shin-1さんの日記

○木枯し1号の被害

 瀬戸内の海沿いに面したわが町でも昨日は一日中北西の季節風が吹き荒れました。テレビではこの風を今年の木枯し1号と言っているようですが、それにしても真冬の木枯しのシーズンでもこんな強い風は滅多に見れないほどの強さで、わが家の洗濯物干し場の屋根に張っている波型ビニールシートが一枚吹き飛んでしまいました。

 昨日の昼ごろでした。書斎でパソコンに向かって原稿を書いていると、突風が吹いて何やらバリバリと言う音がするのです。廊下と脱衣場、それに風呂場を挟んだ向こうの出来事なのに、かなり激しい音でした。強風の中外に出てみると物干し場の天井が少し明るくなって穴が空き、波型ビニールがそこら辺に散乱していました。

 最近テレビで見かける竜巻の被害を一瞬思いましたが、どうやら周辺の被害はなく波型ビニールが一枚吹き飛ばされただけの小さな被害で済んだようです。

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(被害に遭った屋根の波型ビニール)
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(洗濯物干し場の天井屋根から空が見えるようになりました)
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(吹き飛んだ波型ビニール)

 思い起こせばわが家を新築したのは私が青年の船でアメリカへ行ったあくる年の昭和52年でした。ゆえにあれからもう33年が経っているのです。家は30年も経つとあちらこちらで傷みや故障が出来るようです。先日は地下埋設の水道管が2ヶ所にわたって漏水が見つかり、工事を終えたばかりですが、今度は足元ならぬ頭の上の傷みなので、少し心配しました。これまでにも補強工事をしたりしましたが、いよいよこの家もご主人たる私たち夫婦と同じように老域に入るため、補修修理をしなければならない覚悟をしておいた方がよさそうなのです。

 私は日曜大工を趣味とする親父のような器用さは持ち合わせていません。親子ながらこうも違うものかと、親父の日曜大工ぶりを感心して見ているのですが、そろそろ日曜大工といわず釘を打ったり鋸で切ったりするくらいのことはいくら不器用でも出来るので、性根を据えてやりたいと思っているのです。

 昨日風呂のボイラータンクに灯油を入れる作業をしました。ポリタンクを3缶用意してさあ入れようと思って辺りを見渡しましたが、あるはずのポリポンプがどこを探しても見当たらないのです。多分屋根を突き破るような突風で吹き飛ばされて何処かへ飛んでいったものと思われます。仕方がないので親父の隠居へ行きました。隠居の洗濯物干し場の下には板に穴をあけた場所にポリポンプが固定されて置いていました。耳の遠い親父には黙って拝借し使ったっようでしょうが、使った後元の場所へ差し込んで戻しました。そこら辺に置いている息子と、収納をきっちりしている息子のこれが違いかと、一人苦笑した次第です。

 わが家は昨日の木枯しで一気に冬モードのなりました。島根県雲南市吉田町に住む友人松島さんからは初雪の便りがメールで届きました。いよいよ冬です。昨日は菜園の雪のように白いカブ菜を引き抜き、カブとチンゲンサイのあんかけを妻が作ってくれましたが、これがとても美味しく冬を感じさせてくれました。来年の2月末まで風を引かないように気を配って冬を乗り切りたいと思います。そうそう、とりあえず波型ビニールの張り替えを大工さんに手配しなければなりませんね。


  「木枯しの 一号吹いて 小被害 波型ビニール 吹き飛びました」

  「三十年 すればわが家も あちこちで ガタや痛みが 私と同じ」

  「木枯しが たった一日 冬モード 自然は偉い 人間勝てぬ」

  「そろそろと 親父見習い 釘くらい 鋸切るくらい やらねばならぬ」 

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shin-1さんの日記

○鳥の目の情報は強くても虫の目の情報に弱い

 今日は午前中郵便局へはがきを投函しに行ったついでに市役所支所、それに商工会へお邪魔しました。会う人ごとに「お久しぶり」とか「元気でしたか」とか、立ち話に花を咲かせましたが、私が相手の人の暮らしぶりを知らないのと同じように、その人たちも私のことをまるで知らないようで、同じ町内に暮らしていながら生きている世界が違うなあとしみじみ思いました。

 私はこの双海町、詳しく言えば幼少の頃は下灘村、少年期から最近までは双海町、最近は伊予市という土地に住んでいます。幸い役場に35年間奉職したお陰でこの街の情報を共有し続けてくることができました。しかし今はその職場を去ったため、同じ街に住み続けていながら町内の情報は中々入らなくくなってしまったのです。でも私はまだまちづくりや青少年活動などに関わっていたり、インターネットでブログ情報を流しているため、そこそこ情報が入るのですが、同じように職場を去った人などは全く情報が入らないと嘆いていました。多分これからはもっともっと情報が入らなくなると思われるので、町内活動をもっと盛んにしてこの町に生きていることの意味をかみしめたいと思った次第です。

