shin-1さんの日記

○初春水仙花まつり

 今年の冬は寒いといってもやはり季節は巡っています。さくねんまつが暖冬気味だったため、12月の中旬には水仙の花が咲き揃い、花の会の人たちをやきもきさせていましたが、ここにきて寒さが増して昨日と今日の二日間、シーサイド公園で初春水仙祭りが開かれました。このイベントも元はといえばわたしが作ったイベントなので、気になりながらも手出し口出しすることもなく引き継いでくれているので安心して見ていられるのです。

 それでも顔を覗かさない訳にはゆくまいと、昨日の夕方立ち寄りました。昨日も今日も例年にない好天に恵まれ、下灘の港を見下ろす水仙畑にも大勢の人が長い列を作って、急な山道を上り下りしていました。

若松進一ブログ

(入り口の看板)

若松進一ブログ

(水仙の切り花を売る花の会の皆さん)

若松進一ブログ

(広場のあちこちには水仙が飾られ、春の香りを漂わせていました)

 

 私が訪ねた時間は午後4時を回っていて、色々な品物が売り切れ、僅かに甘酒が残っている程度でしたが、顔見知りの鼻の会の皆さんが甘酒をサービスしてくれ、何よりのご馳走となりました。東京へ出張中の松本さんを除けば、米湊さんや大森さん、それに市役所支所のみなさんも応研に駆け付けていました。

 確か1月5日だったと思いますが、NHKのローカル番組「いよかんワイド」で、中継車がやって来て花の会の人たちが出演し、水仙まつりの予告編が行われていました。当日はあいにくの寒さだったし、早い冬の夕暮れで外は真っ暗な中での中継でした。


 この日、双海町内の漁業団体である共栄網の漁業後継者の若者たちが、水仙まつりの会場でイワシの加工品を販売していました。火鉢に炭火をおこして網をかけ、その上でイワシの加工品を焼いて来場者に加工品の試食をさせていたのです。共栄網はこれまで使っていた加工場が老朽化したため、取り壊して新しい加工場の建設を行っていて、その加工場が間もなく出来上がる予定です。

 これまでのような、他力本願的な生き方を改めようと、必死になっているのです。多分その道は険しいかもしれませんが、いい生き方の変化に目を細めました。


  「水仙を 見る度沖合 浮かぶ島 宮本常一 思いをはせて」

  「冬に咲く ゆえに水仙 愛おしい そっと顔寄せ 匂い楽しむ」

  「甘酒を 飲みつつ話す 国訛り 水仙まつり 懐かし顔が」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○二ヶ月も経った反省会

 名前を聞いただけでは何をするために開いたのか分りづらい「地域教育実践交流会」の反省会が、昨日の夕方松山市道後のにぎたつ会館で開かれました。この会の実行委員会が組織され、5人の世話人選ばれていることもあって、夕方私服で出かけて行きました。集会には予想を超える30人ほどが集まっていて、何人か初めての顔も見うけられました。昨年11月14日~15日の二日間大洲青少年交流の家で開かれてから早くも2ヶ月が経っており、時の流れの速さをしみじみ感じました。さて、2ヶ月も経つと人の記憶は薄れるものです。特に私のように歳をとってくると物忘れは顕著で、一人ひとり自己紹介をしながら当時の反省の弁を語るのですが、断片的にしか当時が蘇ってこないのです。

若松進一ブログ

 今治の山田さんからご指名があって私に発言の機会が回って来ました。当日私は冒頭のプログラムでアトラクションを担当しました。アトラクションといえば何か芸事を披露するような錯覚をされますが、今流にいえばレクレーションかアイスブレイクのようなものです。参加した200人をホィッスル一つで操り、みんなの不安な気持ちを解きほぐして交流の輪を広げて行く導入の部分の大切な役割なのです。

 長年社会教育やまちづくりの世界に関わっていると、当然「若松進一という男は何かをしてくれ、何とかしてくれる」という期待感を、肌で感じながらの指導でしたが、まあそれなりに成果を収めることができました。

若松進一ブログ

 しかし、2年目といいながら根なし草のような会なので、最後まで「果たして人が集まるのだろうか?」という不安もありました。結果的には前回を上回る200人という人が集まり一日目は盛り上がりましたが、案の定二日目は参加者が半減してしまい、いまいち盛り上がりを欠きました。また分科会の流れ解散だったため分れ方が尻切れトンボで、「ジーン」とうするような感動を与えることはできませんでした。

