shin-1さんの日記

○気恥ずかしい夫婦二人の散歩

 「お父さん郵便物を出したいので上灘中学校前のポストまで歩かない」と妻に誘われ、いつになく早めに夕食を済ませた後、夕暮れ時の道を夫婦で散歩することにしました。私のような歳の人間というより、私自身のわだかまりかも知れませんが、夫婦である歩くのはどこか気恥ずかしいような気がするのです。「何をいまさらその歳になって」と言われそうですが、私は人様のように手をつないだり手を組んだりするすることができない性分なのです。

 夕暮れ時の県道は田舎の道とはいいながら仕事を終えて帰る車や自転車が結構頻繁に走り、顔見知りなどは夫婦で歩く見慣れない私を見つけてクラクションで「プープー」と鳴らし合図をして去って行くのです。ポストに郵便物を投函し、別の道を歩いて帰ろうと私が誘えば、妻は「元来た道を帰りたい」とこれまた意見が合わず、「黙って歩け」と私がへそを曲げるとしぶしぶ川沿いの道を一緒に歩いてくれました。左様に何かと意見の合わない二人ですが、決して仲が悪い訳ではないのでご安心ください。


 今日は朝から冬に学戻りしたような寒い一日でした。東京や横浜では雪が降り、先日訪ねた美幌町辺りでも雪が舞う厳しい寒さになったことでしょう。わが町も数日前から桜がほころび始めましたが、この寒さで一向に開かず足踏み状態のようです。桜は開花が確認されてから1週間で満開を迎えると言われているので、今週末の日曜日は花見をと意気込んでいた人たちをがっかりさせているようです。昨晩道後のメルパルクで会合と飲み会があり道後に出かけましたが、道後公園の花見の準備は着々進んでいるようですが、肝心の桜が開かないしこう寒いと人の出足が鈍るかも知れません。

 既に満開を迎えた九州地方からは花見の便りがちらほら聞こえてきますが、咲くのが寒さで遅れる年の桜は長持ちすると言われていますので、桜の残り花が入学式には見えるかも知れないのです。

 妻と散歩しながら、妻が「お父さん今年はどこの桜を見に連れて行ってくれるの」といいました。そういえば昨年は内子石畳のしだれ桜を見に行きました。旅のつれづれに「私の町の桜は有名で、一度是非見に来て下さい」と行く先々で聞いてはいるものの、殆ど見に行ったことはありません。今年こそはと思って見ても年度末・年度始めの忙しさにかまけてなかなか見る機会もなく過ごしてきましたが、私の人生設計では後21回しか桜を見る年は巡って来ないのですから、もっと桜の季節を惜しむように目に焼き付けておきたいと思っています。

 高知県と愛媛県の県境に位置する旧吾川村にも確か立派なしだれ桜があることを聞いていました。妻にその桜を見に行くか?と聞きましたが、「泊まりがけで行きたいね」と何時になく積極的な答えが返ってきました。足を延ばしてみたいものです。


  「久し振り 二人で散歩 恥ずかしや 俺は案外 初なとこあり」

  「夕暮れの 道を二人で 散歩する 桜の話題 話ししながら」

  「また今年 桜の季節が やってきた 指折りみれば 二十一回」

  「俺こっち 私はあっち 違う道 強引従え 夫婦で歩く」

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shin-1さんの日記

○第26回地域づくり団体全国研修交流大会最後の実行委員会終わる

 私はこの2年間、第26回地域づくり団体全国研修交流大会の実行委員長を務めてきました。小さいながらも全国大会の実行委員長ともなると、様々な仕事が舞い込んで結構忙しく、それでいて結構楽しく取り組みました。まず全体会や分科会を引き受けてくれる候補地を探し、手の上がった団体の代表と団体の所属する自治体職員で実行委員会を立ち上げました。幸いそのための必要予算は県が確保して順調に立ち上がりました。実行委員会が中心とはいいながらその原案を作る事務局は大変です。研修プログラムの素案を作成して実行委員会にかけるのですが、それぞれの思惑の違いもあって一進一退でした。それでも茨城で行われた直前大会までには何とかペーパーになり、それとPR用のポンジュースを持って茨木年大会には総勢50人を超える人たちで乗り込みました。それぞれがそれぞれの視点で全体会や分科会をチェックして、ある意味とても有意義な一年目の準備と研修を終えたのです。

若松進一ブログ

 2年目に入った実行委員会は分科会と全体会それぞれに役割分担に沿って準備をしました。全国への案内状発送は期待と不安が交錯しました。何せこの種の大会の全体会を南予宇和島という地方でやるのですから、期待はあるものの知名度は低く、かなり工夫をしました。私は事務局が作ってくれた私の似顔絵名刺の裏に大海のPR文字を印刷した名刺をわずか半年間で千枚も全国の人に時ある度に配り歩いたのです。その効果?もあって参加者は350人近くになり、締切当日の嬉しさは格別でした。全国大会の分科会会場を引き受けた各市町では運営委員会を組織し、何度となく打ち合わせの会合を持ち、それぞれが様々な思考を凝らして準備を進めてきましたが、目に見えぬ不安もあったようでした。

