shin-1さんの日記

○国際ワーキングキャンプ交流会に参加しました

 愛媛県の西端に13里(1里が4キロですから52キロ)の細長い三崎半島があります。かつては陸の孤島といわれ、松山や八幡浜から連絡船で行かねばならないほど遠い地域でした。しかし今は三崎半島の背骨にあたる頂上に、潮風メロディーラインが抜けて、私の町から旧三崎町の中心地まででも1時間半も走れば簡単に行けるような便利な世の中になったのです。

 余談ですが、私の祖母は三崎半島の中ほどにある旧瀬戸町小島の出身で、私が三崎半島やここに暮らす人たちにどこか愛着を覚えるのは、私の体内に流れるDNAのせいなのかも知れないと、密かに自分で思っているのです。

 先日友人でえひめ地域づくり研究会議事務局の松本宏さんを誘って、旧三崎町平磯地区で行われた喜久家国際ワークキャンプ交流会に参加しました。三崎町を知り尽くしているような顔をしている私ですが、釜木地区や平磯地区は若いころ船で沖合いから何度となく眺めているものの、陸道で尋ねるのは初めてとあって、国道から瀬戸内海側の入り江に続く4キロの道は釜木や平磯の集落、瀬戸内海の海が見え隠れし興味深々でした。
 

 平磯は一口で言うと青石に囲まれた生活文化漂う村という感じでした。かつて私は三崎町の名取という集落を訪ねたことがあります。青石分館を研究する集会に招かれ参加しましたが、宇和海に面した名取地区は、仙台伊達藩が宇和島に分家した時仙台から一緒にやってきた人たちの暮らしが色濃く残る飛び地のような集落だったと記憶していますが、名取の背中合わせのように瀬戸内海側に位置する平磯も同じように青石に囲まれた地区でした。夕方7時からのご案内だったのですが、知らない土地なので5時に着くよう出かけましたが、この日は土曜日だからなのか国道は空いていて、4時前に出たのに1時間余りで到着しました。杉や槇の防風垣はどこも気持ちがいいくらい立派に剪定されていて、ホ来その人たちの勤勉さが分かりました。道端の狭い場所に車を止め、携帯電話で連絡を取り迎えに来てくれた浅野洋海さんのお家にお邪魔しました。そこでこの日のチームリーダーにお目にかかり、興味のあった喜久家という、外国人が暮らす古民家を訪ねました。そこここに海岸から背負子に背負って海岸から上げて積んだと思われる石垣に沿ってやはり石張りの細くて急峻な道を登って行きました。この地区は民家へは車道が殆どなく、歩かなければならないのです。

若松進一ブログ (民家を縫うように歩いた細い石段)
若松進一ブログ (塀は殆どがこのような緑色変石の青石が見事に積まれていました)
若松進一ブログ (古民家を利用した喜久家の玄関、玄関脇には道祖神が祭っていました)
若松進一ブログ (民家の中庭は石垣で囲まれ、平たい石が敷き詰められています)

 集落の中ほどに目的の民家はありました。石垣に囲まれた門付きの立派な家です。中に7~8人の外国人がいて、丁度夕食時でしたが、愛想よく出てきて、チームリーダーや洋海さんを介して紹介を受けたものの、残念ながら名前を覚えるほどの余裕はありませんでした。彼らはここで集団生活をして農作業をしたり日本文化に触れたりしながら約1週間の国際ワークキャンプというプログラムをこなしているのです。共通の言語は英語だそうですが、まるで地球各国の代表選手が集まったような感じのワーキングホリデーとも思えるキャンプでした。

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 夕方からの交流会は地元や遠く松山からも30人もの知人友人が集まり、かなりバラエティに富んでいました。しかし嬉しいことに合併して伊方町になった伊方町の田舎へ伊方町の都会(笑い)から何人もの若者が集まって、それは賑やかな交流会でした。私はふと青年の船に乗ってアメリカやメキシコに出かけた時の千ないキャビンでの交流を思い出しました。まさにあの時と同じで人種や言葉や年齢が違っても若者同士はボディランゲージですぐに理解しあえるのです。残念ながら私たちは明くる日の予定もあるので9時半ごろにお暇しましたが、後ろ髪惹かれる思いの交流会でした。

 この交流会を仕組んだのは平磯で農業を営む浅野洋海さんと、三崎中学の教員である浅野長武さん兄弟です。兄さんの浅野長武さんとは国立大洲青少年交流の家に勤務していた時に知り合い、浅野洋海さんとは特産品開発の会議で知り合い夜遅くまで話し込んだ旧知の間柄です。彼ら兄弟はこのままだと自然消滅しそうな限界集落を何とか活性化しようと喜久家プロジェクトを発足させました。そして様々な人を巻き込み様々な活動を行っているのです。彼ら兄弟に完敗、乾杯です。


