shin-1さんの日記

○日本食の枝豆

 今年の夏はわが家の家庭菜園に植えた枝豆がどういう訳か不作で殆ど枯れてしまいました。5月中旬に種をまき発芽は順調だったのですがその後枯れ始めました。親父の話だと枝豆の発芽した芽を野バトがついばんでしまったのではないかというのです。そういえば菜園には近くの林に住む野バトが再々やって来て色々なものを突くのです。手拍子で追い払ったり、鳥おどしをつけても平気でうろつきお手上げの状態です。こんな失敗をくり返さないために来年は網を張ろうと親父と相談していますが、さて明日で90歳になる親父にその体力があるかどうか心配ですが、そろそろ代替わりで私がその任に当らなければならないと、心を引きしめているところです。その親父は今日も元気で、目が薄くなったといいながらも朝から松の剪定に余念がないようです。

 さて野バトの食害にあった早生の枝豆も、残って成長したものを2度ばかり塩湯でして食べましたが、野バトの食害を免れた晩生の枝豆が食べ頃となり、今晩は収穫して食べようと思っています。昔はキリンラガービールの愛飲家だった私はビールのつまみに枝豆を沢山食べました。体の不調でビールを断ったため当然枝豆を食べる回数も量も大幅に激減してしまいました。私は豆腐や納豆などの大豆製品が大好きです。豆腐だと軽く一丁は食べるほど豆腐には目がないのです。当然枝豆も大好物ですが、ビアホールには今年兄弟夫婦で一度行ったきりで、枝豆はその折に鱈腹食べただけなのです。

 昨日は孫が大和屋のビアホールへ夕食をかねて両親と出かけ、私たちは留守番をしましたが、帰った孫の話しを聞くと「一番美味しかったのは枝豆だった」そうで、お皿に4回もお変わりをして食べたと自慢していました。「うーん残念、おじいちゃんも枝豆を食べたかった」と答えると、得意げになって枝豆の話しをしてくれました。

 最近外国でも枝豆の人気は今日上昇中だそうです。外国では塩湯でした枝豆を食べる風習はなかったそうですが、日本食のヘルシーさが受けていて、日本語そのままに外国でも「エダマメ」と呼ばれているようです。日本人が枝豆を食べるようになったのは記述資料によると江戸時代からのようです。枝豆の消費が一気に伸びたのはやはり戦後のようで、食生活が洋風化しビールの消費量が拡大するにしたがって枝豆の消費もうなぎ上りとなりました。枝豆の緑色した豆がはじけるように口の中に飛び込む食感はビールの苦味とともに忘れられない味なのです。

 この枝豆といわれる緑豆は、塩茹でだけでなく夏を彩る料理にもかなり使われています。高級料理には枝豆を裏ごしして豆腐に練りこんだり、ハモの上に和え物としてかけたり、またイタリア料理の皿を彩るソースとして使われているようです。時には枝豆を掻き揚げ天ぷらにして食べることもあるのです。しかしこれも殆どは他人が作った料理を食べるときだけで、自分ではやはりシンプルな枝豆として食べるくらいしか能がないようです。

 こうして枝豆の話をするともうとっくに止め、何の未練もなくなったはずのビールの味が急に恋しくなりました。毎日毎日、仕事との疲れを癒すためと、人間関係を深くすると過信して飲み続けたビールはいつの間にか回数と量を増やし、体を蝕んでいたように思えるのです。愛飲し続けたビールだけが原因ではないにしても、それも要因だと思ってすっぱりやめて10年近くが経ちました。お陰で体調はすこぶる回復して、健康な日々を暮らしていますが、やはりビールを止めたと同時に姿を消した枝豆も捨て難い味なのです。

 去年のこの頃、伊予市に住む友人水口さんから黒大豆の枝豆が届きました。産毛のような毛が生えて、中の実も黒味を帯びてグロテスクなのですが、これがとても美味しく、あの味は忘れられないのです。他人の懐なので甘えてはいけませんが、残夏残暑のこの頃になると、水口さんと黒豆の枝豆が急に恋しくなり、密かな期待を持つのです。

  「枝豆の 味を思えば 止めし酒 喉の覚えし 蘇えり来る」

  「送られし 黒豆の味 忘られず もうそろそろと そわそわしつつ」

  「外国で エダマメと書く お品書き 日本の食も インターナショナル」 

  「枝豆を 四皿お変わり 食べたいう 孫は得意げ 俺は舌打つ」 

 

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shin-1さんの日記

○一升餅背負い

 私たちの地域では子どもの健やかな成長を願い、子どもが満一歳の誕生日を迎えるにあたって、一升餅を背中に背負わせて歩かせる珍しい風習があります。各家庭で餅をつくことが殆どなくなったため、どの子どももという訳ではありませんが、わが家では私も私の息子もしてきたことなので長男の息子、つまり私の孫にもしてやろうという事になりました。

