shin-1さんの日記

○島根県からのお客さん

 「ひょっとして、島根県や鳥取県は全ての街に行っているのでは?」と妻が言うように、どこか気の合う中国地方の日本海側市町村へは殆どと言っていいくらい訪ね歩いています。中でも島根県は遥か沖合いに浮かぶ隠岐の島を含め全て制覇しているのです。

 今月14日には飯南町の旧頓原町へ講演にお邪魔する予定なのですが、その志々の関係者が事前の打ち合わせでやってきました。早朝に出発して今夜遅く帰るという日帰りの旅で、しかも途中しまなみ海道沿いの今治市大三島へ立ち寄るということなので、双海町で過ごすのは僅か2時間ほどなのです。午後1時にシーサイド公園で待ち合わせの予定でしたが、出掛けに自宅へ来客があって私が10分ほど遅れてしまいました。時間がもったいないので、車の中で走りながら打ち合わせしようということになって、とりあえず私の車に私を含めて5人が乗って、閏住の菜の花畑、人間牧場、わが家を巡るコースを設定して走りました。

若松進一ブログ

 最初に訪れた閏住の菜の花畑は雨に濡れていましたがもう満開です。この2~3日こちら瀬戸内側は冷たい雨が降っていますが、日本海側にある島根県では雪が積もっているそうで、一足早い春の訪れに驚いた様子で黄色いジュータンを楽しんでいました。

 続いて向かったのは人間牧場です。私もこの2週間ほどは忙しかったため人間牧場へは出かけていませんが、先週の日曜日大番頭の米湊さんが伊予市中山町の女性陣を引率して私の留守に視察に見えられたようです。この日はあいにく霧で視界が悪く遠望は効きませんでしたが、それでも早春の春の海を感じていただいたようです。窓をいっぱい開け雨で濡れたウッドデッキにスリッパで出て記念写真を撮りました。

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 下の梅の花ももう盛りを過ぎていますが、雨のため先日設置した蜂の巣箱は静かで余り確認することができませんでした。ブルーベリーの芽は伸び始め、椿の花もそろそろ咲き始めて、メジロがせわしげに飛び交っていました。明日にでも種イモを伏せなければと思っていますが、このところ三日にあげず雨が降って、私の心をやきもきさせているのです。


 シーサイドを通り越した私たちをわが家の海の資料館海舟館と煙会戸所へ案内しました。いずれも珍しい場所だけに皆さん驚いた様子で見入っていました。そろそろ次の目的地へ行く時間が気になるので早々に引き揚げ、シーサイド公園で再会を約束して見送りました。

 頓原町は合併したとはいえ私の町と同じように田舎です。いただいたお土産に立派なワサビと豆腐が入っていました。豆腐は大好物だし手作り豆腐は昔ながら固いものでした。シーサイド公園で従兄に会いました。彼は最近漁協の総会で組合長に選ばれたようで、夕方話に来ないかと誘いました。調理師の免許を持つ彼は夕方立派なカンパチの刺身を持参してやってきました。私は上灘中学校の学校評価委員長をしているので、先日開かれた委員会のまとめができたと連絡があって、学校にお邪魔し校長先生と1時間ばかりお話ししましたが、自宅から電話で組合長が訪ねてきていると連絡があり、急いで家へ引き返しました。昨晩は私たち夫婦と組合長の楽しい夕食を、いただいた豆腐、ワサビ、カンパチともども美味しく頂きました。とびきり美味い春の美食でした。


  「中国の 山坂越えて 客四人 駆け足ながら 春を楽しむ」

  「海のない 町の人には 珍しい 広い海見て 嬉し笑顔が」

  「お豆腐と ワサビいただき カンパチの 刺身食べつつ 四方山話」

  「組合長 なったか従弟 髪薄く それぞれ加齢 重ねて初老」

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shin-1さんの日記

○急がば回れ

 目的地に向かって急ぐ時は頭の中がパニックになって、どうしたら最も早くそこへ到達することができるか、頭の中の回路がまるで目的地までの道順を探すカーナビのようにぐるぐる回るのです。その結果得た結論の道順を走るのですが、結局は行きどまりであったり、渋滞に巻き込まれたりしてかえって到着が遅れたことは過去に何度もありました。その轍を踏まない唯一の方法は余裕を持って早めに出発したり、予測される情報をし入れておく以外にはないのですが、日々忙しく過ごしていると、分かっていても大まかな目安だけで突っ走ってしまうのです。