  「佐田岬 胸が騒ぐは DNA 祖母はこの土地 生まれて育ち」

  「石垣の 一つ一つに 先人の 生きた証の 血と汗にじむ」

  「若者は 国や言葉が 違っても すぐに打ち解け 笑顔で話す」

  「ああ今日も 出会いの人の 多くあり ほのぼの帰る 頂上の道」

  

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○孫朋樹の入学記念菜の花ウォーク②

 「おじいちゃん、僕が写真を撮ってあげようか」と、孫朋樹がいうのでデジカメを渡しました。朋樹はこの春から小学校に入学するのですが、今年の春から虫が好きなのでお父さんからデジカメを貰って虫の図鑑を作るのだと張り切っていましたので、試しに撮ってもらいました。

若松進一ブログ(孫に撮ってもらった記念すべき一枚です。モデルがいいのか腕がいいのか、中々いいアングルに仕上がっていました)

 この辺りに来ると、孫にとって楽しみも少なく、人家も少ないことから二人で大きな声で歌を歌ったりして歩きました。水温む季節でしょうか、海岸では長閑に釣り糸を垂れている人や、山に入ってツワブキを取る人にも出会いました。また何組かのウォーカーに追い越されたり追い越したりする度に、声を掛け合いました。


 やがて石久保、本谷を過ぎ、唐崎の松が鼻を回ると双海町のシンボル本尊山が見えてきました。この辺りから見る本尊山は絶景で、まるで一服の掛け軸をに書かれた中国の蓬莱山を見ているようです。

 ここへ来るとシーサイドも見えるようになりますが、少し疲れた孫は「あとどのくらい」と盛んに聞くのです。「あと2キロくらい」と答えるのですが、孫にとっては「あと2キロぐらいはどのくらい」と、頓珍漢な会話が続くのです。

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 やがて最後の休憩所である唐崎集会所横の夕観所へたどり着きました。ここは私が役場に在任中に土木事務所にお願いして整備してもらった絶好の休憩スポットなのです。ここでくじらのお店で貰ったお餅をリュックから取り出し二人で食べました。孫は餡餅が嫌いなようで、餡の入った部分を私に食べるよう勧め、ジュースをのでいました。

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 ここには珍しいひょうたんナマズのモニュメントがあります。孫はナマズのモニュメントによじ登って楽しそうに遊んでいました。道行く人も思わず微笑ましい孫のしぐさに拍手や声をかけたり、ある人は珍しい光景だとカメラに収めてくれました。

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 三島神社横の、本郷の菜の花畑も今年は上出来で、若いカップルが何組か写真を撮るために細い道を上へ上がっていました。この写真を撮った後孫は急にトイレをもよおしましたが、もうすぐだからと城の鼻を越えて小走りにシーサイド公園へ無事ゴールしました。駆け込んでトイレに間に合って一安心、孫の顔見知りである池田所長さんやじゃこ天のおばさんたちと声を掛け合い、池田所長さんに鯉の餌を貰って楽しいひと時を過ごし、上空を飛び交うパラグライダーを見やりながら、迎えにきた長男の車に乗ってわが家へ無事帰ってきました。

 孫は私より元気で、帰って食事をした後も近くの中学校までジョギングに出かけたようでしたが、私は炬燵に入って少しうとうと昼寝をしましたが、尚樹と希心の二人の孫が体の上に乗ったり遊んだりで、賑やかな週末でした。それにしても孫と二人でいい入学記念の菜の花ウォークとなりました。

  「じいちゃんも 撮ってあげると デジカメで 俺より腕が 上だと威張る」

  「ひょうたんと ナマズ彫刻 何のため? 孫に聞かれて 説明できず」

  「爽やかに 国道歩く 弥次と喜多 デコボココンビ 楽し一日」

  「入学の 記念に歩く 海沿いに 菜の花咲いて 孫を祝福」

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○孫朋樹の入学記念菜の花ウォーク①

 昨日は薄曇りながらまずまずの天気に恵まれ、菜の花ウォークが開かれましたが、今年はこれまでのようにシーサイド公園を出発して長浜の赤橋を目指す片道コースが変更され、長浜を出発してシーサイド公園を目指すコースに変更されました。昨年は妻や妻の友人とともに歩きましたが、今年は孫朋樹と歩くことにしました。孫朋樹は今年の春小学校に入学するとはいいながらまだ20キロも歩く自信がないので、とりあえず私と二人の自主コースを設定し、下灘運動公園からシーサイド公園までの7キロコースに挑みました。

