shin-1さんの日記

○天下の八海醸造でもてなしの心を学びました

 皆さんは「八海山」という名前を聞いた時どんなことを思い出すでしょう。私のような下戸(お酒を飲まない人)であれば「八海山」という山の名前くらいしか連想しないのかも知れません。しかし通な人(お酒を愛する人)であれば、一度や二度は聞いたことのあるお酒の銘柄だとすぐに分かるし、一度は飲んでみたい酒でもあるのです。その蔵元である八海醸造さんからこの度講演の依頼が舞い込み一も二もなくお引き受けしました。私の今回の招聘には越後湯沢ぽんしゅ館の高村秀夫さんが絡んでいて嬉しいことなのです。

 八海醸造は上越新幹線浦佐駅からそんなに遠くない八海山の麓にありました。八海醸造は年間3万4千石ものお酒を醸造する全国的にも名の知れた蔵元です。1石が一升瓶で百本だと聞きましたから、3万4千石という数字は気の遠くなるような数字なのです。最近は焼酎やワインに押されて日本酒の飲酒量が右肩下がりだと聞いていましたが、この酒蔵は別格で関東を中心に愛飲されているという話を、八海山の雄大な自然をバックに中村企画課長さんから聞かされ納得しました。八海山のまろやかな伏流水、魚沼でできる美味しいお米、杜氏さんの確かな技、そして北国の寒い風土が三位一体ならぬ四位一体となって八海山という芸術品にも似たお酒は出来上がるのです。私の町に朝日酒造の特約店があって久保田などが販売されているため、新潟のお酒については店主の三井典行さんから随分聞かされていましたが、その三井さんも昨年ガンで亡くなり、縁が途切れたように思っていましたが、今回の蔵元での講演会でがぜん新潟が近くなったような感じがして、新潟入りする直前に東京御徒町のスーパーで八海山を買い求めて宅配便でわが家宛てに送ったのです。

若松進一ブログ (地ビール工場の二階にある結婚式もできるという素晴らしいレストランが講演会の会場でした)
若松進一ブログ (地元の著名人が名を連ね、会員さんたちが80人ばかり集まっていました)

 八海醸造は地ビール工場も持っていて、この日の講演会は工場の二階にある大きなレストランで行われました。船底をイメージしたというまるで木造教会のような見事な建物です。私の話は90分でしたので、少し早口での講演になってしまいました。私のような田舎者の話にも熱心に耳を傾けていただきました。

 普通だと講演会後のパーティでは八海山を飲みたかったのですがそれもかないませんでした。それでも盃にほんの少し注いでいただき香りと味をたしなませていただきましたが、いやあ出されたお酒は蔵元が自信を持ってここだけしか出さないし飲めないという幻の一品だけあって、参加者も心得ながら飲んでいました。地産をモットーにしたシェフのこだわり料理も最高で、特に雪下人参のスープはこれまで飲んだどのスープよりも美味しかったと、自分の舌が今もその味を覚えているのです。

 蛇足ですが、この素敵なホールでハーモニカの音色を響かせたいと急に思いつき、中村課長さんにお願いして最後に演奏をさせてもらいました。

若松進一ブログ (この方が社長の南雲二郎さんです。中々の太っ腹でいいお出会いとなりました)

 パーティは時間を延長して午後9時30分で中締めとなりましたが、その後主だった人たちは会社の横にある迎賓館のような凄い民家に招かれ、会長である社長のお母様の手料理を頂きました。この会社先代とともに育ててきた会長さんの人をもてなす術にはもうただただ感心するばかりでした。一族会社は得てして気ぶらいが高いものですが、会長さんのひたむきな姿を見て、この会長さんとの出会いだけでも新潟に出かけた甲斐はあったと一人嬉しくなりました。酒の肴に出された会長さん自らが作られたという手料理の数々は、損所そこらでは食べられないものばかりでした。


若松進一ブログ(お座りの方が会長の南雲仁(あい)さんで、この料理を全て作られたそうです。いやあ驚きました)
若松進一ブログ(私もご相伴にあずかりました)