 何とか準備を終えて、11月13日の前夜祭、14日の全体会、14日と15日の分科会を、好天という幸運に恵まれ思い出に残る大会を開くことができました。その模様は100ページにも及ぶ素晴らしい報告書にまとめられていますが、多少悔いは残るものの今となっては後の祭りです。


若松進一ブログ

 形式的には昨日の今年度第5回目の実行委員会は、実行委員会解散手続きのための召集でした。事業報告も決算見込み書も全て満場一致で承認され、実行委員長としての私の役目をやっと終わりました。思えば長くも短い2年間でした。この大会は事務局体制がしっかりしていたこと、県や愛媛政策研修センター、それに私が代表を務めていたえひめ地域づくり研究会議の全面的な協力があったこと、それに分科会を受け持った県下15市町の運営組織の努力とキーマンたちの活躍という総合力の成果だっと思うのです。

 私はその上に胡坐をかいて楽をしてしまいましたが、これも役得と思って甘んじてしまいました。昨日は最後の懇親会もあって皆さんと楽しい思い出話をしました。この大会がなければ出会わなかったであろう人たちや、痕がも出会わないかも知れない人たちと、これからのことについて話し込みました。

 今後はこの大会をスタートにして全県下で活気のある地域づくりが展開されるよう祈っています。

  「またひとつ 重荷を降ろし 一休み 帰りの道は 背中軽々」

  「二年間 あっという間に 過ぎ去った 思い出多く 悔いなく終わる」

  「この二年 助けられたり 助けたり 貰った恩を どうして返そう」

  「飲むほどに 苦い思い出 かき消され 主役のような 輝き見せて」

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shin-1さんの日記

○肥えるのは簡単だが痩せるのは難しい

 私はこれまでの人生で最も体重が増えた時は68キロありました。身長が168センチですから少し肥え過ぎていました。元はといえば60キロ前後の体重だったのに、第10回総理府派遣青年の船に乗って2ヶ月余り太平洋を横断したとき、船内や寄港地で肉を中心にした西洋料理を食べたからでした。帰国した私を見て妻は「別人かしら?」と思ったそうです。それでも元の生活に戻って日本食を食べ始めると元に戻りましたが、一度膨らんだ風船が中の空気を抜くとしわしわになるように、どこかたるんだような体になってしまったのです。これは危ないと一念発起して筋力アップに取り組んだお陰で逞しいほどではないにしてもそれなりの体系を維持するようになりました。ところが10年前健康診断で胆のうにポリープが見つかり、胆のう摘出手術を行いました。それから体重が減り続け、今では55キロから56キロの間を往復するほど体重が激減したのです。

 田舎のことゆえ口の悪い人は「若松さんは痩せてしまってどうやらガンらしい」という噂を立て始めたのです。特に田舎のおばちゃんの口に戸はたてられませんから、噂はまたたく間に町十に広がってしまいました。今でもそのことを信じて遠回しに「ガンには○○という薬が聞く」などと勧めてくれる人もいるほどです。

 私の友人には胃を摘出した人や肝臓が悪い人、糖尿病予備軍のが沢山います。でもその人たちはいつの間にか好きだったタバコを吸いお酒を飲んでいるのです。私は元々たばこは吸いませんが、お酒はビールを浴びるほど飲んでいました。胆のう手術を機にきっぱりとお酒を止めました。胆のう摘出手術後は肉や天ぷら、お菓子類が好きでなくなってそのことが原因かどうか分かりませんが、体重はこの10年近く微減微増を繰り返して今の体重を維持しているのです。

 私は風呂が大好きで、今は暇ができればリフレッシュするため温泉に出かけます。温泉は全員が裸で入浴するため皆さんの体型をよくよく観察してみると、以外とお腹の出た体型の人が多いことに驚くのです。私のようにリフレッシュするため温泉に来る人もいますが、概して痩せたいという願望を持った人が多いようです。サウナに入って汗を流しては体重計に乗って自己満足しているのに、早くも休憩室で缶ビールを自動販売機で買ってのでいる人をよく見かけるのです。それほどしなくてもと思うのは当然、でも酒のみだった昔を経験した私には風呂上りのビール一杯の味を知っているだけに理解もできるのです。