 そんな矢先一人の町民に出会いました。話の盛り上がりで私の家へ伺おうという話がまとまり、その人は昼を挟んでわが家へやってきたのです。「まあお茶でも」とお茶とお菓子でもてなし煙会所や海舟館、夕観所を一通り案内し、わが書斎で話し込みました。その人はお百姓さんですが、私の話から感じる私の生き方に感心して、「いい生き方をしているね」と褒めてくれました。「水も食べ物も空気まで美味しい田舎に住んで、たまに県内や県外へ出かける、そして何の束縛もなく大学へ行ったり講演に行ったりして、寸暇を惜しむべくボランティア活動をする姿は、自分の理想だ」というのです。

 自分では惰性のようになって気がつかなかったのですが、確かに言われてみれば私の生き方はリタイアした人から見れば、いやリタイアを目指す人から見ても、その人が言うように羨ましい生き方だと思っています。人から見れば他愛のないことであっても、小さな夢を持ち、その夢が少し等身大過ぎると思えば人間牧場のように5年計画を立てて、コツコツの努力でその小さな夢を実現しているのですから文句のつけようがないのです。

 私が私であるゆえんは私にしかできないことをやるだけで、それこそオンリーワンの世界のような気がするのです。人間牧場構想だって、セカンドハウスや別荘を持っている人は沢山いますが、人間牧場が何故オンリーワンなのか、それは学びという機能、地域づくりという機能を持っているからだと思うのです。人間牧場の学びが縁で年輪塾ネットという情報ネットワークを持っていますが、参加しているメンバーから主に県内の情報がどんどん入ってくるし、人との出会いも相当増えてきています。こうした鳥の目の情報に比べ虫の目の情報は得てして入りにくいものなので、これからはむしろ虫の目に意を配り、双方向の情報として活用してゆきたいと思っています。

 私は伊予市民で双海町民であることの自覚を再び意識してこれからも生きて行こうと思っています。


  「いつの間に わが住む町の 情報が 入らないとは うかつ千万」

  「あちこちを 出歩くことの 多かりし だけど身近な ことは分らず」

  「もうそろり 県民よりも 町民に なってこの町 舞台にしたい」

  「顔色が いいよと褒める 顔見知り 嬉しいことだ 顔色さえも」

 

 

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shin-1さんの日記

○ホッと一息

 10月と11月にまたがっていたとはいいながら、自分の町や家を離れていたのは僅か3日間だけなのに、自分の町や自宅に戻って今朝起きてみると、何やら外の空気が一変しているのです。多分日本列島をほぼ東西に延びた寒冷前線が通過し、西から冬の到来を告げる大陸性高気圧が張り出し、今年の秋になって始めての本格的な北西の風が吹いて木々揺らし、寒く感じさせるからなのかも知れません。妻の干した庭の洗濯物も勢いよく風になびいています。また背中を丸めた親父の姿は上にちゃんちゃんこを羽織ってもう冬が来たような服装なのです。こんな光景を見ながら、一昨日訪ねた北海道のわが町にしてみれば真冬並みの氷点下に下がった体験や、わが町を一日にして冬近しの風景に変えてしまう自然の力は偉いものだと、つくづく感心するのです。

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(季節を感じさせてくれる庭のノキシノブ)

 長旅や詰まったスケジュールだった10月の峠を越えて、今日はちょっと一息という感じですが、頼まれている原稿書きや身辺整理もあって今日は久しぶりに書斎の机に向かって過ごす一日になりそうです。留守中沢山のメールや便りが届いていました。中には外国からのエアメールもあって中々賑やかですが、その返信やはがきも書かなければならず今日は気合を入れないと片付きそうもないのです。

 私が留守をすると決まったように妻が、読んでいない新聞をまとめて書斎の隅にまとめて置いてくれています。多分県内の情報音痴にならないようにとの気配りでしょうが、その中には息子が勤めている今治警察署の犯人逃亡の記事も出ていました。妻はこのことが気がかりで昨日は寝れなかったようです。息子に電話をしても機密事項だけに黙して語らないため、不安の解消どころか不安がより募るようで、息子が成長して大きくなっても親の気苦労は絶えないようです。