 前もって娘に下灘運動公園まで車で送ってもらい、10時に出発しました。

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 昨日は熱くも寒くもなく、絶好のウォーキング日和で、海からの風もそよ風程度で、国道沿いい20年前に植えた桜の木々の芽も大きく膨らんで、あと10日もすれば咲き始めるようです。

 最初の目的地は下灘駅です。浄土の緩やかな坂を登りました。眼下向こうには下灘の街が一望できて、中々いい眺めですここもチェックポイントです。

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 下灘駅に着くと、顔見知りの市役所職員が駅舎の中で夕日や夕焼けフォトコンテストの作品を展示する作業をしていました。ここで一服です。列車を待つ顔見知りの皆さんとあいさつを交わしながら休んでいると、マッチ箱のような一両の列車が構内に入ってきました。孫朋樹は出発間近な列車と競争した走ったりして楽しんでいました。

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 その後共栄製材所や日喰の一本松お地蔵さんにお参りしながら次のポイントである閏住のくじらという店を目指しました。ここは私の実妹が経営する小さな店です。この日は姉たちや家族も手伝いに来ていて、一年で一番の稼ぎ時の準備をしていました。私は大きなお釜で炊いたおでんをご馳走になり、お餅までお土産にいただきましたが、朋樹はジュースを買って飲みながら一休みです。

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 閏住の菜の花畑はもう満開で、傍の倉庫では閏住の地元の人が菜の花ウォークを盛り上げようとお餅をついたり、即売の店を出したりしていました。男性の方はビールを飲みながらもう出来上がっている人もいて、毎年ながらジュースの接待を受けました。
 道端の草花を摘んだり、枯れたススキの枝を取って遊んだりの気ままなウォーキングなので疲れもせず、軽快に歩きました。


  「入学の 記念に歩く 孫私 相棒よろしく お手々つないで」

  「いつの間に 大きくなった 孫の手に 爺体温 温もり伝え」

  「列車来て シャッターチャンス 逃すまい 一枚ポーズ 孫も緊張」

  「グツグツと 大鍋おでん 煮えている お一つどうぞ 接待嬉し」 

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○ミツバチも順調に飛んでいます

 数日前、山奥組の井上登さんからメールが入りました。「先日人間牧場にお輿入れしたミツバチは元気でしょうか」というのです。そういえばミツバチが人間牧場に連れられてきてからは、山口県へ3度も行き、北海道など長旅が重なって、井上さんには大変失礼ながらそれどころではなかったのです。その旨のお詫びを入れながら「果たしてミツバチは生きているのだろうか」内心不安でした。途中で大洲市田処の亀本耕三さんが人間牧場へ観察にやってきて、ミツバチが飛んでいたという情報を得ていましたが、このところの寒さや、亀本耕三さんの「ミツバチの巣が一つ風で転がっていた」という話もあるので心配でした。

 昨日サツマイモの種芋の作付に出かけた折、到着するなり北東の位置に設置している場所へ行ってみました。

若松進一ブログ(井上さんにいただいたミツバチの巣箱へはミツバチが盛んに出入りしていました)

 巣箱の中から確かにミツバチが出入りしているのを確認しました。余り近づくとミツバチに刺されそうなので傍でそっと様子を見ていましたが、ミツバチは人の気配を感じたのか余り飛ばなくなってしまいました。ウッドデッキの方に少し下がってみましたが、ミツバチは忙しそうに働いているようでまずはひと安心です。

 高知県馬路村から頂いて帰り、今回井上さんに蜜蝋を塗ってもらった二つの巣箱はまだ蜂蜜の気配が感じられないようです。ミツバチの行動範囲といわれる巣箱の周囲二キロには梅の花も沢山咲いて、早くもブルーベリーや椿の花が咲いています。少し先ですがもう間もなくミカンの花も咲くことでしょう。今年の胃にy値のリレープロジェクトは、サツマイモもミツバチも今のところ順調に推移をしているようです。


 さて井上登さんにいただいたハチミツですが、私はこれまで市販のものを食べるとき何気なく、ミツバチのこともミツバチを飼っている人のことも考えず食べていました。勿論食べているハチミツを誰が生産しているのかなど考えることも知る由もありませんでした。でもこうして自分がミツバチを飼うようになってみると、俄然ミツバチのことが気になり始めました。今朝も昨夜から泊まっていた孫に、井上さんからいただいたハチミツの話をしてやりました。孫は今度来る時は怖いけどミツバチの巣箱を見てみたいと興味を示していました。

 未だに知らないことの多いミツバチの世界ですが、少し勉強をして見たいと思っています。そのためにはインターネットも利用できますが、何といっても井上登さんにその教えを請いたいものだと思っています。


