shin-1さんの日記

○研修の在り方

 最近会社は社員研修、行政は職員研修などに力を入れているようです。いつの時代にも人の良し悪しによって業績や成果に影響がでるものですから当然といえば当然なのです。私はそれらの研修に仕事柄、講師として呼ばれることが多いのですが、私のジャンルはこれまでの経験談を中心にして、どちらかというと「やる気の創造」とか、「新しい発想の視点」などへの注文が多いようで、その都度熱っぽく語るのです。

 これらは殆ど集合研修であり、要となる部課が企画、責任者の名前で召集し「忙しい」とか「こんな研修は意味がない」などと多少の文句はあっても、飯のネタであるし出世に響くとあって予定された時間と場所に集まり、それなりに研修を受けて終るのです。参加者の意識が低く、実の入らない消化型の何の意味もない研修は哀れで、お昼寝のオンパレードといったところでしょう。特に行政のやる研修にはこの種の研修が多いのも事実です。

 最近はワークショップなどの手法を取り入れて参加者が主体的に動くような研修が見られたり、あらかじめ参加者に質問事項を提出させたりしていて、かなり効果を挙げているようです。しかし集合研修には自ずと限界があり、研修後のレポート提出さえも、何を研修したのか疑いたくなるようなものもあるのです。

 先日「eラーニング」という分野が社員教育の間で裾野が広がりつつあるという話しを聞きました。聞きなれない言葉なので少し調べてみました。「eラーニング」という言葉がはじめて登場したのは1990年代で、「eラーニング」のeはelectronic(電子的)の頭文字だそうです。当初はCD-ROMの配布による学習方法でしたが、その後プラウザ(インターネットのホームページを閲覧するためのソフトの総称)を使用して学習を行う双方向型登場し、今では学習の進捗状況や受講履歴の管理もできるなど目まぐるしい進歩を遂げているようです。総論するとeラーニングとは、インタネットやイントラネットを用いた教育系他のことのようです。

 eラーニングでどんなことを学んでいるかというと、コンプライアンス(法令遵守)や情報セキュリティ、情報保護、ビジネスマナーにまで及んでいる層で、特に会社の管理職などはこうした教育を3人に1人は受けているそうです。これまでの研修がどちらかというと集合研修に重きを置いていましたが、いよいよ研修も、会場費などの間接コストを抑えられる、個人のスケジュールに合わせた受講が可能、職場を離れなくて済む、学習の進捗状況が把握できる、学習指導のフィードバックが迅速であるというメリットから、集団研修から個人研修の時代に移りつつあることを実感するのです。

 集団研修のメリットは、ただでさえ出会うことの少ない時代ゆえに顔の見える意味は誰しも認めるところですが、やはりこうしたきめ細かい個人学習への対応もしなければ、会社そのもののレベルアップは出来ないようです。私たちが仕事をしてきた時代とは社会環境も職場環境も随分変わってきました。全ての人の机の上にはパソコンが置かれ、職場毎に情報のネットワークが張り巡らされているのです。パソコンなしで仕事は出来なくなりましたが、そのパソコンを個々人のレベルアップに生かすなら、もっと質の高い仕事が出来るのかも知れません。しかしいつの時代もパソコンなどの道具を使うのは人間ですから、一歩使い方を間違うと大変なことになることも心してかかるべきでしょう。

  「横文字が どんどん増えて ギブアップ 分らぬままに 闇から闇へ」

  「ソフト何? ソフトボールか クリームか 私は古い 頭浮かばず」

  「便利だね インターネットで 調べれば 辞典も要らぬ 時刻表まで」

  「予約する 仕方分らず 買っていた チケット手配 今はネットで」


 

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shin-1さんの日記

○誤字脱字のご指摘

 毎日あくせくしながら日々を過ごし、朝と夜の少しの時間を割いてブログ「shin-1さんの日記を書いていますが、時々出会う人から、「ブログを毎日楽しみに読んでいます」とか、「あなたには中々出会いませんがブログを読んでいるのでどんな生き方をしているか手に取るように分ります」といわれます。中には読んだ感想を定期的にメールで送っていただく人もいます。またある人は「毎日職場であなたのブログを開け読んでから朝礼に望むようにしています。時々書かれていることを素材にして部下に話すようにしています」と、汗顔の思いをすることもしばしばです。

 先日大洲に住む知人女性から一枚のハガキが舞い込みました。私はこの女性とは長い知り合いで、合併前の町村役場に勤務している頃に知り合いました。合併のドタバタ騒ぎや私がリタイアしたこともあって、何処の職場にいるのか分らなくなっていましたが、一昨年宇和島で開かれた愛媛県市議会事務局職員の研修会に招かれた折、偶然にも出席されていて、嬉しい再会を果たしました。今は合併した市役所の議会事務局に勤務していますが、時折季節の話題とともに、私のブログ文章の感想と誤字脱字についての感想を送ってくれるのです。一昨日届いたハガキは大洲城のスケッチ絵ハガキでしたが、几帳面な性格そのままにまるで活字のような綺麗な文字で書かれていました。

 前回届いたハガキには私のブログの文章の誤字脱字への見解が書いてあったものですから、気になってそのハガキを机の上の小さなイーグルに入れて飾り戒めにしていましたが、返信を忘れていたので時ならぬ時期にしたためたハガキへの返信でした。

 私はハガキの末尾に色々な言葉を書く癖があります。彼女への返信ハガキに何を書いたのかは忘れましたが、文章から察するに「逢う人も逢う人もまた福の神」と、広島県上下町に住むユースホステルの森岡ママからいただいた言葉を書いていたようです。

 彼女は博学ですからその言葉を受けて面白い言葉を送ってくれました。

 福の神 元をただせば 貧乏の 神がおいおい 出世したもの

 いやあ気に入りました。早速昨日のハガキ三枚には「大洲の友人女性からの贈り物」と注釈をつけて書きました。なるほど福の神も元を正せば貧乏な神だったのか、自分の生い立ちも福の神に似ていて、未だ貧乏神の領域さえ抜け出していないものの、多少福の神になったような気分で生きているのです。

 誤字脱字のそしりは未だに暗いトンネルの中に入ったままです。なにせ毎日が忙しく、書いた文章を読み返すような暇が残念ながらないのです。自分の文章といいながらブログという手段で書くと公表され、批判を受けることは覚悟しているものの、甘んじてその批判を受けなければならないのです。誤った変換をしたパソコンのせいにしたりしてますが、もうそろそろしっかりとした文章を書き、しっかりと読み返して添削したり修正するようになりたいと、今朝も彼女の手紙をイーグルに入れ替えて机の上に置きました。

 彼女の名前も本当は書きたいのに個人情報とかで書けない恨みもあり、少しもやもやの文章になってしまいました。

  「貧乏な 神が出世の 福の神 俺は未だに 出世見離す」

  「誤字脱字 お前が悪いと パソコンに 八つ当たりする 逃げ道作り」

  「あちこちに 知人友人 散らばって 何かにつけて 私を見てる」

  「送られし ハガキに書いた 言葉から また一つ智恵 上乗せしつつ」

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