 新聞記事で思い出したのですが、訪ねた北海道のホテルロビーで新聞を読んでいると、双海町のことが出ていてびっくりしました。わが町の沖合は防衛省の艦艇が掃海訓練などを行っていますが、その艦艇とわが町の漁船が衝突したというのです。幸い怪我もなかったようですが、一瞬数日前に関門海峡で起こった艦艇とコンテナ船との衝突や、この夏わが母校宇和島水産高校の実習船えひめ丸とわが町漁船の衝突事故などを思いました。

 私の町は漁船漁業の盛んなところですが、時々こうした衝突事故や、時には漁具に巻き込まれる痛ましい事故などもあり、これまでにも何人かの漁民が尊い命を落としています。

 親父が若いころ県外出漁していた伊豆下田沖の太平洋ではキンメダイの漁船が転覆、し奇跡的というべき転覆してから4日ぶりに3人の命が救助されました。

 夏の賑やかだった海はこれから春先まで荒れながら深い眠りに就くのですが、恵みの海に感謝しながら風や波を避け漁船の舳先に泊まって休むカモメと同じように、私も少しのんびり骨を休めたいと思っています。

  「一日で 戸外の様子 一変し 北風受けて 干し物揺れる」

  「ゆっくりと 骨を休める 日にすべく 窓外を眺め 葉音聞きつつ」 

  「背を丸め 歩く姿は 冬モード 親父は既に 衣替えする」

  「庭シノブ 一気紅葉 風揺れる 惜しむがごとく 写真収める」

   

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shin-1さんの日記

○北広島町って何処にあるのかな?

 今朝は少し早目に宿泊先の広島のホテルで目が覚めました。昨晩は長旅のためホテルへの到着が遅かったので、運動不足を補うため散歩に出かけました。広島駅新幹線口まで歩きましたが、北海道釧路の前日朝の気温が氷点下でしたので、何か温かさを感じてしまいました。広島の街も来る度に著しい発展を遂げていて、どこか別の街へ来たような錯覚を覚えました。

 昨夜の天気予報では今朝から雨が降るという予想でしたが、せっかく傘を持って散歩に出たのに雨にも遭わず1時間程度で散歩を切り上げて部屋に戻り、荷物をまとめてラウンジへ下り、握り飯と味噌汁の簡単な朝食をいただきました。8時に北広島町指し回しののタクシーが迎えに来るという約束をしていましたが、少し早目の50分頃にタクシーはやってきました。運転手さんの協力を得てトランクに荷物を積み込み、いつも高速バスで島根県へ行くとき通る見慣れた高速道路を乗りついで山陽自動車道を走ること50分ほどで北広島町へ到着、会場奥の控室に通されてまず一服と美味しいお茶をいただきました。お代わりを3杯も飲むほど美味しいお茶で、主催者の心配りがとてもうれしく感じられました。

 講演は固定椅子の立派な会場で行われました。昨日の神楽講演の余韻が残っているような会場でしたが、この日は少し入りが少ないようにも思いました。しかしまちづくりなどというのは人数が多いからいいというものではありません。要は集まった人にどれでけ満足して帰らせるか、つまり値打ちを作ることなのです。そういう意味で考えればステージで話す私への反応はすこぶる良く、とてもいい集会だったように思うのです。

 昨日はハプニングもありました。講演の途中で私の手に持ったマイクの音が消え、変わって別の音が会場に響き始めたのです。こういうことはワイヤレスマイクではよくある話で、例えば私の携帯電話の呼び出し音が入ることだってあるのです。しかし昨日は明らかに変でした。私の話が佳境に入った時だけにこの雑音には会場の人も、勿論講演をしている私も驚き中断してしまったのです。こうなると講演どころではなく多分切れた緊張の糸を元に戻すのは容易なことではないはずです。しかし私はあえてそのことに挑み、携帯電話の話をして見事元の木堂に戻したのです。もしも私が昔のように講演慣れしていなかったらこの危機は乗り切れなかっただろうと、安堵の胸を撫で下ろしました。

 「まちづくりの新しい風」と題した90分の話が終わり、後の予定もあってどうしても13時30分の宇品発高速船に乗らなければならないため昼食もとらず、迎えに来たタクシーに乗って降り出した雨の中を港を目指しました。運転手さんは行きも帰りも一緒で、元役場に勤めていたこともあって、積もる話を沢山しました。お陰で港までの約1時間ほどは実に楽しくあっという間に到着し、充分間に合った船で松山まで帰ってきました。

 北広島町は近隣の芸北、豊平、千代田、大朝などの町が合併してできた人口2万人余りの町です。高速道路があるため広島市内から僅か1時間足らずの場所です。自然も豊かだし合併前の町がそれぞれいい町づくりをしていることが引き継がれているようで、文化的にもかなり高い地域だと思います。今後の発展を期待しつつ・・・。


