shin-1さんの日記

○昨日は山口今日は高知

 忙しいスケジュールが続きます。昨日は山口今日は高知です。いずれもわが家からは最も遠い場所です。ひょっとしたら北海道へでも行けるくらい行くのに時間を要します。帰りは遅くなる予定です。

 こう書いて家を午前4時30分に出ました。カーナビのセットだと一番短距離は中山~内子~肱川~鬼北~松野~西土佐~中村~黒潮町がいいようなので、カーナビの案内に従って走りました。国道56号から197国道を経由して朝が明けたのは愛媛県と高知県の県境あたりでした。トイレ休憩のつもりで口屋内の民宿舟母に立ち寄ろうと思いましたが、泊り客で忙しいのではと思いつつ、その先にある上戸のおばちゃんの手造り加工の店に立ち寄りました。おばちゃんは総菜の手づづkり真っ最中でしたが手を休め、久しぶりの世間話に花を咲かせてくれました。変わらないおばちゃんのガンバリと優しさに心打たれ、作りたてのおはぎをとお茶をご馳走になりました。


 この辺りはもう何十回と足を運んだ場所なので目をつむっては運転できませんが、目をつむっても分るくらいです。四万十川沿いに中村へ向けて下ると朝日が出て気持ちのいい朝を迎えました。今は合併して黒潮町となっていますが、大方町は圃エールウォッチングや砂浜美術館で有名でした。時間が早いので松原を超えて砂浜に出ました。今日は少し寒かったものの絶好の天気で、朝早いというのに多くの若者が大きな波に見え隠れしながらサーフィンを楽しんでいました。

 これから海に出ると言う兵庫県から来た話会青年に出会いました。色々話しましたが、彼らは土曜日に千円高速道路を利用してここへやってきたのだそうです。車の中で寝泊まりして週末に帰るのだそうですが、1週間休暇を取っての遊びだそうで、何ともうらやましい限りです。職場の同僚や先輩からは、「そんな暇があるのだったらもっと仕事に熱を入れろ」といわれるそうなのですが、ここへ来ると生きていることの実感が湧くのだそうです。同感同感です。

若松進一ブログ
若松進一ブログ
若松進一ブログ

 砂の上をゆっくり歩いて渚まで行きました。何処までも広がる太平洋に向かって思い切り深呼吸をしました。とても気持ちのいい朝で、若者の「来ている実感」という言葉の意味がよく分りました。

 私はこの遥か沖合を水産高校の練習船に乗って18歳の時、南太平洋へ出かけました。また方向こそ違えこの海の向こうにあるであろうアメリカやメキシコへ青年の船に乗り2ヵ月間も旅をしたのです。また遠くにかすむ足摺岬の丘の上に立つジョン万次郎に憧れて度々その銅像を見に行きました。ジョン万次郎は「ロマンとは夢を形にする行動力である」と言っていますが、漁師の子せがれに生まれて太平洋に乗り出し、アメリカを目指したこともどこか似ているような気もするのです。

 私は風の人、海の人です。今日は太平洋と面会し、また新たな闘志が蘇ってきました。


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○明日も高知県へ早立ちします

 明日の朝も早立ちで高知県黒潮町へ向かいます。黒潮町といえば合併してできた太平洋を望む町です。かつてはホエールウォッチングと砂浜でアートティシャツ展をすることで有名だった大方町も含まれているのです。

明日は黒潮町にある幡多青少年交流の家で開かれる研修会に行くのです。

 県境の松野から四万十市西土佐へ入り、四万十川に沿って中村まで出て、そこから黒潮町の目的地を目指す、片道5時間近くの旅です。朝が早く帰りも遅くなるようです。皆さんご機嫌よう。この続きは帰ってから書きますので悪しからずご了承ください。

若松進一ブログ
若松進一ブログ
(やはり南国、黒潮の恵みでしょうか、ハイビスカスとブーゲンビリアの花がいっぱい咲いていました)
若松進一ブログ

 幡多青少年交流の家は四万十川の河口である中村15キロくらいな所の高台にあります。黒潮の流れる太平洋を一望できる何とも清々しい場所です。私はここへ2度ばかりお邪魔したことがあるのですがもう昔のことなので記憶の彼方に消えているようでした。