 妻は数日前にもち米を買い込んで準備を始めました。その折娘の長男朋樹には外孫ということもあって一升餅背負いをしていなかったので、孫希心と一緒に娘の次男である孫尚樹にも用意しようと、それぞれ一升餅を作ることにしたのです。一昨日の夕刻妻と二人で蒸し器と電動餅つき機を取り出し餅つきです。最近は正月の餅もシーサイドの加工場でつくので、わが家での餅つきは久しぶりなのです。蒸し器で蒸したもち米を餅つき機に入れると、僅か5分ほどで綺麗な餅が出来上がるのです。妻は少し大きめの寿司桶に白い片栗粉を引いてつき上がった餅を入れてぐるぐる回し、まるでお月様のような真ん丸いお餅が2個出来上がったのです。その状態で一晩寝かせて固まった餅をダンボールの箱に入れ、昨夕妻と二人で息子と娘の家を相次いで訪問しました。



 妻は今日誕生日を迎える内孫希心のためにご馳走も用意していました。希心はあいにくお昼寝の最中でしたが、早速起したのが悪かったのか少しご機嫌斜めで、風呂敷に包んだ餅を背中に背負わせると本泣きで手の付けられない状態です。それでも何とか母親がとりなして無事一升餅を背負い歩き初めをしたのです。

 子どもの成長は早いものであれから一年があっという間に経ちました。希心は体重も10キロ前後とかなり大柄です。這うことが苦手でしたが今では這うことも出来るし伝い歩きも出来るようになりました。自分の体力の減退とは偉い違いです。妻の用意した料理を食べながら家族で色々なことを話しました。息子の家族も間もなく私たちの元へ帰って同居を始める予定ですが、同居は同居なりに問題も多いようなのでしっかりと話し合って心の準備をしてから始めようと思っています。まあ何はともあれ目出度い一升餅背負いとなりました。



 私たち夫婦は息子の家をおいとまして娘の家へ出かけました。今度は娘の次男尚樹に一升餅背負いをプレゼントするためです。尚樹は5月18日が誕生日なので既に足腰もしっかりして歩けるようになっています。希心と同じように風呂敷で一升餅を背負わせましたが、ここでも尚樹は大パニックで泣いたり笑ったりしながら持ちを背負って歩きました。

 昨夕は娘夫婦と孫朋樹、それに近所に住んでいるわが次男の一生が大和屋のビアホールへ食事に出かけるため、尚樹のお守りと留守番を頼まれました。私たち夫婦は孫尚樹を乳母車に乗せて1キロ近くも離れた祝谷にある「そら」というパン屋さんまで散歩がてら娘から頼まれたパンを買いに行きました。乳母車に乗った尚樹は大喜びでしたが直ぐに眠りこけてしまいました。今から寝せると朝早く目を覚ますらしいので起して、靴を履かせて歩かせました。少しヨタヨタ歩きですが行きつ戻りつ何と500メートルも歩きました。途中犬の散歩をしている人に何人も出会い、その都度「ワンワン」と一つしかいえない言葉で興味を示し、散歩は大成功です。

 往復1時間の散歩を終えて帰り、簡単な食事を済ませて寝かせました。二人でNHKテレビ思い出のメロディーを見聞きしました。今年40周年を迎えるこの番組は私たち夫婦の生きた時代でもあり、殆どの歌が口ずさめるものでした。「白い花の咲く頃」を歌う岡本篤郎さんは八十歳を越えているというの素晴らしい歌声でした。青函連絡船100年、ロカビリー3人男、浜口庫之助特集など心に残りました。

 やがて娘家族が帰り、孫朋樹を連れて約40分の道をわが家へ帰って来ました。孫の成長に目を細める楽しい夕べでした。

  「一升の 餅を背負いて 歩かせる 二人の孫は 有難迷惑」

  「孫が泣き 周りは笑う 泣き笑い 健やか成長 これも幸せ」

  「散歩する ヨチヨチ歩きの 孫の後 ついてヨタヨタ 爺と婆」

  「思い出の メロデイー聞いて 口ずさむ 懐かし歌が 心に染みる」


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shin-1さんの日記

○研修の在り方

 最近会社は社員研修、行政は職員研修などに力を入れているようです。いつの時代にも人の良し悪しによって業績や成果に影響がでるものですから当然といえば当然なのです。私はそれらの研修に仕事柄、講師として呼ばれることが多いのですが、私のジャンルはこれまでの経験談を中心にして、どちらかというと「やる気の創造」とか、「新しい発想の視点」などへの注文が多いようで、その都度熱っぽく語るのです。

 これらは殆ど集合研修であり、要となる部課が企画、責任者の名前で召集し「忙しい」とか「こんな研修は意味がない」などと多少の文句はあっても、飯のネタであるし出世に響くとあって予定された時間と場所に集まり、それなりに研修を受けて終るのです。参加者の意識が低く、実の入らない消化型の何の意味もない研修は哀れで、お昼寝のオンパレードといったところでしょう。特に行政のやる研修にはこの種の研修が多いのも事実です。

 最近はワークショップなどの手法を取り入れて参加者が主体的に動くような研修が見られたり、あらかじめ参加者に質問事項を提出させたりしていて、かなり効果を挙げているようです。しかし集合研修には自ずと限界があり、研修後のレポート提出さえも、何を研修したのか疑いたくなるようなものもあるのです。

