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○三崎半島付け根の町八幡浜市保内町

 県内でも大好きな町は沢山あります。中でも八幡浜市と合併して八幡浜市となった保内町は大好きな町です。大好きの要件は風景や景観が美しいとか、美味いものがある、また知人友人が多いなどの条件が必要ですが、この町はどういう訳かそれら全てを満たしているのです。

 風景や景観には何処か異国情緒のようなものが感じられれば満点です。川端康成の小説の冒頭に「トンネルを抜けるとそこは・・・・」のように、瞽声という佐田岬半島貫く長いトンネルを瀬戸内海側から抜けると、宇和海側に出ますが、ひんやりした瀬戸内海の空気に比べると宇和海は明らかに温かい黒潮の恵みを感じさせてくれるのです。たった一本のトンネルでこうも気候風土が違うのかと思わせるような雰囲気が、太陽の光も段々畑に実るみかんにも感じられるのです。また街なかのあちこちには明治や大正とまでは遡れないものの、昭和初期のノスタルジックな建物が随所に見られ、これまたいい町を感じさせてくれるのです。

 国道沿いに一笑堂というお菓子屋さんがあって、そこの豆板という大豆を砂糖で固めたお菓子があります。歯が弱くなった今ではさすがにポリポリとまでは行きませんが、それでもこのお菓子はここだけしか売っていないので、日持ちがすることからその前を通る度に買い求めて帰るのです。昔縁日で母に買ってもらった懐かしい味がして食べれば今は亡き母を思い出すのです。

 同じ国道沿いでも八幡浜寄りに若松屋というくずし屋さんがあります。私の町も最近ですがシーサイド公園にある漁協女性部の皆さんが実演販売している自慢のじゃこ天がありますが、私は何故かこの店のじゃこ天の味が大好きで、この前を通って八幡浜や宇和へ行ったり帰ったりの時々に買い求めては帰るのです。また一笑堂と若松屋の中ほどに知人西園寺さん親子のスーパーがあって、この店にも南予の商品が並んでいるので立ち寄り、息子さんと会ったりするのです。

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(上田さんの講演)
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(お世話になった馴染みの保内大学の白石さんも見えていました)
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(商工会の役職員さんとともに)

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(商工会の安藤さんはじめ女性とともに)

 さて知人友人となると役場に勤めていたこともあって、もう10指に余るほど数え切れないのです。一昨日は保内町商工会の招きでジョイント講演会に招かれました。夜7時からの集会でしたが、少し早目に出て金融広報アドバイザーをしていて時々立ち寄る保内町幼稚園へ立ち寄りました。先日北海道へ出かけバッティングして行けなかったので、お詫びの印です。先生方もすっかり顔馴染みでしばらくの間お茶を飲みながらお話ししました。西園寺さんのスーパーに立ち寄り少しだけ買物をして時間調整をしてゆめみかんという文化会館へ到着しましたが、商工会の会長さんが若松屋の社長だったり、全国大会でお世話になった商工会の安藤さんとも出会い、またカナダに一緒に行った事務局長さんとも出会い、さらには私のいとこなども駆けつけて、まあ嬉し恥かしの心境でした。

 講演会は上田さんが30分ばかり話し、私が1時間ばかり話しました。いい反応だったように思います。終了後お寿司屋さんで食談交流をしましたが、食べ物も人にも大満足の一日で、ほのぼのとした気持ちで瞽声トンネルを超えて夜の道を帰ってきました

  「いい町は 上手い食べ物 それに人 全て満たして われを迎えぬ」

  「お元気か? 声をかけられ ハッとする 親類縁者 講演聞きに」

  「トンネルを 抜けるとそこは 黒潮の 恵みそこここ どこか漂い」

  「便利だね 昔は高い峠越え 今はトンネル あっという間に」 

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○天気に恵まれていいイベントが実現しました

 屋外のイベントを計画する場合まず気になるのはお天気です。私は公民館で13年、産業課で4年、企画調整室で9年、地域振興課で10年、教育長として2年と役場35年の生活をそれぞれ渡り歩きましたが、その殆どが住民運動との関わりだったため、町民運動会や文化祭、夏祭りなどのイベントが多く、その都度気をもんでも仕方がない天気に一喜一憂、また気ままな天気に翻弄されながら生きてきました。