 その夜の宿泊所での管理人さんのもてなし、あくる朝社員食堂での朝食とすっかり迷惑をかけ、挨拶もそこそこに会社を出て帰路につきましたが、繁栄する会社のもてなしの仕方をしっかり胸に刻んだ八海醸造での一泊二日でした。


  「蔵元で もてなし心 学びつつ 雪の寒さを 忘れて熱く」

  「船底を イメージしたと いうホール ハーモニカ吹く 響き朗々」

  「酒絶った ことを悔むや 八海山 鼻に近づけ 香りだけでも」

  「この酒を 親父に飲ませ やりたいと 思うだけでも 孝行つもり」  

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shin-1さんの日記

○清水女史と二人で束の間の東京を楽しむ

 私の町から新潟を目指すには松山空港まで車で行きます。空港近くのコナンパーキングに車を宿泊させ、羽田空港を経由します。羽田からモノレールで浜松町まで出て、東京か上野から新幹線で新潟入りするのが一般的な旅のルートです。すんなり乗り継ぐと遠いと思っている新潟も場所によっては午前中に着くのですから、便利で早くなったものです。

 今回はほくとう総研(北海道東北総合研究所)の清水女史が同行していただくことになりました。今回の新潟行きは元はといえば、清水女史によって引き合わせていただいた越後湯沢ぽんしゅ館の高村さんの仲介によるもので、私の新潟行きを知ってわざわざ休みまで取っての同行で恐縮してしまいました。

 清水女史とJR御徒町北口にあるスーパー吉池で落ち合いました。飛行機の便が早かったため、午後の待ち合わせに十分時間があって、食事をご一緒したり吉池総務部の三浦女史とも出会って、吉池のお店の惣菜や鮮魚、酒類部門の見学をしましたが、いずれも凄い人気のお店で参考になることがいっぱいあり行きずりの見学ながら勉強をさせていただきました。

 清水女史とは秋田県横手への同行、2015年問題で新潟入り同行、ほくとう総研の現地調査で愛媛県視察の折の人間牧場見学、ほくとう総研への寄稿文掲載など何度か同行したりお仕事をさせてもらいましたが、山梨県清里に住む観光カリスマの舩木上次さんとも深い交友があることから、急速接近の間柄になっているのです。

 清水女史は今回新しい名詞を持っていました。東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻、人文地理学教室博士課程という、東京大学らしく難しい学問を習っているのだそうです。政府系金融機関の職員でありながらほくとう総研という研究機関に出向して、それでも飽き足らず学びながら博士を目指す向学心は立派という他はないのです。私の周りにはこのような進化人類が何人かいて、出会うたびに進化している姿に私自身が感化を受けるのです。

 私も清水女史と初めて出会ってから随分進化したつもりでしたが、それでも清水女史にはまだまだ叶わないと、リベンジの相手ではないにしても頑張らねばと自分自身に進化を誓いました。

若松進一ブログ (久し振りに出会い、新潟まで同行していただくことになった清水女史と二人で東京見学ができました)
若松進一ブログ (上野公園入り口の桜は満開で一足早い花見を楽しみました)
若松進一ブログ (上野公園の象徴である西郷隆盛の銅像、彫刻家高村光雲の作です)

 吉池で食事をした後清水女史と私は御徒町からアメ横をぶらぶら歩き、上野公園を散策しました。少し肌寒いものの上野公園入口には早咲きの桜が今を盛りと咲いていて、一足早い花見を楽しみました。その後上野公園の敷地内にある忍ばずの池へ下りて行きましたが、東京のど真ん中ながら野鳥が沢山群れてのんびりとした気持ちにさせてもらいました。

 忍ばずの池周辺の木々の芽も膨らんで、風に揺れる柳の芽は伸び始めていました。この日は風が強く、私たちの地域では風雨が強くなったと、妻から電話連絡が入りました。

若松進一ブログ (深い紫色の釣鐘桜も咲いていました)
若松進一ブログ (忍ばずの池の入口の東叡山寛永寺境内)
若松進一ブログ (寛永寺の八角堂)
若松進一ブログ (間もなく忍ばずの池の真ん中を横切っている細い歩道沿線は桜の花が咲き、一年で一番美しい季節を迎えます)