 先日「eラーニング」という分野が社員教育の間で裾野が広がりつつあるという話しを聞きました。聞きなれない言葉なので少し調べてみました。「eラーニング」という言葉がはじめて登場したのは1990年代で、「eラーニング」のeはelectronic(電子的)の頭文字だそうです。当初はCD-ROMの配布による学習方法でしたが、その後プラウザ(インターネットのホームページを閲覧するためのソフトの総称)を使用して学習を行う双方向型登場し、今では学習の進捗状況や受講履歴の管理もできるなど目まぐるしい進歩を遂げているようです。総論するとeラーニングとは、インタネットやイントラネットを用いた教育系他のことのようです。

 eラーニングでどんなことを学んでいるかというと、コンプライアンス(法令遵守)や情報セキュリティ、情報保護、ビジネスマナーにまで及んでいる層で、特に会社の管理職などはこうした教育を3人に1人は受けているそうです。これまでの研修がどちらかというと集合研修に重きを置いていましたが、いよいよ研修も、会場費などの間接コストを抑えられる、個人のスケジュールに合わせた受講が可能、職場を離れなくて済む、学習の進捗状況が把握できる、学習指導のフィードバックが迅速であるというメリットから、集団研修から個人研修の時代に移りつつあることを実感するのです。

 集団研修のメリットは、ただでさえ出会うことの少ない時代ゆえに顔の見える意味は誰しも認めるところですが、やはりこうしたきめ細かい個人学習への対応もしなければ、会社そのもののレベルアップは出来ないようです。私たちが仕事をしてきた時代とは社会環境も職場環境も随分変わってきました。全ての人の机の上にはパソコンが置かれ、職場毎に情報のネットワークが張り巡らされているのです。パソコンなしで仕事は出来なくなりましたが、そのパソコンを個々人のレベルアップに生かすなら、もっと質の高い仕事が出来るのかも知れません。しかしいつの時代もパソコンなどの道具を使うのは人間ですから、一歩使い方を間違うと大変なことになることも心してかかるべきでしょう。

  「横文字が どんどん増えて ギブアップ 分らぬままに 闇から闇へ」

  「ソフト何? ソフトボールか クリームか 私は古い 頭浮かばず」

  「便利だね インターネットで 調べれば 辞典も要らぬ 時刻表まで」

  「予約する 仕方分らず 買っていた チケット手配 今はネットで」


 

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shin-1さんの日記

○誤字脱字のご指摘

 毎日あくせくしながら日々を過ごし、朝と夜の少しの時間を割いてブログ「shin-1さんの日記を書いていますが、時々出会う人から、「ブログを毎日楽しみに読んでいます」とか、「あなたには中々出会いませんがブログを読んでいるのでどんな生き方をしているか手に取るように分ります」といわれます。中には読んだ感想を定期的にメールで送っていただく人もいます。またある人は「毎日職場であなたのブログを開け読んでから朝礼に望むようにしています。時々書かれていることを素材にして部下に話すようにしています」と、汗顔の思いをすることもしばしばです。

 先日大洲に住む知人女性から一枚のハガキが舞い込みました。私はこの女性とは長い知り合いで、合併前の町村役場に勤務している頃に知り合いました。合併のドタバタ騒ぎや私がリタイアしたこともあって、何処の職場にいるのか分らなくなっていましたが、一昨年宇和島で開かれた愛媛県市議会事務局職員の研修会に招かれた折、偶然にも出席されていて、嬉しい再会を果たしました。今は合併した市役所の議会事務局に勤務していますが、時折季節の話題とともに、私のブログ文章の感想と誤字脱字についての感想を送ってくれるのです。一昨日届いたハガキは大洲城のスケッチ絵ハガキでしたが、几帳面な性格そのままにまるで活字のような綺麗な文字で書かれていました。

 前回届いたハガキには私のブログの文章の誤字脱字への見解が書いてあったものですから、気になってそのハガキを机の上の小さなイーグルに入れて飾り戒めにしていましたが、返信を忘れていたので時ならぬ時期にしたためたハガキへの返信でした。

 私はハガキの末尾に色々な言葉を書く癖があります。彼女への返信ハガキに何を書いたのかは忘れましたが、文章から察するに「逢う人も逢う人もまた福の神」と、広島県上下町に住むユースホステルの森岡ママからいただいた言葉を書いていたようです。

 彼女は博学ですからその言葉を受けて面白い言葉を送ってくれました。

 福の神 元をただせば 貧乏の 神がおいおい 出世したもの

 いやあ気に入りました。早速昨日のハガキ三枚には「大洲の友人女性からの贈り物」と注釈をつけて書きました。なるほど福の神も元を正せば貧乏な神だったのか、自分の生い立ちも福の神に似ていて、未だ貧乏神の領域さえ抜け出していないものの、多少福の神になったような気分で生きているのです。

 誤字脱字のそしりは未だに暗いトンネルの中に入ったままです。なにせ毎日が忙しく、書いた文章を読み返すような暇が残念ながらないのです。自分の文章といいながらブログという手段で書くと公表され、批判を受けることは覚悟しているものの、甘んじてその批判を受けなければならないのです。誤った変換をしたパソコンのせいにしたりしてますが、もうそろそろしっかりとした文章を書き、しっかりと読み返して添削したり修正するようになりたいと、今朝も彼女の手紙をイーグルに入れ替えて机の上に置きました。

