shin-1さんの日記

○幸せの尺度は人それぞれ違うもの

数日前、いつも通り大学へ行くため8時30分に自宅を出て、海岸国道を自家用車で走っていました。車が高野川の海楽園跡辺りを過ぎ山手に入ろうとする時、通り過ぎた広場で海を見ている男の人を横目にしたのです。「おや?」と思いつつ対向車線は車が10台ばかり続き、自分の後続も6~7台車が続いていたので、止まることもできず少し走りましたが、どうしてもそのことが気になって「もしや?」の好奇心が頭を道上げたので、広場でUターンして引き返してみました。

 後ろ姿なのであるいは見間違えかも知れないと思いつつ、そっとその人の近くへ車を止めてみると、やはり私が思った通りその人はSさんでした。Sさんは3年前県庁を退職した友人です。現職中は何かと気が合い、特にフロンティア塾には度々駆けつけ学びの輪の中に入ってお互い肝胆相照らす仲でした。フロンティア塾の春は青春塾、夏は朱夏塾、秋は白秋塾、冬は玄冬塾という名前を付けてくれたのも彼でした。また無人島キャンプの看板を達筆な腕に物を言わせて書いてくれたりもしたのです。しかし彼は一匹オオカミ的な性格で、私たちの仲間には入らず、煩わしさから逃れるように退職後は突然私たちの前から姿を消して久しいのです。退職してこの3年間何処でどうして暮しているのか、音信さえも途絶えていましたが、昨年フロンティアグループの世界遺産を巡る旅に同行しみんなを驚かせましたが、それ以来再び雲隠れしてこの日の朝海を見ている後ろ姿を発見した訳です。

 私より年齢は1歳若いのですが頭は白く、私より老けている感じも自任していますが、短い立ち話で近況を聞き、4月の初旬に実施する石見銀山への旅に再び誘いました。快く同行の返事をしてくれた、お互いが健康を気遣いながら別れました。

 彼の実家は西予市です。田舎には歳老いた両親が住んでいるようで、これからそちらへ走ると言っていましたが、彼はまるで仙人みたいな男で、松山へ一人で住んでいることまでは分かっていますが、定職を持たず暮らしていて、私たちと完全に距離を置いた暮らしをしているのです。

 私のように沢山の家族に囲まれ、そして沢山の人と巡り合ったり付き合いながら暮らしている私とは大きな違いです。多分孤独を愛するまるで山頭火のような生き方に憧れ暮らしているのでしょうが、寂しくはなくむしり煩わしくないと胸を張って答えていました。彼の生き方を見てふと私自身の生き方と比較しながら、どちらが幸せか考えてみたのです。


 最近私たちの身の回りには人を恋しがらず生きている人が結構多いことに気が付きました。結婚をせずただ職場と住む場所をただ往復している人、地域社会に暮らしていても隣との付き合いも一切せず家で何をしているのか全く分からない人、何かにつけて文句を言い権利h主張するが義務を果たさない人、地域の集会にも一切顔を見せずボランティアのボの字もやらない人など様々です。

 私のような人間とはおおよそ人種が違うのかと思わせるような生き方なのですが、私には理解出来ないもののそれでも人生はどうにか転がっていくのですから不思議です。付き合いを遮断している分無駄な出費も要らないので、その人たちは結構リッチな暮らしをしていて、自宅には人間を模倣しているかのように犬や猫を部屋の中で飼い、人間以上の愛情を注いでいるのです。

 人間の幸せとは一体何なのか?、いよいよ分からなくなってきました。でも人間の幸せの尺度は人それぞれで、私の幸せの尺度とSさんの幸せの尺度は違うのですから、自分が幸せだと思えばそれでいいのです。これからも私流の幸せを求めて生きて行きたいと思っています

  「幸せの 尺度それぞれ 違うもの 俺には俺の 物差しありて」

  「最近は 人を疎遠に 生きている 人が沢山 田舎にさえも」

  「あの人は 付き合い悪いと 言うけれど それもまたよし 人それぞれに」

  「幸せは 幸せ思う 心にて 心なくんば 幸せ言えず」

 

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shin-1さんの日記

○迷ったら心の羅針盤を信じて進め

 人間は弱い動物で、いつも不安に駆られるものです。何処かへ出かけるとき車に乗ってから「はてさて、電気は消したか、ガスは消したか?」と不安になります。昨日はお彼岸ということもあって妻と二人でお墓参りに出かけました。その足で隣町の昨年の春亡くなった叔父の家へ新彼岸のお供えを持って出かけましたが、妻は車が走り出してから、「お父さん、私ガスを消したかしら?」というものですから、再び引き返して家に帰り確認したのです。結果的にはガスも電気も消されていましたが、この歳になるとついさっきまでの記憶が飛んで、ひどい時などは「はて私は何をしようとしていたのか?」なんてことしょっちゅうなのです。こんな場合は「迷ったら元の道を引き返せ」という格言がピッたりなのです。そうすればたとえそれが無駄な行動だと思っても、結果的には大きなリスクをせずに済むのです。余程なことがない限り電気の消し忘れで火事になることはありませんが、ガスやアイロンとなると話は別で、大火事になる危険性だってあるのです。