 さすがに最後ころは開き直って、天気ばかりはどうにもならないと思っていましたが、退職後も人間牧場での芋植えや芋掘りなどまたもや天気に悩まされる結果になろうとは夢にも思いませんでした。そして今日も年輪塾の公開セミナーで会場となった下灘コミュニティセンターから人間牧場まで往復約2時間のウォーキングを予定していたため、数日前に突然吹いた木枯し一号の凄まじさに、多少心を痛めながら今日という日を迎えたのです。

【カメラルポ】

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(出発前のミーティング)

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(山間地の農道を長閑に歩く参加者)
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(一人一個の手繰りの石をよっこらしょと置く人)
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(人間牧場を目指しウォーキングした後の記念写真)
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(グッドタイミング、東京からやって来た講師佐野眞一さんを囲んで)
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(人間が運んだ約100個の手繰りの石)

 幸いなことに今日は好天に恵まれ、80人の参加者のうち殆どの人が歩くという、しかも池久保地蔵尊の手繰りの石垣を実証する青石(緑色片岩)を一個ずつ持って歩くプロジェクトにも協力いただいて、少し汗ばむほどの陽気の中をみんなで歩いて登っていただきました。

 大間道を歩かず車道を歩いたために多少時間がかかりましたが、全員前もって試験的に歩いてタイムを計った松本さんや浜田さんの予定通り、約50分で到着し、人間牧場で多少の休憩ののち下山して12時きっかりにコミュニティセンターに到着しました。

 今日のプログラムは年輪塾の役員である清水塾頭、米湊大番頭、松本小番頭、宮本常一を考える会の豊田会長と浜田幹事長を中心に約半年をかけた、年輪塾としては壮大な計画でした。ノンフィクション作家の佐野眞一さんを迎える手筈も、周防大島へ何回か足を運び礼節の限りを尽くして堅い口約束で実現させようとしました。

 その間隙をぬったのが青石プロジェクトなのです。今日はその土台づくりです。今日から10年をかけて砂浜の青石を拾い集め、コツコツと防風垣のように人間牧場へ再現してみようと思っています。ある意味ピラミッドによく似た計画です。出来るかどうかも定かではありませんが、実現すれば面白いと思っています。

 私の場投げた夢に付き合わされた今日の参加者にはすまないと思っていますが、かつて肥後の城主が浄堵の浜から手繰りで運んだという壮大な事業を再現するのもロマン溢れることなのです。はてさてどうなることやら・・・・。とりあえずこれからはこつこつ自分ひとりでとにかく人を余り当てにせず頑張りたいと思っています。


  「山道を 一人一個の 石運ぶ 史実立証 額に汗し」

  「ヤッホーと 呼べばこだます 田舎谷 長閑な秋の ハゼ色映えて」

  「庭先の 石の数見て 驚きぬ 一人一個も これほど量に」

  「歩かずに 車で登った 私ゆえ 石の重さは 車のみ知る」  

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○恩返しの表敬訪問で思わぬ視察効果

 私は年中全国を飛び回り様々な集会で話したりしていますが、そのことがご縁で交流に発展している所は数知れず、時には北海道佐呂間町や島根県雲南市吉田村のように物々交換、時には香川県高松市三谷地区や大分県大山町のように水仙の芋交流に発展するなど、今でも深いご縁をいただいて交流を続けている地域が10指に余ってあるのです。地区ぐるみ、個人とその交流体系も様々ですが、私にとってはそれら全てが大切な持ち物であるので、これからも大切にsて行きたいと思っています。

 さて昨日は広島県呉市の自治体連合会がわが町の視察にやってきました。聞けば今回の視察は丸亀の防災組織と西条市東予国民休暇村宿泊、それに私たちの町をセットにした一泊二日の研修旅行のようでした。何故私の町を選んだのかを市役所の担当者に聞けば、呉市の呉港岸壁にある大和ミュージアムで開かれたシンポジウムに私が講師に招かれ講演した時の話が面白かったので」というお話でした。そんなご縁を言われると断ることもできず、本当は前日の予定でしたが、私が大学の講義日だったため二日目に変更していただいたのです。私も取材と夕方から保内町でまちづくりジョイント講演会が予定されていたので慌ただしかったのですが、11時~13時までの2時間というお約束でお引き受けしました。