 一昨年人間牧場で開いた逆手塾の折、深夜になってどうしても早く高松まで帰りたいので「人間牧場から下の国道へ出る近道を教えて欲しい」とある女性から頼まれました。その友人に「その道は私以外は通れないから止めた方がいい」と止めたのですが、「若松さん、私もこんな田舎で育っているので車の幅さえあれば大丈夫」と人間牧場で書いた略地図を元に降りて行ったのです。小一時間も経ったころでしょうか。その女性から半泣きの電話が入りました。車を溝に突っこんでタイヤがパンクしたというのです。「今どこだ」といっても「暗闇なのでどこか分からない」と必死に救出要請をするものの場所は分からず、JAFの救助車がこちらに向かっているものの、谷間なので携帯電話も使えないようでした。

 地元の地理に詳しい人間は私一人で、私は塾の運営に当たらなければならない最中だったので、私たちのメンバーが逆手塾のスタッフを連れて思い当たる場所を探すのにこれまた一苦労でした。結局見つけたもののパンクタイヤを交換修理することもできず下道までそのままガッタンゴットンと車を走らせ、JAFの車と合流しました。深夜に大騒動したため近所の人に迷惑をかけるし散々でしたが、車を役場前に置いて彼女を松山のJRまで連れて行き、一番の高松行き列車に乗せた頃には東の空が明るくなっていました。

 その日逆手塾が終わってから私は地元の車屋さんに車を取りに来てもらいましたが車の損傷はパンクだけではなくかなりの損傷で、修理代は10万円近くにもなって泣きっ面に蜂という感じでした。修理を終えた車をバツが悪そうに後日取りにやってきました。その時彼女の口から「急がば回れでした」としみじみ話されました。


 一昨日の私もそうでした。午前中大学へ出かけて打ち合わせなどをやって気がつくと、日本銀行での昼食会予定20分前になっていました。農学部キャンバスのある樽味からだと20分もあれば行けると鷹を喰っていました。しかし少しでも早く到着しようと今まで通ったこともない近道を通りました。ところがその狭い道へ運転未熟な若葉マークの女性の車が迷い込んで、トラックと離合することをためらい、双方の後ろに長い車の行列ができてしまいました。本線出るための信吾は本線優先のため短く、結局日銀松山支店に到着したのは30分後でした。幸い皆さんは私の到着を待ってくれていましたが、頭をかきながら恥をかいてしまいました。あの時本線さえ走っていたらと後の祭りを「急がば回れ」と悔やむのです。

 結果が全てですから、次からはしっかりと余力を持って日々を暮らしたいと思いました。ああそうそう、これは何も時間的なものだけではなく、人間関係だって仕事だって性急な結果を求めようとし過ぎると、失敗することがあるのでご用心ください。


  「昔人 急がば回れと 説いている 心の焦り なきよう留意」

  「人ならず 自分も何度 したことか 急がば回れ 拳拳服膺」

  「近道を したのに後ろ 走ってた 車が前に 何時の間にやら」

  「慌てない 戸口出る時 妻が言う 携帯忘れ 急がば回れ」

 

 

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shin-1さんの日記

○昨日は忙しくも楽しい一日でした

 春の近付きを予感させるように三寒四温の巡りが速くなり、午前中は持つだろうと思っていた天気予報は大幅に狂って、昨日は朝から一日中雨でした。予定していたサツマイモの苗床づくりと種イモ伏せは中止せざる得なくなってしまったのです。教育委員会担当者の岡市さんから朝一番で電話がかかりましたが、近々への変更を打ち合わせました。

 昨日は午前中久しぶりの休日でした。貯っている仕事を片づけたり、メールの整理をしたり、ブログや自悠くらぶへ原稿を送ったりと、書斎兼事務所でパソコンに向かって仕事らしい仕事をしました。ただ今わが家のFAXが故障していて、時折かかる電話兼FAXの着信音に慌ただしく長い廊下を玄関先まで走らなければならないのです。多分幾つかの文書がFAXに貯まっているものと思われますが、修理に出したNTTからはまだ何の返答もなく、今日あたりに確認の電話を入れてみようと思っていますが、民営化されて久しいNTTなのに、相変わらず対応は遅いようです。

 昼前には妻から頼まれていた珍味の送り物に送り状を書き込み、郵便局へ持参して送ってもらいました。私の場合宅配は殆ど郵便局を使っています。過去に荷物が届かないトラブルがあったものの、素早い対応をしていただきましたし、民営化に際して郵政懇話会に名を連ねたり、局長との長い付き合いもあるので、これからもよほどのことがない限り郵便局を利用しようと思っています。3日前に送ったミカンも北海道へ無事到着し、一昨日お礼の電話がかかってきました。