 わが家はもう30年も前に小さなボヤ騒ぎを起こしました。私が無人島キャンプに息子を連れて参加した最初の年は、台風にも似た暴風雨で散々な目に遭いました。ずぶ濡れになって疲労困憊した私たちを迎えるため妻は美味しいてんぷらを揚げていました。そこへ私たちが「ただ今」と帰りました。妻はてんぷらを揚げていることより私たちの帰宅に気を取られ、私たちの身の回りの世話に熱中しました。

 ものの4~5分すると家の中に白い煙が立ち込め、ガス台から火の手が上がっているのです。驚いたのなんのって、急いで消火器で消し大火は免れましたが、新築間もないというのに網戸やサッシの一部を焦がしてしまったのです。このボヤは火災保険の適用を受けてすっかり復元されその痕跡は跡形もなくなりましたが、それ以来妻はガスには敏感過ぎるほど敏感になって、出かける度に2度3度確認をするのです。

 私も妻もこんなおっちょこちょいな人に言えない恥ずかしいエピソードを、幾つも秘めながら今日まで大過なく過ごしてきたのですが、お陰さまでガスだけはしっかりと確認する習慣がつきました。

 しかしこんな小さな引き返すことのできることはいいのですが、人生には一度や二度、大きな迷い道へ迷い込むことがあるのです。仕事のこと、夫婦のこと、子どもの人生などなど、人から見れば些細なことながら私にとって修羅場とも思える幾つもの迷い道に迷いこみました。

 その時「迷ったら心の羅針盤を信じて進め」という実習船えひめ丸の船長さんから聞いた話を思い出し、事なきを得たのです。私は宇和島水産高校に学びました。高校3年生の時実習船で南太平洋を航海しましたが、地球の大きさから比べればほんの小さな実習船が珊瑚海を目指し、再び日本を目指す大航海はまさに引き返すことのできない旅でした。「迷ったら心の羅針盤信じて、本物の羅針盤を見ながら進む」えひめ丸の進路は私の人生そのもののだったように思うのです。

 人間は幾つもの岐路に立たされます。その都度迷いその都度進路を決めて生きて行かねばなりませんが、せめて信じる道が正しい方向であるような人生を送りたいものです。


  「迷い道 右か左か 真っ直ぐか 時には勇気 引き返すこと」

  「迷ったら 心に羅針 盤描き 信じる道を ただひたすらに」

  「人生を 振り返りつつ 思うこと いい羅針盤を 持った幸せ」

  「ガス消した? 戻るロスなど しれたもの 大火思えば どうてことない」

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shin-1さんの日記

○お酒を止めて早9年になりました

 私にとって21世紀が始まった2001年は忘れられない思い出の年でした。この年はおふくろが亡くなり、えひめ丸が沈没し、自らも胆のう摘出手術を受けるなど、内外ともに多難でした。その年からおふくろに誓い、えひめ丸に誓い、そして自分自身の健康のためにあれ程飲んでいた酒を断ったのです。酒も煙草も中々止めれるものではありません。幸いたばこは生まれてこの方吸った経験がないので分かりませんが、つきあいのある酒も中々やめれるものではありません。それは胃ガンで胃の摘出手術をしながらそれでも酒を止めれない人を見ても明らかなのです。

若松進一ブログ (送別会もいつとはなしに大酒飲みの会になりました)

 でも私は「あなたは偉い」と妻が褒めてくれるように私はきっぱり酒を断つことが出来たのです。今はそのきっかけになったおふくろの死やえひめ丸の沈没、自分自身の病気など転機となった悲しい出来事に感謝するのです。元来私は酒が心から好きでなかったのかも知れません。青年団で反吐を吐くほど酒の修業をさせられ、その挙句呑み過ぎたのか病気になり、そのことがきっかけで役場に入庁しました。その後養生のつもりで5年間は酒を止めていましたが、社会教育やまちづくりの世界に没頭するようになって再び酒を呑み始め、2001年まではたらふく酒を呑んだように思うのです。しかし50代の10年間は人間牧場構想を実現するため資金集めの一環として毎月10日間酒を止めその日には呑んだつもりで一日千円のつもり貯金をして10年間で百二十万円を貯めたのですから、自分が自分を偉いと褒めるのです。私の場合0か100なので、呑むのであれば思いきり100、呑まないのであれば0という考えなのが酒を断つことができた最大の要因なのです。

若松進一ブログ (こんなに飲めるとは羨ましい限りです)