 彼女の名前も本当は書きたいのに個人情報とかで書けない恨みもあり、少しもやもやの文章になってしまいました。

  「貧乏な 神が出世の 福の神 俺は未だに 出世見離す」

  「誤字脱字 お前が悪いと パソコンに 八つ当たりする 逃げ道作り」

  「あちこちに 知人友人 散らばって 何かにつけて 私を見てる」

  「送られし ハガキに書いた 言葉から また一つ智恵 上乗せしつつ」

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shin-1さんの日記

○時ならぬ雨

 夏も終わりに近付き、このところのジメジメした天気で何となくうっとうしい気持ちです。しかし松山を中心として愛媛県では水不足が心配なだけに、少しでも雨が降って欲しいと願わずにいられません。世の中は中々上手く行かないもので、愛媛県では水不足だというのに日本列島の東や北では1時間に100ミリを越す猛烈な雨が降って、観測史上の記録を次々と塗り替えているようです。今朝高松へ行くため早起きして行く途中カーラジオから流れていたニュースだと、どこかの町では1時間に120ミリという猛烈な雨を記録し、死者や行方不明者が出たと報じていました。時間雨量120ミリは尋常な量ではなくバケツをひっくり返したような凄さなのです。

 これらの雨の降り方を見て、異常気象だという人もいますが、これは日本列島に居座った前線に向って南から暖かい空気が流れ込んでいるためで、上空に流れ込んだ寒気の影響で天気が不安定になったせいなのです。つまり日本列島のの弓なりになった地形の上に雲の通り道が出来たため起こる現象なのです。私は気象予報士でもなくそれ程の知識はありませんが、水産高校出身なので学校で天気のことは色々学んでいます。加えて地元で漁師を7年もやった経験からどんな時にどんな気象の変化が起こるか、おおよその見当はつけれるのです。

 私は社会教育やまちづくりの世界で長らく生きてきました。社会教育やまちづくりにとって屋外でのイベントは欠かせない存在で、天気を予報することはイベントを成功させる上でとても大切なことでした。特に決行か中止か、また中断か再開かを本部として決定しなければならなかったのです。この場合判断を誤ると参加者からブーイングが起こるだけでなくイベントそのものを壊してしまうのです。特に夕やけコンサートのように一年に一度、しかも100万円を越える予算が動くとなると一ヶ月前から天気の動向を把握し、テキパキと対応しなければならないのです。小雨決行といいながら参加者を濡れささないためにテントを張るとかいった胃の痛むような苦労は随分しましたし、過ぎてしまえばそれもいい思い出です。でも20回ばかり続けたコンサートも台風襲来で一度中止にした以外は、それなりに実行し大きな感動を得ることが出来ました。

 私の口癖は「天に向ってブツブツいうな、雨の日には雨の日の仕事がある」でしたが、予期せぬ台風襲来や大雨に遭遇し、無人島キャンプで生きるか死ぬかという大変な経験もしました。最後は「責任」いう思い荷物が自分の肩にのしかかりましたが、「引き返すことの勇気」という教訓も学びました。

 多分夕やけコンサートを主催する役場の大谷さんは今頃私と同じような天気回復への願いで一喜一憂していることでしょうが、これも次への成長の一里塚だと思って、逃げることなく正面からアタックして欲しいものです。

 町内のあちこちで焚き火の煙が昇るようになってきました。畑の隅で夏草を焼いているのでしょう。わが家でもそろそろ家の横の家庭菜園で、冬野菜の準備を始めなければなりません。親父はこのところ畑に出てせっせと草を取り、その草を焼いて準備に余念がありません。先日は親父から苦土石灰を頼まれ肥料屋さんで1俵購入し、単車の後に積んで帰ってきました。間もなく大根の種蒔きが始まることでしょう。季節はもう秋へと巡っているのです。

  「辻褄を 合わせるように 雨が降る 辻褄合わぬ 雨も各地で」

  「台風が 来ない喜び 反対に 雨が少なく 一雨欲しい」

  「雨乞いの 祈り届いて 雨が降る たちまち草は 青々茂り」

  「もう一度 草刈りすれば 終りかな 今年も草は 元気でしたよ」

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shin-1さんの日記

○第45回全国広報公聴研究大会に招かれて

 私たちが若い頃は同じ四国といっても高松での研修会に行くには一泊二日の旅でした。ところが最近は高速道路が整備されて、特に香川県の道路がよくなったため、少々早い時間の開会でも少し早めに家を出れば間に合うため、高松で一泊などの旅は完全になくなり日帰りとなったのです。そのため高松へは殆ど車で行っていましたが、ご承知の通りガソリン代が高くなり、高速代金を含めるとかなりに出費になるし、少し楽な旅を考えて今回はJRの電車を使うことにしました。


(借り切り状態のような特急いしづちの車内はとてもお洒落でした)