 半日だけでしたが家にいると、あれやこれやと人が訪ねてくるもので、書斎の椅子に座ると電話、また座ると来客チャイムと椅子が温まる暇がないほどです。私が全国飛び歩いている間、妻はこの全てを引き受けているのですから少し感謝をしなければなりません。

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 午後からは松山で打ち合わせ会があって出かけました。行く途中伊予市の灘町商店街を通りましたが、谷岡和美さんたちがやっている雛飾りがあちらこちらで見えました。時間がないので目についた田村家具の前の雛飾りだけほんのさわりのように見学し通りすがりましたが、店のあちこちのショーウインドウにはそれぞれのお店が施行を凝らして雛飾りを展示していました。しかし残念ながら雨のため人通りは少なく、少し心が痛みました。

 打ち合わせが終わり、予約していた新潟行きのチケットを伊予鉄観光社で受取り、久しぶりに娘のマンションへ立ち寄りました。孫の尚樹は嘔吐下痢の後遺症が少し見られるものの元気を回復していて、間もなく一年生になる朋樹も穏やかに育っているようでした。

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 昨晩は桑原公民館で開かれた地域づくり講演会に講師として招かれました。娘のマンションからカーナビを頼りに車を走らせましたが、いつも行く愛媛大学農学部のすぐ傍だと聞いてはいたものの、かなり入り組んだ場所にあって、カーナビがなければ迷うところでした。

 先日コープえひめの理事会で出会った立川百恵さんや桑原中学校の堺校長先生などなど、冬が逆戻りしたような底冷えのする夜でしたが、顔見知りの人がたくさん来ていて、やばいなあと思いつつ90分間の話をさせてもらいました。メールをいただいた若い人と名刺交換したり、和気あいあいの交流となりました。桑原地区では今月にもまちづくりの実行委員会を立ち上げるべく準備をしているようで、今後の活動に期待したいと思いつつ公民館を後にしました。


  「やぶ用で 一日過ごす 春の日は どこか浮き浮き 仕事片付く」

  「書斎から 見える庭樹に メジロ来て 右や左へ 忙し飛び交う」

  「久方に 孫の顔見て じいちゃんと まとわりついて くれるは嬉し」

  「顔見知り 多き会場 あちこちで 手を振り会釈 講演弾む」

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shin-1さんの日記

○加熱するお雛様競争

 最近はどこが火をつけたのか分かりませんがお雛様流行りで、どこもかしこもお雛様を飾るようになりました。確かにお雛様は日本固有の文化であるには違いないのですが、こうもあちこちに飾られるとはてさてお雛様も困惑しているのではないかと思われるのです。最近はまちづくりの一環としてお雛様の人気が急上昇して、やれ私の町が数で日本一だとか、雛飾りの長さが日本一だとか、抜きつ抜かれつの意味もない競争が激しさを増しているようで、かつて村おこしやまちづくりでナンバーワンやベストワン競い合った競争社会を垣間見ているようです。

 元々お雛様は鯉のぼりとともに生まれた子どもの成長を願って自宅の座敷に飾るものでした。娘を嫁がせた親にとって嫁ぎ先で子どもが生まれることは喜ばしいことなのですが、男の子が生まれると鯉のぼり、女の子が生まれるとお雛様を送る風習は貧乏な時代故に親の頭痛の種でした。そんな時代であっても親は無理をしなけなしの財布をはたいて鯉のぼりやお雛様を贈ったのです。そこには涙ぐましい秘話が隠されていることを見逃すことはできません。また貧乏ゆえに贈れなかった親と、貰わなかった子どものいいようのない寂しさもあったのです。

 私が子どものころ、わが家にも姉のお雛様が飾られていました。やんちゃな男の子故にお雛様などどうでもよく、生けていた桃の花の横に供えられた菱餅と雛豆、それに白甘酒が目当てでした。勿論その頃は菱餅も雛豆も白甘酒も全て母親の手作りでした。