 やがて私たち二人は上野から新幹線に乗り新潟を目指しました。この日は何故か列車の指定席が満席で取れず、時間があるので一便早い各駅停車に乗って座席を確保しました。越後湯沢で後発の新幹線に乗り換え、目的地である浦佐の駅に着きました。


  「西郷の 銅像見上げ いにしえの 敬天愛人 言葉を思う」

  「忍ばずの 池の周りに 羽休む 野鳥の背中 太陽そそぐ」

  「東大の 院生名刺 持つ女 心優しき 気配り合わせ」

  「束の間の 東京散歩 楽しけり 早咲き桜 一輪肩に」

 

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shin-1さんの日記

○八海山の麓にて

 上野発上越新幹線MAXときに乗り新潟県浦佐を目指しました。越後湯沢を出て長いトンネルに入ると日本地図が頭の中に思い浮かび、、日本の背骨だと思われる山脈の下を走っているような気分にとらわれまし。やがて暗闇を抜けると、川端康成の小説の書きだしと同じような「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」という表現がぴったりの雪景色が窓いっぱいに広がり、車内の人の目が一斉にそちらにくぎ付けとなりました。物知りな地元の人が「あれは八海山といって・・・」と簡単な説明を刷る言葉を聞きつ、車内放送と列車の減速にせかされながら降り支度をしました。かつて6年前の秋新潟へ行った時走ったと同じコースなのに、浦佐という駅名は全く思い出せないくらい知名度の低い駅なのです。新潟出身の宰相田中角栄のツルの一声でできたという駅だけあって、駅の周りは田んぼが広がり、どう欲目に見ても新幹線の駅とは思えない雰囲気でした。

若松進一ブログ (新幹線の車窓から見えた八海山周辺の雪景色)

 同行していただいたほくとう総研の清水女史と二人で改札口を出ると、八海醸造の中村企画課長さんが出迎えてくれました。3人で車に乗り込み田んぼの中の道を走りましたが、西に傾いた太陽の輪郭の横に、まるでツルが羽を広げたような不思議な雲を発見しました。私の指さす方を3人で見とれましたが、持っていたカメラで車窓から珍しい光景なので写真に収めました。目で見た興奮ほどには仕上がっていませんでしたが、すごい迫力でした。

若松進一ブログ (鶴が翼を広げたたような雲)

 その日の宿は、八海醸造の会社が保有している宿泊所で、ケヤキ材などをふんだんに使ったこれまたすごい木造建築物でした。昨年2015年問題のシンポジウムが南魚沼市で開かれパネラーで出席しましたが、その折訪れた見覚えのある富岡ホワイトという美術館の前を懐かしく通り、八海山が目の前に迫る凄いロケーションの場所に宿泊所はありました。チェックインといってもその日の宿泊は私一人なので、管理人のおじさんが優しく迎えてくれました。

 私はこれまで、迎賓館といわれるような場所に何度かお邪魔させていただきました。広島県呉市下蒲刈町の竹内町長さんの計らいの迎賓館、岡山県水島の三菱化学が持っている迎賓館などですが、この宿泊所もそれに次ぐ立派な建物で、この家に泊めてもらえることを幸せに思いました。

若松進一ブログ (宿泊させてもらった八海醸造の宿泊所)

 この日わが町では春一番に匹敵するような南西と北西の風が天地を揺るがすほど吹き荒れたというのに、西に沈もうとしている夕日は八海山を優しく照らし、まるでサーモンピンクと表現するにふさわしい優しい容姿でした。室内からは浦窓越しに雪景色と凍った庭池が見えました。

若松進一ブログ

 中村課長さんと記念撮影をさせてもらいましたが、こんな素敵な光景は地元の人でもめったに見れないということで、ラッキーボーイを自認する私としては、いつまでも記憶にとどめたい一枚でした。

 
若松進一ブログ
若松進一ブログ

 夕日に魅せられた男に反応してくれた白銀の中の夕日にも感謝しなければなりません。旅先で偶然に見ることの出来た冬枯れの木立に沈もとする夕日も乙なものでした。


  「大鶴が 天空羽根を 広げたる ような雲見て 感激しきり」

  「八海の 麓に一夜 宿を借る 至福この上 無きに等しく」

  「旅先で 夕日までもが 祝福し わが意得たりと 饒舌話す」

  「春はまだ 先のようだな 八海山 雪解けの頃 再び三度」  

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shin-1さんの日記

○インターネットが開かない?