 最近まで飲み会は冷たいウーロン茶を飲んでいましたが、ウーロン茶を飲み過ぎると体の調子が悪いようなので、このところは熱いお茶を飲むようにしています。笑い話ですが冷たいウーロン茶はそれなりのお金がいるのに熱いお茶はタダなのです。昨日も熱いお茶を店員さんに不思議がられながら3杯もお代りをしてしまいました。お茶は体に合うのか多少の見過ぎても二日酔いににはなりません。唯一の害は夜トイレに起きなければならないことくらいです。でもビールだって飲み過ぎるとトイレが近くなるし、酒の匂いは飲まなくなって久しい私には少々臭い話になるのです。

若松進一ブログ (岡崎事務局長のエールについほろりとしました)

 酒を飲んでいた頃は10円タクシーと呼ばれた妻の自家用車での迎えや、帰り際のラーメン食いなど暴飲暴食と妻への迷惑は常習でした。お陰でラーメンに付き合った妻はいつの間にか気がついた頃には小太りして、ダイエットに一苦労も二苦労もしたようです。

 「酒を呑まずにまちづくりなど語れるか」と言っていた私が、今では「酒を呑まないと語れないようなまちづくりは本物ではない」と言っているのですからいい加減なものです。それでもふと酒の勢いを借りて仕事をした昔が懐かしく、やはり神代の昔から酒は元気の出る水だと思っているのです。

 多分私は自分自身への誓いもあって死ぬまで酒を呑まないだろうと思います。そのことで少しでも長生きできるとしたら、それはそれでいい終り方だったと思うのです。

  「酒のない 国へ行きたし 二日酔い 三日三晩の 気持ち悪さよ」

  「酒断って あれから九年 経ったのか これから先も 死ぬまで止める」

  「母感謝 えひめ丸にも 感謝する 病気にまでも 感謝忘れず」

  「酔うほどに くどい話の 友人を 見ては昔の 自分と重ね」

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shin-1さんの日記

○22年間最後の日が終わる

 特別な日と思って臨んだ昨日は直前まで愛媛大学農学部の研究室で仕事をして、午後からえひめ地域政策研究センターの会議室で開かれた、えひめ地域づくり研究会議の今年最後の運営委員会に出席しました。久しぶりに大勢の運営員が参加して賑やかでした。冒頭県庁市町振興課の北村課長さんがわざわざ見えられ、全国大会のお礼のご挨拶をされました。北村課長さんは国からの出向職員ですが、物腰も考えも柔軟な方で、全国大会を巡る様々な場面で物心両面のご支援を受けたのです。栗田所長さんとともに加戸愛媛県知事の大会出席に尽力いただきましたし、東京組との橋渡しや予算獲得に力を発揮していただきました。実動部隊の私たちをが頑張れたのも北村課長さんの力が大きかったと思っています。実行委員長として短めながらお礼のあいさつをさせてもらいました。

 会議は今期限りで退任する私が最後の仕事として司会進行をやりました。私は決められた時間内に終わらせる名人?、迷人なので今回も今年度の事業報告や決算見込みなどの案件を、すんなり進行をすることができました。また今年度が運営員の任期とあって人事案件も議論されましたが、私としては難産の末それぞれの人が退任し、それぞれの人が選任され、新年度の運営委員会で次期役員が決まるような道筋だけ付けて終りました。

若松進一ブログ(今年度最後の運営委員会)

 私にとってもえひめ地域づくり研究会議は結成以来22年間、事務局長や代表運営委員などとしてバトンを持ち続けて来ました。その模様は100号記念の舞タウンという雑誌や、風おこしという機関紙に少し長めの追憶文を書いているので読んでいただければと思うのです。

 まちづくりや地域づくりを目指した私にとって、えひめ地域づくり研究会議での22年は今日が特別な日だと冒頭に書いたように、特別な意味を持っていました。双海町というわが住む町を夕日をテーマに活性化する草鞋と、21世紀えひめニューフロンティアグループの代表として無人島に挑む少年の集いなどのボランティア活動をする草鞋、それに松山工業高校PTA会長(会長6年・副会長1年・常任理事1年・中予地区会長5年・高P連県副会長5年)として活動する草鞋の三足を履いての忙しい日々でした。それでも大過なくフロンティアグループの代表を除いて草鞋を脱ぐことが出来たのは、皆さんのお陰だし、研究会議で誘拐無形の沢山のものを学ばせていただきました。この場を借りて関係者に厚くお礼申し上げます。

若松進一ブログ(私にとっても最後の運営委員会)
若松進一ブログ(熱弁をふるう清水研究員)

 昨日は今期限りでそれぞれの出向元へ帰って行く研究員三名の発表会もありました。坂本さんは久万高原町へ、谷本さんは宇和島市へ、清水さんはJAへと古巣に帰ってセンターで学んだことを生かしてくれることでしょう。