  「山奥の 友の連れ来し ミツバチが 忙し飛び交い 春が来たよと」

  「何気なく パンに塗りつけ 食べていた 蜂蜜秘話を もっと聞きたい」

  「後二つ 用意の巣箱 まだ住まぬ 何時になったら 転居するのか」

  「虫の目に なって巣箱を 覗き込む 人の気配に 蜂は慌てて」

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shin-1さんの日記

○山菜のツワブキを食べる

 野山の木々は一見冬の装いですが、よく目を凝らしてみるとそこここに春の気配が漂っています。昨日人間牧場で一足早い春を見つけました。ツワブキです。人間牧場には草刈り作業の折、刈り残したツワブキがこの3年間で結構増えてきました。目的はツワブキを増やして、春の時期にツワブキを食べようという試みなのです。双海町は海沿いに面しているためツワブキが沢山自生しています。そのため春になるとこのツワブキを求めて人がやってきます。野生で自生しているため普通は勝手に取るのですが、最近ツワブキを自家用や出荷用に家の畑に植えているものもあるのに、取る人にとっては見分けがつかないため、植えたものまで手を出すのです。そのため時にはトラブルになったこともあるようですが、くれぐれもご用心です。

 これから春になると蕨やぜんまい、ウド、フキ、タケノコ、タラの芽など山菜がどっさり出回りますが、ツワブキも山菜ではかなりいける方だと思います。

若松進一ブログ (三年前、ロケ風呂前に植えたツワブキがこんなに大きくなりました)

 ツワブキは写真のように年中青々とした丸い葉っぱをしています。この葉っぱや茎は前の年のもので、この葉っぱや茎の間から綿帽子をかぶったようなツワブキの赤ちゃんが春になると芽を出します。それらは春の柔らかな日差しを浴びてだんだん大きくなり、食用に適するように成長するのです。

 親株が元気だと出るツワブキの芽も大きいのですが、痩せた土地のツワブキは芽が出ても細く食用になは心もとないのです。抜き取ったツワブキは家に持ち帰り、皮をはぐのですがこれがまた一苦労なのです。ツワブキには赤系と白系があって、どうやら赤系の方が美味しいような感じがします。皮のはぎやすいのは白系で中々上手くいかないものです。

若松進一ブログ (春の匂いが感じられるツワブキの茎)

 昨日ちょっとした時間にこれだけのツワブキを収穫しました。家に持って帰り三崎町へ行く時間まで寸暇を惜しんでツワブキの皮をむきました。ツワブキはあくが強いのが特徴で、どこかの誰かに似ています(笑い)。このあくがつくともう手の先や爪までまっ黒になってしまうので、人様の前に出る時は慎まなければなりません。

 あくがつかないようにするためには、薄い医療用の手袋をはめるのが一番なのですが、これが中々手に入らず苦労をしますし、少し作業が進むと破けたりして、結局あくが手袋の中に枚で入り込むのです。その工夫の末に編み出したのが食酢を手につけながらむぐことです。完全にあくがつかないわけではありませんが、これでも随分助かるのです。

若松進一ブログ(あく抜きの出来た美味しそうなツワブキ)

 妻は歯医者さんに勤めていて手先にこんなあくをつける訳にはいかないので、この仕事はもっぱら私の仕事と諦めて、ツワブキ食べたさに仕方なくやっているのです。

 今日の夕食にメバルと一緒に炊いたツワブキの煮物が出てきました。私たち夫婦にとってはこんな春の苦味がたまらなく美味しいと思うのですが、わが家にやってきた娘や息子たちは残念ながら口に合わないようで、食べることもなく帰ってしまいました。もう少しすると人間牧場にも本格的な春が訪れることでしょう。春は何度巡ってきても待ち遠しいものです。


  「ツワブキが 綿帽子顔 のぞかせて 春が来たよと 声をかけたり」

  「厨房に 入らない俺が ツワブキの 皮をむくから 雨が降るかも」

  「ツワブキを メバルとともに 皿に盛り 食卓どこか 春の賑わい」

  「今時の 人はツワブキ 食べれるの? 聞いても箸を つけようともせず」


 

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shin-1さんの日記

○種芋の植え付けがやっと終わりました

 このところ頻繁に降る雨で、少し種芋の植え付けが遅れていましたが、今日を逸すると当分できないとあって、昨晩から「明日は雨が降っても作業をする」と妻に公言していましたが、その願いが通じたのか今日は朝から晴れました。朝食を早めに済ませて軽四トラックに道具類を積み込んで人間牧場に出かけて行きました。道具といっても殆どは人間牧場の作業小屋ない置いているので、持って行くのは小さなビニールハウスを造るための木の板切れなのです。親父が大事にしている木材置き場から、親父が所用で出かけていることをいいことに適当なものを寸借しました。