 長い徳島や新潟を巡る旅を終え、帰りに大学の会議に出席してやっとわが家に着き、明くる日は再び島根へ旅立つため、メールの処理やブログの処理だけでもしなければなるまいと一昨日の深夜パソコンを開け、インターネットに接続しようとするものの、どういう訳かインターねっtが言うことをきかなくなりなっていました。前日までFAXの修理にNTTへ電話機を預けていたのが帰ってきており、そのせいだろうかと電話回線の接続などを知る範囲でいじってみましたが、原因が分かりませんでした。明くる日が5時出発のためそのままにして諦めましたが、テレビを見ていた妻が私の動作を見て、「お父さんひょっとしたらこれが原因かも」とNTTの一枚の請求書を見せてくれました。この請求書はインターネットの回線使用の請求書なのです。電話などは銀行自動引き落としにしているのですが、インターネットはISDNに加入したのが遅かったし、別会社化されて電話と支払いが分離したので、毎月妻が請求書が来るたびに振り込んでいたのです。

 妻はその請求書を自分のバッグに入れて振り込みをすっかり忘れていたのです。見ると3月11日までの振り込み期限でした。私は妻を叱りましたし妻も忘れていたことを詫びましたが、冷静に考えれば私のインターネット使用料のことで妻を叱ることはなかったと深く反省したのです。

 昨日の朝出かけ「くれぐれも今日中に振り込むよう」に頼んで出かけました。妻は土曜日だったため金融機関が休みなので昨日の昼休みに、伊予市のコンビニまで走り振り込みを終わったようでした。昨晩の夜遅く出張先の島根県から帰宅しインターネットに接続したら、復旧していました。何ともはやお粗末な話です。お金を払わないでインターネットの接続を止められたのは初めてですが、もう10数年前にも一度このような不始末で電話が止まって大騒ぎをしたことを思い出しました。

 ある日のこと町長さんから「数日前からあなたの自宅へ電話をかけるのですが、お客さの都合によりこの電話番号は使えませんとコールされて電話が通じない。どういうこと?」と聞かれました。「そんなことはないはずですが?」といって、職場からわが家に電話をかけましたが、町長さんが言うようなメッセージがコールされるのです。自宅に戻って調べてみると電話が全く通じないのです。故障かも知れないと思い妻に調べてもらったところ、妻が銀行引き落としの通帳にお金を移すのを忘れていて、残高ゼロのためNTTから電話代未払いで電話回線が切られていたのです。

 私は顔から血が引くような気持でしたし、妻もそのことを恥じてそれからはトラブルもなく過ごしてきたのです。今回は単純なミスなので笑って済ませたし、直ぐに復旧し事なきを得ましたが、この際自動引き落としにしなければと妻に指示をしたところです。

 しかし最近は通帳を見ると電気度代や水道代など様々な自動引き落としの項目が妻の管理する通帳には無造作に記載をされていました。そのいちいちを妻はチェックしているようですが、私はそんなチェックの暇もなく日々を過ごしています。この際無駄なものは整理をしようと思った次第です。


  「代金を 払わず回線 止められた インターネットが 動かず右往」

  「十年も 前の出来事 思い出す 電話通じず 町長注意」

  「わが暮らし インターネット なくなれば はてさてどうなる 考えられず」

  「四日間 長旅故に 助かった メールの山に ただ驚きて」

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shin-1さんの日記

○時刻表の話

 この4日間、自分の車を乗り継ぎ、時刻表をめくりながら楽しい旅を続けました。全国行脚を続ける私にとって列車や飛行機の時刻表は今や無くてはならないものになっていますが、その時刻表に異変が起こったのは4年前に役場を退職してからでした。それまでは旅に出る時は役場に備え付けの時刻表をめくって旅を組み立てていましたが、退職するとそんなこともできず、何れない手つきでパソコンのインターネットで時刻表を検索しなければならなくなったのです。しかし慣れてくるとインターネットの時刻表検索はすごく便利で、乗り継ぎや次の便、さらには金額まで瞬時に出てくるのですから、プリントアウトし安心して旅に出れるのです。