 私の私的な意見として、①県内社会教育関係団体の調査の必要性、②若い人に役割を伝授、③始める活動、続ける活動、高める活動、辞めり活動の明確化、④感動的な別れ方の4つを提案しました。


若松進一ブログ

 新年会を兼ねたような集会はとても楽しいものでした。隣の席のくじを引いた人、向こうに座っている人などなどが堰を動き回り、呑むほどに酔うほどな交流会が2時間半にわたって繰り広げられ、酒を飲まない私は和田先生の配慮で席まで届けてもらったウーロン茶を三杯も飲み、酒に酔ったような雰囲気になり、無事お開きの後は二次会にも参加せず、東京出町の帰りという松本さんを田舎のオープンカーに乗せて夜の道をわが家へ帰って来ました。

 いつものことながら妻が、「早かったのね」と迎えてくれました。どうせやるのなら来年度もいい会にしたいものです。

若松進一ブログ

  「思い出せ 言われ記憶を 辿ったが 二ヶ月前さえ 忘れ錆つき」

  「乾杯の 小さなグラス アルコール 呑みたいけれど 飲めない運転」

  「顔と名が 一致しないで 適当に はぐらかしつつ えーっと誰かな?」

  「ウーロン茶 飲みつつ酔った ふりをする 相手は酔って それも分らず」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○たった一人でクヌギの木の薪積みを終了しました

 年末から大荒れだった海沿いの町の天気もやっと回復し、今日は朝から穏やかな好天に恵まれました。天気予報によるとここ2~3日は天気が安定して気温も平年並みに戻るそうです。この寒波で愛媛県でも南予地方は可なりの積雪で、高速道路が通行止めになるなどしたため、積雪や凍結の恐れがない海岸線の交通量がかなりい多いようでした。

 私も三重県への旅も終わって少し余裕が欲しいため、今日は思いきって人間牧場へ薪の片づけに行くことんしました。そういえば今年は薪割りに人間牧場へ行ったきりなので、掃除や片づけなどの仕事が待ち受けているのです。

 人間牧場へ行ってみると先日割った薪がそこら辺にやたらと散らばっていて何とかしなければと思い、持参したケーブル用の電線をクリッパーで切り、薪を置く場所を考えました。私が子どもの時に父から教わった薪を積む方法は、両端に棒を立てその棒同士をケーブル電線で結び、その上に薪を積み上げて行くのです。年末に井上さんからいただいたクヌギの木で作った薪で実験してみましたが、いい具合に積むことができたのです。

 今回は前回積んだ薪の上に上積みするのと、小屋の反対側の側面にもう一ヶ所野積み場を設けることにしました。あいにくテミを忘れたため、倉庫の中にある発泡スチロールを代役にして運ぶことにしました。最初のうちは積む場所が低いため腰をかがめて積まねばならず、その後は背伸びをして積まねばならず、たったひとりで悪戦苦闘しました。私は腰の具合が充分ではないため、出かける時妻から「腰を悪くしないように」と注意をされて出かけたため、自分自身でも脛を使ったり、運ぶ量を少なくしたりしていましたが、作業効率が悪く面倒くさいとばかりに少し量を増やしたため、途中で腰に違和感を覚えるようになりました。ぎっくり腰の前兆なのです。


若松進一ブログ
若松進一ブログ

 それでも何とか両壁に沿って自分の背丈以上に、そして自分でもびっくりするほど美しく積み上げることができました。先日来薪づくりを手伝ってくれた浜田さんや赤石さんから、薪を積む時はお手伝いするからと申し出がありましたが、私の日程の都合で一人だけの作業となりました。

 いつも言われることですが、「人を当てにするな」とよくい言われます。人を当てにすると腹が立つのだそうです。さしづめ今日のテーマは「人間力向上のための10の力のうち②の行動力と、⑦生きる力、それに健康力(体力)かも知れないのです。

 10時から始めた作業も昼食抜きで行った結果4時には全ての作業を終えました。薪積み終了です。薪割りしてから雨に合わせることもなく天日乾燥しか出来ていませんが、いい舞が出来上がりました。この分だと5年分くらいはあるのではないかと思いました。