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 研修に来られた自治会連合会の方々はいずれも年齢的には高い方でしたが、私がくれにお邪魔した時参加して私の話を聞いていた方もいて、シーサイドの夕日の実xyツージアムの一室で1時間ほど双海町のまちづくりについてお話をさせてもらいました。相手が自治会の会長さんなのでむしろ私の話は通り一辺倒な話ではなく、地域が持っている悩みや地域の自立に軸足を置いた話をさせてもらいましたが、みんな感心して聞いていただきました。シーサイド公園内をゆっくり案内して回りましたが、数日前の木枯し1号が沖合から運んできた大量の漂流ごみも殆ど片付いて綺麗な浜になっていました。

 見学後2階のレストランでご一緒に会食し、私まで招待していただき楽しい研修会となりました。20人近くの人が食事をして主屋気まで買ってくれるとは何と有り難いことでしょう。これぞ視察効果というべきでしょうが、お土産までいただき恐縮千番でした。

 最近はわが家の煙会所や海の資料館海舟館、それにシーサイド公園よりも人間牧場を案内して欲しいという人たちが多く、来週の月曜日にやってくる予定の香川県丸亀市の自治会はあえて人間牧場を選んでいるようです。

 近頃とみに視察者が多くなり、私も限界の粋を超えているようです。一昨日などは一日に3組もの視察や取材が入ってアップアップの状態でした。でも地域を活性化させるためには交流が第一と考えこれからも受け入れたいと思っていますが、昔のように行政が視察を全て受け入れる体制が取られていないし、土日は行政も休みなので、私を窓口の視察が俄然多くなっています。

 私が個人的にやっているこうした研修受け入れは前述のように思わぬ経済効果を生んでいます。昼食やお土産、じゃこ天などのちょい喰いも馬鹿にならず、その人数も来場者数のカウント上乗せに貢献しているのです。一人から始める観光客誘致、小さなことの積み重ねがなければ観光客の増加は望めない時代となっているのです。今日はまた下灘個ミュにテーセンターにバス2台ほどの人数がやってきて私の主宰する年輪塾の公開セミナーが開かれ、昼食や懇親会というこれまた経済効果が生まれようとしています。今日も元気で頑張ります。


  「視察でも 経済効果の 一役を 私訪ねて 遠い呉から」

  「懐かしき 人たち出会い 感激す 人はこうして 縁を育む」

  「小さいが これも私の 恩返し ふるさと元気 一役担う」

  「さあ今日も 人を迎える 準備する わがふるさとの 支援者募る」



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○玉井恭介さんから学んだ遊び心の極意

 私には知人友人という人が両手や足の指を足しても数えきれない程沢山の友人がいます。その中には奇人変人と呼ばれるような怪しい人もいますが、概して自分の信念を曲げず生きている人が多いようです。そんな友人の一人に宇和島水産高校出身の大先輩である玉井恭介さんがいます。

 私の母校は宇和島間水産高校ですが、漁業科を卒業している私には残念ながら同級生も先輩や後輩も付き合ってる人は一人もいないのです。多分それは卒業すると殆どの人が船乗りになって世界の海に船出し、陸上での出会いが制限されてしまうからなのだと若いころから諦めていました。ところが40代後半の頃、倫理法人会の早朝セミナーに講師として招かれた時、たまたま出席していた玉井さんと出会ったのです。学校での学びの時期や卒業年度こそ違え、実習船えひめ丸に乗船しマグロを追って太平洋を航海した共通の体験をしているのです。それ以来、玉井さんは忙しい広告会社勤務、私は役場でこれまた忙しいまちづくりとすれ違いが多く、つかず離れずの交流が続いていました。

 玉井さんと急接近したのは私は56歳の時でした。アトラス出版の社長さんご夫妻を伴ってわが家へ見えられ、本を出さないかと勧められたのです。金もなく原稿を書く暇もなく、ましてやそんな才能もないとお断りをしましたが、どこでどうなったのか自費出版の話が進み、玉井さんの力を得て「昇る夕日でまちづくり」という自著本を出版できたのです。偶然にもその本の出版記念の日にえひめ丸がアメリカの原子力潜水艦グリーンビルに衝突し、ハワイワイキキの海底に沈んだのですから、奇偶としか言いようがないのです。玉井さんはその後鎮魂歌を作詞したり鎮魂碑の政策に深くかかわり、ハワイとえひめの交流の橋渡しをしたのです。

 その後広告会社を退職した玉井さんはその持っている才能を存分に発揮して、八面六臂の活躍をして現在に至っていますが、まあ遊び心の多い人で、有名人とも交友するなど私など比でないほどの交友関係を持っているし、文章を書いても絵を描いても一流な人ですが、どこか抜けているところがとても面白く、新聞の四季録に名や文章と連ね、ブログも読んで聞かせる妻が腹を抱えて笑うほど面白いのです。