 ひな祭りの時期が近づくと母親はお米の蒸して干した干飯を少し油を打ってホーロクという素焼の平鍋で炒るのです。パリパリと音を立てて干飯ははじけます。同じようにお餅を細かく切ったのをホーロクで炒るとふっくらとしたオカキができるのです。同じように大豆をはじかせます。それらを混ぜて鍋の中で溶かしたギョーセン飴と砂糖でまぶし、モロブタという木枠に流し込みます。冷めるのを待って包丁で小切りすると雛豆が完成するのです。これはとても美味しく、出来上がるまでの間じっと見ては母の目を盗んで干し飯、オカキも大豆も、また雛豆も味見をするのです。出来た雛豆は湿気が来ないようにイットウ缶に入れられ押し入れの隅に保管されるのですが、親の目を盗んで食べるのですが、怒られながらも何とも言えない味でした。そんなおふくろの味を作る家庭も殆どなくなりました。今は逆にこのころになると村おこしの特産品として作られ道の駅などで販売されているようです。


 私の妻の実家のある八幡浜では真穴地区に座敷雛という珍しいお雛様行事が今も連綿と受け継がれています。これは今様なお雛様と違い、座敷いっぱいに箱庭のような飾り付けが行われる大々的なもので、真似のしようがありません。お雛様を使って商魂たくましくやるのも結構ですが、真穴の座敷雛のようにもう少し心のこもったお雛さん行事にして欲しいと加熱するお雛様競争を見て思いました。

 そうそう、わが伊予市の商店街ではビニール平紐などを使って創作お雛様を造っているようです。これはまさに手作りで、作るプロセスそのものに意味があってどこかほのぼのとしています。かつて可愛い女の子だった彼女たちも今では立派な熟女になっていますが、少女のころを思い出しつつ造るお雛様を見ながら一体どんな夢を見ているのでしょうか。

  「加熱する お雛様見て 思うこと 勝った負けたと 一悠するな」

  「手造りの お雛様置く わが玄関 嫁ぎし娘 懐かし思う」

  「男の子 故に雛様 贈れない 女の孫が 待ち遠しいな」

  「荷造りの 紐で雛様 造る人 幼き日々を 思い出しつつ」

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shin-1さんの日記

○今年も確定申告の季節がやって来ました

 確定申告のシーズンになって、昨日立ち寄った市役所支所では何人かの人が紙袋を提げて役場の中に入ったり出たりしていました。「ああもうそんな時期か」と3月が年度末であることを実感しました。役場に勤めていたこの頃は年度末は補助金事務の処理に追われたり、新しい年度の計画作成と重なり、「忙しい日々を過ごしたなあ」と昔を懐かしみました。役場が市役所支所になってから当分の間は地元灘町の区長をしていたこともあって、何かにつけて足繁く通っていましたが、次第にその足も遠のいて今は視察研修にこれれる人のためにパンフレットをいただきに行ったり、少年少女おもしろ教室の実行委員長を務めていることもあって教育委員会へ行く程度に減ってしまいました。それでも顔見知りの職員さんからお茶でもどうぞと事務室内に招かれたりして、四方山話に花を栄えますが、それでもこちらが忙しいこともあって数えるほどしかなくなりました。他の市民と同じように私にとっても市役所の敷居は少し高いようです。

 一般の人なら誰でもそうかも知れませんが、私は確定申告などの手続きに関して勉強不足で中々自分で計算したりすることができません。ゆえに恥ずかしながら旧友の力を借りて毎年やってもらっています。先月その友人と会うと、「もうそろそろなので準備をしておいてください」といわれました。毎年のことながら1月は去る、2月は逃げると言われるように忙しく、1年間にどの程度の収入があったのか、一覧表を作るのが一苦労なのです。私のの収入は講演料や執筆料などが全てですから、殆どの場合はいただくときに源泉徴収という名目で課税され既に差し引かれているので、いただいたり送られてきた源泉徴収票を自分の日程表と付け合わせながら作成します。講演などの場合講演料に旅費を含んでいるため、源泉徴収票でその旨の確認をしながら旅費を割り出します。インターネットが使えない時は、旅の行程や旅費を小まめにノート記入していましたが、今は旅費計算はパソコンが瞬時にしてくれるためかなり楽になりました。しかしいつも思うのですが、旅費は確実に実費がいるのに旅費にも税金がかかるのです。多分確定申告では旅費で引かれた税金は必要経費で帰ってくるのだろうと思いつつ、旅費を調べて再掲をしているのです。

 「あんたは口で稼ぐからいい」と友人や周りの人は私のことを羨ましがります。またある人は「あんたは弁当箱も投資も何も要らん」といいます。確かにそんな羨ましがられる部分はあるかも知れません。しかし私だってかなりの部分で人に言えないような苦労や努力があることも事実なのです。私は漫談家綾小路さんではありませんが「呼ばれないと行けない」のです。呼ぶ側にも都合があって、私の持っている総合力を評価してフィーリングが合えば話がまとまるのです。問題はそこからです。ただ行くだけだったら簡単でしょうが、行った先々ではそれなりの仕事をしなければならないのです。それは肉体的には楽そうに見えますが神経的にはかなりの重労働です。時にはその重さが原因でストレスも溜り体調を崩すことだってあるのです。