 数日前、新潟県へ講演旅行に出かけました。松山空港から羽田空港まで空の旅を楽しみ、乗り継いで東京から新潟県浦佐駅まで新幹線に乗りました。車内は2階になっていて始めて2階席に座って一息入れました。席の前に車内報が置かれていて、時間つぶしにめくっていると面白い時刻表の話が載っていました。

 いつも思うのですがあの分厚い時刻表の数字の一つ一つをポイントととして無数のJR普通、新幹線、特急は勿論のこと私鉄やバス、空路、航路が日本国中で毎日動いているのです。

 時刻表は明治5年に鉄道操業とともに誕生しました。この年の6月に「鉄道列車出発時刻及び運賃表」が定められ、利用者の便に供したのです。運航路線や列車が少ない時の時刻表は一枚の紙でよかったのですが、明治中期になると冊子型時刻表が登場するようになりました。そして明治27年には月刊スタイルの冊子型時刻表が誕生しました。これは東京の庚寅新誌社から発行された「汽車汽船旅行案内」で単に列車の時刻だけでなく、各駅最寄の名所旧跡紹介するガイドや紀行文なども掲載されました。B5版より小さくページ数は本文だけで94ページ、折込路線図も入って、現在に通じるものになっていました。


 この時刻表は出版事業として成功を収め大正14年に創刊した日本旅行文化協会の時刻表は現在のJTB時刻表にあたり今年5月で通巻1000号を数えるのです。

 一方昭和62年に発足したJRでも独自の時刻表を交通新聞社が編集して出版し今日に至っています。若いころはじめて旅先で時刻表を買い求め、時刻表をめくりながらその不思議さに度肝を抜かれた鮮烈な印象を今もはっきりと覚えているのです。時刻表を繰りながら接続をページをめくって探し、それをメモして旅を組み立てた懐かしい旅のスタイルは、インターネットの出現で姿を消しましたが、時刻表をめくるたびに時刻表の中から出てくる新しい発見に何とも言えない興奮を覚えた旅の思い出はもう懐かしい記憶でしかないのかも知れません。

 何時の日か、退職でもしたら何の目標も持たずカバン一つに時刻表を忍ばせぶらり行き当たりばったりの旅に出たいと思っていた夢が叶う歳になったのに、何故か私の日常はまだまだそんな旅を手に入れることすらできないほど忙しいのです。


  「メガネなく 数字が読める 時刻表 私の夢は ぶらり旅だが」

  「この数字 一つ一つに 人ありて 日本列島 乗り物動く」

  「わが書棚 一冊残る 時刻表 下灘駅の 写真掲載」

  「今はもう 時刻表など 見ずの旅 何処でも行ける 旅の達人」 

  

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shin-1さんの日記

○今晩徳島県~新潟県~東京都~島根県と続いた長旅から帰ってきました。

 「書き込みは明日にします。お楽しみに。お休みなさい。」

 深夜の帰宅だったため、こんな戯言を書いて寝てしまいました。確かに今回の旅は徳島~新潟~東京~島根と僅か4日間の短い期間に3つもの仕事をこなして、日本列島を駆け巡る長い旅だったのです。度の主人公である私はいつものこととあっけらかんにしていますが、妻が言うように少しオーバーワークかも知れないと少し反省しているのです。

 元々は東京で行われる集会に出席要請があって、うまく新潟行きと連動する手筈でしたが、その集会がキャンセルとなり徳島での仕事を入れたためにこんな過密スケジュールとなってしまったのです。それでもそれぞれの地域で私を待っていてくれる人たちがいて、それぞれの地域に暮らす人たちと今回も深いご縁ができました。これこそ旅のだいご味だと思っているのです。