 あるお医者さんの話によると人間の体は風船のようなもので、最初膨らませるのにはかなりの力が必要ですが、ある程度大きくなると案外軽い息で風船は膨らむのです。また一度膨らませた風船は次に膨らませるとゴムが伸びて最初より簡単なのです。人間の体もまったく同じで、せっかく源流を試みて細くなってもリバウンドし易いのだそうです。温泉での会話は楽しいもので、政治やスポーツなど様々ですが、健康に関する会話も沢山聞くことができます。まるで医者のように詳しい人のほとんどは一度や二度重い病気にかかった人が多いようです。

 痩せたいが中々痩せないというのはオンネの話のようですが、痩せるためにはサウナや温泉もさることながら食生活の改善や運動をしなければならにのは当然のことです。私もただ今少し筋力アップを推進中です。

  「そういえば ふとった人が 増えてきた メタボほどでは ないとはいうが」

  「最近は 新聞折り込み 痩せ話 サプリくらいで 痩せるものかと」

  「痩せ薬 飲んで命が 縮まった よくある話 百害一利」

  「痩せたねと 言われて皮肉 思う人 嬉しい反面 辛い一言」

 

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shin-1さんの日記

○ああ定年

 リタイアして4年があっという間に過ぎました。普通の人であればこの4年間は本当の意味での社会人になるためのフライト訓練みたいな時期なのでしょうが、私の場合社会人としてフライトする訓練は50歳代の10年間をかけて訓練していたので、リタイアと同時に即独立フライトでした。それでも十分時間をかけて臨んだフライトも慣れないことがいっぱいあって、最初は戸惑うことばかりでした。給料が入らなくなった家庭の経済的組み立ては、妻の涙ぐましい努力によって乗り切りました。毎日出勤する生活リズムの狂いによる健康的生活習慣もサンデー毎日に多少の戸惑いもありましたが、すっかり板についてストレスがないだけむしろ以前より健康になったように思います。それまでおろそかにしてきた社会的付き合いは、一気に自治会長などの想い役職を持たされましたが、社会への恩返しと思い誠心誠意努力して、地域に深く溶け込むことができました。こうしてみるとこの4年間は私にとって、むしろ以前より充実した暮らしができるようになっているのです。ある意味誰もから羨ましがられる理想のリタイア生活をしているようです。

 数日前、この春定年退職する友人から相談を受け、リタイア生活のイロハを教えてくれと言われました。彼には多少の批判はあっても天下りという再就職の道が開かれているようですが、彼は常々「天下りだけはしたくない」と言っていました。しかし現実的に彼のような一般的な人間に、天下り以外の仕事が見つかるほど世の中は甘くないと話してやりました。奥さんもそのことを理解していて何とか年金が満額出る年齢まで、例え細々とでも働いてほしいと言っているようでした。

 退職後のイロハについて例をあげて話しました。

  ①地元の役職は進んで受ける。

  ②健康には特に注意して体力づくりをする。

  ③見栄や無駄を省いて経済的自立を図る。

  ④酒と賭けごとはほどほどにする。

  ⑤遊び心と趣味を持つ

  ⑥これからの生活設計を立てる。

  ⑦家族と向き合って生きる。

  ⑧情報手段を持つ。

  ⑨旅をする。

  ⑩これまでの人生をまとめる。


 もう一週間もすれば、彼の役職も名刺もなくなります。元の役職や名刺は前だとか元をつけないと使えないのです。しかし前や元などつけて過去の栄光を見せびらかせても何の役にも立たないことを、これからしばらくの間は身にしみて思うことでしょう。そして役職の重みですり寄っていた人たちは冷たく去って行くのです。

 私は退職後のイロハで書いていることを今も実践しています。地元の役職は学校の評議員や少年少女おもしろ教室の実行委員長に至るまで楽しくやっています。健康に留意して自分でできる体力づくりや、人間牧場の草刈り、家庭菜園などに汗を流しています。大学や講演などに出かけかろうじて経済的自立をしています。酒も賭けごとも一切していません。遊び心と趣味は旺盛で人間牧場を舞台に活発に活動しています。85歳まで生きる生活設計に基づいて生きています。リアイアしてこの4年、疎遠だった家族との関係は随分改善されました。インターネットも、毎日2本ずつ書いているブログも、また年輪塾ネットも情報の広がりを見せています。旅は言うに及ばず北海道から沖縄まで楽しい旅を続けています。これまでの人生は折にふれ自著本でまとめています。

 私の人生を彼に押し付ける気持ちは毛頭ありませんが、やはり自分がどう生きたいのかというポリシーが、自分の生きる支えにならねば生きている意味がないのです。


  「今年また 迷える羊 野に下る 生きる手だてを 考えないと」

  「四年過ぎ 五年目突入 ゆるぎない 決めた想いを 一つ二つと」

  「この三日 夜は地元の 集会に 俺やこれやと 楽し出会いが」

  「わが財布 そっと満タン なっている 妻の配慮が 嬉しこのごろ」

 