 朝8時30分に到着すると乾所長さんに玄関先まで出迎えていただきました。夜打ち朝駆けのせっかちな私の性分を読み取っての予想的中だったようです。事務所でお茶を飲みながら7~8年ぶりの再会を喜び合いました。乾所長さんは元々学校の先生で、初めて出会ったのは旧高知県西土佐村には県社会教育主事として派遣されている頃知り合い、気心が合うのか急速に縁を深めて、西土佐村の野塾のメンバーとともに再三双海町やわが家にやって来て交友を温めたのです。その後学校に戻った後も交流が続いていましたが、校長になってからはお互い忙しく出会いの場がなくなっていました。

 この日は高知県内の青少年施設職員へのレクチャーを頼まれましたが、型にはまらない楽しいお話をさせてもらいました。私にとっては青少年とのかかわりから社会教育が出発しているだけに、話せば幾らでも話題は尽きないのです。90分の時間があっという間に終わり、昼食を交えての交流を終えて早々にお暇しました。

 来るとき立ち寄った西土佐口屋内の民宿舟母に立ち寄るよう約束をしていたので立ち寄り、ご主人夫婦とおばちゃんの3人でお茶を飲みながら楽しい世間話をし、お米とアユをどっさりいただきました。

 途中西土佐の町中にある中脇裕美ちゃんのお店に、また彩花という喫茶店に立ち寄り偶然居合わせた民宿の茂子さんとも顔を合わせ、土佐人の人情に触れながらの小さな日帰り旅でした。

若松進一ブログ
(中脇裕美さんのお洒落なケーキ屋さん、まるで地中海を思わせる白漆喰の小窓からは星羅四万十が見えました)
若松進一ブログ

若松進一ブログ
(口屋内の民宿下に架かる沈下橋)

  「黒潮の 恵みを受けて 咲く花に 思わずカメラ 向けてシャッター」

  「四万十の 沿線生きる 人に会い 元気いただき ほのぼの帰る」

  「アユ米と お茶ドレッシング などなどの 土産いただき 感謝感激」

  「四万十も 太平洋も 人さえも 変わらず我に 優しくほほ笑む」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○今日は海外旅行かも

 今朝早く起きてブログを書いてから出かけようとしましたが、あいにく私が利用しているアメーバブログはメンテナンスの日で、午前7時まではアクセスも書き込みもできず、ついに時間切れで6時30分に家を出ました。今日の行く先は対岸の山口県下松市です。山口県といえば対岸でお隣の県、しかも朝な夕なわが町から見える場所にありながら、広島へ行くよりもはるかに不便で遠いのです。わが家からまず松山市三津浜港まで車で行き、そこから防予汽船のフェリーに乗り2時間半もかかって柳井に着くのです。そこから山陽本線の列車に乗って、柳井、光などを経て下松へと向かうのですが、家を7時30分に出て投薬したのは11時ころでした。何とも長閑な一人旅です。今朝は出発するときかなり激しい雨が降っていました、船の中では余り甘音は聞こえませんでしたが、柳井の港に尽きたころ雨は少し小降りになっていて、雨のち曇りの予報が的中です。

 今日は市民憲章が昭和44年に制定されてから40周年に当たる記念大会に招かれ、特別講演を行うことになりました。事務局の方とは山口に出かける度に出会って細かい打ち合わせをしていたのでスムースに事が運びました。しかしどういう訳か相手から何度もメールは届くのですが、私からの返事は相手が拒否をするような形で英語に化けて届かず、両方がイライラしてしまいました。

 下松駅に列車で到着すると原田さんが迎えに来てくれていました。私の出番は午後2時30分からなのでそれまで自由時間と称して、あちらこちらへ案内していただきました。最初に行ったのは笠戸島です。真っ赤な橋を渡るのは何年ぶりか忘れてしまうほど昔で、夕日のメッカである国民宿舎で大いに飲み大いに語ったことを思い出しました。