 旅に出る時気になるのは、家で留守を守る妻と親父のことです。これまではどちらかというと家のことなど妻に任せきりで、心配していそうな格好はしているもののそんなに気にはなりませんでした。しかし女と歳老いた親父を残しての旅はこの歳になると少々気になって、旅先から夜と朝の2回は必ず携帯電話で連絡を入れるようにしているのです。妻もそのことはわきまえていて、「うるさい」と思うくらい頻繁に電話をかけてくるのです。車の運転中は電話に出れないので時々困ることがありますが、まあ私を気遣ってくれると思えば有難いことです。

 妻の心配は私が余り外食をしないので、食事のことが気がかりのようです。健康のために夜は9時を食事の門限にしていますが、旅先だと相手もあってそうそう断ることもできないため健康を害しないか心配してくれるのです。昨晩も遅く帰ったため門限を破って軽めの食事を食べましたが、まあ有難い配慮なのです。歳老いた親父は今年の冬も風邪を引かず無事乗り切りました。歳をとった人間にとって大敵は風邪と骨折だといわれています。91歳になってもなお自転車に乗ったり、耕運機を使ったりするので怪我骨折をしないよう心配するのです。

 もう一つの気になることは、ブログの書き込みができないことです。故に色々言われても「留守にします。○○へ出かけます」とブログ画面に断りのショートコメントを書いて出かけるようにしていますが、それでも「ブログの書き込みがないがどうしたの」などと心配のメールが留守中のパソコンに送られてくるのです。

 今回も長旅だったためかなりのメールが届いていました。故にブログも辞めるに止めれず続けなければならないのですが、今回も二日間私のブログは空き部屋となってしまいました。旅立ちの日の朝急いで書き、旅から帰ってこれまた急いで2本のブログを書くのは少々骨が折れますが、それでももう少しの間続けようと心に誓っていますので読者のみなさん方には、拙文ながらもう少しの間お付き合いください。


  「四日間 旅に出るよと 書き込んで やっと帰って 報告を書く」

  「気がかりは 妻と親父と ブログかな 旅先電話 妻の声聞く」

  「旅マイル 今度の旅も 多かりし 記録残るは 飛行機のみだ」

  「どうしたの? ブログ空き部屋 心配で メール届ける 有難き人」

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shin-1さんの日記

○出したはずの手紙が届いていない

 今日の夕方徳島から帰って一服していると、東京から電話がかかってきました。「若松さんですか。実はもう前にお手紙を差し上げ、返信をお願いしていますが、その返信文書が届いていません。差し出していただいたでしょうか」というのです。私はその文章のことを覚えていて確かに出したと答えました。しかし相手の所へはどうも届いていないようでした。いったんj電話を切りましたが、確認のため再度電話がかかり届いていないというのです。しかもその文書は今週中に処理しないと履行できないそうなので、双方が大慌てをしました。

 インターネットのメールでその書類を送ってもらい、署名押印して今夕郵便局まで慌てて走り、無事投函して事なきを得ました。

 さて私が差し出した郵便物は一体どこへ行ったのでしょう。書き止めでもないのし、いつ頃出したかまでは記憶にないため、郵便局へ問い合わせても多分調べようがないのです。相手は私が出していないと今も思っているでしょうし、私は出したというし、結局後味の悪い結果となってしまいました。

 去年警察官をしている息子に郵便物ととしてみかんを送り、着いた時にはほとんど腐っていたトラブルがあってこれまた後味の悪いことがあっただけに、少し郵便物恐怖症になりそうな気持ですが、相手にも郵便局にも迷惑がかかることなので、これからはしっかりとしなければと割り切れない気持ちを割り切って思いを新たにしました。


 私は毎日3枚のハガキを書いて色々なポストに投函します。先日ある小学校の先生に出したはずのハガキが車の中の座席の下で見つかりました。車の掃除をしていて見つけたのです。このはがきは昨年の秋のころに書いたもので、自分では届いているものとばかり思っていました。多分郵便物と一緒に出すため車に積んで、何かの拍子で座席の下に落ちたものと思われれますが、車の座席の下で約半年間も下積み生活をしていたのです。