 昨晩ミツバチの嫁入りを手伝ってもらった井上登さんからメールが入り、不届きにも「最近忙しくてミツバチの様子を確認できていない」とネールを返信していたので、このことも気がかりで、人間牧場に到着するなりミツバチの巣箱に行ってみましたが、井上登さん方から興し入れしている巣箱はミツバチが忙しく飛び交っているようで、ひとまず安心しましたが、蜜蝋を塗った二つの巣箱は気配なしの様子でした。

若松進一ブログ(腐葉土の上に土をかぶせ出来上がった苗床)

 さあ作業の開始です。コンパネを組み合わせて作った腐葉土箱に被せたビニールを剥ぎ、中の腐葉土を切り返すのですが、残念ながらこの冬は一度も切り返さなかったため、完全に腐敗が進んでおらず、米糠や油粕が床土のようになって下の葉っぱはまだそのままでした。それでも作業をしなければ間に合わないため、中を何度も切り返して混ぜ合わせて平らに延ばしました。さあそれからが大変です。外にいったん出しておいた赤土をその上に被せるのです。その作業にテミは欠かせない道具なのですが、なぜか見当たらないのです。いつかの作業後自宅に持って帰ったものと思われるのですが、仕方がないので小屋からスコップを持ち出して織り上げた赤土を5~6センチ腐葉土の上に放り投げて敷き詰めました。この作業はかなりきつく。日ごろ使っていない上腕部が痛むほどでした。

若松進一ブログ(周防大島宮本農園で買ったサツマイモの種芋)
若松進一ブログ(苗床に配置したサツマイモのの種芋)

 やがてその土を万弁に均した後、先日周防大島で買って持ち帰ったサツマイモの種芋を順番に置いて行きました。策円も分からず終いだったのですが、芋の先端はどちらなのか分からぬまま植え付けるのですから危ない話です。やがて種芋の上に新しい土をかぶせて一丁上がりです。種芋の数は全部で31個ありました。4列だと3個余りましたので、隅の方に予備として植えました。

 さあそれからが大変です。昨年作ったビニール被覆のための囲いは残念ながら補修が必要で、手直しを試みました。そしてビニールを適当な長さに切って2枚を重ねるように使うのですが、ビニールが残念ながらサイズの長さが足りませんでした。そこで考え付いたのは腐葉土を作るために小r間で被覆していたビニールを再利用することにしました。

若松進一ブログ(ビニールハウスが出来上がりました)

 ビニールを一人で張るのはかなり難しい作業です。風がビニールを飛ばし言うことを聞いてくれないのです。春が近づいたとはいえまだまだ強風が吹きます。ましてやビニールが上手く張れていないと折角植えた芋が遅霜にであって、芋ツルが予定の日になっても伸びず、結局は腐葉土の腐敗熱源で温度を高め、ツルの伸びを促進させることができないばかりか、後の作業予定が大幅に崩れてしまうのです。

 でもたったひとりながら艱難辛苦の末2時間で出来上がりました。昨年は10日でしたから、3日間だけ早い作業が完了したのです。

 このまま順調に行けば、二ヶ月後の5月の23日頃にはすくすく伸びた芋ツルが切り取られて芋畑に植えられることでしょう。楽しみです。


  「久しぶり 好天恵まれ 種芋を 腐葉土上に 伏せて行くなり」

  「不器用を 自認の俺が 大工する それでも様に なるから不思議」

  「ビニールが 足らなくなって どうしよう そこは何とか 知恵で切り抜け」

  「ひと安心 後は芋ツル 伸びる待つ 子ども喜ぶ 青か浮かびぬ」 

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shin-1さんの日記

○元気人村でリフレッシュしました

「今日は何としてもサツマイモの種芋を伏せなければ」と、万を持していたのに昨日は朝から雨が降って、出鼻をくじかれてしまいました。朝からしとしと降る雨空を眺めながら焦る気持ちがあって、合羽を着てでも作業を進めようと河童の用意をしていたら、妻に「風邪でも引いたらどうするの」と強くとがめられました。それもそうだと諦め、妻の言葉に従い「少し体をいとうよう温泉にでも行ったら」と勧められ、松前の元気人村という温浴施設に出かけました。ここの特徴は薬草風呂なのですが、私はもっぱらサウナを利用して日ごろ流さない汗をかくのです。2~3回サウナに入り水風呂でほてった体を冷やす爽快さは言葉では言い表せないものです。