若松進一ブログ
若松進一ブログ

   「黙々と ただ黙々と 薪を積む 一人の仕事 まるでアリのよう」

   「今回も 親父直伝 薪積みの 技術生かして 綺麗仕上がる」

   「さあこれで 五年は多分 大丈夫 ストーブかまど いつでもOK」

   「昼飯を 忘れ薪積む 阿呆かいな 気がつきゃ腹が グーグー鳴りて」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○紀伊長島から愛媛へ

 紀伊長島の旅館ひさごやを発ったのは午前5時でした。寝る前旅館の女将さんに「明日は早立ちなので、寝過ごすといけないのでもしよろしかったらモーニングコールを入れてください」と頼みました。80がらみの女将さんは怪訝そうに、「モーニングコールって何ですか?」と私に聞き返すほどの古い人間のようでした。

 モーニングコールがかかったのは午前4時30分でした。エアコンの効きが悪く寒くて眠れない短い一夜を過ごした私は、つくえの上に置かれた細長い短冊のような宿帳に、自分の名前と住所を記入し、急いで身支度を整え階段を下りました。女将さんは休んでいるのかご主人のおじさんが見送りに出てくれ旅館を出ました。

 紀伊長島の駅前通りは人通りもなく寒い朝です。駅舎に入ると駅員さんがオンラインにスイッチを入れて間もないのか、「もう少し待ってください」と断りを入れ、津までの切符を読みだしてくれました。

 朝一番の始発列車はここ紀伊長島からの出発なので、列車内はまだ暖房も効いていなくて、昨晩の最終列車のままの状態ででした。やがて一人乗客が乗り込んだもののこの列車も私一人の貸し切りのような感じがし、やがて列車は多気を経由して三重の中心地津に向かって走り出しました。車窓はだんだん明るくなり始めました。気持ちのいい凛とした朝ぼらけです。やがて日の出を迎えるころには列車も通学や通勤の人でほぼ埋まり、活気を出して走りました。

若松進一ブログ

 津で近鉄特急に乗り換え、大阪鶴橋を目指しました。全席指定の快適な特急に約1時間30分揺られながら鶴橋からは環状線に乗り換え天王寺で降りました。列車が少し遅れたため、阿倍野橋バス停まで行ってリムジンバスに乗る余裕がないため、タクシーに乗り込み、伊丹空港へ到着したのは30分前でした。急いで搭乗手続きを済ませ、やっとの思いで気の休まる空の旅です。


 飛行機は双発プロペラ機でした。「えっ、こんな飛行機がまだ飛んでいるの?」と同乗の乗客が驚くようなローカル飛行機でした。松山を発つ時座席を指定していたので11番Aの窓側の席が取れました。飛行機は白い雲の間を縫うように瀬戸内海上空を飛びました。明石海峡大橋、瀬戸大橋、しまなみ海道を真下に見ながら、プロペラの回転を横目に松山空港を目指しました。

若松進一ブログ
若松進一ブログ
若松進一ブログ
若松進一ブログ

 やがて眼下に見覚えのある釣島やごご島を見つけ、風の向きを意識するように山側から海に向かって着陸しました。こんな飛行機には滅多に乗ることもないので、降りた後一枚乗った飛行機の写真を撮りました。ほぼ時間通り11時20分に到着です。昨日は朝が早く、この日も早立ちだったため一泊二日の旅なのにどこか遠い所を旅したような長く感じる旅は終わりました。車のホテルとでもいうべきコナンパーキングで1600円を支払い、会議が予定されている県庁を目指しました。


  「旅行でき いいねと人は 言うけれど 中々これが 骨が折れます」

  「ブログ書く お陰で旅を 記録する でないと昨日 思い出せずに」

  「


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○旅のつれづれ草③

 三重県御浜町のエコツーリズム研修会を終えて会場を後にしたのは午後8時30分を回っていました。明くる日の予定が入っていて、どうしても昼までに愛媛県松山市へ帰郷しなければならないため、御浜町へ泊ることができず後ろ髪を引かれる思いで、環境省の職員さんに熊野市駅まで送ってもらいました。しかし一足違いで先発の列車が出た後だったため、それから1時間近くも寒い駅舎の中で震えながら最終列車を待ちました。駅は人生縮図とでもいうのでしょうか、酒に酔った人、部活を終えた高校生、東京へ帰るお客などが少数ながら次々に増えて、「どこから来たの?」「何処へ行くの?」などのふるさと言葉が飛び交い、縁もゆかりもないのに寒さしのぎの会話をしました。