彼らと同じように私もまた研究会議で学んだことを生かして双海という地で恩返しの活動を続けるつもりです。

 坂本さんは色について語られました。純真無垢な色だった彼もこの2年間ですっかり七色を内蔵するまでに成長しました。清水さんは気象予報士の資格を持つ変わった経歴の持ち主ですが、彼の哲学を熱っぽく話してくれました。清水さんとはこの5年間最も近しい人だっただけに、今日からが旅立ちや活動の新たな始まりだと思って協働するつもりです。特に昨年から始めた私塾や年輪塾ネットを武器に新境地を開きたいと思っています。

 会議終了後宇和海という店で開いた送別会は、九州大学の教授となった丹羽さんも加わり賑やかな主演となりました。最後に盟友の岡崎事務局長が応援エールを送ってくれました。また渡辺浩二さんがまちづくり締めを行い、少しだけ後ろ髪を引かれる思いの22年間最後の一日は終わりました。


  「重き荷を 背負い歩いた 二十二年 わが人生の 大半でした」

  「長い日々 過ぎてしまえば 楽しこと ばかり浮かんで 苦しさ忘れ」

  「書き遺し おかねばならぬ 二十二年 記憶あるうち さらりと書こう」

  「記憶など 当てにならぬと 記録する ブログだけでも 私にとって」 


  

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shin-1さんの日記

○今日は特別な日

 朝起きて書斎に入り、身の回りを見渡しました。いつもの朝と変わらず、部屋の雰囲気も別に変った様子はないのですが、昨日から自分の心がどこかすっきりしたような気持なのです。というのも今日は午後から私が長年代表運営委員を務めてきたえひめ地域づくり研究会議の今年最後の運営委員会なのです。4年前長年やってきたこともあって後進に道を譲るべく辞意を表明しましたが、結成20周年が終わるまでと再任され、20周年が終われば全国大会が終わってからと4年間も辞任は延び延びになっていたのです。

 20周年も全国大会も深くかかわって事業をなし終え、それなりの成果を収めたので引き際が肝心と今期で幕引きをすることにしたのです。年齢や体力的にはまだ自信はあっても、組織を改革するには「去ることが一番」と心に決めて、しっかりと手順を踏んで理解を求めました。お陰さまで来期の役員人選も水面下で行われ、やっと重い肩の荷を下ろせる所まで来ました。

 思えばえひめ地域づくり研究会議と私の付き合いは長くて深く、結成以来22年もの長い間、その中心に置かせていただき、目の回るよな忙しさの中で多くの人たちとともに愛媛県をフィールドに活動してきました。その間県外との交流も深くこれまた多くの知人友人とネットワークを持てたことを幸せに思うのです。

 昨日は私と同じようにえひめ地域政策研究センターへの出向を解かれ、元のJAに帰られる清水研究員がわが家に見えられ、久しぶりにこの5年間を総括しながらこれからの活動について水入らずでしんみり話しこみました。私と立場が違うものの清水さんにとってもこの5年間は今までにない世界だったに違いありません。私たち日本人はゼロに戻る訓練ができていないので、ゼロの重みはこれから先も清水さんの人生について回ることでしょうが、私も4年前退職という本当の意味でのゼロに戻ることを体験しただけに、新しい職場での活躍を期待したいと思います。

 そして昨夜妻にえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員を辞する旨を伝えました。妻は少しオーバーワークな私の仕事を日頃から気遣っていたので大層喜んでくれました。清水さんが持参してくれた谷本研究員からのことずけの全国大会報告書を見せながら、いい思い出を沢山話してやりました。妻にとってえひめ地域づくり研究会議がどんなものなのかは分かるはずもないのですが、それでも塩崎さんや近藤さんなど多くの仲間のことは随分知っていて、これからの仲間だけは大切にしてほしいと言いました。


 さてえひめ地域づくり研究会議の第一線から退く私の当面は、年度末までに少し身辺の整理をして、4月1日から始まる新しい年度に向けて目標を定めパワーアップしなければなりません。本業を退職して4年が経ちました。来年度から21年刻みの自分の人生のいよいよ最終クルーを迎えます。①自分と向かい合って生きる、②家族と向かい合って生きる、③地域と向かい合って生きるの3つをとりあえずのテーマに掲げているので、大学での教鞭や講演活動を行いながら、人間牧場を中心に①楽しいこと、②美しいこと、③新しいことの3つをキーワードに素晴らしい人生を生きたいと思っています。

 そのためにはまず健康でしょう。少し衰えつつある体もんじを巻き戻して元気を回復しなければなりません。またこれまで無造作に書き綴った膨大な資料を記録として整理することもしなければなりません。おっと、こう書くと今までと何ら変わりない忙しい人生になりそうです。

