shin-1さんの日記

○夕日の前で結婚式の前撮り写真

 夕方テレビの天気予報を見ると、このところ晴天の日が続いて県下各地に晴れマークがつき、明日は何かいいことがありそうな予感がするのです。でも実際明くる日が今日となり一日が終わってみると、「今日も残暑が厳しかったなあ」くらいで終わってしまうのです。まあ人生なんてそんなものの連続だと、諦めて過ごしていますが、それでも双海の海にジューンと音を立てるように沈んでゆく夕日を見ると満ち足りたような幸せを感じるのです。

 一昨日も昨日も人間牧場で作業をして帰り際綺麗な夕日を見ることができました。もう20年余りも夕日にこだわって生きていると、夕暮れ時になると胸騒ぎのようなものを感じるし、夕日の写真を撮ったり、夕日を見ている人の姿を眺めたりしながら右往左往する自分の姿にハッと気がついたりするのです。

 最近はシーサイド公園から見える夕日の認知度が高まり、夕暮れ時になるとどこからともなく人が集まり、別名夕日の観覧席と呼んでいる階段式護岸に座って夕日を見ながら物思いにふけっている人をよく見かけるのです。下の写真は一昨日の夕日の写真ですが、よく目を凝らしてみると砂浜に何やら白い服を着た人たちが歩いていました。とっさにそれが若いカップルであり、結婚式の前撮り写真の撮影であることを察知しました。

若松進一ブログ

 最近の若い人はオリジナルな結婚を好む風潮があって、中にはシーサイド公園で結婚式を挙げるカップルもいるほどです。当然白い砂浜、青い海、茜色の夕日とくれば、写真撮影には絶好のスポットで、まるでプライベートビーチのような感じもして人に邪魔をされることもないので、多くのカップルが利用しているのです。

 私のように古い時代の人間は恥かしさが先に立つのですが、最近の若者は人の目など気にせず自分の世界を作り上げて行くようです。

若松進一ブログ

 白いウエディングドレスとタキシードは良く夕日が似合います。夕日の色に染まる二人の姿は幸せそのもので、時にはシルエットとなってピンク色に染まるのです。塩けた砂がウエディングドレスを汚しはしないかと要らぬ邪推をしてしまう愚か者の私でも、二人に幸せを祝福する大きな拍手を送ってあげたいような心境になるのです。

 こんな幸せな人生のスタートをしていながら、最近の若者は直ぐに離婚してしまうことも解せないといえば解せないのですが、ひょっとしたら彼らは減点人生を歩むからではないかと思うのです。減点、つまりお互いが100点からスタートすると、「こんなはずではなかった」と減点し続け最後には破局を迎えるのです。私たちのように最初は0点でしたが少しずつオア互いの長所を認め合いながら加点し、まだまだ100点には届かないものの、今に100店に到達すると信じて暮らして行けば、人生は楽しいと思うのです。いい人生、それは減点ではなく加点であると思うのですがいかでしょうか。

 昨日も多分今日も綺麗な夕日が双海の海と空を染め分けて沈んでゆきます。明日はその夕日が朝日となって昇ってきます。今日もいい一日でありますように。


  「このところ 綺麗な夕日の 連続で 何か幸せ 感じています」

  「カップルが 夕日の前で 前撮りを 幸せになれ 大きな拍手」

  「減点か 加点かにより 人生は どっちに転ぶ 考え次第」

  「身と心 夕日が染めて 沈みゆく 明日幸せ 予感がしつつ」 

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shin-1さんの日記

○通夜でのお坊さんの教え

 田舎に住んでいると、私のようによく家を空ける人間にとっては、近所で起こった出来事する知らないことがいっぱいあるのです。「海岸国道のあそこで自動車の衝突事故があった」とか、「あの人が怪我をして救急車で運ばれた」とか、はたまた「あの人は入院しているがどうやら病状が思わしくない」などなど、好ましくない話題も結構多く、今ではすっかり蚊帳の外になっている自分を腹立たしく思ったりすることがあるのです。幸いわが家は妻が近所の歯医者さんに勤めていて、この手のうわさは散髪屋や風呂屋、医院が火元と言われるように、あることないことの話題を知ることができるのです。

 田舎は遠縁だったり縁もゆかりもなかったりしても、葬儀には参列する風習のようなものがあって、そば耳を立て網の目を張っていなければ、ついうっかり葬儀に行くこ時期を逸することだってあるので、特に新聞のお悔やみ欄には目を通すようにしているのです。しかしお悔やみ欄で通夜や葬儀の情報が分っても、予定が立っている私には参列も叶わず、香典を知人に託すこともあるのです。

 先日友人のおばあちゃんが亡くなりました。その情報は新聞のお悔やみ欄で知ったのです。しかし葬儀のある時間はどうしても外せない予定があって、どうしようか悩みましたが、通夜に参列することだったらできるかも知れないと、夕方出かけて行きました。自宅で通夜をするという話を聞いていたものですから、近所に車を止めて歩いてゆきました。初秋のこの季節は午後7時はもう暗くなっていて、通夜の寂しさがそうするのか何処か沈んだ気持ちで受付を済ませて中へ入りました。

 通夜は隣組の人も大勢駆けつけ足の踏み場もないほど室内はいっぱいでした。順次亡くなったおばあちゃんの前に進んで穏やかな顔を拝ませてもらいました。やがてお坊さんが枕教のためにやってきました。お坊さんは念入りなお経をあげた後、おばあちゃんの枕元で説教をしました。故人へのねんごろな言葉と縁者知人への戒めの話はとても参考になるお話でした。

 お坊さんは「人は二度死ぬ」と「欲しがるものと与えるもの」について話されました。「人は二度死ぬ」という話は最初「えっ」と思いました。一度は本当の死です。もう一度は人に記憶から消えるときだそうです。特に人の記憶から消えないようできるだけ故人のことを思って欲しいということでした。確かにわが母がなくなって10年が経ちましたが、死んだ直後から比べると母の記憶も薄れています。今一度そのことを思いながら過ごそうと心に念じました。もう一つの教え「欲しがるものと与えるもの」の話も納得しました。人間はえてして欲しがるものです。金品や地位、名誉など数得ればきりがないほど欲張りです。特に最近は自分のことしか考えない人も多いようです。もう少し人や社会や自然に与えることを考えればどんなにか社会は明るくなることでしょう。

 通夜の説教で、何気なく見過ごされている私たち人間の日々の暮らしのあり方を、随分分り易く教えていただきました。これも故人の人徳と受け止めて、おばあちゃんの在りし日の姿を思い出しながら自宅へ帰りました。妻は玄関先にお皿に塩を入れて待ってくれていました。これも妻が私に与える気配りとして、有り難く体と心を清めその話を妻にしてやりました。


  「お通夜でも 坊さん説教 身に染みて 二つのことを 教わりました」

  「二度死ぬと 言われて『えっ』と 思ったが なるほどそうか 殺しちゃならぬ」

  「欲しがるな 与えた方が 上手く行く そうは言いつつ 欲の塊」

  「玄関に さりげなく置く 皿の塩 妻の配慮に 感謝しつつも」

 

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