  「どちらかと いうと北より 西の方 島根の境 いい町ありて」

  「名前聞く だけではどこか 分らない 合併進み まるでチンプン」

  「人の数 よりは満足 大事にと 美辞を述べつつ 講演終える」

  「講演の 途中雑音 妨害の 電波じゃないか 南北思う」

  「美味しいね 三杯お茶を おかわりす 入れる女性の 真心こもり」

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○釧路の夕日によるまちづくり

 滞在時間僅か24時間という短い期間の北海道釧路滞在でしたが、釧路自慢の夕日を降り立った釧路空港で午後4時10分ごろ見ることができました。そして昨日の朝は6時3分に、宿泊先である全日空ホテル14階の窓越しに北の大地から綺麗な朝日を拝むことができました。他のことはさておき、太陽や夕日に思いを寄せる人間としては、この二つの太陽を見ただけで満ち足りた気持ちになるのです。昔一度だけ釧路を通過した記憶があるのですが、それはもう忘れるくらい昔の若いころの出来事なので、釧路は初めてに近い体験なのです。

 今回は夕日プロジェクトと称する青年会議所の主催するイベントの一環として招かれました。偶然なのか昨年の11月1日に島根県松江市が主催する夕日サミットの基調講演に招かれ、一日違いの10月31日に釧路で夕日をテーマにした集会に招かれようとは、これも夕日のお導きかもしれないのです。

 最初私にこの話を持ち込んだのは、釧路青年会議所の厚海さんでした。彼のメールでの講演依頼には、釧路の夕日が世界三大夕日だと豪語していたものですから、オンリーワンながら日本一を自認する双海の夕日を長年手がけている私としては、その真意を訪ねるべく忙しいスケジュールを広げたり縮めたりしながら無理をして参加したのです。

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(タンチョウ釧路空港から見た見事な夕日)

 飛行場から見た夕日は自慢するだけあって確かに綺麗でした。釧路といえば釧路湿原と霧の街という印象が強く、そのことは余りにも有名ですが、夕日をどのように仕掛けているのかそこが聞きたかったのです。青年会議所の皆さんが描く夕日をテーマにした青写真の殆どは、既に私の町で実施しているものでした。でも若者らしくチャレンジしようとしている姿は立派で今後の成果に期待したいと思っています。

 〈この続きは明日にします〉

 明日になったのでこの続きを書いておきます。

 全日空ホテルホテルの窓から朝6時3分に綺麗な朝日を見ました。

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(全日空ホテルの部屋の窓越しに見えた綺麗な北の大地の朝日も見事でした)

 北の大地ゆえ、西の四国に住む私には朝が早く明け、夜が早くふける時間的な落差は少し混乱もしましたが、午前中はホテルの部屋で本を読みながらゆったりと過ごさせてもらいました。やがて昼時前になると主催者である青年j会議所の理事長さんたちがやってきて打ち合わせを兼ねた昼食をしました。聞けばパネラーには蝦名市長さんやリクルートジャランプロデューサーのヒロ中田さんもいて、かなり面白い顔合わせのようでした。

 会議は夕日プロジェクトの取り組み発表や、夕日フォトコンテストの表彰などが事前に行われ、私が30分余り基調講演をしました。その後小磯釧路公立大学長をコーディネーターにして短めのパネルでスカッションが行われ、それなりのまとまりをつけて終わりました。

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 会場となった釧路市観光国際交流センターはホテルを思わせるような立派な会場でしたが、少し広過ぎた感もしました。青年会議所のこうした類の取り組みは理事長以下役員が一年で変わるので中々地に着いたものになることは難しく、パネリストもそれぞれが「継続」について意見を述べられました。夕日を20年間をかけて育ててきた私としても同感で、2年や3年で結果が出るものではありません。この日発表されたプランの幾つかは、いや殆どは私の町でも実証済みなのですが、市民権を得るために血のにじむよう努力が必要だとも力説しました。

 夕日をテーマにしたまちづくりが今後も継続して取り組まれますよう願ってやみません。そしていつの日か夕日を地域資源にまちづくりしている私たちと提携して何かをやりたいものだと思いました。


  「ビッグスリー 中々大きい ホラを吹く それじゃあ俺たち 金魚の糞か」

  「綺麗だと 思えばそれも オンリーワン だから世の中 丸く収まる」

  「夕日見て 朝日再び 見るラッキー 同じ太陽 どちらも凄い」

  「わが顔の 写りしポスター 張る街で 夕日を語る 気分最高」 

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