 今日は私にとって晴れ晴れとした特別な日です。


  「昨日今日 何も変わらぬ はずなのに ゼロに戻して 再び歩む」

  「少しだけ 肩の荷降ろし すっきりと 明日になったら またもや同じ」

  「いよいよか 最終コーナー 鞭を打つ 駄馬ゆえ早く 走るあてなし」

  「老兵は 去るが一番 後頼む 俺にゃあも少し やるべきことが」 

 

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shin-1さんの日記

○すっかり板についたマイバック

 私は業務用と買い物用の主に二つのバッグを持って行動しています。業務用とかバッグといえるかどうかは分かりませんが、あえて業務用といっているアタッシュケースは木でできたカバンで、もう20数年も愛用しているのです。最初はなんてダサイ田舎風のケースだろうと、持って歩くのも気がひけたものです。しかし私が知る限りではこれまで出会った人で、こんな特徴あるカバンを持って歩いている人には出会わなかったことをいいことに、今では木のカバンを「木になるカバン」などと勝手に命名し、全国各地を訪ねる講演会には必ず提げ歩いているのです。今ではすっかりそのことが有名になって、カバンの話や名刺の話だけでも有に一時間くらいは話題提供できるのですから面白いものです。このかばんの最大の欠点は重いことです。最も中に入れているものが自著本やハーモニカ二本など、書類関係の重いものが中心なので仕方がないのですが、まあ体力作りだと思ッて我慢しているのです。お陰さまでまるでポパイのように腕力がついたような錯覚を覚えているのです。

 このかばんの最大の特徴は何といっても私以外に持っていないというオンリーワンだし、木でできているため膝の上に置いて座ると、まるで動く机のような錯覚で、このかばんの上はたちまち机に早変わりして原稿を書いたり、時には駅のベンチなどで刃街を書いたりして重宝しているのです。このカバンも長年の乱雑な扱いや疲労がたたり、私の年齢と同じように少々くたびれてきましたが、もう長くない私の講演現役生活の間くらいは持たせようと、愛おしく使っているのです。

 さてもう一つのバッグは、今流行りのマイバッグと称するものです。テント布地でできているこの頑丈なバッグは長男がくれました。コープえひめの有識理事に就任した3年前から愛用しています。生協運動にかかわり始めた私は、多少なりともこの運動を理解し行動に結びつけようとレジ袋の減量に取り組みました。ある友人からは、「あんたがレジ袋を断っても年間ではたかが知れていて環境問題には役に立つものか」と揶揄されたりもしましたし、まして「買い物に行くのに男がマイバックを持って行くのは恥ずかしくないの」なんてことも言われました。確かに最初は少し気恥ずかしい気もしましたが、今ではマイ箸運動と合わせて実施している私を見て、同じように行動してくれるようになった人が4~5人くらいはいるのです。これぞ感化だと4~5人の人の行動に影響を与えたことを喜んでいるのです。

若松進一ブログ(私のマイバック)

 何かをするときの効果は3つの次元で測れると思います。まず一つは直接効果です。私が買い物に行くのは高々しれていますが、それでも月に2から3回はレジを通るのですから一年間で3枚×12か月×3年=108枚の節約となって資源・ゴミの減量・温暖化防止につながったという自負なのです。たった一人が3年間で100枚程度といえばそれまで、「でも」「若しも」は言いたくありませんがこれが市民全体に広がったら凄い数だと想像するだけでも優越感に浸るのです。

 二つ目は間接効果です。レジ袋を断ることで自分と物の関係を見つめ直すことができ、レジ袋に限らずもっと広い意味で環境や地球に役立つ意識やライフスタイルを考えることができるのです。3つ目の効果は気持ちがいい効果です。レジ袋を断ってマイバックに入れて店を出る清々しさはいいようのない清々しさです。最初は男のくせにみみっちいような人目が気にもなりましたが、今は私が先進的と思えるようになりました。私は少なくとも友人4人の意識を変えました。これこそ生協運動の減点なのです。これからもマイバックのような精神で生きて行きたいものです。

  「マイバッグ 最初はどこか 恥ずかしく 今では堂々 むしろ優越」

  「ちょっとした 一人の勇気 この地球 救う一手と 私だけでも」

  「愛媛産 愛があるぞと 書いている 貰った袋 提げて買い物」

  「息子から 貰ったバッグ だから意味 無駄をなくする 勇気きっかけ」

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shin-1さんの日記

○春が来た・何処にきた・里に来た・山に来た・野にも来た

 先日の大風が春を運んできたのでしょうか、昨日あたりからすっかり春めいて、昨日はいい天気ながら黄砂の影響で遠望の視界が効かないようでした。家の周りには先日の大風で裏山から杉の葉っぱなども飛んできて、裏庭の側溝に溜まっていたので、少しは亭主らしきことをしようと殊勝にも作業着に着替え長靴を履いて掃除をしました。同居人の親父や妻から「まあお珍しい、雨でも降らなきゃあいいが」と笑われてしまいました。