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 昨日上のような一枚のハガキが届きました。表書きの下に山折亮一さんの陶芸と玉井さんの水彩画二人展をやるからお茶を飲みに来ないかと誘いの言葉が書かれていましたが、猫の絵を添えた文章はご存知サムエル・ウルマンの詩の一節でした。私は一ケ月前65歳の誕生日を迎え高齢者の仲間入りをしました。口ではまだ若いとか言っていますが、少し気力を落としているような節があり、そのことを見透かしての励ましのハガキだと思いました。このハガキを読んで「そうだ頑張ろう。私はまだ若い」と意を新たにしたのです。

 玉井さんから学んだことは「人生は遊び心」という生き方です。私も他の人に比べれば遊び心は多い方ですが玉井さんの足元にも及びません。これからはもっと玉井さんの遊び心の極意を見習って楽しく生きていこうと決意した朝でした。


  「一枚の ハガキ見ながら 決意する 俺は若いと 独り言言う」

  「まだ修行 足りぬと人の ふりを見て 遊び心で 生きよう誓う」

  「絵も描けぬ 絵を書く人が 羨まし 俺の才能 ただの凡人」

  「抜けている ゆえにこの人 面白い 真面目過ぎると 肩がこるもの」

 

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○大村はまさんの教え

 昨日少しばかりの時間があったので、私が学校評議員をしている上灘中学校へ出かけました。この学校は来年度から町内のもう一つの下灘中学校と統合することになっていて、学校の耐震基準や統合を理由に本館が壊されて新築することになっています。そのため広い運動の片隅に仮校舎や職員室が造られ、既に一部分は引っ越しを済ませていました。正門は閉ざされ東門から入るよう誘導表示があるため、運動場入口に回ると、運動場の真ん中に砂で仮舗装された道ができ、職員室まで続いていました。

 訳の分からぬまま職員室と思しき部屋へ居合わせた職員に諭されて入りました。教頭先生と事務職員の二人が在室されていて、お茶をいただきながら経過や様子を聞きましたが、あと半年を切った統合に向けてめまぐるしい準備が進められていて、職員室の黒板は書き込む場所がないほどの予定がぎっしり書き込まれて、それを見ただけでも先生たちの忙しさを垣間見る思いでした。

 校長先生はあいにく外出中で留守でしたが、そのうち帰られ校長室へ通されました。プレハブと言いながら校長室はきちんと整理整頓が行われていて、品のよい置物が座卓の上に置かれ、いつもながらセンスのよさを感じました。


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 ふと入口カウンターの上を見ると、達筆な言葉が額に入れられて飾っていました。無能で凡人な私にはその言葉の最後に書かれている「大村はま」という人物が一体だれなのか知る由もなく、ざっと目を通していると校長先生が、「若松さんもしよかったら差し上げましょうか」と、是非という私の言葉にほだされてその文章のコピーをいただきました。

 聞けば「大村はま」さんはもう亡くなっていますが、日本的な国語の指導者だそうで、一生現役を貫いた国語の先生らしいのです。一生現役といっても教員には定年もあるしと水を指しましたが、庭園になっても拒否して辞めなかったらしく、そこら辺が私には納得いかない話でした。国語の先生を目指していた校長先生にとっては雲の上の存在として尊敬し、時には希望の星として先生の教育を天井に目指したそうです。この先生は授業をする前日はシナリオ作りに全精力を傾け周到な準備をして授業に臨んだそうですが、その行き過ぎた指導に批判もあったらしく、今更ながら道の厳しさを垣間見た思いがしました。

 ひとしきり学校の現状やこれからの予定をお聞きして学校門を出ました。この校長先生は余程のことがない限りいつも校門まで出て見えなくなるまで送ってくれるのです。いつも忙しいからと辞退するのですが笑顔で送ってくれるのです。送り方の見本と思って私もつい最近出来るだけ校長先生を見習うようにしているのです。

 さて家へ帰った私は早速記録にとどめておこうと、このコピーをプリンターで画像に取り込みました。息子のお陰で何とかプリンターも巣差できるようになりましたが、いかんせんA4版対応の機種ではB4は上手く入らず、結局B4を2枚に分割してスキャナーで取り込みましたが、これを合体することができず残念の極みです。それでもこれでパソコンが傷まない限りこの言葉は直ぐにでも取り出せるのです。ペーパーは失ったり劣化するのですが、できたらCDに転写して大切に保管したいと思っています。あえて注釈や講釈はしませんが、味わい深い言葉なので、画面に表示しておきます。