 私はこのハガキを封筒に入れ、手紙を添えてその校長先生に送りました。先生から後日丁寧な感動したというお便りをいただきましたが、こんなこともあるのです。

 今日も3枚ハガキを書きましたが、3枚を確認して徳島県の郵便ポストに投函しました。あのハガキはどんな旅をして相手に届くのだろうと、想像したりしながら徳島県から帰ってきました。

  「出したのに 届いていないと 押し問答 気まずい空気 電話の向こう」

  「出したはず ハガキ車の 座席下 俺ももうろく これじゃあ届かず」

  「何時出した 言われるけれど 記憶なく 調べることも 出来ぬ返信」

   

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shin-1さんの日記

○今日は徳島へ早朝の旅立日帰りでした

 私は昔人間というのでしょうか、時間に間に合わないのがとても気になるのです。先日も私の町に視察がやってきて、その人はついうっかり時間に遅れてしまいました。私は20分も前から待ち合わせ場所に到着して待っていたのに、いくら待っても来ないのです。約束の時間くらいは守ってほしいと思いましたが、結局その人は30分も大幅に遅れ、着いた時に遅れた理由を、やれ遠かったとか、道を間違えたとか言い訳をしているようにしか聞こえませんでした。頭にきた私は「時間に遅れてくるようでは、やる気がないとも割れても仕方がありませんよ」と、厳しいかな冷たい言葉を浴びせてしまいました。

 その人は深く反省して断りをされましたが、次の日程が詰まっていて次の視察者と鉢合わせとなってしまったのです。遅れた人は遅れた分時間延長してもらうものと思っていたようでしたが、次の人は10分前に到着していたので、約束通り終わってしまいました。


 「時間を守る」ことは社会のルールですので、まるで嫌がらせのようでしたが、割り切りました。その夜泊まっていた松山道後のホテルからお詫びのメールが入り、明くる日の私の予定を聞いて、再チャレンジして色々な話を聞いて帰りましたが、私は会議も始める時間を守ると同じように止める時間も守らなければと、止める時間厳守を心がけていますが、予定の時間が終わってもダラダラと続く会議は興ざめしたようで後味が悪いものです。

 今日はコープ徳島の招きで徳島へ朝早く旅立ちました。昔娘が徳島の大学へ遊学していた頃は高速道路もなく5時間以上もかかっていましたが、今は高速道路ができて、片道220キロの道のりを3時間弱で行けるのです。10時からの会議なので6時に出れば到着するのでしょうが私は5時過ぎに出発しました。早朝の高速道路は伊予インターから徳島インターまで全て順調で、途中2か所でトイレ休憩しても、9時ころに到着しました。しかしカーナビで入力した場所は何故かコープとくしまという北島町のスーパーに着いてしまい、事務局へ電話をかけて迎えに来ていただき事なきを得ました。


 コープ徳島は日ごろお世話になっていた梶原さんが専務として出向していて、そのご縁で理事会の勉強会に招かれたのです。コープの理事会は愛媛でも毎月一回出席をして飲み込めているつもりですが、所変われば雰囲気も微妙に変わるため、様子を探りながら慎重にお話を始めましたが、やり始めるとそんなことは気にならなくなって、持前の話術でお話をさせてもらいました。理事会は理事長さんも理事さんも明るい雰囲気で助かりました。

 講演が終わり昼食を御馳走になってお暇しましたが、帰りはどことなく行く時より早い感じで、4時前には家に到着しました。仕事から早めに帰った妻は、私の余りの早い帰宅に驚いた様子でしたが、当の本人の私も高速交通時代の恩恵に驚きました。四国といいながら遠く離れた県外徳島で仕事をして日帰りですから、いやあ驚きました。四国でも南西部や東南部はまだ高速道路が整備されておらず、5時間くらいかかるところだってらうのです。道路特定財源や道路に対する過大投資がいつも問題になりますが、恩恵を受けるものからすれば、いい政策だと思うのです。お陰さまで今日も徳島でいいご縁をいただいて帰りました。