 ポジティブに生きているように見える私を見て「ウソー、信じられない」と思うでしょうが、こう見えても以外と繊細な精神の持ち主なのです(ウソー)(笑い)

 2月末にやっとこさで一覧表をまとめ友人に源泉徴収票と一緒に渡しました。私にとってこの友人は1年に一度お世話になるだけながら、生きていくための頼りになる人なのです。今年も減税方よろしくお願いいたします。


  「お前楽 いつも言われる 言葉です 口先一つ 飯を喰うやつ」

  「旅費にまで 税金とるは 何事か いつも思うが 答え帰らず」

  「申告は 市民の義務と 言い聞かせ 今年もきっちり ぬかりなきよう」

  「早4年 時の流れに 竿差して 浪人暮し すっかり板に」 

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shin-1さんの日記

○またもや金融広報アドバイザーに再任されました

 記憶を遡れば思い出せないほど昔になった昭和51年に、一枚の辞令をいただきました。もうその辞令も探さないと何処へ行ったか定かでないのですが、当時は貯蓄推進委員会という組織が中央にあって、そこから「貯蓄推進委員」というお役目をいただいたのです。当時は公民館主事をしていたこともあって、貯蓄や家計簿記帳の必要性を県下各地の公民館へ出かけて熱っぽく語っていました。あれから30数年があっという間に過ぎ去りましたが、再び、三度、四度と回を重ねて12度目の辞令をいただいたのです。辞令をいただく前に再任の場合は簡単な説明とお誘いがあって、その都度「まだ若いのだから」と事務局である日銀松山支店長が会長を務める愛媛県金融広報委員会からの勧めるままに甘んじてきました。しかしそろそろと退任希望を出せば出すほど、強い引き止めに合い、今回もまた今期限りという約束で引き受けてしまいました。

 役立ち感が薄れて行くことだけは避けようと、自分の得意な分野で活動していますが、金融をめぐる社会はこの10年で大きく様変わりをし、また金融のトラブルも絶えまなく大きな社会問題を引き起こしているのです。


若松進一ブログ(金融広報中央委員会長から金融広報アドバイザー委嘱状が届き、今日愛媛県金融広報委員会長である日本銀行松山支店長さんから委嘱状が伝達されました)

 今日は大学の出勤日で、午前中大学での打ち合わせが2件ほどあったので、午前中の会議はやむなく欠席をさせてもらいました。しかし退任される山口章子さんを囲んで昼食会を行うという事務局からのお誘いもあって、打ち合わせを早めに切り上げ、やっとの思いで日銀松山支店に到着し昼食会に間に合いました。

 山口さんとは12年来の付き合いで、現アドバイザーの中では一番古い付き合いです。彼女が始めて私たちの仲間になった12年前には、私より若い人でしっかりしていると実感し折に触れてご指導いただきました。現在は若い人が何人か入られましたが、山口さんのような出会いが中々なく、少し不安を感じていただけに寂しい退任となりました。ご主人の転勤でえひめを離れるそうなので益々寂しくなります。

若松進一ブログ(左が丹治日銀松山支店長さん、中央が退任された山口章子さん)

 日本銀行といえばどんな仕事をしているところなのか、庶民の私たちには中々分からないベールに包まれたところです。その中に金融広報委員会というのがあって、その仕事のひとつとして金融広報や金銭教育などがあり、私たちアドバイザー10人余りが第一線で活動を行っているのです。

 金銭に余り縁のない私がアドバイザーとは少々おかしな話ですが、私はこれまでの30年の貯蓄推進や金融広報活動を通じて自らの人生の生活設計などで大いに役立ち、充実した半生が送れているのもこの仕事をしたお陰であると、恩返しの意味も込めてこれから3年間一生懸命頑張ろうと心に誓いました。


  「一口に 三十年と 言うけれど よくも関わり よくも出来たと」

  「また一人 仲間が一人 去って行く 俺より先に 何でこうなる」

  「若い方 思っていたが いつの間に 歳をとったの 自分にさえも」

  「さあやるぞ 最後踏ん張り しなければ 恩は返せぬ そんな意気込み」

 