  「先人の 言葉しみじみ 咬み分ける 道一筋の 教え尊し」

  「統合に 向けて準備が 着々と 感慨深げに 辺り見回す」

  「送り方 見習いたいと 思いつつ 今日も送られ 見返り帰る」

  「昇任の 校長今は 逞しく なりてテキパキ 仕事こなしぬ」

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○人間牧場へ三度も足を運びました

 今日は午前、午後、夕方と一日に3回も人間牧場を往復する忙しい一日でした。最初にやってきたのは三崎半島の中ほどにある旧三崎町平磯という所に住んでいる浅野農園代表の浅野洋海さんと3人の若者です。浅野さんは喜久家プロジェクトの代表で、農業体験をしながら日本の文化を学ぶ人たちを、古民家を借りて受け入れています。私も一度だけ地域政策研究センターの松本さんと二人でお邪魔して交流したことがありますが、日本人や外国人が共同生活をしながら、国境を越えた活動をしている姿に深い感動を覚えました。

 平磯は私たちの町も田舎ですが、それ以上の田舎でわが町からでも1時間半もかかる瀬戸内海に面した所です。過疎地だし道もそんなにいいとは言えないこの地に国境を越えてなぜ若者が集まるのか、それは私が持論としている「人でも仕事でも愛する所に集まって来る」という言葉そのまま、愛があるかられはないかと思うのです。今日やってきた若者は岩手県や埼玉県、それに広島県出身の若者でしたが、終始熱心な研修態度にこちらも引き込まれ、2時間があっという間に過ぎてしまいました。国際ワーキングキャンプセンターを窓口にしているようですが、今日集まったのは農林水産省事業「田舎で働き隊」の隊員なのです。

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(熱心に研修する喜久家プロジェクトの若者たち)
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 彼らを送りシーサイド公園で別れると入れ替わり、北海道住宅新聞社の方が取材に見えられました。北海道市町村振興協会が発行している市町村職員向け雑誌に、私の取り組んでいることを紹介するのだそうです。私も色々な雑誌やマスコミに取り上げられてきましたが、講演などに行ったことを現地の新聞に載せてもらったことはありますが、取材に関してはひょっとしたらこれまでで一番遠い場所からの取材かも知れません。

 記者は私の「昇る夕日でまちづくり」という自著本を読破しての取材なので、むしろ退職してから取り組んでいる人間牧場構想について2時間ばかりお話ししました。煙会所や海の資料館「海舟館」も見学し火通りの取材を終え、夕日を取材するという記者とシーサイド公園で別れました。さすがプロの記者だけあって私の言葉を引き出す念入りな取材に酔い知れました。

 入れ替わって二人の女性が人間牧場見学にやってきました。下灘コミセンで午後4時に待ち合わせをしていましたが、実はこの方たちは12月に講演を頼まれている主催者で、講演の事前打ち合わせだそうです。講演に行くくらいで何も事前にとは思いましたが、彼女たちは県外からわざわざ来て今晩は松山へ泊るのだとか、「松山へ来たついでに人間牧場?」か「人間牧場へ来たついでに松山なのか?」理解に苦しみましたが、まあ深くは詮索しないように丁重に案内し、丁重に見送りました。有り難いことにこの二人は会員用にと「夕日徒然草・地の書・水の書」を沢山買いこんで、売り上げに協力してくれました。

 明日は広島県呉市から団体の皆さんが視察にやってきます。視察効果もあるにはあって、それなりに喜ぶべきでしょうが、私の空いた時間を選んで来るお客さんに今日は少々疲れた一日でした。


  「二度三度 同じ道筋 行き戻り 牧場通いも 楽ではないな」

  「牧場の 魅力はやはり 眺望で 来る人毎に 褒めて帰りぬ」

  「穏やかな 秋の日和を 来た人と 目的毎に 品を変えつつ」

  「気がつけば 昼飯忘れ 空腹を 感じて料理 つまみ喰いする」  


 