 詳しいこの続きは明日高知から帰ったら書き込みます。 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○二人展を見に出かけました

 このところの忙しさで自分の予定表を見る暇もなく過ごしていました。昨日までの2日間大洲の国立青少年交流の家で開かれた手弁当の研修会が終わりホッと一息ついたので、今日は久しぶりにのんびりと思っていました。ところが今朝、メールの処理のため自分の木になるカバンから予定表を取り出して見てハッとしました。友人の玉井さん「が自宅で二人展をやるから来ないか」と誘われていたのを書き込んだまま忘れていたのです。視察の打ち合わせに所長さんがわが家に来る時間とかぶりましたが、少々遅くなってもいいかと思い出かけて行きました。途中孫の所へ立ち寄り、いただきもののレンコンや富有柿を渡し、孫たちのご機嫌を伺いましたが、みんな元気にスクスクと育っているようです。

 二人展を主催した玉井さんは水産高校の大先輩ですが、自宅へ一、二度お邪魔したものの夜だったし、随分前のことなので多少不安でした。でも伊予鉄電車の駅の近く、理髪店の横だったような記憶を頼りに訪ねた結果一発で近所まで行き、玉井さんに通りまで迎えに出てもらい事なきを得ました。理髪店は月曜日が休みなので駐車場を借りていて、すんなり車を駐車することができました。

 玄関先には二人展のもう一人の作者の作であろう作陶人形が沢山並べられていて、来客を温かく迎える気持ちが伝わってきました。

若松進一ブログ
 

 入口には玉井さんが書いた二人展の看板が掲げられ、中へ入ると作品が沢山飾られて、来客で賑わっていました。来ている人たちの殆どはお二人の友人で、絵も陶芸も分らない私は多少臆目もあって少し控え目に見させてもらいましたが、玉井さんの作品には花を描いた絵が多く、優しい筆使いが何とも言えない雰囲気を醸していました。それぞれの作品は販売もしてくれるようで値札も言い訳程度にさりげなく書かれていました。私も一つと思ったのですが、展示を見に来る人のために遠慮をしてしまいましたが、次の機会には是非買い求めたいものです。

若松進一ブログ

若松進一ブログ

 それにしてもこんな特異な才能を持っている人は羨ましい限りです。私などは何の特技もなくただただ生きているのです。お茶をいただきながら奥さんとお話をしましたが、「若松さんの人にお話ができる特技があるじゃあないですか」と褒められ、「そう言えば」と思ったくらいです。まあ人を羨んでも仕方のないことですから、私も人間牧場などを使ってこれからもしっかりと生きていこうと思いました。それにしても今日は久しぶりにいいものを見せてもらい、いい心の勉強になりました。

若松進一ブログ
(机の右側に立っているのが玉井さんご夫妻です)

  「予定表 書き込みしたが 忘れてた 急いで友の 個展出かける」

  「趣味もなく タダのうのう 生きる日々 羨ましくも 見入り感心」

  「人前で 話ができる 特技だと 人に言われて これも特技か?」

  「作品を 仕上げる苦労 思う時 頭が下がる 日々の精進」  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○孫奏心の寝返り

若松進一ブログ
(長男希心君)

 先日松山に住む長男夫婦が子どもを連れて帰ってきました。誕生して間もなく命名したころは変わった名前だと思っていたのに、長男は希心、次男は奏心と付けた名前も結構いい名前だと思うのですから面白いものです。この二人の孫も日に日に成長し、上の希心は2歳2カ月となってわんぱくこの上なく、下の奏心も母乳が行き届いて丸々と太り順調に育っていて、娘の二人の子どもとともに、賑やかな子供社会を作っているのです。

 その奏心が最近寝返りをするようになりました。「寝返りをした」という話しは電話や直接会って何度も聞いていましたが、寝返りした姿を私が直接見たのは初めてだったのでとても嬉しくなりました。

若松進一ブログ
(お母さんに抱かれた長男奏心君)