 しかし朝6時14分松山駅発の電車に乗るためには、わが家を5時には出なければならないのです。目覚ましの要らなくなった年齢ながら、それでも失敗をしては大変と、寝坊の妻は午前4時30分にセットして床に就いたようです。私は午前4時に起床し顔を洗ったりヒゲを剃ったりして準備をしていると時ならぬ時に目覚ましのベルが鳴り、妻は驚いて飛び起きました。身支度を整えいざ自家用車で出発です。早朝の国道は予想以上にトラックが走って、その後についたものですから、三秋峠辺りでは少しイライラしましたが、それでも十分間に合う時間に松山へ着き、車を駐車場に置いて5時14分の列車に乗り込みました。金曜日といいながら平日の早朝の便なので乗客は殆どなく、田舎の特急いしづちにしては豪華な指定客席に座って2時間半の旅を楽しみました。朝が早かったのでウトウトしたり、本を読んだり、車窓を眺めたり、高松が近付くに連れて今日の話の中身をどうしようか、思いを巡らせたりしながら列車は予定通り目的地の高松駅へ到着しました。

(高松駅前は全日空ホテルなどが立ち並びまるで夢空間です)
(コンベンションホール・サンポート高松の施設も凄いです)

 会場となるサンポート高松までは本の目と鼻の先なのでゆっくり歩きました。それにしてもサンポート高松というコンベンション施設は立派なもので、いつ来てもその威容に驚くのです。約束の時間は9時30分でしたが、列車の都合で9時に到着しました。丁度私が送っていたDVDのリハーサルが行われていて、ちょっと泥きました。ロビーには今年度の広報コンクールの入賞作品がロビーに並べられていて、ペラペラと捲りながら駆け足で見せてもらいましたが、どれも秀作で私たちの頃と違った編集技術が存分に生かされていました。

 合併で市町村の数が多かった何年か前までこの大会は、かなりの広報に携わる人が参加していたそうですが、市町村の数の減少と、県外主張の自粛によって300人程度のこじんまりとした大会になっているようでした。

 さてこの大会の今年のテーマは「地域の魅了を発信」でした。事例発表として私と香川県直島の笠原さんがそれぞれ1時間ずつお話をしました。

 私は広報マンとして10年間に毎月2回、240号の広報を作った経験から、広報マンとして広報作りで得た①書くという能力、②伝えるという能力、③まちづくりという能力についてまず話しました。書く能力は行政マンにとって大切な武器であり、今もブログを毎日書きながらささやかな情報を発信しています。様々な出来事を情報として加工し伝え、地域の世論を形成することは行政にとって凄く重要なことなのです。5W1Hを広報誌に表現することは、地域住民と行政のコミュニケーションを深めてゆく大切な役割なのです。さらにまちづくりには企画力、経済力、実践力、地域力などを総合した能力が求まられますが、虫の目と鳥の目を併せ持った複眼的視点は行政の大きな力となるのです。

 私は広報を担当したことで、情報の価値と、PR能力が備わり、以後のまちづくりに独自の境地を開きました。夕日を地域資源にしたまちづくりについても独自の持論を展開して、参加した300人の心に力強く訴えました。壇上に届いた反応は上々で、四国のいい事例発表になったと自己満足し帰りはJR四国が走らせているアンパンマン列車に乗ってふるさとへ帰って来ました。

(子どもに大人気のアンパンマン列車)
(特急いしづちの車内からは瀬戸内の素敵な景観が見えます)

  「四国内 移動するのに 二時間半 少しうんざり 少しのんびり」

  「高松の 変身ぶりに 目を細め 行き場所探し 右往左往す」

  「駅弁を 食べつつ帰る 予讃線 外は曇りて ぽちぽち雨が」

  「鉛筆と 消しゴム使い 書いたよな 今はパソコン 何の造作も」 


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shin-1さんの日記

○今日もまたかくてありなん明日もまた

今日は午前中えひめ生協の理事会があり、先月差し支えがあって行けなかったので二ヶ月ぶりの出席となってしまいました。目まぐるしくも忙しい昨今の私のスケージュールを考えると、二ヶ月ぶりというのは、相当昔のような感じがして、理事長さんや専務さん、それに理事の方々の顔を見て懐かしさしきりでした。折から降り出した雨も、このところの水不足のニュースから考えると何となく恵みの雨のような感じもしました。

 ベテラン理事さんが姿を消し新しく理事さんになったフレッシュな顔ぶれが混じり、理事会も何処となく雰囲気が変わったように感じました。生協の会にも随分慣れて、近頃は松本専務の売り上げや収益金報告の数字が少々気になるようになって来ました。相次ぐ値上げや原油高の影響は売り上げにも微妙に影響をしているのです。

 今日は議事の進行が上手く行ったのか午前中で全ての審議を終ってしまいました。午後3時からのえひめ地域づくり研究会議運営委員会にはまだ間があるようなので、娘のマンションへ立ち寄りました。孫二人は小雨が降るため部屋の中での遊びを余儀なくされていて、少々不満だったのか、私に外へ連れて行くようせがむのです。特にヨチヨチ歩きが出来るようになった孫直樹は「ワンワン」という私が教えた言葉しか喋れないのですが、盛んに外を指差し、近所の犬のいる場所へ連れて行けとせがむのです。しかし土地勘のない私にはどうすることもできず、結局はそこいら辺を散歩してお茶を濁しました。帰り際息子嫁と孫がやって来て、娘の家は大賑わいでしたが、私はさっさと引き上げました。