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shin-1さんの日記

○田舎の変化の中で

 田舎のあちこちに空き家が目立つようになりました。私たちが子どもの頃は戦後間もないこともあって、貧乏ながらみんな純朴で、人の活気が村々に満ち溢れていました。私たちが過ごした青年期もやはり同じようにみんな楽しい日々を将来の夢を見ながら暮らしていたのです。

 あれからそんなに時間は経っていないと思うのに、今の社会には不景気や閉塞感が漂い、自分の住んでいる町でさえ何か縮んで行くような感じがするのです。人口が減って過疎化が一段と激しくなり、高齢化が進んで手押し車を押して歩く老人が増えてきました。また子どもの歓声が聞こえなくなり、学校は空き部屋が目立って来年度からは、わが母校である中学校が廃校になろうとしているのです。商店街はまるで歯抜けで買い物や食事すら満足にできないようになりました。街の中心であったはずの役場や農協、商工会も合併支所化して、この町に住むことの不安や将来への不安をを誰もがブツブツ「町が潰れる」と、諦めの言葉を述べているのです。

 数日前えひめ地域政策研究センターの出向研究員が、この春出向元へ帰るにあたって、研究の成果や心情を発表する会に参加しました。その席で考えさせられる話を聞きました。

  〈豊かさと幸福を問い直す〉

 第二次大戦後、わが国は豊かな国となり、人々が繁栄と呼ぶ状況を生みだした。

 私たちは、あまりに簡単に幸福になりすぎた。

 人々は、それは公平であるか否かを議論した。

 私たちは戦争を回避し、工場を建設し、そこへ農民の子どもが働きに行った。

 農業社会は解体され、私たちの国は新しい国になったが、人々が本当にわが家にいるといった感覚をもてたか

 どうかは確かでない。

 1950年から60年に至る10年間に、毎日30戸の小農家が閉業するというスピードで、わが国の農業が終焉し 

 た。

 人々は大きな単位、大きなコミューン(市町村)を信じ、都市には将来にわたって労働が存在すると信じた。

 私たちは当然のことながら物質的には豊かになったが、簡単な言葉でいえば、平安というべきものを使い果たし 

 た。

 私たちは新しい国で、お互いが他人同士となった。

 小農民が消滅するとともに、小職人や小商店が、そして、病気のおばあさんが横になっていたあの小さな部屋、

 あの小さな学校、あの子豚たち、あの小さなダンスホールなども姿を消した。

 そういう小さな世界はもう残っていない。

 小さいものは何であれ、網けが少ないという理由だった。

 なぜなら、幸福への呪文は〈儲かる社会〉だったからだ。

                                     スティーグ・クレッソン(Stig Claesson)

 

 この文章を読んで私はショックを受けました。外国の状況を書いた文章なのに今の日本の現状に、余りにもぴったり当てはまるからです。私の住んでいる田舎は最早自助努力で地域が活性化できるような余力はもう殆ど残っていないのです。にもかかわらず政府や自治体は、相変わらず参画と共同などと言葉では言っていますが、こんな田舎を見捨てようとしているかのように見えるのです。

 私は小さな町の小さな役場に35年間も勤めました。そしてこの町を何とかしたいという思いからその大半をまちづくりという仕事に深くかかわってきました。私が役場を辞めてからまだ4年か経っていないのに、地域はこのあり様で縮んでいるのです。

 焦る気持ちと諦めの気持ち、そして私だけでも何とかしなければという使命感の交錯する中で今を生きています。私に残された時間はあまりないかも知れませんが焦りや諦めよりも使命感に燃えてもう一度アタックしたいと、清水さんの話を聞いて思いました。


  「ふるさとが だんだん縮み このままじゃ おいおい細り 消える待つのみ」

  「平安を 使い果たして 平気なの? 子や孫今後 何を縁に」

  「日本人 儲かることを 追い求め 心を捨てて 生きてきたかも」

  「不幸だと 言葉じゃ言うが 幸せよ 飯も食えるし 年金だって」  

 

               

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shin-1さんの日記

○いただいた小田和正のCD

 車に乗るとまずカーラジオのスイッチを入れます。私の場合忙しく毎日を過ごしているため、テレビでニュースを見る時間が殆どないため、余程のことがない限りNHKにチャンネルを合わせて、運転をしながらラジオのスピーカーから流れてくる様々な話題を拾うのです。NHKだと国会中継や野球の中継などがない限り30分に一回はニュースが流れるので、たとえ近くの松山へ行く場合でも2回ぐらいはニュースを聞けるようです。