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○今日の運勢はは吉か小吉かも

 いつものように、朝4時に起きて、いつものように身支度を整え、いつもののように自分の部屋に入り、いつものようにパソコンのスイッチを入れました。いつものように画面が表示され、いつものように画面に写る自分の顔に変わって画面に表示されるトップページコンテンツの中から、無造作にGメールの画面を呼び出し、いつものようにメールの処理を行い、いつものようにアメーバブログの画面から自分のサイトへと入って行くのです。パソコンが苦手と思う気持ちは今でも自分の心の中のコンプレックスとしてくすぶり続けているものの、習慣化した自分の頭と手と心が勝手に動き、「いつものように」というスイッチを押し続けているのです。もう何十回、いや何百回この動作を繰り返してきたことでしょう。だのに時々画面に自分の知らない表示や記事があって、時には迷惑メールを覗いたりしたこともありますが、今では一直線で目的地までスイッチを押し続けれるようになって、脇見をしないようになりました。

 

 それでも今朝、「今日のあなたの運勢は?」なんて画面表示が目に入りました。多分自分のトップページですから毎日見ているはずなのに全く気付かず、遊びのつもりで始めてマウスを動かしてクリックしてみました。人間誰しも自分の運勢はおみくじ的にいえば大吉でありたいと願うものです。「今日の運勢」はどちらかというと予想ですから、そうなるとは限らないのにいいことが書いてあるとワクワク・ドキドキし、「今日の運勢」にいいことが書いてあると何故か自分が得したような気持ちになって書いていることを信じるのです。逆に悪いことが書いていると、これは自分以外の人のことだろうと疑って忘れようと画面を元に戻しながらクリックしたことを悔やみ、何事もなかったように次の作業に没頭するのです。

 さて私の今日の運勢はてんびん座(9月23日~10月23日)で、いい方から数えて第3位にランクされているようです。「自分の目標を実現させたいという気持ちが高まる日です。周りの人のアドバイスを参考にしつつ、思い切った行動をして下さい。ただし自分の考えを無理して他人に押し付けないようにしてください。」と書いていました。おみくじ的にいうと吉か小吉といったところで、可もなく不可もなし、要は自分の考えと行動次第でいい一日になりうるという曖昧な表現でした。

 それでも自分自身の心の中には「よし、今日もいい日になりそうだ。頑張ろう」という気持ちが芽生えてきているようです。人間の気持ちなんてこうも変わるものかと思ったりしながらブログの記事を書いているのです。さて今日は朝から人間牧場にお客さんが来る予定です。その人は私にこれからの人生についてアドバイスを求めにやって来るのですが、えっ、ひょっとしたら私の今日の運勢に書いていた「周りの人のアドバイスを参考にしつつ」とあるのは、相手のことかもしれないと思ったりしたのです。


  「いつもなら 見過ごしている ことなのに 今日は何故だか 運勢クリック」

  「第三位 少し気分が 上向いて 今日も一日 いいことありそう」

  「この運勢 天秤の人 多くいる その中一人 私も該当?」

  「信じたい 信じたくない 半々の 曖昧気持ち 夜に判明」 

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○一枚のポスターからのメッセージ

「私たちの住んでいる双海町が一番輝いていたのはいつの頃だったんだろう」と思わせるような一枚のポスターを手に入れました。ポスターといってもそのポスターを写真で複製したものですが、本丸公園という桜の名所が鮮やかに描かれているのです。本丸というその名が示す通り、この場所は中世の城閣由並海辺城の跡です。国道のバイパスが迂回して海岸に着くまで、この本丸という場所は海を堀に見立てたお城で、今もその名残といえる石積みや大堀田などの地名が残っていますが、その後の遍歴で今はその土地が個人所有となっているため、許可がなければ張ることはできないのです。写真と手珍しかった頃ゆえ、ポスターは手書きで、鮮やかな桜の花の下にはボンボリが灯され、草ぶき屋根の東屋など何とも風情のある遊び場のようです。沖合には白い帆かけ舟がカモメとともに描かれて往時をしのぶように、看板に見立てた内容には、本丸遊園地、金山を埋む櫻樹、古城跡を偲ぶ老松、背面に牛峰連山の雄姿、前面内海随一の大観とかかれているようで、今なら誇大広告でしょうが、当時は近郷に聞こえたさくらの名所として、風流人の遊び場にふさわしく置き屋まであったそうです。

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 左下に目をやると今治市、松山市、高浜、三津、郡中、上灘という文字が右流れて書かれています。察するに予讃線が上灘まで開通した昭和7年当時ではないかと思うのです。会場には赤い線で航路が描かれていて、鉄道とともに海上交通もあったようなのです。残念なことに右下は破れてなくなっていますが、上灘商工会や国鉄いよ上灘駅の開通を機に観光客を誘致するための団体が設立されてその名前も連名で記されているようにも思えるのです。