  「日帰りで 徳島行って 仕事する 世の中便利 なったものです」

  「忙しい 人ほど時間 考えて 使うとばかり 私も上手く」

  「始まりも 終わりも時間 守ろうよ 時間延長 まるで興ざめ」

  「徳島の 人の笑顔の 温かさ 嬉しくなって 馬力をかけて」

 

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shin-1さんの日記

○言うは難し行うはなお難し

 古いことわざに「言うは易し行うは難し」というのがあります。言うことは簡単だがやることは難しいのだそうです。しかし私流に考えれば「言うことは難し行うはなお難し」です。私は最初人の前で5分の挨拶が難しいくらい靴下手でした。ゆえに何とか人前で話せるようになりたいと念じて、人前で話す時は手間暇かけて原稿を書きあげ、その原稿を宙で話せるように覚えたのです。でも結果は覚えたことを忘れないようにすることだけに集中して、結局は余裕のない味気ない話になって、他の人の話術に比べながら自分の愚かで浅学な能力を悔んだものでした。それ以来私の心の中は「上手く話したい」「上手く話すためには」がグルグル回り、結局はその場の雰囲気で話す術を身につけ、やっと人前で話す苦難から解放され、今日を迎えているのです。そんな私ですから言うことはさして苦にならなくなりましたが、さて自分の行動に対比した話をする、つまり自分のやるべきことを言葉にすることは容易なことではないとしみじみ思うのです。

 たとえば私は「人間牧場を作りたい」と友人たちに漏らしました。その言葉は仲間から仲間へ口づてに「若松さんはどうやら人間牧場を作るらしい」と噂話が広がるのです。もし私が人間牧場を作らなかったら、「若松という男は口ばかりだ」と悪評が広がるでしょう。私は公言どおり人間牧場を作りました。結果的には「若松さんは凄い」という話になっているのです。また高知県馬路村産魚梁瀬杉の年輪にあやかった創作落伍150話への挑戦も、ある意味「言うは難し」ともいえる話でしたが、公言しているゆえに止めるに止められず、タダ今夕やけ徒然草地の書・水の書と60話まで作り、今後の行方に暗雲が立ち込めているものの、「行うはなお難し」を実感しつつ何とか目標どおり歩んでいるのです。

 言うことの難しさ、行うことの難しさを合わせて感じる今日この頃ですが、最近友人から「若松さん、あなたの今後の望みは何ですか?」と挑発的な言葉をかけられます。その挑発に乗ってうっかり喋り、行動を起こしそうな雲行きを見ている妻は、「お父さん、もう余り無理をしないように」とか、「私を巻き込まないように」と先手を打ってきますが、自分でもそのことは心得ていて、気力と体力のバランスを考えた言動をしなければならないと肝に銘じているのです。

 私の当面の目標は、85歳まで生きることですから、そのためには心も体も鍛えなければなりません。そのためには体にいいことはやるが体に悪いことは止めるよう心がけています。これだと「言うも簡単やるも簡単」とばかり思っていました。ところがこれも中々難しいことが分かりました。私は余り外食が好きではありません。つまり妻の作った家庭料理が一番と思って暮らしていますが、この数日夜の集会が続いて食事の門限を9時と決めているにもかかわらず、10時過ぎに帰宅して食事をする日が一週間続きました。自分でも可笑しいと思いつつ背に腹変えれぬために夜遅く食事を取ったのです。お通じや体の調子が今までと少し違ってきたようなので改めましたが、そんな小さな隙間を病気は見逃さず、下痢になったりジンマシンが出たり散々でした。今は元の体に回復しましたが、生活のリズムを狂わさないようにしたいと深く反省しました。

 明日から徳島県・新潟県・島根県と長旅が続きますが、体調だけは管理して望みたいと思っています。

  「言うことも やること更に 難しい 幾つなっても 奥行深く」

  「公約を 自分に科して 生きている 約束多く アップアップで」

  「もし俺が 有言実行 しなければ ただのおっやん 相手にされず」

  「偉い人 みんな言うこと やっている だから偉いと 誰も認める」

 

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