若松進一ブログ

 やがて寒風吹く2番線ホームヘ移動し、やって来た最終列車に乗り込みました。芯から冷えた体を鈍行各駅停車の座席に沈めながら、紀伊長島までの1時間20分を本を読んだり暗闇の車窓に流れる風景を見ながら過ごしました。何する当てもなくデジカメで車内や自画像を撮ったり多少悪ふざけをして、寒さや寂しさを紛らわせましたが、どこか寂しい夜行列車も一興がありました。

 最終列車は約5分ばかり遅れて紀伊長島の駅に着きました。何人かいた乗客も一人減り二人減りと下りて、終着駅が近付くころには私一人の貸し切り状態のようでした。

若松進一ブログ
若松進一ブログ

 深夜11時10分、紀伊長島の駅に降り立つと音もなく小雪が降っていました。主催者に取ってもらっていた「ひさごやや」という旅館は目と鼻の先にありました。ひょっとしたら小説でも書きたくなるような雰囲気だったので少し小説風に書いてみました。

 進一が三重の田舎町の駅に降り立ったのは11時過ぎだった。

 初めて降りた終着駅の看板には「きいながしま」と書いてある。「遠い所へ来たもんだ」と思いつつ改札口に向かうが、自分以外昇降客は一人もなく、いつも持ち歩いている木になる鞄の重さが手にずしりと感じられた。気動車のエンジン音と赤いランプは旅情をかき立てるが、早朝からの長旅や旅先での仕事が終わったこと、熊野市駅での待ち時間が長かったこと、気温が予想以上に冷たかったことなどが重なり、そんな余裕など感じられない程進一は疲れていた。

 無造作に声もなく切符を受け取る駅員をしり目に駅舎の外に出た。コートの内ポケットから送られていた宿の場所を示す地図を取り出し、薄暗い街灯の下で見ながら交差点の向こうに「旅館ひさごや」という看板を見つけた時は、「ああこれで疲れや寒さから解放される」と安堵の胸をなでおろした。

 「今晩は」。小さなキッチン宿の立てつけの悪い玄関を開けて中に入ると、人の気配はするのだが一向に出てこない。上がりかまちの直ぐ横の壁に目をやると、「御用の方はこのベルを押してください」と書いている。ベルを押すと八十がらみのおばさんがガラス戸を開けて背中を丸めて出てきた。「普通は十時が門限なんですけど」と、まだ来たばかりの客に、さも迷惑そうに一方的に話を始めた。「お金は三千円前金」「風呂は沸いてないので必要ならば沸かす」「部屋は階段を上がった所の二階の部屋」といい、「じゃあお風呂をお願いします」とポケットの財布から三千円を支払って二階に上がった。お客が来るというのにエアコンもつけず外と変わらず寒々としていた。部屋には寝間着とタオル、それに布団を丸めて積んであるだけの殺風景さで、旅館とは名ばかり、しかも節電のためテレビのコンセントも抜いていて、はてどうしようか正直迷った。

 とらえずエアコンのスイッチを入れたが古いためにリモコンの表示はまるで見えなかった。それでもコートのままで十分も我慢していると、少し部屋の温度が少し上がったように感じられたが、進一は「今夜はここで寝るのか」と思うとどこか侘しさが込み上げてきた。

 三十分が過ぎた。テレビを見ていると、おばさんが「風呂が沸いた」と告げに来た。「トイレはここ、洗面所はここ、風呂は廊下を下りたところ」と説明し、「朝は何時に出発」を確認してておばさんは自室へ入って行った。

      ~次号へ続く~


  「駅前の 小さな宿に 書き残す 宿帳まるで 小説のよう」

  「終着の 駅に降りるは われ一人 粉雪待って 旅情かきたて」

  「縁なくも 何処から来たか 何処へ行く 旅は道連れ 言葉を交わす」

  「最終の 列車乗り込む 人ありて この人何処へ  行くのだろうか」 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○三重県御浜町を訪ねる②