 ふと、新幹線の開通や駅の開業に湧く各地のことを思い出しました。JRが寂れて無人駅になった今から思えばさしたることでもないのですが、当時の人たちは国鉄開通と駅の開業は大きな福音だったに違いないのです。なにせ黒煙をはく蒸気機関車が僻地だと思ったこの地まで走って来るのですから、血沸き肉躍ったことでしょう。

 その夢も泡沫の泡と消え、今は喜びに沸いた国道昇格や海岸国道全線改良も通過する町の道具にしか過ぎないのです。

 でもこのポスターの時期が一番の輝きだったとするながら、二番は何と言っても私が絡んだ双海町が合併して伊予市になるまでの10年余りも、一番目の輝き以上に輝いた時期だったように思うのです。国道が開通し、シーサイド公園や下灘運動公園ができ、港も整備されて忍び寄る過疎の足音は聞こえていたものの、みんながこの町とともに輝いていたのです。

 合併によって発展するはずの双海町は、急速に求心力を失い坂道を転がり落ちるように見えて、誰もが将来への不安を訴えています。また活動にも力が入らずどこかむなしい風が吹いていると訴える人もいます。「この窮状を何とかしてほしい」とよく耳にしますが、最早私たちのような人間には手の届かない所にあるのかも知れません。もしも三番目の輝きを目指せと言われたら、私たちは何をすればいいのでしょう。この一枚のポスターが私に突きつけたメッセージは一体何なのか、少し頭を冷やして考えてみたいと思うのです。


  「一枚の ポスターくれた メッセージ この町いかに あるべきなのか」

  「国鉄の 開通祝う 人々が 提灯行列 昔懐かし」

  「本丸の 桜も枯れて 今はなし 僅かに残る 切り株哀れ」

  「いつの世も 栄枯盛衰 繰り返す これから先は 枯衰の時期か」 

  

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○冬野菜の美味しい季節になりました

 私はどちらかというと草食動物です。胆のうにポリープが見つかり全摘出手術をしてから油ものの濃いものが余り欲しくなくなり、手術してから10年になりますが特に肉は余り食べなくなりました。その分魚を食べてたんぱく質を補っていますが、私の嗜好に合わせてつい最近では野菜中心の手料理が食卓に並ぶのです。

 そのこともあって、私と親父は家の横にある家庭菜園に色々な野菜を作っています。夏に沢山の実をつけて食卓をにぎわした夏野菜の殆どは姿を消していますが、ナスとピーマン、シシトウなどは最近まで沢山の実をつけていました。しかしここ2~3日の冷え込みで、ナスもピーマンもいよいよ終わりに近づき、親父はその処分をしたいと言っています。4月に植えたものですから約半年間も食卓をにぎわせてくれた優れモノの野菜たちに感謝しなければなりません。


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(これからが楽しみな冬野菜)

 変わって夏の終わりころに畑を耕耘機で耕して播いたり苗を植えていた冬野菜類が今年は大豊作で、チンゲンサイとカブ、ホウレンソウは食べきれない程出来て、親類や近所におすそ分けをしているのです。チンゲンサイも真っ白いカブも、今では妻の得意となっているトロミをつけた煮物は寒くなった食卓に温かさを運んでくれ、とても美味しく頂いています。また大根はやっと市販の大きさに成長し、このところの冷え込みでとても美味しくなって、一週間前くらいから様々に料理されているのです。

 人間牧場の高座で夕日亭大根心という芸名を名乗っている私としては、この大根が大好きです。大根心という名前は元々双海町役場に勤めていたころ広報「ふたみ」を10年間担当していましたが、広報の編集後記に大根心と言うペンネームで記事を書いていたその名残りなのです。ゆえに大根のことくらいはしっかり話せるようにしようと思ったし、大根の料理も妻に頼んで色々とやっているのです。

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(収穫の季節を迎えた豊作の大根)

 市販の太さになった大根はもうそろそろ一回目の沢庵にするため引き抜いて、軽るめに干し漬物にしようと思っています。年末には保存食用に漬け込みますが、塩分を控えめにしてつけものとして楽しみます。今年は私の農地を貸している稲葉さんが沢山鷹の爪を作っておすそ分けして貰っているので、いい漬物が出来そうで楽しみです。まあ大根は脇役と言いながら冬野菜の王様ですから、おろし大根、大根サラダ、おでん、ブリ大根、なめしご飯などにして食べたいと思っています。

