○国際ワーキングキャンプ交流会に参加しました
愛媛県の西端に13里(1里が4キロですから52キロ)の細長い三崎半島があります。かつては陸の孤島といわれ、松山や八幡浜から連絡船で行かねばならないほど遠い地域でした。しかし今は三崎半島の背骨にあたる頂上に、潮風メロディーラインが抜けて、私の町から旧三崎町の中心地まででも1時間半も走れば簡単に行けるような便利な世の中になったのです。
余談ですが、私の祖母は三崎半島の中ほどにある旧瀬戸町小島の出身で、私が三崎半島やここに暮らす人たちにどこか愛着を覚えるのは、私の体内に流れるDNAのせいなのかも知れないと、密かに自分で思っているのです。
先日友人でえひめ地域づくり研究会議事務局の松本宏さんを誘って、旧三崎町平磯地区で行われた喜久家国際ワークキャンプ交流会に参加しました。三崎町を知り尽くしているような顔をしている私ですが、釜木地区や平磯地区は若いころ船で沖合いから何度となく眺めているものの、陸道で尋ねるのは初めてとあって、国道から瀬戸内海側の入り江に続く4キロの道は釜木や平磯の集落、瀬戸内海の海が見え隠れし興味深々でした。
平磯は一口で言うと青石に囲まれた生活文化漂う村という感じでした。かつて私は三崎町の名取という集落を訪ねたことがあります。青石分館を研究する集会に招かれ参加しましたが、宇和海に面した名取地区は、仙台伊達藩が宇和島に分家した時仙台から一緒にやってきた人たちの暮らしが色濃く残る飛び地のような集落だったと記憶していますが、名取の背中合わせのように瀬戸内海側に位置する平磯も同じように青石に囲まれた地区でした。夕方7時からのご案内だったのですが、知らない土地なので5時に着くよう出かけましたが、この日は土曜日だからなのか国道は空いていて、4時前に出たのに1時間余りで到着しました。杉や槇の防風垣はどこも気持ちがいいくらい立派に剪定されていて、ホ来その人たちの勤勉さが分かりました。道端の狭い場所に車を止め、携帯電話で連絡を取り迎えに来てくれた浅野洋海さんのお家にお邪魔しました。そこでこの日のチームリーダーにお目にかかり、興味のあった喜久家という、外国人が暮らす古民家を訪ねました。そこここに海岸から背負子に背負って海岸から上げて積んだと思われる石垣に沿ってやはり石張りの細くて急峻な道を登って行きました。この地区は民家へは車道が殆どなく、歩かなければならないのです。
(民家を縫うように歩いた細い石段)
(塀は殆どがこのような緑色変石の青石が見事に積まれていました)
(古民家を利用した喜久家の玄関、玄関脇には道祖神が祭っていました)
(民家の中庭は石垣で囲まれ、平たい石が敷き詰められています)
集落の中ほどに目的の民家はありました。石垣に囲まれた門付きの立派な家です。中に7~8人の外国人がいて、丁度夕食時でしたが、愛想よく出てきて、チームリーダーや洋海さんを介して紹介を受けたものの、残念ながら名前を覚えるほどの余裕はありませんでした。彼らはここで集団生活をして農作業をしたり日本文化に触れたりしながら約1週間の国際ワークキャンプというプログラムをこなしているのです。共通の言語は英語だそうですが、まるで地球各国の代表選手が集まったような感じのワーキングホリデーとも思えるキャンプでした。
夕方からの交流会は地元や遠く松山からも30人もの知人友人が集まり、かなりバラエティに富んでいました。しかし嬉しいことに合併して伊方町になった伊方町の田舎へ伊方町の都会(笑い)から何人もの若者が集まって、それは賑やかな交流会でした。私はふと青年の船に乗ってアメリカやメキシコに出かけた時の千ないキャビンでの交流を思い出しました。まさにあの時と同じで人種や言葉や年齢が違っても若者同士はボディランゲージですぐに理解しあえるのです。残念ながら私たちは明くる日の予定もあるので9時半ごろにお暇しましたが、後ろ髪惹かれる思いの交流会でした。
この交流会を仕組んだのは平磯で農業を営む浅野洋海さんと、三崎中学の教員である浅野長武さん兄弟です。兄さんの浅野長武さんとは国立大洲青少年交流の家に勤務していた時に知り合い、浅野洋海さんとは特産品開発の会議で知り合い夜遅くまで話し込んだ旧知の間柄です。彼ら兄弟はこのままだと自然消滅しそうな限界集落を何とか活性化しようと喜久家プロジェクトを発足させました。そして様々な人を巻き込み様々な活動を行っているのです。彼ら兄弟に完敗、乾杯です。
「佐田岬 胸が騒ぐは DNA 祖母はこの土地 生まれて育ち」
「石垣の 一つ一つに 先人の 生きた証の 血と汗にじむ」
「若者は 国や言葉が 違っても すぐに打ち解け 笑顔で話す」
「ああ今日も 出会いの人の 多くあり ほのぼの帰る 頂上の道」