 「浜街道で創る御浜の未来~エコツーリズム検討委員会~」の事業概要によると、①御浜町は、かつて熊野三山へ参拝するための巡礼の道だった本宮道と海岸沿いに南下する浜街道が残っている。平成16年に世界文化遺産に指定された「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部だが観光資源が他地域に多いため、御浜町への誘客に結びついていない。②地域特性を生かした地場産業の盛んな町を目指しているが、基幹産業である柑橘農業を取り巻く状況は、高齢化、担い手不足などの問題があり、遊休地、荒廃地などが目立ち危機的状態である。③こうした状況を打開するため値域活性化の一環としてエコツーリズムやフットパスに期待している。④これまでにも行政職員が中心になってツアーづくりなどが進められてきたが、定着していくためには地域住民や団体の参加を促し裾野を広げていくことが求められているという、概ね4つの視点が書かれていました。

若松進一ブログ

若松進一ブログ
(講演する私)

 ふと私の町の20年前を思いだしました。明確には書けませんが、①過疎、②高齢化、③産業不振、④嫁不足の4つを問題点として認識し、「通過する町から立ち止まる町へ」をスローガンに掲げ町づくりを始めたのは昭和62年でした。まちづくり元年と定めたその年、町長からまちづくり特命係を命じられた私は、①まちづくり30人委員会、②まちづくりエプロン会議、③まちづくり青年会議、④役場まちづくりグループを組織して、1か月に一回の学習を行い、18時間マラソンシンポジウムとコスモス鉄道ふたみ号2001年の旅を企画し、本格的な町づくりを始めました。そして①人づくり、②拠点どくり、③住民総参加のオンリーワンづくりを目標にして20年間町づくり行政を進めてきました。

 結果的には観光ゼロから年間55万人の観光客がやってくる町へと変身し、現在に至っているのです。失礼な言い方ですが御浜町は私の町の20年前とまったく同じなのです。

若松進一ブログ

(町長さん)

 その成功の秘訣は?とよく尋ねられますが、①町長の明確なメッセージ(これがないと議会を説得できない)、②キーマンとして働く役場職員の存在、③夕日を地域資源にした情報発信手法、④住民の参加参画があげられます。つまり御浜町も①トップの意志、②役場職員のやる気、③地域資源の焦点化、④地域住民の参画さえやれば、三重県はおろか全国に名だたる町に変身することが可能なのです。

 この日の講演会は、私の講演と松本清さんのワークショップの2本立てだったため、私はその辺のさわりの部分だけしか話すことはできませんでしたが、まだ役場職員、地域資源、住民の反応確認は取れていないものの、偶然にも町長さんが出席していて私の話を好意的に受け止めていただいたようなので、まずはいい方向へ向かいつつあることは事実です。

若松進一ブログ
(参加者)

 まあ一回の講演会くらいで町が変わることはありませんが、環境省がエコツーリズムという崇高な論理を掲げて地域支援を行おうとしたきっかけはトリガーになったことは事実ですから、縁あってかかわったこともあり要請があればまtお手伝いをしたいものだと思っています。

 そのためには「みかんを売る」から「みかんを食文化に仕組みみかんをイメージで売る」くらいな思いきった発想の転換が必要だと実感しました。(はてさて、私のこのブログ記事を町長さんや役場職員、参加した町民の皆さんは読んでくれるでしょうか?)


  「二十年 前のわが町 よく似てる やればできるさ やる気があれば」

  「撒き餌する  喰いつくはずと 思っても 潮が悪けりゃ 釣果上がらず」

  「本願は 他力本願 成就せず 自分本願  本願成就」

  「ユネスコの 世界遺産じゃ 飯食えぬ 太田胃酸と 間違わぬよう」 

                                                                                                         

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○三重県御浜町を訪ねる(その①)

 年末、降って湧いたような話がメールで持ち込まれました。国の出先機関である愛媛農林統計事務所に勤務していた松前町出身のTさんは現在環境省に移動していますが、偶然にも私が統計事務所の方々にお話しいたことや、私の夕日によるまちづくりのことをおぼえていて、三重県御浜町で開かれるエコツーリズムの講演会に来て欲しいというのです。

 Tさんの話を聞けば御浜町は三重県でも和歌山県新宮に近い場所にあって農業はミカン、太平洋を漁場とした漁業もあるという比較的双海町と煮ている環境にあるということでお声がかかったのです。