若松進一ブログ(ミツバチは元気に働いていました)

 掃除をしながらふと、「人間牧場の苗床ハウスのビニール被覆は破れていないだろうか?、井上登さん方からお嫁入りしてきた蜂の巣は大丈夫だろうか?」と心配になって、急いで軽四トラックを走らせて行ってみることにしました。自宅から人間牧場までは僅か15分で到着します。人間牧場に到着するなり乗っている車の前を綺麗なキジがトコトコあるいて散歩しているのです。私は持っていたデジカメを急いでケースの中から取り出しました。久々のシャッターチャンスですが、急げば急ぐほどあどえるものです。結局は上手く撮れませんでした。

若松進一ブログ (私の前を悠然と歩くオスのキジです。どうやら下の畑に巣作りして鳴いているキジのようです)

 ミツバチの巣箱は今回も一個、無残にも風で吹き飛ばされて倒れていました。井上登さん方から興し入れの巣箱は名人が設置しただけあってビクともせず、働き蜂たちはせっせと忙しく巣箱に出入りして私を喜ばせてくれました。井上さんの話だと、ミツバチの分家まだ先の温かくなってからだそうなので、分家用に用意した二つの巣箱は今後も転げないようにしっかり固定するよう調整したいと思っています。

 苗床の被覆ビニールは無事のようでした。苗床の中では温かいからなのか早くも雑草が伸び始めていることが曇ったハウス内から見えました。サツマイモの種イモの芽吹きはまだ先のようですが、まあ順調に着床しているようでひと安心です。

若松進一ブログ (人間牧場から見える豊田漁港)

 黄砂に煙るといっても人間牧場からの近望はすこぶる良く、眼下の豊田漁港はそれは見事な風景を変らず見せていました。この原風景はやはり人間牧場の宝なのです。メジロが忙しく飛び交い、向かいの山ではまだ下手くそなウグイスが「ホーホケ」くらいで「ケキョ」まではつながらない鳴き声を出して盛んに練習をしているようです。

通りすがりに見た西嶋さんのお家ではもう早咲きの桜が満開を迎えていました。

 帰り際、閏住菜の花畑の近くに妹が店を構えるくじらに立ち寄りました。菜の花も少し峠を越しましたが、それでも特老のお年寄りや地元の保育園児がやってきて花を愛でながら楽しくひと時を過ごしていました。

若松進一ブログ(閏住の菜の花)

  「北の国 未だ氷に 閉ざされて されどわが町 春真っ盛り」

  「留守中に 強風吹いて 箱コロリ 被害少なく ホッとしました」

  「菜の花も いよいよバトン 渡すとき 来たよとばかり 桜膨らむ」

  「目の前を 剥製のような キジ一羽 悠然歩く カメラ収める」

 

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shin-1さんの日記

○忘れていたホワイトデー

 「お父さん、14日はホワイトデーだったのよ、覚えてた?」と、昨晩唐突に妻がいうのです。リタイヤをして4年も経つとさすがにバレンタインデーにチョコレートを貰う数も減って、ホワイトデーなどすっかり忘れていました。職場にいた頃は机の引出しにそっと入れられているチョコレートを発見しときめいたものでしたが、いまはそれもなく時折得用大袋のチョコレートを無造作に開けて「間もなくバレンタインです。義理チョコなのですが何個でもお取り下さい」と、まるで笑い話のようなチョコレートしか貰わないようになってからは、ホワイトデーなど無縁とばかりに無視しているのです。

 妻はそんな落ち目のご主人である私を気遣って毎年、「これはバレンタインデーの贈り物」と前置きし贈り物をしてくれるのです。これも義理チョコならぬ義理贈り物と受け止めて貰っていました。ゆえに妻は2月14日の裏側にある3月14日に義理キャンデーを求めるのです。

 「昨晩は3月17日でもう3日も過ぎているから今年のホワイトデーはなしだ」と妻に言うと妻は納得しないので、仕方なく先日の周防大島研修会の清算金を事務局から8千円いただいていて、ポケットにそのまま入っていたのでさも用意していたような顔をして渡してやりました。

 「お父さんありがとう」と、滑り込みセーフの現金プレゼントに妻は大喜びで、「幼児教育人権同和研修会」「少年少女おもしろ教室実行委員会」と続いた昼夜2集会を終えた少し遅めの夕食は、妻の上機嫌で一品増えて何時になく賑やかでした。

 この年齢になると「女房やくほど亭主持てもせず」を夫婦ともども認識して、お互いがお互いをいたわりる心が芽生えてきます。私はこれまで妻の記念日にはたとえ少額でもプレゼントをしてきました。妻の誕生日、結婚記念日などですが、これからも懐の許す限り続けてゆこうと思っています。