 地域政策研究センターでの運営委員会は午後3時から始まりました。今日の卓話は関前村出身の島崎義弘さんの担当です。島崎さんは福祉の分野でかなり活躍されている人です。関前村役場の職員でしたが合併を機に社会福祉協議会の職員になったという変り種です。それは合併すると大好きな福祉の仕事が出来なくなるという

危機感からでした。いわば安住の公務員を足蹴りにしたのです。このことだけでも彼のやる気が感じられるのです。不平不満ばかりをいいながら、やらないことをやれないというどこかの公務員に島崎さんの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいと思うのです。

 彼の発想はとても新鮮に感じました。愛媛県で一番の高齢化率を誇った旧関前村は今治市と合併しましたが、高齢化は今もも変わらない大きな問題です。しかし彼はそうした島の現実をしっかりと受け止め、前向きに高齢化をとらえながら大きな成果を上げているのです。子どもがお年寄りの家庭を訪問しお年寄りから話しを聞きながらお年寄りの自分史を作ってあげるアイデアも、大学の福祉士の資格を取る学生を誘致して福祉の最前線を学ばせるアイディアも、彼の努力で実を結んだのです。彼は今福祉の大学の学生として毎週土曜日に対岸の広島に通い学生として福祉の勉強をする努力家でもあり、出来ぬこととはいいながら見習いたいと思いました。

 卓話の後、運営委員会では来年春に予定している年次フォーラムの企画案について議論を戦わせました。これから行われるまち並みゼミや地域づくり団体全国交流会などの検証と、その後の在り方をテーマにすることを確認して次回に持ち越しました。いよいよ私も仕上げの時期が近付いたようです。

 わが家に帰ると妻が餅つきの用意をして待ち構えていました。8月31日に誕生日を迎える孫希心と、5月18日に誕生日を既に迎えた孫尚樹に一升餅を用意するのだそうです。こちらの風習では誕生日に一升餅を背負わせる風習がありますが、私も妻も忙しくてついつい延び延びになっていたので、今度の日曜日そのお祝いをしてやろうと計画しているようです。

 餅は二臼自家用機械でつきました。久しぶりの餅つきに私たち夫婦は少し興奮気味でした。

  「二ヶ月も 会わぬと何処か 懐かしく 積もる話しに 花を咲かせて」

  「公務員 足蹴りをして 福祉士に 爪の垢でも 飲ませやりたし」

  「孫二人 一升餅を 用意した 背中に背負って 歩けるかしら」

  「今日もまた かくてありなん 明日もまた こうして時は 過ぎ行く」


 

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shin-1さんの日記

○愛媛海区漁業調整委員会委員に選任される

 長年役場に勤めていたので、海区漁業調整委員という公職があることや、その委員が公職選挙法に基づいて漁業に携わる漁業者の選挙で選ばれることは知っていました。多分委員を選ぶ人も選ばれる人も漁業に携わる人だと、てっきり思っていました。

 ところがこの委員には漁民委員という公選によって選ばれる人と、知事選人による学識委員4名と公益代表委員2名というのがあるそうなのです。驚いたことに何と公益代表委員の一人に私が選ばれたのです。先日県庁の担当課である水産課の職員が自宅まで見えられ、諸般の手続きを終えて8月23日付で愛媛県知事より辞令が交付されました。

     若松進一殿

   愛媛海区漁業調整委員会委員に任ずる

                平成二十年八月二十三日

                        愛媛県知事  加戸守行

 愛媛海区漁業調整委員会の概要によると設置は、漁業法第84条に基づいて農林水産大臣の定める海区ごとに設置されます。性格は各都道府県に設置される行政委員会(地方自治法第180条の5)です。

 委員の構成は漁民委員(公選)9人、学識経験委員(知事選任)4人、公益代表委員(知事選任)2人、合計15人で構成されます。

 委員の任期は知事選任の場合は平成20年8月23日から平成24年8月22日までの4年間です。

 所掌事項は海区の海区内における漁業に関する事項を処理します。(漁業法第83条)。

 権限はとは主な仕事でしょうが、【諮問機関】として漁業計画策定(漁業権の免許の内容)について意見を答申、漁業の免許(漁業権の免許の是非)について意見を答申、調整規則の制定、改廃等について意見を答申、定数漁業の許可枠の承継、休漁枠の復活等について意見を回答、【建議機関】として漁業計画を樹立すべき旨の知事に対する意見具申、免許後の条件及び制限の付与の申請、【決定機関】として入漁権の設定、変更、消滅の裁定、採捕の制限、魚場利用の制限等の指示の発出などがあるようです。