 Tさんは年末の帰省を利用してわが家を訪ねられ綿密な打ち合わせをして帰られましたが、東京のメッツというコンサルタント会社が絡んで以後様々なやり取りをメールで行いました。


 予定日は1月13日ということでしたが、この日の天気予報がかなり大荒れで、九州鹿児島や長崎でも雪が積もるなど遠出には難儀な天気なので、前日の夜から出かけるか当日の朝にするか随分悩んだ末、結局は飛行機のチケットの予約もあって朝6時半に家を出ることにしました。

 松山から飛んだ飛行機は伊丹空港に予定通り降り立ちましたが空港にはTさんと女性職員の2名が、環境省らしいエコカープリウスで出迎えてくれました。コースは白浜周りを択ばず、また大台ケ原という山道は雪が想定されるため選ばず、結局は伊勢方面から高速道をひた走り、御浜町を目指しました。

  すこし朝の早い旅立ちだったので、早めに着くものと思いきや紀伊半島の三重県側はまだ高速道路が未開通で、丁度よい時間に御浜町に到着しました。

若松進一ブログ
若松進一ブログ

 私のように年中旅をしている者ですら、紀州や紀伊といえば新宮までの和歌山県の呼び名だと思っていた、紀伊が三重県側にも及んでいることや、三重県熊野市が熊野古道の一部であることも多分四国に住む人たちはしらないのではないかと思うほど看板が目につきました。それでも日本全国に冠たる知名度を持つ伊勢神宮や二見ヶ浦、イセエビ、真珠、などなど三重県は全国に知られた県なのです。

 そして、大型フェリーが荷崩れを起こして座礁した場所が、今回訪ねた御浜町なのです。高知県黒潮町大方の浜を髣髴するような御浜七里の美しい浜は圧巻でしたが、その原風景をさえぎるように突如として見れるフェリーの座礁現場は、当日が穏やかな海であったため、環境に及ぼす影響など考えつかないように静かに横たわっていましたが、日本海福井三国海岸に流れ着いた油事故を思い出し、少しショックを受けました。

若松進一ブログ

 海岸から少し入った所に立派な御浜町の役場庁舎はありました。役場に入った私たちは控室に案内され名刺交換や雑談などをして、午後6時開会までの時間をゆっくりと過ごしました。窓からは気違反との山並みの彼方に沈みゆく夕日こそ時折小雪の舞う雲に覆われて残念ながら見えませんでしたが、美しい夕景色を存分に楽しみました。

 メッツ研究所のSさんは香川県出身なが、私の親友であるら鹿児島県奄美大島瀬戸内町の重村さんを知っていて驚きました。 重村さんは若いころ相撲の全国大会で優勝した立派な方で、私がかつて寅さんがらみで瀬戸内町へ講演に招かれたり、瀬戸内町の若者が大勢でわが家へ研修にやってきたりしていましたが、先日年賀状にそのことが懐かしく書かれていました。

若松進一ブログ
若松進一ブログ

  「横たわる 大型フェリーの 姿見て 三国海岸 頭をよぎる」

  「太平洋 隣の街は アメリカだ そんな大ホラ 吹きたい景観」

  「黒潮の  恵みを受けて 育つ果樹 どこか似ている 言葉までもが」

  「朝えひめ 夕方三重に いる私 遠いといっても 便利世の中」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○事始めの卓話講演会

 意識的に理由をつけて、今年は年末年始をできるだゆっくり過ごそうと決意をして望みました。結果的に人に左右されはしませんでしたが、かえって自分のやりたかったことに夢中になり過ぎ、また身内の不幸も重なりあれやこれやと忙しい日々を過ごしました。松の内も鏡開きも終わって一段落ついた1月12日、わたしが学識理事をしているこーぷえひめの幹部会に招かれ、新春卓話をすることになりました。年末年始約2週間も講演から離れていると、その間を取り戻すのに一苦労しました。

若松進一ブログ

 普通卓話は30分程度なのですが、最初尾崎部長さんから依頼があった時はすこし長めの45分になり、りじちょうさんや専務さんとのすり合わせの結果、1時間をいただいたのです。参加者は地域理事の女性陣を含めた常勤職員さんで、はてさて何を話そうか思いつつ登壇しましたが、終ってみるとあっという間に時間が過ぎてしまいました。