 私は明朗会計で、妻は私の財布を常時点検して一定量の金額を継ぎ足してくれています。外で働くことが多い私はかなりのお金を使います。しかしその財布からプレゼントすることはできないので、当然私のポケットマネーからの出費なのです。二重財布とも思えるポケットマネーがどうして捻出できるのか、これは妻の私を疑う最大の原因のようですが、それでも私には妻にも言えない出費だってあるのだから当然だと思うのです。

 私は決まった小遣いは大蔵大臣たる妻から頂きません。それででもたまに原稿料などが入ったものをストックしているし、自費出版した本の売り上げは別会計にして次の出版に備えてストックしているのです。

 まあ今年のホワイトデーもどうにか機転ですり抜け、妻の納得を引き出しました。次の記念日は5月5日の結婚記念日です。子どもの日が結婚記念日ゆえに妻はこの日を忘れるはずもなく、また私はせっせと小遣いを貯めて妻のためにプレゼントをしなければならないのです。考えてみればこんな他愛のない夫婦のやり取りで、夫婦の絆はかろうじて保たれているのですから面白いものです。

 センターの松本さんがオレンジデーなどと訳の分からない記念日を、新しい地域おこしにしようと秘策を練っています。いい企画なので1枚乗っています。ここだけの話ですかこれ以上記念日が増えると私は自己破産宣告をしなければならなくなりますので、妻には内緒でやってくれることを祈っています。(笑い)

  「記念日の 度に財布が 空になる それでも絆 深くなるから」

  「これ以上 記念日なんて 欲しくない 妻の要求 今年も定番」

  「用意した 風に見せかけ ホワイトデー すり抜け渡し 事なき得たり」

  「義理チョコも 義理キャンデーも 元たどりゃ 何の事なし 飴菓子会社」

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shin-1さんの日記

○ブルーベリーの鉢植えが届きました

 春2番と目される強風も電話の向こうの出来事と思うほど、先週は旅がらすを続けていました。家に帰って辺りを見渡すと、知らない間にわが町はもうすっかり春の装いです。裏庭の斜面には若草色の百合の葉っぱが勢いよく伸びて春を実感させてくれるのです。いつの間にか家の横にある家庭菜園も冬野菜がすっかり姿を消して、夏野菜のための準備が親父の手で進められているようです。

若松進一ブログ(青々と葉っぱを茂らせた野生ユリ)

 昨日夕方家の帰ってみると玄関先に何やら大きな植木鉢が置いてありました。どうやらブルーベリーの鉢植えのようなのです。私と一緒に役場で仕事をしていた西岡栄一さんは退職後、地元の区長をしながらイチゴ園やブルーベリー園を幅広く営んでいて、日頃から実懇にしていただいているのですが、昨年わが家にブルーベリーの鉢植えをいただき、居ながらにして庭でブルーベリーの収穫を夫婦の楽しんでいたのです。その折庭が広いのでブルーベリーの鉢植えを分けてほしいと頼んでいました。そのうち時期になったらお届けしますと約束をしていたのですが、私が留守がちのため連絡が取れなかったようでした。

若松進一ブログ(昨年沢山の実をつけたブルーベリーの鉢植え)
若松進一ブログ(届いたブルーベリーの鉢植え)

 昨日は私の留守中にわが家へご夫婦で来られたようで、去年いただいた分は植えかえしてまでいただいたようでした。早速今日明日にも庭の隅に置き場所を作り、ブルーベリーの栽培に取り組まなければなりません。ブルーベリーの鉢植えは6鉢もあるのでとても楽しみです。早速親父が朝早く隠居からやってきて、ブルーベリーを何処へ置くか相談が始まりました。昨年はブルーベリーを勝手口に置いて毎朝収穫を楽しみましたが、今度は本格的にわが家にブルーベリー園が出来そうな気配なのです。

 ブルーベリーは目にいい食べ物だと言われていますが、その真意は分かりません。でも最近テレビでブルーベリーに含まれているルテインなどが入ったサプリメントが話題を呼んでいるようで、目の衰えを気にする年齢になった妻もブルーベリーに大きな期待を寄せているようです。

 昨年人間牧場へも数本ブルーベリーの苗木を植えました。ブルーベリーは露地栽培は難しいのか昨年は数個実をつけただけでまだ成長は先のようですが、今年は肥料をたっぷりやって成長を促したいと思っています。


 今年の冬は月曜日と木曜日に愛媛大学農学部へ出勤することになって春を迎える準備がすっかり遅れてしまいました。しかいこの仕事も3月までなのであと2週間経てば時間的な余裕ができそうなので、少し本腰を入れて春作業をしたいと思っています。

 人間牧場のサツマイモの苗床は先日の突風で大丈夫だろうかと心配です。上に被せたビニールハウスが破れていると芋の成長が大幅に遅れるからです。今日は午後人権教育のお手伝いに行かなければならず、はてさてどうしたものでしょう。もう間もなく桜も咲きます。駆け足で季節は巡りますが、一番待ち遠しかった春なので、季節の移ろいを思いきり楽しみたいものだと思っています。


