお母さんが年末に亡くなり、葬儀があって出かけました。こちらは田舎なので田舎に住む同級生たちの親が亡くなったら仲間がお悔やみに出かける風習があるのです。前日二日に他の同級生からその旨の連絡が入りました。ここ4~5年は流行りとでもいうのでしょうか、葬儀を自宅でする家庭がめっきり減って、葬儀場のないわが町では、合併して同じ市内になったものの、わざわざ峠を越えて隣の街まで行かなければならないのです。ゆえに車に乗れない人たちは葬式に参列しようと思っても、誰かに足を借りねばできないので諦めるしかないのです。長年付き合った同年代の高齢者にとって一番来て欲しい友人が来れない葬儀はどこか寂しい気もしますが、やはりこれも時の流れなのでしょうが、最近は通夜も49日の法要も全て葬儀場で行うため、そうした願いはかき消されてしまっているようです。


 葬式はある意味知人友人の消息や近況を目の当たりにする絶好の機会でもあります。同じ町内に住みながら最近は同級生との出会いもめっきり減ってしまいました。昨日は喪主である同級生を含めると10人近くが集まりました。私と同じ年齢の同級生は既にリタイアした人や、自営業や農業をしていますが、出会いのあいさつもそこそこに、近況を話し合いました。その話の殆どは健康のこと、家族のこと、最近の出来事など他愛のない話で、国家国政を論じるような同級生は残念ながらいませんでした。

 同級生たちもいつの間にか頭に白髪や禿が目立ち、どこか初老の風格が漂っていました。65歳の年齢がそうするのでしょうか、何することもなく過ごしている人も何人かいるようです。私の行動は何かと町内では聞き及んでいるようで、口々に「お前が羨ましい」といってくれました。また自分が思っているだけかも知れませんが、確かに私は他の人に比べたらまだまだ元気で、若さを保っているのではないかと思いました。

 同級生の中には大病を患って、多少手足が不自由になっている人もいました。年金の満額出る年齢になっているのでさすがに最近は年金の話は出ませんでしたが、将来への不安を誰もが抱えて暮らしているようで、正直夢も希望も語れないような雰囲気に少々落胆しました。過去を振り返り「あの頃が懐かしい」と、まるで貸しボートに乗って自分の進んできた道を振り返るだけの人生では、生きている意味がないのです。

 60歳、あるいは65歳という年齢でギヤチェンジしそこなった人は、もう夢や希望を持って生きて行けないようです。幸い私は60歳でギヤチェンジに成功しました。そして65歳になった今、再び新しいこれからの生き方を目指してギヤチェンジしようとしています。多分上手くいくと自分自身の生き方を信じて新しい年を迎えた今日この頃です。


  「葬式に 久方出会う 同級生 夢も希望も 語れぬ人も」

  「六十や 六十五歳の 節々に ギャチェンジして 逞し生きる」

  「足腰が 痛いとまるで 高齢者 同級なのに 俺は元気だ」

  「強がりを 言ってもやはり 同級生 人から見れば 同じ鏡か」 

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shin-1さんの日記

○親父のたわ言に付き合って

 「今年の冬は寒い」と今年92歳を迎えた親父が言います。確かに今年の冬は寒く、これまで余り寒さを感じないため薄着だった私も、ズボンの下にパッチを履き、家で過ごす時はウインドブレーカーのズボンまで履いて、戸外へ出る時は妻に勧められたマフラーまでする始末です。親父の言うようにやはり歳をとったら暑さ寒さが体に堪えるのかも知れません。

 親父は隠居暮らしをしていますが、数年前大工さんにお願いして居間に掘りごたつを構えました。昔の掘りごたつは炭火を入れるのですが、親父は電気ごたつの温熱器を改造して、今風の掘りごたつにして重宝しているのです。手先の器用な親父ならではのなせる技に感心しながら、今朝も親父の隠居で色々な話をしました。


 歳をとると悩みが深いようで、自分の余命のこと、死んだ後のわが家の将来のことなどが気になるらしく、色々な話を断片的に話しました。親父の目下の心配は「今」を生きることのようです。足や腰や脛の不調を時々訴えるようになり、その都度病院へ通っていますが、一向に回復の兆しが見られず、このまま寝たきりになったらどうしようという話しでした。何処で聞いたのか、「いずれ同級生のように自分も特老にでも行かなければならないかも知れない」と思っているようです。先日妹にその話をしたそうですが、妹から「じいちゃん、特老に行ったら殆どの人が認知症なので、話相手がいないよ」といわれたそうです。

 年寄りにとって気がかりは自分の健康もさることながら、話し相手がいないという寂しさかもしれません。ふと気がつくと、わが家だって普段の日中は妻も仕事で家を空け、私も所用で殆どいません。ゆえに話相手もなく、自宅や菜園で一人寂しく暮らしているのです。

 私は昨年10月誕生日を迎え65歳となって高齢者の仲間入りを果たしました。間もなく迫りくる老いの苦しみを味合わなければならないのですから、他人事と思わず親父の苦しみを少しでも取り除いてやるような事を考えて生きようと思っています。まず手始めに親父と過ごす時間を出来るだけ頻繁に長く持とうと思っています。幸い親父と私は趣味も一緒で話もよく合うのです。これまで親子というのはどちらかというと反感反目することが多かったのですが、少しだけだけ妥協しあいながら親父を第一義に考えたいと思うようになったのは、やはり歳のせいでしょうか。

 老いは嫌だと言っても誰にもやって来ます。また死という恐怖も付きまとうのです。枚挙にいとまがないほど最近は葬儀の機会も増えて、黒い礼服にカビが生える暇などなくて、今日も新年早々12時から同級生のお母さんの葬儀があるため列席する予定です。

 名が伊予で短い人生をしみじみ考えながら、今年もいい一年でありたいと思っています。


  「歳をとる 今日や明日が 気になって 何処かもやもや どこか不安に」

  「足腰や 膝が痛いと 言う親父 今朝も背中に サロンパス貼る」

  「気休めに なるかも知れぬ 聞き役に 回る私は 孝行息子」

  「気がつけば 同じ道行く 親子かな やがて私も こんな姿に」

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