 私が何故選ばれたかは未知ですが、その公職に適した人間として選ばれたのでしょうから、肩肘張らず15人の中の小さな1人として、粛々と役目をこなしてゆきたいものです。

 私は下灘という漁村に漁家の長男として生まれました。私が育ったころの下灘漁村は長閑なもので港といえば防波堤が一本あるだけで、毎日家族総出で出漁のために船を降ろし、漁から帰ればまた船を陸揚げをしていました。漁具や漁法もまだまだで、取った魚の漁もたかがしれていたようです。それでも今思うに多少貧乏はしていましたが漁村が一番幸せな時期だったのかも知れません。やがて漁船もエンジンも、港も全て近代化され儲ける漁業へと変わって行きました。丁度その頃私は宇和島水産高校に遊学し、実習船愛媛丸に乗って大海を目指しました。親父のガン発病のため郷里に帰り7年間底引き網漁師をしました。その後病気が元で役場職員に転職して35年間の間には4年間水産を担当して下灘の魚市場や上灘の漁村センターを造り、漁業振興計画も樹立しました。またウォーターフロントとしてシーサイド公園の整備も担当し、じゃこ天などの水産特産品も開発しました。漁業の歴史を編さんする町誌編さんにも委員長として携わりました。退職後も上灘水産加工場の計画にもかかわり、漁業者以外では最も漁業に近い存在だと自負していますが、予備知識はここまでです。これから先は様々な漁業に関する勉強をしなければなりません。大任である役目を果たせるよう努力したいと思います。

  「水産の 委員選任 身に余る うやうやしくも 拝受しました」

  「原油高 漁業直撃 音を上げる エンジンの音 どこか寂しく」

  「人生の 仕上げの時期に 大任を ネジ巻き戻し 更に頑張る」

  「公益を 代表してと 理由あり 外から漁業に 意見を述べる」 

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shin-1さんの日記

○門を閉じた学校

 最近気になることの一つに、学校の門が閉じていることがあります。門は普通中に人がいれば開けているものですが、今は学校も個人の家もセキュリティの関係で閉じているのです。確かにこの数十年で日本の社会は大きく変わりました。何の関係も恨みもないのに行きずりで殺されたりするのですから、これが世界一安心安全な国だろうかと疑るのも無理からぬことなのです。

 最近まで学校は「開かれた学校」を目指していました。ゆえに積極的に地域の人を招き入れ、その人から多くのことを学ぼうとしていたのです。しかしその目論見は相次ぐ不審者の学校乱入によって脆くも崩れ、最も安全なはずの学校が門扉をつくり、今では防犯カメラまで設置して、過敏過剰とも思える備えをして子どもたちを守っているのです。青少年を巡る事件事故が起こる度に学校関係者はマスコミに対し深々と頭を下げ、直接学校の責任でもないのに、何故か詫びる姿を随分見てきました。

 先日相次いで地元の中学校と小学校の評価委員会に招かれ出かけて行きました。5~6人の指名された委員さんと校長・教頭・教務主任くらいの人数で、前もって行った教員・保護者・児童生徒・地域に対するアンケート調査の集計結果に対する評価検討を行ったのです。詳しいことは公表も出来ませんし、いずれホームページなどで明らかにされるのでしょうが、かなり微細な調査で、調査から様々な課題も見つけられたようです。

 正直言ってこんなことでもないと、私たち一般市民は学校の門をくぐることは余程のことがない限り余りなく、唯一学校へ足を運ぶのはPTAと世代交流を目論むおじいちゃん・おばあちゃん、それに運動会や学習発表会などのイベントしかないのです。

 私は双海町の学校百年の長い歴史の中で、双海町最後の教育長として5つの学校に門扉を設置した人間です。開かれた学校といいながら門をつけるジレンマに悩まされつつ、仕方ナシの選択でした。でも学校の安全を確保するために作ったはずの門扉は、安全という名の元に最近は開かずの門になろうとしているのです。校長先生はじめ余程の気持ち的開放がない限り、あの門を開けてまで学校へ入って行く勇気は残念ながらないのです。先日も不躾で素朴な質問ながら、「先生、学校へ入りたくても学校へ何処から入っていいのか分りません」とお話しました。「いつでもどうぞ」というけれど、まるで不審者のような顔をしている私だと、確実に門前払いされるのが落ちなのです。

 今年の春、ある小学校へ所要で出かけました。春は先生の異動の季節です。真新しい気持ちで赴任してきた先生の目には、校門近くで校門の開け方が分らずウロチョロする私は完全に不審者と映ったのでしょう。「そこの人、学校に何か御用ですか」と大きな声で怒鳴られました。「若松という者ですが、校長先生にお会いしたいのですが」と言うと、「アポを取っていますか」「商談なら放課後にして下さい」とまたまたつっけんどんにされました。この先生の対応はマニュアル通りで何ら問題はないのです。校門近くでの騒々しいやり取りを見て取った教頭先生が私を見つけ、「おいあの方は若松さんじゃが」で一件落着、中へ入れていただきました。無名でしかも私のようなリタイア組の値打ちのない人間ですから、当然といえば当然なのです。教頭先生も校長先生も、勿論私を不審者と勘違いした新任先生も恐縮していました。

 私でさえといえばご幣がありますが、一般の人なら押して計るべきことだと思いながら、門を閉ざさなければならない苦悩と開かれた学校づくりを目指さなければならないギャップを感じつつ、アンケート調査に対する疑問も感じたりしました。