 この施設は妻とよく行くため、妻が回数券を買ってくれていて、また南海か入ったことを証明するポイントカードに押印してもらうと無料のチケットがもらえるので少しだけ得をしたような気持になるのです。風呂といっても番台などはなく受付で下駄箱の鍵と引き換えに更衣室のロッカーキーをいただくのですが、受付の方とはすっかりお馴染みになっていて、「まあ若松さんお珍しい、今日は大学の帰りですか」と聞かれました。そういえば大学で講義が終わって帰り際、毎週一回立ち寄っていたことを覚えてくれていたのです。

 風呂に浸かって、サウナに入って、水風呂に入って、体を洗って、薬草風呂に入ってと自分流の楽しみ方をしていると、何人かは顔見白の人がいて、盛んに話しかけてくれるのです。その話の内容たるや多岐にわたっていて、今は近づく衆議院選挙や市長・市会議員選挙の話題が多く、「風呂屋と散髪屋は噂が集まる」の言葉通り、様々な憶測が飛び交っていました。そういえば来月には市長・市議会議員の選挙があるのです。「あの人は出馬する」とか「あの人はもう既に3回もあいさつ回りしている」とか、まあ詳しい話に興味をそそられるのです。

 昨日唐突にある人から「あんたも選挙に出なさいや。あんただったら知名度も抜群なので通ると思うよ」と持ち上げられて勧められました。「私は選挙に出ると妻が離婚するというので出れないのです」とはぐらかしましたが、どうやらこの人も選挙を4年に一回のイベントぐらいにしかかんがえていないようです。

 風呂屋でのうわさ話はおひれがついて、小さな火種でも次第に大きくなり、それがさも真実のように広がっていくのです。でも聞き耳を立てて聞いてみると、政治や行政にに対する意見は厳しく、政治不信、行政不信を訴える人も多いようです。地べたを這うような庶民のこんな意見は地べたの話として消えてゆく運目にあるのです。

 そういえば私が役場を退職して早くも丸4年が経ちました。60歳から始まった第二の人生もいよいよ佳境に入ってきました。私にとってこの4年間は給料の当てない自由業でしたが、いささかの年金も出て、大学等に契約教官として働いたり、様々な地域に招かれて講演活動をしながら飢えをしのいできました。65歳までは家族を養う義務があると思っていましたが、今年の10月に誕生日を迎えるとその歳になるのです。

 自分の作った生活設計に基づいて老後の暮らしも何の不安もなく楽しく暮らして行けるのですから、後は夫婦揃って親父を含めた家族が健康に暮らすことを第一義に考えて生きて行きたいものです。昨日のように僅か500円でたまには温泉にでも浸かり、疲労した心身をリフレッシュして、新たな力を蓄えたいものです。

 温泉のお陰でしょうか、昨日は久しぶりに熟睡しました。今朝は目覚めもよく、さあこれから人間牧場へ出発して作業を開始します。


  「お風呂屋は 選挙の話 持ちきりで 知らない噂 耳を傾け」

  「地べた這う ような話も 味がある 庶民はうさを お湯に流して」

  「汗を出し 水風呂入り すっきりと 疲れが取れて 昨夜ぐっすり」

  「五百円 安いもんだな リフレッシュ 妻の助言で 疲れが取れた」

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shin-1さんの日記

○九州(吸収)合併ではなく四国の合併とは面白い

 合併して行政上の名前が地図上から消えたまちへ行く度に、どこか灯が消えたような感じがするのは私だけでしょうか。私の町双海町も行政上の名前は地図上から消えました。しかしかろうじて双海町という地名は新しい市の名前の下に残っていますが、昔の自治体の名前まで消されたまちへ行くと、まさに対等合併とはいえども吸収合併だったことを実感するのです。笑い話ですが「ここは吸収合併ですか」と尋ねたら、「いやいや九州ではありません。ここは四国ですから」とジョークが返って大笑いをしました。

 昨日松山市の向こうにある旧北条市へ行きました。まちづくり協議会を作るべく設立準備会を立ち上げているようで、その全体会に招かれたのですが、やはりどこか沈んだ空気は否めませんでした。それでも会場には男性を中心にかなり集まっていて、海が始まる頃には満席となりましたが女性はちらほらでした。


若松進一ブログ

 北条といえば合併前は3万人そこそこの市だったように思います。ゴルフ場も3ヶ所あって、前海には鹿島というかつては有名な観光の島があるのです。北条の人に聞けば北条=鹿島と答えるほど鹿島は北条にとってシンボル的な存在なのです。ご存じのように南宇和郡の旧西海町にも同じ地名の鹿島がありますが、最近はどちらも観光面では苦境にあえいでいるようです。