 ところが私の車を供用している妻は私と意見が合わないのか勝手にCDやカセットテープを持ち込んで、それらをせっせと聞いているのです。前日孫と映画を見に行った妻は、私のいないことをいいことに、CDもカセットテープも入れたままで車を車庫に入れていました。そんなことを知らない私は昨日大学へ出勤するため車を運転しながらカーラジオのスイッチを入れると、何やら懐かしい歌声が挿入していたCDから流れてびっくりしました。

 ♭もうすぐ春~ですねえ、ちょっと気取ってみませんか~♯、ご存じといってももう古いキャンデーズの歌です。古いと言っても私たちとは世代の違う歌ですから少し若くなったような気分で、しかもこの曲が流れる間、わが町の海岸線に咲き始めた桜を横目に見ながらですので、まさにこの歌はBGMのような感じで、間もなく満開の桜が咲くであろうことを思いました。

 昨日は友人の清水さんが外出先での仕事の途中に大学の研究室へ立ち寄ってくれました。その折先日の発表会で聞かせてもらった小田和正の「今日もどこかで」というCDを持ってきてくれました。清水さんは発表のしめくくりとして、私たちに心の代弁としてこの歌を聞かせましたが、いい歌なので何人もからリクエストがあったようでした。私は帰り際、妻の挿入していた「もうすぐ春ですね」を取り出してカバーにしまい、このCDと入れ替えて聞いたのです。

 小田和正といえば人気のアーティストです。私のような年齢でも随分フィーリングが合うのです。実は妻のCDや変えっとテープは殆ど次男と三男のお下がりなのです。その中には小田和正や松山千春の歌もあって、それらの歌は私も時々聞いていますが、何故かいい気持になります。

 小田和正といえば、私がNHKの人間マップという番組に「夕日を売り出せ」というタイトルで30分間全国放送された折の、出だしのテーマソングが小田和正の歌でした。忘れもしません1995年9月14日PM11時30分からの番組でした。

若松進一ブログ

 「♭君と初めて会ったその日から 自分が変るのがわかった~♯」。この歌の題名が何であるかも分からぬまま今日に至っていますが、自分の書斎の書棚の中にひっそりと置いてあるこのビデオテープはその後見ることもなく時が過ぎていいます。息子に頼んで小田和正のこの歌をラジカセに吹き込んでもらい何度となく車で聞いた事さえも記憶の彼方に消え失せていました。

 今の私は歌を忘れたカナリヤかも知れません。日々の忙しい暮らしに悩殺されて、歌を聞く余裕さえもなくなっていました。いただいた「今日もどこかで」というCDを聞きながら、久しぶりに音楽で癒されました。清水さんありがとうございました。


  「一枚の CD貰い 車中にて 聞いて癒され 家路を帰る」

  「いつの間に 歌を忘れた カナリヤに なったのだろう 歌を再び」

  「思い出す 小田和正の 歌ともに 全国放送 十四年前」

  「歌を聞き 思いめぐらす 春の日は 桜まもなく 満開迎え」

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shin-1さんの日記

○久しぶりに煙会所へお客様

 この30年、私のホームグランドとなっていた私設公民館煙会所は、人間牧場の開設とともに軸足がそちらの方に移ったため、ごく親しい人の寄り合にしか使わなくなっていました。使わなくなったというよりリクエストがあってもお断りをしているというのが正しい表現かもしれないのです。そんな訳で多少埃をかぶっているような感じがしていました。昨年の秋地元奥東のおばちゃんたちが人間牧場へやってきた折、「次回は煙会所で夕日徒然草・水の書に書かれた落語を聞きたい」という約束があったので、今日は朝から煙会所の掃除を一人でやりました。囲炉裏の部屋の畳を雑巾がけしたり、トイレの掃除をしたりしながら「施設というのは人間が使わなければ駄目だなあ」と思いつつ掃除をしたのです。昨日2時間、今日2時間の掃除ですっかりきれいになりました。本当は障子の張り替えをしたかったのですが間に合わず、一個所小さな破れが気になるものの座布団を出したり、囲炉裏に炭火を入れ、すっかりお客さんをもてなす準備が終わったのです。

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 昨晩妻と最初の日程が奥東の都合で変更になったため、23日だったか24日だったか記憶が分かれました。私は24日が23日、妻は23日が24日と記憶しているのです。こんな場合案外私の聞き間違いが多いのですが、今回は私のメモに軍配が上がったようでした。妻は昨日孫を送って行って帰りが遅かったため少し疲れ気味の様子でしたが、午後8時過ぎになって台所で何やらゴソゴソしているのです。聞くと来る予定の8人のおばちゃんのために、天草を使ったフルーツゼリーを作っているのです。私は疲れているからいいと言いましたが、妻は「そんなこと言ったって」と手早く作るのです。最後の布巾袋で天草を漉す作業は一人でできないので手助けをしました。オレンジジュースや砂糖を入れ、そしてパイナップルやアップルの缶詰に加え、はるみというみかんを3個むいで薄皮を丁寧に取り、広い4つのタッパーに流し込みました。