 私たち夫婦にとってこの奏心は4人目の孫になりますが、初孫だった朋樹は別各として、尚樹、希心が生まれたころに比べると奏心は話題になることも少なく、生まれた時から少し損をしているような気がしています。そのため私は折に触れてデジタルカメラで成長を追うべく意識的に撮っていて、私の意識の中では4人の孫全てを平等に扱っているよう心がけているのです。

 でも忙しい時期だったので奏心のお宮参りは氏神様ではなく椿さんで済ませたり、立ち会うこともなく、少し心残りのようだと思っています。

 自分の加齢による衰えに比べ孫の成長は目を見張るほど早く、会う度にその成長が楽しめるのです。

若松進一ブログ

 この日も居間に寝そべっていたら、いつの間にか寝返りをして、抱いてくれとせがんでいました。もう一度ゴロリと元に戻して寝かせると、器用に足をけり上げて寝返りをしました。寝返り後ははいはいはまだ出来ませんが、盛んに後ろずさりをしているので、はいはいも時間の問題ではないかと皆で話し笑いの渦の中となりました。

 「這えば立て、立てば歩め」とはよく言い表した子どもの成長過程の言葉です。まだ正月までは2ヶ月半ほどあるので、お正月の帰省中に座ったり這ったりする姿がみられるのではないかと楽しみにしています。

 孫の成長は私たち夫婦にとっても楽しみの一つで、最近は親馬鹿ならぬおじいちゃん・おばあちゃん馬鹿ぶりを発揮しています。今日は友人の個展を見に行くついでという理由をつけて、寝返りをしている孫奏心と希心に会いに行こうかと朝からソワソワしています。

  「寝返りを してる孫見て 嬉しくて 再び強いる 大馬鹿爺」

  「爺落ち目 孫は成長 格差増す これも人間 宿命なのか」  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○地域教育実践交流集会②

 私はこの日のためいつものように、バッグに100枚入りの名刺箱を入れて出かけました。ジャンパーのポケットに入れていた名刺入れにはもう殆ど残っていなかったので、青少年交流の家で注ぎ足したので残った名刺を数えると30枚程度、つまりこの二日間で使った名刺は70枚くらいなのです。勿論渡した半数以上の人から名刺をいただいたので、私の名刺入れは入りきれないほど膨らんでいました。その名刺一枚一枚をめくりながら出会った人と名前を思い出すのですが、当然凡人な私には全ての人を覚えることはできず、その程度でお茶を濁してしまいました。昨晩はその中から3人の名前を抜き出し、今朝の休み時間に手持ちのハガキを取り出して書いたのです。この作業は昨日も今日も、また明日明後日も25年間続けている私の習慣なのです。

 一枚は前日私の所に届いた北広島町の平田さん、二枚目は私の顔を立ててここまで来ていただいた松下倶子先生、そして三枚目は私に会いたいと私の本を読みやってきた伊藤さんへです。字の下手な私が毎日三枚のはがきを二五年間も続けることができたのは、自分自身大きな驚きですが、これからもこのことは出来ることなら習慣として続けて行きたいと思っています。

若松進一ブログ

 さて昨晩は食堂で行われた食談交流会は大いに盛り上がりました。酒を飲まない私にはいささか手持無沙汰ですが、やはり讃岐先生がいつも言うとおり、さんずい、つまり汗、涙、酒は社会教育やまちづくりには欠かせないもののようです。青少年交流の家ゆえに時間には制約がありますが、皆さん人に迷惑をかけないように夜遅くまで交流を楽しんだようです。

 そのためでしょうか、中庭で行われた朝の集いには心なしか参加した人数が少なかったようですが、これもまた要らぬ詮索なのでよしとしておきましょう。少し肌寒い朝でしたが新居浜から参加した高校生たちが中心になって国旗や所旗を揚げ、久しぶりに大洲の朝の空気をいっぱいに吸ってラジオ体操をやりました。