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shin-1さんの日記

○体調変化の兆し

 私は元来体は丈夫にできていて、人様のように頭や腹がうずいたり、体に異変が起こることが少ないタイプなのですが、今年の年末年始に風邪をひいてから体の異変が起こったのか、3日前に食当たりをしてしまい、腹は痛くならなかったものの胃の中が空になるような下痢に見舞われました。食べた物をあれこれ考えてはみたのですが、同じものを食べた妻に食当たりはなく思い当たる節がないのです。普通は逆で食べ物に敏感な妻が食当たりしても私は平気なことが多く、妻を羨ましがらせていたのです。妻が「私が作ったた料理のせいではない」と犯人夏かされることを嫌って、「同じものを食べたのだから」自己弁護しているのですが、妻の言うように「このところ忙しかったから疲れているのよ」と、体調を気遣ってくれました。

 それでも明くる朝からえひめ地域づくり研究会議の研修旅行に、一応責任者として参加しなければならず、下痢のため度々トイレへ行き寝れない夜を過ごしたつけは大きく、参加した人からいつも元気はつらつな私と違う様子を見て、「若松さん体調が悪いの?」と気遣ってくれるほどでした。

 私は出がけに妻に正露丸を出してもらって3粒飲みました。食当たり、水当たりには正露丸はよく効くのでいつも愛用しているのですが、この日もお陰さまで下痢はおさまり、体調も昼過ぎには回復しました。それでも日ごろあり得ない眠気は終日続きました。

 年末年始に風邪で体調を崩した時も、歳を感じたり体力の衰えを実感したので、今回もそのことを頭に入れて行動しないと、取り返しのつかないことになりそうな予感がしました。このところ相次ぐ長旅による疲労の蓄積が体の目に見えない部分に少しボディブローのように効いていたような気もするのです。

 3月いっぱいはまだ忙しい予定が組まれていて、気を引き締めてつとめてリラックスした日々を過ごせるよう気遣いをしたいと思っています。余裕といえば机の上が少し乱雑になっているようです。締切のの原稿もまだ2つもあって、その調べ物のために出した本がそのままになっていたりするのです。また昨日届いた郵便物も封を切ることもなく机の隅にうず高く積まれています。今日も大学や金融広報委員会のの会議が予定されていているのでとにかく早く体調を整えて、バックヤードの整理整頓をしたいと思っています。

 健康といえば、最近は寒かったせいもあって運動不足になっているようです。携帯電話についている万歩計の歩数経歴などは惨憺たるもので、歩く距離をできるだけ伸ばそうと試みてはいるのですが、昨日のように旅に出た時ですらかろうじて10,299歩ですからもっと歩かなければなりません。


 私の体調変化の兆しは妻も気が付いているようで、自分の体調もさることながら私の体調を気遣って盛んに食事面に気を使ってくれています。例えば昨日は柳井から乗ったフェリーが三津浜についた頃携帯電話がかかり、「何時に家へ到着するか」と聞くのです。「食事の準備がある」と付け加えました。家に帰ると期せずして御飯が炊きあがって、炊き立てのおいしい御飯を食べることができました。また美味しい早良の刺身が食卓に並び、野菜のしゃぶしゃぶとともに、栄養満点、家庭円満を満喫しました。

 子どもたちもそれぞれ独立し、私たち夫婦もそろそろ老域、お互いがお互いをいたわる年代になりつつあることを実感しつつ、これからは夫婦が健康を第一に日々の暮らしを整えて行きたいと思っています。


  「家に着き あったか御飯 炊きあがる 機を見て敏の 妻に感謝し」

  「正露丸 たった三粒で もうケロリ 落ち目の体 実感しつつ」

  「歩く距離 運動量も これじゃダメ 体鍛えて 若さ回復」

  「春来れど どこかすっきり せぬ体 波状攻撃 忙し日々が」

 

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shin-1さんの日記

○新たな旅立ちのために

 昨日の夜は瀬戸内荘やまもとという小粋な民宿に泊まりました。新山さんはじめとする周防大島の町づくり活動者を囲んで楽しい語らいの食談会が催されました。テーブルには海の幸が並び、新山さんからいただいたお酒などを召しあがりながら、地域づくりについて楽しく語りました。

 今期限りでえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員をの職を退任する予定の私にとっては、これまでの県外研修とはまた一味もふた味も違った感傷にふける旅となりました。私にとってこの20年余りの地域づくりは研究会議とともにあっただけに、少し寂しい気もしましたし、私の仕事を引き継ぐべき二人の代表の参加がなかったのは不安な気もしました。しかし私の自律と自立のためには避けて通れない道と思い、4年前に辞意を漏らしたものの受け入れてもらえずついつい長引いてしまいました。でも今はホッとしてゼロに戻れる自分を喜んでいます。