  「庭先に ブルーベリーの 鉢植えが 置かれて嬉し 友が運びぬ」

  「昨年は 毎朝庭で ブルーべりー 妻と二人で 摘んで楽しむ」

  「目いいと 言うが本当? そういえば 妻の心も 見通すように」

  「春が来た 春が来たよと 喜んで 鶯鳴いて 俺に知らせる」


 

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shin-1さんの日記

○旅の締めくくりは島根県でした

 徳島・新潟・東京と続いた長旅の締めは島根県飯南町でした。この町は旧赤木町旧頓原町が合併してできた、広島県と島根県の県境に位置する町です。松山観光港を朝一番7時の高速船に乗って瀬戸内海を1時間10分走ると宇品に着きました。市内電車でバスセンターのある紙屋町まで出て、そこからさらに高速バスに乗りました。県境を越えるには高速道路を三次で降り、国道54号線を走らなければなりません。島根入りする時は余程のことがない限りこのルートを走るため、車窓に広がる風景はどこか懐かしく見慣れた光景ですが、この日はごうの川辺りを超える頃には雪がちらちら舞い始め、峠では猛吹雪になりました。国道沿いに立てられた温度計はどんどん下がって峠を越えるとマイナス2度を表示し、重たいボタン雪が大地を隠そうとしていました。

 電話やメールで連絡通り島根行きのバスは降りしきる雪をものともせず、時間通りに頓原停留所へ到着しました。広島から乗ったほぼ満席の乗客で私が一番先に降りるため、車内の降車ボタンを押しての下車です。停留所には役場の伊藤志津恵さんが自家用車で迎えに来てくれていました。彼女に始めて会ったのは島根県で10年も前に開かれたある研修会でした。当時志々公民館の主事をしていたこともあって、講演に来てほしいと誘われ公民館祭に出かけましたが、この公民館へは今回が三度目なのです。今回は会場こそ志々公民館ですが、立脇さんという女性が担当しているまちづくりの講演会なのです。立脇さんたちは一週間前打ち合わせや視察を兼ねて一週間前人間牧場へ来ているため、全ての運びがスムースでした。

 伊藤さんとほたるの茶屋で昼食を取りました。志々地区ではクラインガルデンという貸農園を運営している他、地元産の大豆にこだわった豆腐を作っていて、メニューの中からおからハンバーグ定食を選びました。添えられた菜っ葉の早春の香りも申し分なく、サラダもおからと聞いて驚きながら美味しい味を堪能しました。この地区はダム工事が終わっていよいよ水をためる作業が始まるのだそうですが、60戸足らずの沈む民家は半分くらいが近くの団地に引っ越していましたが、半分は出雲などの地方都市に行かれたようでした。

 食事をしながら伊藤さんと過ぎ越し10年を振り返りました。子どもの成長や家庭のこと、そしてご主人が役場に勤めているため自身が今春で役場を退職する予定だという話を寝耳に水で聞かされわが耳を疑いました。時の流れはまたひとつ思い出を消して行くのかと思うと寂しくなり、一昨年四万十市西土佐村で同じように中途退職した中脇さんのことを思い出しました。


若松進一ブログ(満席の講演会)

 いつの間にか雪も小ぶりになり、満席の会場で講演は始まりました。最前列には顔見知りの渡辺よし子さんも陣取り、また若い人や駐在所のお巡りさんまで私服で交じって賑やかな講演会となりました。

 終了後懇親会が持たれましたが私がお酒を飲まないため、お茶での交流となりました。室内には託児所も設けられ賑やかな子どもたちの歓声で活気に満ちあふれていました。

若松進一ブログ(お茶を飲みながらの交流会)

 そのうちあらかじめ連絡していた雲南市の松島さんが迎えに見えられ、大勢の見送りを受けて広島を目指して出発しました。松島さんは旧吉田村田井公民館の主事をしていた方で、既に退職していますが20年来の付き合いをしていて、今回も広島までアッシー君をかって出てくれたのです。最終便は夜9時30分なのですが、高速バスだと間に合わないための苦肉の策でした。道中の社内では久しぶりに楽しい話に花が咲きました。

 旅の締めくくりが島根県、しかも伊藤さんや松島さんというのも何か因縁めいていました。彼女たちのこれからに期待しながら夜の瀬戸内海を渡りました。

  「またひとつ 島根の星が 別世界 寂しいけれど これも宿命」

  「おからまで 活かした知恵は さすがです おからのサラダ 初めて食べた」

  「見覚えの 峠を何回 超えたやら 指折り数え 顔々浮かべ」

  「新しい 力にバトン タッチして 世代交代 俺もそろそろ」

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