若松進一ブログ

 食事が終わりいよいよ本番の分科会です。五分科会に分かれ、日本でもかなりレベルの高い先生たちをコメンテーターに迎え熱い議論を交わしました。私は第二分科会の会場責任者だったため約三時間その会場に張り付き、皆さんの話を聞かせてもらいましたが、八幡浜高校の発表も西条市玉津公民館主事津嶋さんの発表も素晴らしく、また香川大学の清國先生の助言もいいお話でした。最後に私が締めくくりの総括挨拶をして分科会ごとの流れ解散となりました。

 いつものことながら手弁当で参加するこのような集会は後味がいいものです。最後の別れ方は来年はもっと工夫しなければならないと思いつつ、ロビーで遠来の人を見送り、松本さんの車に乗ってわが家へ帰ってきました。帰って玄関に入るなり一本の電話です。宮崎県南郷町の竹本さんから、「旅の途中にシーサイド公園に立ち寄って今食事をしている。出来れば顔を見て帰りたい」というのです。早速石を積んだままのトラックに乗って行ってみると竹本さんご夫妻でした。八幡浜経由で変えられると言うので、下灘まで行き、車を置いて私の車の荷台に竹本さんを、助手席に奥さんを乗せて人間牧場まで上がりました。遠来の友人を粗末にしてしまいましたが、お二人は感激の面持ちで下山し、佐田岬に向けて帰って行きました。

 今日もいい出会いと別れの、そして充実したいい一日でした。

  

  「昨日今日 三枚ハガキ 書き綴る 郵便ポスト 思いを込めて」

  「昨晩の 酒の力を 借りながら 熱のこもった 議論真夜中」

  「いつの間に 友の頭も 薄くなり 少し寂しや 秋の夕暮れ」

  「俺の本 読んでここまで やって来た 東京女性 話し弾んで」 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○第2回地域教育実践交流会①

えひめ地域政策研究センターの松本さんが、「土曜日の午前10時わが家で」という迎えの時間を守ってわが家へやってきたのは昨日の10時5分前でした。松本さん車に荷物と私が乗り込み、約1時間離れた国立大洲青少年交流の家へ向かいました。夜来の雨も上がって穏やかな秋の日差しの中を海岸線や肱川沿いの道を走りましたが、途中にある紅葉の名所白滝の山々は紅葉が少し紅葉してきたようで、週末の観光客を当て込んでか、あちらこちらに駐車場の看板が立てられていました。

 大洲青少年交流の家の入口にはメタセコイアやカラ松の木々がありますが、端正な姿で紅葉が始まって秋の風情を感じさせてくれました。見慣れた光景の青少年の家に入ると、これまt見慣れた職員が愛想よく笑顔で迎えてくれました。思えば何度この施設を訪ねたのだろうと、30年を超えた施設での思い出が蘇ってきました。

若松進一ブログ
(開会のあいさつをする世話人代表の讃岐先生)

 所長さんはこの日の講師である松下倶子先生を飛行場までお迎えに行ったらしく、あいにく留守でしたが、所長室に案内され早く到着していた讃岐先生やスタッフの方々とお茶を飲みながら親しく懇談しながら束の間の時間を楽しみました。話題の中心は何と言っても政権交代による仕分け作業の動向で、関係者は心配や不安の声をあげながら関係筋や新聞で読みとる情報の分析をしていました。

 やがて先発の事務局関係者が揃いそれぞれの仕事が動き始めたので、とりあえず昼食を食べながらそれぞれの分野で打ち合わせを行いました。

 そのうち後発の松下先生も東京から到着し、世話人代表の讃岐先生のあいさつを兼ねたオリエンテーションで集会は始まりました。先生は風呂敷・おでん・納豆と、「結んで開いて」の歌を引用され、分り易くこの集会の意味と構成を話されました。講演は淑徳大学学園長松下倶子先生でした。先生は30年も前私と総理府派遣青年の船でアメリカやメキシコへ一緒に行った間柄なので、私が口をつき確約を得た方なので、嬉しい出会いでした。「私の側道50年」は「人の生きる道には、生活を支えるために働く『本道』と、ボランティア活動や趣味活動のように、報酬を期待しないけれど自発的に続ける『測度道』があるのではないかと思う」という話しから始まり、「大切なことは『若い時』とあこがれのリーダー』」について、とてもいいお話でした。