 妻は手慣れていて簡単そうに見えますがこれは中々のもので、夜寝る頃に冷めたゼリーを冷蔵庫の中へ入れて一晩寝かせると、美味しいフルーツゼリーが出来上がるのです。

若松進一ブログ

 おばちゃんたちは約束の10時に2台の車に分乗してやって来ました。おばちゃんは全員子供のころから顔見知りの人なので、別に気兼ねなく海の資料館海舟館や私設公民館煙会所などを見学してもらいました。同じ町内に住みながら私の家に来たのは初めての方ばかりでした。そのうち煙会所に上がってお茶を飲みながら囲炉裏を囲み雑談に耽りました。

 この日のおばちゃんたちの目的は夕日徒然草・水の書の落伍を聞きたいのです。人数分高座本を用意してお話を始めました。今日は福祉施設に入った身近な人たちの話が出たものですから、早速高齢化問題を取り上げ、手身近に4~5話話をさせてもらいました。どなた様も加齢が次第に進み、他人事でない話は大いに盛り上が、あっという間に2時間が過ぎてしまいました。「春が来たことを手放しでよろこべない年代になった」と少しさみしげに話すおばちゃんたちは、また会う約束をしてわが家を後にしました。

  「また来たよ また来たかいと 挨拶し 囲炉裏囲んで 楽し談笑」

  「春が来た またひとつ歳 重ねると 笑いながらも どこか寂しく」

  「座椅子持ち わが家訪ねる 高齢者 座ることすら 苦痛ゆがめて」

  「久し振り 笑顔楽しき 時過ごす 笑うことなど 忘れていたな」

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shin-1さんの日記

○日本人の暮らしには旧暦が一番

 毎朝台所に吊るしてある日めぐりカレンダーを、一枚一枚破り取る度に日々の過ぎて行く速さに驚き、「歳をとると一日があっという間に過ぎて、今日は3月も下旬か」なんて会話を妻と毎日のように交わしているのです。破った昨日の3月22日という一枚はもう永久に帰って来ないのですが、破り捨てようとしたハガキ一枚ほどの紙は、日曜日だったゆえ真っ赤な字で書かれ、沢山の言葉に交じって旧暦で2月26日と記されていました。

 私たちの暮らしは殆どが新暦で回っています。何をするにも新暦なのですが、農業や漁業に縁の深い私たちの地方では、なくなったはずの旧暦がしっかりと生きているから不思議です。地球に最も影響を及ぼすのは太陽と月です。一年365日で太陽の周りを公転する動きもさることながら、毎月一回地球の周りを回る月は、潮の満ち引きに大きく関係し、あらためて宇宙の不思議を思うのです。海で漁をする漁師さんにとって月齢は重要な意味を持っています。満月と新月は一ヵ月のうち最も潮の流れが速く、特に春先とお盆の頃は特に大きく塩が膨れ上がるのです。潮の読み方一つで魚がたくさん取れて大漁になったりするのですから、潮をよむ第六感がたけている人は大きな収入を得ますが、逆に潮のよみを間違えると網を破ったりして散々な目に遭うのです。

 最近はレーダーや魚群探知機が普及発達し、GPSを使えば魚礁などのデーターがインプットされていて、かなり正確な漁業が営まれるようになってきましたが、その分潮をよむ技はどんどん低下しているようです。

 私も若いころ7年間漁師をして潮をよむ名人といわれた親父のもとで修業をしました。潮をよむ技術は体験以外から学ぶことはできず、むしろ盗みとらなければならないのです。残念ながら病気がもとで漁師の道を断念しましたが、もし私があのまま漁師を続けていたらどんな技を身につけたのだろうと思いながら、今はすっかり用をなさなくなった旧暦の暦を見るのです。

 漁業ほどではありませんが農業の分野でも旧暦の暦は作業の中に生きていて、種まきや収穫などに関する農作業のことわざは殆ど旧暦で言われています。「八重桜が散ったら霜の害はまずない」などという言葉も、冷害に悩む農民の暮らしをよく表現しているのです。

 今は昼と夜の長さが同じ春分の日前後です。昼の長さが最も短かった冬至(12月22日)と比べると、約2時間も昼が長くなっているのです。一日一日の夜が明ける時間はそんない変わらないのに、月日の積み重ねが大きな変化を生んでいるのです。春分の日が過ぎると春は一気に駆け足でやってきます。早い遅いと一喜一憂した桜も、昨日の温かい雨風で一気に開花が進み、この週末には桜の花見を楽しむ人たちで賑わうことでしょう。