 本当は講演後も残ってグループ討議にも加わりたかったのですが、明くる日三重県で環境省の仕事が入っていて、天候の都合では前夜に出発しなければならないかも知れないと思っていたので、失礼をさせてもらいました。今日出張先の三重から帰りパソコンを開けてみると、尾崎部長さんから皆さんの意見や理事長さんの話しなどの様子がメール発信されていました。


若松進一ブログ

  コープえひめの学識理事に就任してから3年半余りが経ちましたが、コープの皆さん方は安心とか安全とか特に食品のことについては相当の知識を持って論じているようですが、人生いかに生きるかといったライフワークやライフスタイルについては、余り論じられていないと思いそのことを少しだけ強調させてもらいました。また支所長さんはじめ第一線で働く人たちは、行政やノルマを重んじる余りに、昨年と比較することが基準になって新しい発想が湧きにくくなっているような感じがして、「新しい発想」についても話をさせてもらいました。

 現在学識理事は私を含めて3人いますが、他の二人はエコノミストであり、事業家でもあるので、経済や経営などの話は私など遠く及ばないため、私の存在感はその辺にあるのかなあと思いつつ、私にしかできないオンリーワンを、残された任期のこれからも一生懸命努めたいと思っています。

 私はコープえひめの理事に選ばれてとてもラッキーでした。自分にないもを持っている人との巡り合いは、自分の人生の幅や奥行きを存分にくすぐってくれているのです。まさしく「人は人によりて人となる」の言葉通りなのです。

 大川理事長さんや松本専務さんのひたむきな学習態度にも頭が下がるし、若い常勤理事さんたちも謙虚で個性派ぞろいで将来が楽しみです。

 さあ今年も忙しい日々が始まりました。今年も今まで通りではなく少しだけ今まで以上になるよう夢と希望を持って生きて行く予定です。ご指導をよろしくお願いいたします。

 (私が講演する間、大川理事長さん自らが私のデジカメで写真を撮っていただきました。恐縮でした)


  「手始めに コープえひめで 事始め 二週ブランク 勘が戻らず」

  「この冬は 日本列島 冷蔵庫 口元寒さ こわごわ開く」

  「人は皆 他人によりて 人となる ゆえに大事と 人を思わん」

  「さあやるぞ 腕をまくりて  事始め 木になるカバン 今日も提げ行く」


 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○便利なな街に住んでます

 「今日はとても寒い朝です。これから松山空港へ向かいます。目的地は傷み空港を経由して三重県御浜町です。」とメッセージをブログに書いて出かけました。

 私の町から空の玄関口松山空港へ向かうのには幾つかのルートがありますが、私は主に双海町上灘~伊予市海岸通り~松前町海岸通りを通って飛行場へ向かいます。何年か前までは飛行場周辺の道の混雑がひどくて時間が読めませんでしたが、滑走路に沿って飛行場へ向かう道が整備されて、私の町からでも早朝だと30分もあれば飛行場へ行けるのです。私のように年中県外へ出ている者にとってはとても助かるのです。

 例えば東京だと飛行機に乗っている時間はたかだか1時間20分程度なので、3時間もあれば東京都内であれば会議に間に合うという算段ができるのですからこの上ない便利な場所に住んでいると思うのです。

 今は便利さの基準は距離ではなく交通アクセス条件と時間、それに情報手段ではないかと思うのです。今も何人かの人を知っていますが、交通手段と情報手段さえ整った場所なら、田舎に住んで都会と同じ仕事ができるような便利な時代になってきたのです。

 それは逆の場合も言えます。最近私が自費で開設している人間牧場へ来る人がやたらと増えてきました。東京や大阪、などの遠隔地から日帰りでどんどんやって来るのです。さすがに北海道から日帰りというのはありませんが、日本列島も狭くなったなあと感じることがあるのです。

 そこへゆくと先日訪ねた三重県御浜町は直線距離こそ短いものの、私の町からはとてつもなく遠い町でした。

松山から大阪伊丹空港までは飛んでる時間はたかだか40分です。迎えに来てもらった車で高速道路をひた走り、大阪~京都~三重へ入り、伊丹出発が9時30分でしたが、現地に着いたのは16時を超える時間となりました。よくぞ一便早く出発したと安堵の胸を撫で下ろしました。帰りは公共交通機関でしたが、早朝5時18分に宿泊先の紀伊長島を出発するという、何とも長い旅路となりました。