若松進一ブログ
(講演をする松下倶子先生)

 今回で2回目を迎えた地域教育実践交流集会は、昨年私と坂井先生の二人が卓話をやっていい反応を得ていました。今年の今年の役割は講演の後のアトラクションになっていました。アトラクションといえば何か大掛かりなことをイメージするのでしょうが、1部はトーンチャイムの演奏、2部は私が指導するアイスブレイクみたいなレクリェーションなのです。

 私はインスピレーション、つまりその場でとっさに思いつくことで行動する悪い癖があるので、別に綿密な準備をすることもなく望みました。でも何か準備をしようと妻に相談して、自宅にあるハチミツ、サツマイモ、ジャガイモ、ごっくん馬路村、オレンジジュースを箱に詰めて持参しました。そして電子ホイッスルを交流の家でお借りし、昔取った杵柄とでもいう幾つかのレクを組み合わせてワイワイガヤガヤやりました。商品が当たるだけにこれが結構受けてあっという間に持ち時間の30分は大いに盛りあがって終わりました。

 その後18の分散会が持たれ夕方まで熱心な議論が行われました。

若松進一ブログ
(アトラクションをする私)

若松進一ブログ
(わが家から持参した特産品を差し上げるところ)

若松進一ブログ

(トーンチャイムの演奏)
若松進一ブログ

(フロンティアグループの大野事務局長が発表した16班の分散会)

  「早いもの あれから一年 過ぎ去って 再び出会う 懐かしお顔」

  「講演の 依頼の電話 あなたなら 仕方がないと 快諾嬉し」

  「今回も やってしまった いい加減 それでもどうにか つじつま合って」

  「

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

 私が通っている愛媛大学にも秋が来て、城北キャンバスの庭のケヤキ並木は紅葉が綺麗です。このところの雨と風で少し散り足元には沢山の落ち葉が敷き詰められ、踏む度にカサカサと心地よい足音が聞こえるのです。「ああ季節の変わり目だなあ」と行く秋を惜しむように私はこのケヤキ並木を飽きない風景として見とれるのです。しかし学生たちはそんな風景には目もくれず、無造作に通り過ぎて行くのです。

若松進一ブログ

 私が愛媛大学法文学部総合政策学科の非常勤講師をするようになって7年目の秋を迎えました。自分では7年前と少しも変わっていないと思うのに時の流れは早く、50代後半だった私も今では65歳となったのです。でも大学で学生たちに出会うと何かしら若いパワーをいただくような感じがして、他の同年代の人と比較しても少し若いような錯覚をしているのです。

 さて私の教室の授業もいよいよ大詰めを迎え、工期の授業もレクチャーは今週の授業で最後となりました。今年の学生たちも非常に熱心で、一生懸命私の話を聴いたり、グループ討議をしています。今は最後の追い込みで、グループごとに分れて討論し合い、「住みたい町の条件」と「訪ねたい町の条件」を考え図表にして発表する作業に取り組んでいます。12月9日にはその発表会があって皆と私の審査の結果グランプリが決まるのです。グランプリには私のポケットマネーで1万円が贈られるとあって、それぞれのグループでは密かにその賞金を狙っているようです。

若松進一ブログ
若松進一ブログ
若松進一ブログ
若松進一ブログ

 作業の速い班、作業が遅い班、少し方向が定まりにくい班など様々ですが、それでもどうにかいい方向へ向かっているようなので、発表の日を楽しみにしています。

 年間60時間という授業日程をこなすのは最初は大変でしたが、今はむしろ時間が足らない雰囲気で、独立行政法人に移行してからは効果効率を大事にしているようで、時間を超えないようにとそのことだけを事務局は声をかけ、中身など全く関心がないようで、これは効果といえるかどうか疑問視ししています。いずれにしても私の役目だけはきちんと果たし、学生たちに2単位分の知識と知恵の習得をさせねばならず責任重大なのです。