 評価委員になって子どもたちを見る目と接し方が随分変わってきました。朝夕のあいさつも前以上に親しみを込めて磨るようになりましたし、子どもたちの明るい笑顔やあいさつがとても嬉しく感じられるのです。これからも、評価委員お仕事が終わっても、学校は地域の宝として見守ったり関わって行きたいものだと思いました。

  「子も孫も 通わぬ学校 行く当ても ないから遠のく だけど行きたい」

  「あんた誰 わしも無名だ 先生に 不審者見られ しどろもどろで」

  「学校の 門が閉まって 問題だ 門は問でも 悶々違い」

  「あちこちに 草の生えたる 運動場 子どもの数か 外で遊ばず」

 

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shin-1さんの日記

○小薮温泉を訪ねる

 カーナビに旧肱川町辺りの山里地図を入力すると、小薮という地名と温泉マークが表示されますが、昨夕は仲間7人でこの小さな温泉を会場に懇親会を持つべく出かけて行きました。午前中は県庁水産課の武田さんが海区漁業調整委員の辞令交付に来られたし、午後は日本海に面した兵庫県香美町香住町観光協会の方々が23名、視察研修に来られ、役場で講義やシーサイド公園の現地研修案内をやっていて、かなり忙しい一日でしたが、兵庫県のお客さんが宿泊地の松山市へ向ったため、私は逆の方向へ夕暮れの道を小薮温泉めがけて走りました。

 長浜~大洲~菅田~肱川と国道197号線の道順をたどり、肱川ダム入口の大きな赤い鳥居をくぐって曲がりくねった山道に入りました。2~3度訪ねたことのある土地ですが、それは何年も前のことなので記憶の糸をたどりながらのドライブです。

 やがて人家が見えてきて小薮(おやぶ)温泉という看板が目につきました。ひなびた旅館という表現がぴったりの旅館の前に車を止めて、駐車場の場所を聞くため玄関先に入りました。見覚えのある若い女性が中から出てきて、「若松さんお久しぶりです」というのです。そういえば大洲まちの駅で見かけたことのある顔だと思い出しました。「駐車場は50メートルほど上がった左側にございますので、そこへ止めてください」と指示されました。

 中に入って部屋へ案内されましたが、一行は既に到着していて、高知の和田さんはビール、他の人は温泉入浴と思い思いの手合いで過ごしていました。佐賀関の渡部さんも三崎の塩崎さんと一緒に到着していて、松野の芝さん、野村の藤本さん、明浜の原田さんと、それぞれ懐かしい顔々が勢揃いしていました。私も名湯の誉れ高い小薮温泉に瀬音を聞きながら浸かりましたが、山里の夕暮れ、しかも天然温泉ですから雰囲気は最高で、肌にまとわりつく温泉の湯を堪能させてもらいました。


 懇親会場となる囲炉裏の部屋に案内されましたが、囲炉裏の煙にくすんで黒光りする部屋の雰囲気もこれまた最高で、囲炉裏には自在が吊るしてあって、炭火の回りのアメノウオも食べ頃に程よく焼けて、焼き魚の香りが

漂い喉を鳴らせました。 

 この日野幹事長である芝さんの薀蓄を聞きながら何はともあれ乾杯し、懇親はスタートしました。久しぶりの出会いなので積もる話が山ほどあって、隣の席に座った大分佐賀関の渡部さん、高知の和田さんと楽しくも深い話をしました。かつてはそれぞれの市町村でまちづくりを競い、それぞれの地域の振興を図ってきたつわものだけに、舌戦も百戦錬磨で、まるで機関銃のような議論に花を咲かせました。途中女将さんも中に入り、また塩崎さんが持参したウニと渡部さんが持参した関アジ関サバに舌鼓を打ちながら夜のふけるのを忘れるほどでした。

 私も一芸とばかりハーミニカを披露し、伴奏に合わせみんなで舟木一夫や井沢八郎の歌を大きな声で歌いました。年齢が分る一時でした。

 私は明くる日の仕事の都合で10時過ぎにおいとましましたが、後ろ髪引かれる思いでした。芝さん、藤本さん、塩崎さんはそれぞれリタイアし、渡部さん、原田さんは再就職し、現職は和田さんのみ、私もセミリタイアの身と、それぞれ別の道を歩んでいますが、仲間とはいいものだとしみじみ思いました。

 「お父さん、夜遅い山道は危ないから気をつけて帰ってね」と出がけに妻から注意を受け、途中11時前に中山を通過中妻から優しい携帯電話が入りました。小薮~肱川~五十崎~内子~中山~双海と道順を辿って無事わが家に着いたのは11時過ぎでした。家に着くなり見透かしたように原田さんから電話が入り、無事の確認です。彼はあの後野村町まで足を運んだようで、彼のバイタリティには頭が下がりました。次の再会場所は高知県西土佐村とのこと、次回が待ち遠しいですね。

  「つわものも さすがに老いを 感じつつ 山里旅籠 夏の深まり」

  「山の湯に 浸かりて瀬音 しみじみと 日々の喧騒 忘れ楽しむ」

  「関アジと 関サバ持参で 海峡を 渡りて友は 伊予の人なる」

  「嬉しいね いきなり名前 玄関で 言われはにかむ 歳がいもなく」   

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