 わが家も親父の体内時計のように長年にわたって組み込まれた旧暦の暦のお陰で、今年も様々な農作業が行われます。既に「椿さんが終わるとジャガイモを植える」とか、「春分が来ると里芋を植える」という親父の言うとおり植えました。ジャガイモは既に芽を出し始めていて、畑へ行くのが楽しみになってきました。今年こそはと昨年の失敗を繰り返さないよう種まきの時期を考えています。

 これからも新暦の下に言いわけ程度に書かれている旧暦の暦を見ながら暮らしたいものです。

  「日めぐりの 言いわけ程度の 旧暦を 大事にわが家 今年も作業」

  「染みついた 親父の体の DNA 旧暦元に 今も暮らして」

  「そういえば なるほど思う ことばかり 故事ことわざに 旧暦生きて」

  「この町は 農業漁業 生きている 人が多くて 旧暦標準」

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shin-1さんの日記

○孫が発見、茶褐色のアマガエル

「おじいちゃん大発見、早く来て」と朝の散歩から帰った孫がけたたましい声で私を呼ぶのです。「どうした」と誘われるままに玄関先から外へ出てみました。孫の指さす方向はわが家の長い塀の中ほどでした。指さす方の塀に一匹カエルがくっついているのです。「えっ、桜も咲かないのに早くもカエルが?」と目を疑いましたが、カエルは冬眠から覚めたようなのんびりした動きで、周囲の騒ぎを察知しながらも悠然と直立の塀を登っていました。

若松進一ブログ(孫朋樹が撮影した冬眠から覚めたアマガエル)

 松山に住む孫は来月には小学校に入学するのですが、只今のところ虫類に興味があって、卒園も終え「春休みになったので遊びに来ないか」と誘いました。孫は電話の向こうで開口一番「おじいちゃんどんな虫がいる?」と、どうやら双海へ来るのは虫に出会いたいからだと分かりました。「今はまだ冬だから虫はまだ出てこない」といえば、「幼稚園の先生がもうすぐ春だと言っていた」と食い下がるのです。「何か見つかるかも知れない」とお茶を濁しましたが、はてさて戸外へ出ても長著も飛んでいないし困ったことだと思っていました。

 昨日は偶然にも高知県の木下一家がやって来て動物のことなどすっかり忘れて遊びに講じていましたが、今朝は少し興奮して帰るとの面会と相成りました。このころのアマガエルはこのところの陽気に誘われて土中から出てきたばかりでまだ茶褐色の体をしています。4月下旬になると葉っぱの色と同じ保護色となって河いいのですが、少しグロテスクな体をしていました。

 孫にせがまれデジタルカメラを取り出し、自分で写真を撮りたいというのでカメラを渡しました。何枚か撮影したようでしたが、いつも手元がぶれるので、殆どがピンボケ状態でした。ズームアップした一枚が何とか使えそうなのでパソコン画面に取り込みました。孫は今年から小学一年生になるのでデジタルカメラをお父さんから貰って、動物図鑑を作るのだと張り切っています。親の手助けがなければできないのでしょうが、やる気でけは満々なので、これからこまめに小動物に出会わせてストックさせたいと思っています。実はこれが第一枚目ではなく昨年の秋に人間牧場で団子虫を自分で撮影しているのです。これもピンボケの中の一枚をストックしているので、合計2枚になりました。青虫や毛虫、ナナホシテントウムシ、オタマジャクシなども撮るのだと張り切っているようですが、はてさて子どものたわごとですのでどうなることやら・・・・・。


 わが地方では作夜来から南西の風が強まり、安眠を妨げるような強風が吹きました。今日の天気予報は雨だったので昨日の夕方、急な思いつきで親父と里芋の植え付けをしました。耕していたため草こそありませんでしたが、冬の間に固くなっていたので鍬で掘り起こし親父が耕運機をかけて土をほぐしてくれました。そこに穴を掘り苗屋さんで買った里芋の早生と遅手の2種類を植えました。親父は相変わらず几帳面で、糸を引っ張り一直線にお植えて行くのです。お陰で夕方6時から開かれる予定だった天一稲荷神社の会計監査を10分も送れる大失態を演じてしまいました。

 私の暮らしもまだ冬のバイオリズムのままで動きが鈍いようですが、91歳になる親父は今年の冬を元気で乗り越え早くもエンジン全開で、昨日は7キロ離れた診療所へ自転車で通院するなどエンジン全開のようです。

 お昼頃、西予市の観音水でアマゴの養殖をしている佐藤さんから私の体を気遣う有難い電話をいただきました。電話によるとあれ程元気だった佐藤さんは糖尿病でえらい目に遭ったそうです。今年70歳になる佐藤さんはある雑誌で私の近影写真を見たそうです。昔の私を知っている佐藤さんは私のげっそり痩せた姿を見てただ事ではないと直感し電話をくれたのです。お互いいい歳になったことと無理をしないようにと確認しながら電話を切りました。年齢的にはわたしもそろそろ冬ごもりの年代ですが、91歳の親父や6歳の孫にあやかり、もう少し元気を回復して春を謳歌したいと思いました。~痩せ蛙負けるな一茶ここにあり~ならぬ、~痩せ蛙 負けるな進一ここにあり~で生きて行きましょう。