 言い成果発表とその後提出される予定のレポートに期待する今日この頃です。


  「大学の ケヤキ並木が 紅葉す 道行く学生 見向きもせずに」

  「行く秋を 惜しむが如くき 並木道 カメラに収め 今年を記録」

  「木枯しが 吹けば風景 一変す 今しか見えぬ 彩り眺め」

  「早今日で 今年の授業 締めくくり 7年間は あっという間に」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○私の書いた原稿が振興奨励賞に

 今年の7月だったと思いますが、ある人から頼まれて4000字程度の原稿を書きました。財団法人あしたの日本を創る協会が募集していた「あしたのまち・くらしづくり活動賞」への応募です。頼まれた時点では募集要項もないし、締め切り一週間前という慌ただしさでした。インターネットで募集要項を取り寄せ、頼まれて了承した限り義理だけは果たそうと、忙しい合間を縫って400字詰め原稿用紙10枚をとにかく書いて、消印有効の日に速達で送ったのです。

 あれから5カ月が過ぎ、そのことなどすっかり記憶から消えていました。先月同協会から電話があって、「あなたの原稿が振興奨励賞になりました。全国大会で表彰するので出席してください。あなたの原稿は同協会が発行する「地域活動の元気の素がここにある」という2009年度坂で紹介しますのでご了解を」というのです。あいにく表彰の11月4日・5日は県外出張中で行くことができないと欠席することを返信しました。

 2~3日前何やら大きい郵便物が届きました。開けてみると表彰状です。そして昨日その事例集が届きました。

若松進一ブログ
若松進一ブログ

 私はこれまでにも、何度かこんな場面に出くわしました。その殆どは「愛媛県から応募がないので何とか応募してメンツを保ちたい」という人たちからの依頼でした。一番思い出に残るのは総理府が青年海外派遣事業30周年を記念して募集した論文です。この時も締め切り5日前でした。ワープロを買って間もない頃だったので初めてワープロで原稿を書いたのです。そのうち「あなたの原稿が最終審査に残りました」と連絡があり、結果的には「総務庁長官賞」という大臣賞をいただき、赤坂プリンスホテルで開かれた表彰式に出席を依頼されました。皇太子殿下も出席する式典なので、当時の町長にお願いして出席することにしました。しかし昭和天皇が崩御され皇太子殿下の出席は叶いませんでしたが、いみじくも昭和の最後の日に私は記憶に残る賞をいただいたのです。この模様は新聞でも2度にわたって全文を紹介され、いい思いをしたのです。

 もう一回は日本レクリェーション協会がこれも協会発足00記念という節目に、「愛媛県から応募がないのはどうも」と友人から何でもいいから書いて送ってくれないか」と頼み込まれ、僅か2日で原稿を仕上げて送りました。この時も前述の原稿と相前後したためワープロで原稿を書きました。そのうち私の原稿が準グランプリに輝き、福岡で開かれた全国大会で表彰されることになったのです。残念ながらこの時は仕事の都合で出席叶わず、友人が代理でいただいて持ち帰ってくれました。この時の副賞は確か5万円で、ワープロ購入費に充てたことを記憶しているのです。

 これ以外にも、第14回NHK青年の主張の原稿審査にもパスし、愛媛県大会に出場して見事愛媛県代表にもなるなど、これまで書いた原稿は数知れず、まあそれなりに評価を受け、それなりに話題になりましたが、自分の書いた原稿がそれなりの評価を受けることは嬉しいことなので、自分自身を褒めてやりたいような心境です。


 さて今回書いた文章のテーマは、私が代表をつとめる21世紀えひめニューフロンティアグループの、これまで25年余りにわたって活動した総集編みたいなものなのです。「今やれる青春・一年一事業・社会への揺さぶり」という3つのテーマを掲げて仲間とやった「無人島に挑む少年のつどい」や「10年間で40回のフロンティア塾」など思い出に残る活動を紹介していますが、受賞は別として色々な活動にチャレンジしたものだと今更ながら自分たちの活動を振り返るのです。私はこれまで自分の活動を振り返ることは余りせず、むしろ未来志向で明日を夢見ながら生きてきました。これからもその生き方は変わりませんが、この歳になると少しこれまでの活動や人生を振り返ってみることも大事だと思うようになりました。やはり歳のせいでしょうか。