 私たちが子どもの頃や青年の頃は鹿島といえば有名で道後動物園、松山城とともに遠足に行く場所でした。遊覧船に乗って渡る鹿島はまるで別世界のようで、鹿が沢山群れていたのを思い出します。最近は近くに道の駅ができ、その海岸も整備されたため、鹿島はすっかり忘れ去られた存在になっているようです。でも鹿島の魅力は道の駅のような急ごしらえなものではないので、生かし方によっては大きな観光資源となることは間違いのないことです。そのためには物語をしっかり作りみんなで育てて行かなければならないと思うのです。


 昨日も何人かに「若松さん、双海の夕日も綺麗ですが、北条の夕日も負けないほど綺麗ですよ」と聞かされました。私はその都度「それがどしたん」と返してやります。だって夕日が綺麗だと思うのなら、行動を起こして夕日の美しさを表現しなければ、知らない人には伝わらないのです。

 私がやった夕焼けコンサートも、作った道の駅しーさいどふたみも全て夕日の物語の一つなのです。多分夫婦岩のある北条鹿島の夕日は双海の夕日より一枚も二枚も上だったはずなのですが、物語性やこだわりにおいて

双海町や私には負けるのです。行政が一歩手を引いた今となっては住民が立ち上がり、住民の手でこれらを動かす以外ないのです。その意味ではまちづくり協議会の行方に期待したいと思うのです。

 知人友人が沢山集まっていて、帰り際わざわざ玄関先まで送ってくれました。


  「久し振り 訪ねた地域 活気失せ 少し気になり 頑張れ激励」

  「吸収と 九州かけて 大笑い ここは四国だ なるほど相槌」

  「船着場 人の影なく 寂しけり かつてはあった 賑わいどこに」

  「穏やかな 北条の海 雨曇り 今度必ず 晴れの鹿島へ」 

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○風は吹けども山は動ぜず

 小沢さんの秘書が逮捕され政治献金問題で与野党の攻防が一段と激しくなってきました。小沢さんの言うとおり何もやましいことがないのであれば、不当な国家権力の介入としか言いようがないのでしょうが、日本の検察が嘘をついて現政権に協力しているとも思えないし、私たち国民はどちらの何を信じたらいいのか、こんな不景気な世の中ですからもう少し真面目に景気対策などについて考えてほしいと願っています。こうした茶番劇は今に始まったことではないので、国民は冷めた目で見守るしかないのです。マスコミも報道の自由を振りかざして、茶番劇の手助けをしているように思えてなりません。名探偵コナンの名セリフ「真実は一つ」なので、真実をしっかりと解明してほしいものです。

 どうして政治家は嘘をつくのでしょう。言っている言葉が信じられないところに政治不信や選挙の投票率低下に結びついていることをもっと考えてほしいと思うのです。

 昨日の朝9時ころ大学へ出勤する途中に、天山の交差点で街頭演説の光景を見ました。忙しく通り過ぎる車も交差点では信号ストップします。それを狙ってのアピールのつもりでしょうが、次期選挙に立候補する候補者予定の人がマイクを持って一生懸命何かを訴えていました。寒い冬の時期なのでどの車も窓を開けないため、何を言っているのかさっぱり分からない様子でした。私は信号が青だったため顔見知りのその方には失礼でしたし、周りに悪いとは思いましたが、クラクションを短く叩き「ご苦労さん」と応えてあげました。候補者予定の方はそのことに気づいたようで、手を挙げて応えようとして思わずマイクを地上に落してしまい、バックミラーにマイクを拾う姿が映り、済まない気持ちでいっぱいになりました。

 それにしても最近は選挙の事前運動ではないかと思うほど候補者の看板が目だち、綺麗な町も看板と候補者政党の幟で埋め尽くされていて、美観を損ねているのです。綺麗なまちづくりを一方ではマイクを持って訴え、一方では相反する行動をして姿には余り共感を覚えないのです。多分街を良くすることよりも政治家になりたい願望の方が強いのだと思うのです。現にあれほどよろしくお願いしますと頭を下げた国会議員も選挙が終われば全く顔を見せず、東京の上屋敷に妻や子供を住まわせてお江戸暮らしを楽しんでいるのです。次の選挙も気になるのでそろそろ参勤交代のような形のお国入りがあるのでしょうが、政治の世界は今も江戸時代と全く変わっていないようです。

 先日春一番が吹いたとき、私たちは余りの風の強さに恐れおののきました。山はごうごうと音を立てて木々を揺らし、小枝が飛んできたりしましたが、「風は吹けども山は動ぜず」のことわざどおり微動だもしませんでした。今の日本は「風が吹かぬも山動く」ような軽々しさで、少し旗色が悪くなるとまるで敵前逃亡のようにさっさと責任を逃避してしまうのです。せめて「風吹くも山は動ぜず」まではいかなくても、風が吹いて山を動かすくらいにして欲しいと願っています。