私はこれから人間牧場を使って新し地域づくりをしようと思っています。そういう意味で今回の旅は発願の旅と位置付けました。これまで自分が輝いてきた輝きの部分を後継者に光を当てる作業ですが、これも思っているほど容易なことではありません。でももう自分で決めたことなので、想いをこめてチェンジとチャレンジをしたいと思いました。昨晩は同室だった仙遊寺の小山田さんと過ぎこし人生を話しました。二人が出会ったこと、二人がこれまで歩んだこと、二人がこれから歩もうとしていることなどなど、しんみりと話しました。

若松進一ブログ(宮本常一のお墓に皆さんでお参りしました)
若松進一ブログ(宮本常一の墓に並ぶ父親善十郎のお墓)

 夜明けの5時前に目がさめましたが、同室の菊池さんも小山田さんもまだ就寝中なので私も布団の中で色々と思いを巡らせ、薄暗い電球の下で思いつくアイディアをいつものごとくメモしていました。今朝は7時に食事をして7時30分には宮本常一さんのお墓参りに行こうと約束していた通りみんなで朝の空気を吸いながら出かけました。田舎の朝は歩く人もなく時折通る軽四トラックに道を譲りながら豊田さんの案内で約20分をかけて墓地まで行きました。お寺の境内のすぐ裏に宮本常一さんと父親善十郎さんのお墓はありました。佐野眞一さんの旅する巨人を読んでいるため、私はむしろ善十郎さんのお墓に興味がありました。今日は数日前までの雨模様の天気が全く嘘のように快晴で清々しい春の陽気で、田んぼのホトケノザの濃いい薄紫の花が一段と鮮やかに咲いていました。せっかくだからと宮本常一の生家を訪ねました。時代の変遷で生家はこじんまりとした家に生まれ変わっていましたが、宮本常一に思いを寄せる一人の人間として、いい思い出ができました。

若松進一ブログ(宮本常一の生家あたり)
若松進一ブログ(周防大島町東和支所が併設されている星野哲郎記念館は、演歌の世界らしくすっきりとしたたたずまいでした)

若松進一ブログ(星野哲郎さんの等身大人型パネルとともに、記念写真を撮りました)
若松進一ブログ(道の駅とうわには、双海町で習ったじゃこ天の店もありました)

若松進一ブログ(宮本常一につながる宮本農園の焼き芋屋も出店していました。わたしはそこで東和金時という種イモを31個買い求めました。人間牧場でこの芋の増産を図りたいと思っています。その芋はもうかすかな芽吹きが感じられるほどでした。さっそく今週中には種イモを伏せる作業をしたいと思っています)

 作詞家星野哲郎記念館を見学したり、宮本常一記念館を見学したり、また道の駅サザンセトとうわを見学したりして午前中を周防大島で過ごし、いつもは沖合い遠き場所から眺めながら旅する周防大島の北側の道を走り、周防大橋を渡って最後の目的地である柳井へ入りました。昼食会場である四季旬菜蔵やのの2階へ上がりました。ここでは春を待つ心そのままに艶やかな和風創作料理がテーブルに並び、料理もおいしく堪能しました。事務局である松本さんの手配よろしく柳井市白壁の町並みを守る会事務局長国森さんの話を、同じ会場で聞き、連れだって観光ボランティアガイドの方の案内で町並みを散策しました。やはり印象に残ったのは国の重要文化財に指定されている国森家の素晴らしさでした。

若松進一ブログ(きれいに整備された柳井の白壁の町並み)
若松進一ブログ(蔵やの創作料理は美味しい味でした)
若松進一ブログ(柳井の名前の由来になった三代目の柳の傍にある井戸)
若松進一ブログ(国の重要文化財に指定されている国森家はその規模に圧倒されました。隠し階段や大火から守る工夫が随所に見られました。旧家らしく調度品にも深い味わいが感じられました)
若松進一ブログ(二階の土蔵窓風の格子窓から見る街並みもおつなもので、まるで時代劇を見ているようでした)

 僅か一泊二日の旅でしたが、好天に恵まれ、仲間との語らいも楽しく、防予汽船に乗って夕闇迫る三津浜へ帰り、参加した人たちはそれぞれの目的地を目指して帰って行きました。