 余談ですがそれらの表彰状は今も親父の手によって座敷に飾られ、私の生きたあかしとなっているのです。


  「送られし 表彰状と 事例集 仲間とともに 酒の肴に」

  「いままでを 振り返ること 大事かも 未来志向の 俺にそぐわぬ」

  「鉛筆で 書いた原稿 懐かしく 今はパソコン 記録に残る」

  「多過ぎて 焚きつけほどの 表彰状 燃やす日も来る 少し寂しや」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○下下の下の客にはなりたくないものです

 いつだったか青年の頃、親父が私に言った言葉があります。友人に誘われても相手に迷惑をかけるので、「上客は来ず、中客は日帰り、三日泊りの下下の下の客」という言葉を覚えとくようにということでした。以来私はいつもこの言葉を思い出して、相手の誘いに尻軽く乗らないようにしています。もし行っても出来るだけ早く帰るよう努めているし、余程のことがない限り泊ることはしないのです。私のように友人・知人が多いと、また集会の機会が多いと、懇親会への誘いが沢山あるし、下手をすれば二次会まで誘われることが度々ありますが、酒を飲まないことを理由にお断りをしているのです。

 今日も南予ブロっック青色申告会の研修会に招かれ大洲へ行きました。数日前同じ会場で時間オーバーのメモを貰った嫌な記憶が蘇ってきました。その時は私の責任ではなく私の前に話した人が私の講演の時間を大幅に喰ったためのハプニングでしたが、今日も私の前に話した人が私の時間を喰ってしまいました。でも私の話は約束の1時間と聞いていたので、時計を元に戻すか迷いましたが、結局はDVD映写したこともあってチョッキリ1時間話させてもらいました。

若松進一ブログ

 どうやら官公庁に勤める人は時間を守らない風潮があるようです。スケジュールと餅時間を確認して壇上へ上がっているはずなのに、時間を無視して話すのです。会場の雰囲気を見れば参加者が何を欲しているか分りそうなのですが、場の雰囲気を読み取る余裕もないのかも知れません。私の話がいいと自慢しているのではなく、与えられた時間を守る、終わりの時間を守るという訓練をした方がいいようです。

 今日は友人のたっての頼みで懇親会に付き合いましたが、都合のよいことに松山で夕方から打ち合わせ会があって出かけるため懇親会の乾杯が終わってよせ鍋に手をつけたところでお暇をいただき帰路に着きました。

若松進一ブログ

 3日前友人の新築祝いに出かけました。雨降りしきるあいにくの天気でした。友人6人ばかりが招待されました。私はその友人が家を新築したことは知っていましたが、完成してもう2年になるとは努々思わず、日ごろお世話になっている方だからと喜んで馳せ参じたのですが、他の友人は普通の飲み会だと思って参加していたため、随分考えに開きがあったようです。早速飲み会が始まりおご馳走を食べながら談笑しました。同席した三崎半島の友人は立派な釣りはまちを持参していました。はてさて新築した家にはこの大きな魚を料理する腕も道具もないためご夫婦そろって困り顔で思案していました。見かねた私は腕をまくりその魚を三枚におろし、刺身まで手助けをしました。他人の男が新築の家の台所へ入るなんてとためらいましたが、お許しを頂いて料理をしてしまったのです。これは親父の教えに反する行為だと、今でも自責の念に駆られています。客としての謙遜、客としての脇前はいつも気にしなければなりません。それが知人・友人とのつかず離れずの良好な人間関係を長続きさせるコツのようです。


  「父いわく 下下になるなと ことわざを 引用わが子 戒め諭す」

  「悪夢かな 同じ会場 前人に 今日も同じく 時間喰われる」

  「新築の 家の流しで 料理する どこか気が引け 今も気になる」

  「謙遜と 脇前なくば 良好な 人間関係 長続きせず」

[ この記事をシェアする ]