 私も65歳となり、この交通手段と情報手段を存分に生かした生き方をするほどの力はなくなりましたが、私たちの続く人たちはこの便利さをしっかりと生かしてまちづくりをして欲しいと願っています。

 県庁所在地まで40分程度というのも魅力の一つです。私は多分その好条件を最も生かした人間です。アンチ松山、アンチ中央といいながら、東京などには叶わないものの、さすがに文化・政治・経済の中心地だけあって、魅力ある人、魅力ある情報、魅力あることがいっぱいあります。その恩恵を今も受けて暮らしていますが、それらの魅力に出会う機会は残念ながら自らが心を開き行動しないと出会わないものです。これからも車に乗れるという手段を生かしていい人といいこと、いい情報に出会える活動をしたいものです。


  「いいとこに 住んでるけれど 動かねば 人に出会わず 情報知らず」

  「居ながらに して情報が 入りくる 便利だけれど 使わぬ人も」

  「牧場が だんだん都会に 近くなる チャンス到来 何かできそう」

  「飛行場 県庁近い 地の利得て これまで生きれ 幸せでした」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○三重県への旅~年中みかんのみのるまち~

 「今朝から環境省の仕事で三重県へ出張します。帰りは明日の夕方です」とメッセージを書き残しわが家を旅立ちました。「お父さん、寒いから下ズボンも履いて、コートも着て」と、私のことを色々心配して旅の準備をしてくれるのですが、当の本人の私は、この寒さなので日帰り程度の最少限度のものを木になるカバンに詰め込み、一つのカバンだけという身軽さで出かけました。

 三重県へは市町村振興協会関係の杉谷さんという友人がいたこともあって市町村や商工観光関係の仕事でで何度かお邪魔していますが、和歌山から新宮へは行ったことがあっても伊勢神宮以南へ三重県側からは行ったことのない地域なのです。

 

 主催者から送られてきたパンフレットの中に、目的地である三重県御浜町のパンフレットが入っていました。そのパンフレットによると、世界遺産・熊野古道のあるまち、特に「年中みかんのとれるまち」というキャッチフレーズが目にとまりました。

 中を開けてみると、伊予かん、ぼんかん、早生温州、グリーンハウスミカン、八朔、早香、高糖系みかん、極早生温州、デコポン、三宝柑、甘夏、カラ、ハウスミカン、セミノール、春光柑、サマーフレッシュなどの収穫期が暦上に書かれていました。

 私が住んでいる愛媛県も、生産量こそ和歌山県に日本一の座を奪われましたが、柑橘栽培にぽいては日本一と自負していて、これ以外にも清見タンゴール、せとか、はるみ、ネーブル、レモンなどなど、御浜町に負けないくらいの柑橘が年中栽培され味わうことができるのです。

 昨年も、夕日の美しさでは日本一と自認している私に、世界三大夕日という名のもとに北海道釧路からオファーがかかったりして驚きましたが、今回もそれに似たような挑戦状ではないかと思ったりしました。まあ何でもそうですが、殆どがオンリーワンの世界なのでこれもまたよしと一人苦笑しました。

 みかんが作れば売れた時代は終わりました。国民が昔のようにみかんを食べなくなってしまったのです。生産者はジュースに加工したりあの手この手の策で消費拡大を狙っていますが、一向に消費が高まらないのです。

愛媛県に合併して上島町となった岩城島という島があります。ここは長年「青いレモンの島」というキャッチフレーズで島おこしをしていますが、これこそ新しい発想の柑橘を売る見本なのです。

 私は整備した道の駅シーサイド公園で、みかんの重さを軽くするため、オレンジジュースを使った「夕やけソフトクリーム」を開発し、年間二千万円売り上げる商品を開発しました。これは夕日と地元の産品をコラボレーションした新しい商品開発です。このように物語、情報やイメージ戦略でものを売る時代になっているのです。

 さて御浜町へ乗り込むのががぜん楽しくなってきました。


  もうみかん 昔のように 食べません みかんを売るより イメージ売ろう」

  「グリーンなのに 何で青いん? 色盲なのか 信号同じ どおってことない」 

  「発想を 変えればみかん 面白い 何か出来そう いい予感(伊予柑)が」 

  「東京も 名古屋も近い 地の利あり やり方次第で 日本で一番」 

[ この記事をシェアする ]