  「転機なる 旅をしみじみ 味わって 過ぎ越し日々を 思い出しつつ」

  「古きもの 深き味わい 感じつつ  まだ春浅き 街並み歩く」

  「風揺れる 柳の枝の 芽吹き見つ 木々の営み 人に勝ると」

  「格子戸を 透かして見える 大通り 観光客ら ぶらぶら歩く」 

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shin-1さんの日記

○周防大島東和町を訪ねる

 私が代表運営委員を務めるえひめ地域づくり研究会議では毎年この時期に、県外視察研修を行っています。豊予海峡地域づくり交流事業の助成を受けて行う事業なので、しっかりとした学習プログラムが組まれていて、今年は山口県周防大島・柳井を目的地に17名が参加しました。

 出発点となる三津浜港に集合した一行は周防大島フェリーで伊保田港向かいました。船中では出向するやいなや早速、宮本常一を語る愛媛の会の浜田久男さんの話を客室で聞きました。他の船客もいるため大きな声では出せませんが、船のエンジン音が聞こえるためまるでかぶりつきのような形で講義を受けました。浜田さんは愛媛では豊田さんと並んで宮本常一研究の第一人者らしく、様々な宮本常一に関する書籍類を目の前に並べ、まるでフーテンの寅さんのような出で立ちで講義をしていました。昨年人間牧場の年輪塾である部分の話は聞いていましたが、その後様々な資料が追加されてバージョンアップした話に皆さん熱心に耳を傾けていました。

若松進一ブログ(読書家浜田さんは、宮本常一の諸世紀を並べ船内で熱弁をふるいました)

 伊保田の港までは約1時間で、浜田さんの話を聞いていたためあっという間に到着しました。伊保田の港は何度も訪れているだけに懐かしい雰囲気でした。あらかじめチャーター手配がされていた久観交通のバスが迎えに来ていて、昼食講和会場となっている竜崎温泉へ向かいました。温浴施設となっているためそれなりの人が訪れ温泉や買い物を楽しんでいました。私たちは二階に通され食事をした後「周防大島の島おこし」という話を、島スタイル編集部大野圭司さんの話を聞きました。30過ぎの若い人でしたが、プレゼンテーションの仕方は一流で、今回は若い人が参加していたため、かなりのインパクトがあったようでした。特に大島高専での起業家養成塾島スクエアは中々面白い内容で、注目をして聞きました。

若松進一ブログ(温浴施設の中にある特産に品売り場には、ミカン王国愛媛もまねのできない様々な商品が開発されていました。みかん鍋?、みかん饅頭など面白いものがありました)
若松進一ブログ(大野さんの夢語り)

 私も仕事がら色々な島を訪ねてきましたが、島を舞台に力強く生きている人は沢山目にしてきましたが、起業家を育てるという大きな夢に向かって努力している姿には熱いものを感じました。

若松進一ブログ(小松先生を迎えた集中講義)
若松進一ブログ(小松先生を囲んでの懇親会)

 その後私たちのために日程を合わせてもらった周防大島郷土大学の開かれる周防大島文化センターへ行きました。ここは一昨年宮本常一生誕百年の記念事業の際に尋ねた場所なのです。この日は政策研究大学院教授の小松正之先生の「日本と周防大島の水産業再生」という話を拝聴しました。先生は元水産庁職員として日本水産のために働いてきた人なので、水産をグローバルな視点でとらえ、ローカルな行動を起こすよう促されました。この日は水産関係者も多くいて、質問も活発でした。先生を囲んだ懇親会には私たち愛媛が大勢を占めていたため、いきなり新山さんから乾杯の音頭のご指名がいきなりあり驚いてしまいました。会場には道の駅とうわを作るとき何度も教えを請いにこられた現周防大島町総務課長の中野さんの姿もあってこれまた2度びっくりの懐かしい再会となりました。

 宮本常一という文化人を輩出したこの地は、宮本常一の影響もあってかなり文化度が高く、郷土大学では数日前にも立松和平さんが見えられるなど活発な活動が展開されているようで、見習わなければならないことが沢山ありました。多分この視察研修は私にとっても参加した皆さんにとっても幾つかのヒントがあったのではないかと思いました。

若松進一ブログ(周防灘に沈む夕日)

  「みかん鍋? 思わず噴き出し さてお味 一度は食べて みたいものです」

  「高齢化 進む島でも 文化度は 日本一だと 納得しつつ」

  「若者が 夢を一気に 機関銃 あんな時代が 俺にもあった」

  「この地にも 夕日は沈む 対岸の ふるさと今は どんな色して」

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