 伊予市の水口まり子さんからいただいたキャベツやブロッコリーもどんどん成長して、寒さを栄養に育っているので、間もなく収穫できそうですし、白菜も食べごろとなってきました。地産地消、安心安全を自ら出来る幸せをかみしめながら、野菜を思いきり楽しみたいと思っています。

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(役目を終えたナス畑)

  「何よりも 安心安全 見ば第二 野菜豊作 冬が楽しみ」

  「役目終え 消える運命 ナス悲し 両手合わせて 心でお礼」

  「健康の 源野菜 豊作で 今年も元気 冬を乗り切ろう」

  「ああそうか 今年もそんな 時期が来た 亥の子近づく 懐かし思う」

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○のんびり過ごす祭日の一日

 昨日の木枯し1号の強風も収まって今日は一転、好天に恵まれました。11月3日の文化の日は統計的にも、また私の経験からも晴れの日が多いようです。今日は昨日の強風が空気中のチリやゴミを落としてしまったのか、人間牧場からは瀬戸内海の殆どが目の覚めるように見えました。

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 息子から朝早く電話があり、建築士会の支部長さんがかまどを見に来るので、ご飯を炊いて欲しいというのです。まだ人間牧場のかまどを使って2回しか炊いたことがないのですが、それでも経験があると信じて承知しました。息子は設計の仕事をしていますが、自分の設計監理した作品は人に見てもらってなんぼでしょうから、そのことを理解して、息子の後押市をすることにしました。息子の本心は自分の妻にも自分の設計したかまどのご飯を食べさせたいと思ったに違いなく、息子たちも孫二人を連れて家族ぐるみでやってきました。

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 早めにやってきた孫希心と二人で山道を上がり準備をしていると、約束した通り約束した人たちが約束した時間にやってきました。ところが白米のつもりで準備したのに、どういう訳か袋を間違えて玄米を持ってきてしまったのです。息子は往復30分の道を引き返し白米を持ってきました。少し遅れてのご飯炊きとなりましたが、息子嫁が米を研ぎ、水加減を見て私がかまどの番をするのです。ご飯を炊いている間に芋のツルを育てた苗床の残った芋のツルを鎌で除けて鍬で掘り起こすと、小さいながら食べれるほどの芋が出てきたので、洗ってご飯を炊いているかまどのもう一方のかまどで芋を蒸すことにしました。湧いた湯の中にお皿を入れその上に簾を置いて芋を蒸すのです。残念ながら私が子どもの頃経験したようなことはできませんでしたが、それでも芋は20分ほどで蒸せてみんなで分け合って食べました。

 ご飯も三度目の正直とあって、コツがつかめたのか今までで一番上手く炊けました。おこげもほんのりきつね色程度でした。早速よそって食べましたがまあ美味しいこと美味しいこと、皆さん大好評で塩と梅干しとだけのシンプルな食事でしたが、息子の作ったインスタントカップみそ汁をすすりながらはがまは全て平らげ完食となりました。前もって下の畑で仕事をしている砥部町の稲葉さんにも声をかけ、稲葉さんは無臭ニンニクを持参してくれました。かまどの中へ入れて焼いて食べましたが、これがまた美味しくて、今日は大満足、何はなくても白い炊きたてのご飯だけで十分なのです。

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 12時過ぎに携帯電話が入り、年輪塾の浜田さんと松本さんが5日後に迫った年輪塾の公開セミナープログラムで、参加者が人間牧場まで歩いて上がることになっているので、時間を計りたいと歩いて人間牧場まで上がってきました。約40分だそうです。二人を加えた3人で本村の浜まで行き、そのプログラムで使う浜の石を70個ばかり拾い、また朝フル合唱隊の指揮を執る浜田さんのリハーサルに下灘コミュニティセンターで付き合い、公民館祭りの後片付けなどを手伝いながら、のんびりと祭日の一日を過ごしました。

  「設計を している息子 作品を 見せてなんぼと 胸張り見せる」

  「三度目の 正直ばかり 飯を炊く 火加減ばっちり 美味しいご飯」

  「かまどから 昇る白湯気 見る度に 亡き母思う 苦労かけたな」

  「五日後の イベント準備 仲間たち 集いああでも こうでもないと」  

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