 もうそろそろ春2番の風が吹きそうです。北海道と青森から交付金発給の知らせが届きました。受け取った人は満面の笑顔でインタビューに答えていましたが、小さな町だからできる即決行政に大きな拍手を送ります。大きいからできないというのは、行政のやらないことをやれないという言い訳にしか過ぎないと、合併したくないのに合併させられて大きくなった住民のうそぶきが聞こえてくるようです。

 もちろん私も12千円をいただいて消費行動を起こす予定です。


  「風吹いて 山が動くか 日本山 もっとどっしり 景気対策」

  「嘘つきが 多いと不審 募らせる 誰を信じて いいのでしょうか」

  「金成功 した人末路 結局は 金でその身 滅ぼす例え」

  「村だから できるというが 市や町じゃ どうして出来ぬ 首をかしげる」

  

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shin-1さんの日記

○今が旬のみかんを食べる

 わが家は昔半農半漁といって農業と漁業の兼業でした。兼業といっても漁業が主体で、母が3~4反余りの農地を細々と耕していました。しかしその母が亡くなってからはみかんの果樹園だった農地も荒れるに任せ、みかんは全てを枯らしてしまいました。ミカンを栽培していたころは母の手伝いでよく畑にも出かけてみかんの集出荷をしていましたので、誰からもみかんを頂きませんでしたが、みかんがなくなってからはみかん所だけあって沢山のみかんが届くのです。夏のハウスみかん、秋の極早生から早生、普通温州、春先の雑柑類と、まあみかん類は沢山届いて食べきれないのです。

 朝フルなんて新語を造り、朝は果物だけを食べる健康法を推奨している友人の清水さんや大河内さんの影響もあって、勉めてフルーツを食べるようにしていますが、お腹が空いた朝にフルーツを食べることは実践できず、食後の果物的に食べる妻は、この時期になると果物の食べ過ぎで多少小太り気味になっているようです。私はまだみかんの食べ過ぎが原因まではいかないものの、毎日結構楽しんで食べているのです。

 このころになると、いつもお世話になっている人たちに、地元の農家に頼んで新しい品種であるはるみや清見などを分けていただき宅配便で送るのですが、これが大層喜ばれて嬉しい便りが次々に届いているのです。私たちの地方では何年か前まで「みかんは笑ったらくれる」なんて言われていました。事実役場に勤めていたため町内のあちらこちらに出かけて行くと、「みかんでも持ってお帰り」と気軽にいただいたものでした。今はそんな懐かしい現場での交流はなくなりましたが、それでも私や妻の友人から、相変わらず美味しいみかんがどっさり届いて嬉しい悲鳴を上げているのです。

 しかし、外気温が上がるこのころになると果物の完熟が急速に進み、腐り始めるのです。2~3日箱の中を点検しないと、腐りが出てとなりのみかんにカビが移って行くのです。小まめにチェックして腐ったみかんを取り除くのですが間に合わないのです。市販のみかんが腐らないのは防腐剤を散布しているからだと言われていますが、防腐剤は体にあまり良くないので、腐らない前に食べるよう心掛けているのですが間に合いません。

 私たちが子どもの頃みかんは貴重品でした。立派なみかんは出荷して、自家用はキズものを食べさされました。少し腐りが出たものでも包丁で腐りの部分を取り除き食べさされました。追熟するみかんは腐りかけると糖度が抜群に増して美味しいのです。

 昨日みかん箱の少し腐りが出始めたみかんを切って食べました。妻は「これほどあるのだから、そんな腐ったものを食べなくても」と言いますが、わたしたちの世代にとって、少し腐ったみかんも「勿体ない」という気持ちになるのです。

 春になって裏庭にメジロがたくさんやってきます。今週の終末孫がやってきたら昨年と同じようにみかんを輪切りにして割り箸を刺し、裏庭のシノブの絡まった庭石に刺して、野鳥の観察をしたいと思っています。危害を加えないことが分かっている野鳥は、毎年のようにみかんを啄みに庭にやってきます。みかんを啄む野鳥を孫と一緒に観察するのも楽しいものです。


  「みかん食べ 少し小太り 妻いわく みかんのせいと みかんのせいに」

  「腐りかけ これが美味いと いう私 勿体ないの 時代に育つ」

  「有難や みかんをくれる 人ありて 買うこともなく 一年過ごす」

  「裏庭に みかん輪切りし 割り箸で 突き刺し野鳥 窓越し見つめ」

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