  「冬ごもり 目ざめのカエル のんびりと 塀にとまって 春寝楽しむ」

  「おじいちゃん 発見したと 大声で 私に見せる カエルの昼寝」

  「春が来た カエル目ざめど わが体 未だ冬まま 気合を入れて」

  「あり難や 自分の身より 友のこと 案じて電話 思わずジーンと」



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shin-1さんの日記

○高知のマジシャンがやって来ました。

 昨日突然高知の木下さんから、「今内子町に来ているのだが会いたいので午後空いているか」と携帯電話が入りました。昨日は春休みになった孫を迎えに行く予定で、会議も夕方からだったので、快くOKの返事をしました。相前後して長男からも電話で、久しぶりの休日なのでやって来るというのです。これは午後から賑やかになるぞと思いながら楽しみに松山に住む孫を連れて帰えりました。

 木下さんは約束通り昼過ぎわが家に到着、息子の家族も交えて木下さんはまるで大道芸のような形で玄関先を会場にマジックを紹介してくれました。息子もマジックに関心があって、会社の忘年会などでは出し物としてやっているようなのですが、木下さんのテクニックには脱帽といった感じでした。

若松進一ブログ(朋樹は不思議なマジックにあっけにとられていました)

 孫の朋樹は同じ年の木下さんの息子さんが演じるマジックに興味があって、他のマジックより金輪つなぎマジックを不思議そうに「何で、何で」と分からない種をしっかりと聞いていました。来訪の記念にと金輪をいただいたものですから有頂天になって、「えー、種も仕掛けもありません。チチンプイプイノプイ」なんて呪文を唱え、何とか様になるほど何度も練習を重ねていました。

若松進一ブログ(5月に出産予定の長男の嫁あゆみを相手にお金の移動のマジックをしていました)

 やがて木下さんは親父の隠居の前の縁側で私へのマジック伝授を始めました。私は落伍に多くはできなくても簡単なマジックを3つだけ教えてほしいと頼んで置いたのです。その小道具は既に年末までに私の家に届いていて、2月の年輪塾に木下さんが来た時に伝授の予定でしたが、残念ながら時間がなく伸び伸びになっていました。素人ながら私は木下さんを師匠にたった一度だけの伝授をしていただいたのです。

 マジックは必ず種明かしがあるのですが、その種が分からぬように自然体でやらなければなりません。手の中から出ては消える赤いハンカチと本の中から飛び出す蝶、それに口の中から出てくるマジックを教えていただきましたが、見るとやるとでは大変な違いです。

 木下さんは息子さんと奥さんの家族3人でやって来ました。奥さんの来訪は初めてなので人間牧場へ案内すべく木下さんの車で出かけました。昨日の人間牧場は暑からず寒からずすっかり春の陽気で、少し黄砂が降って視界が悪いようでしたが、それでも奥さんは感心して周囲の景色や私の想いを聞いたり見たりしていました。奥さんは少しの間病の床にふしていましたが今は回復して元気になっていて安心しました。息子さんと朋樹は誕生日も11月22日と23日の一日違いだけで、気が合うのか盛んにじゃれながら遊んでいました。空のロケーション風呂に二人で入ったツーショットは中々いい感じでした。

若松進一ブログ(風呂の中でいい湯だな~でした)

若松進一ブログ

 穏やかな日差しや春の風を楽しみながら帰り際妹の経営するくじらという主背に立ち寄ったり、菜の花畑を見たりして木下さんの家族は今夜のお宿である松山へ向かわれました。そういえばこの3日間は土曜日を挟んで3連休なのです。私のようにサンデー毎日になった者にとっては無縁なのでそのことをすっかり忘れていました。

 木下さんと入れ替わりに仕事から帰って来た妻を相手に朋樹は「おばあちゃん。種も仕掛けもありません」と習いたての金輪を使ったマジックを早速披露していました。誇張して驚ろいたふりをする様子を見て朋樹はご満悦の様子で、ちょっとした春休みの楽しい思い出となりました。


  「高知から 突然マジシャン やって来る 目を白黒 孫は驚き」

  「誕生が 一日違う 運命を 確かめ合って じゃれつつ遊ぶ」

  「さあ俺も 今日からマジシャン 修行する カバン忍ばせ 全国行脚」

  「三流の マジシャンなって 巡業す 行く先々で 拍手の渦か?(笑い)」

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