shin-1さんの日記

○今朝から岬半島の伊方町へ向います

 三崎半島へ行くのは、国道378号(夕やけこやけライン)を通り、瀬戸内海側と宇和海側を貫通する八幡浜市ゴゼ峠の長いトンレルを抜けて国道197号(潮風メロディーライン)を走るのが一番の近道です。昨晩えひめ地域づくり研究会議の事務局を務める松本さんから電話が入り、一緒に行こうと誘ってくれました。「じゃあ9時に自宅で」約束しました。センターの松本さんと坂本さんが9時少し過ぎに迎えに来てくれました。早速車に乗り込み、12時までに会場に着くよう逆算し、3ヶ所を見学しながら目的地を目指しました。

 まず最初は大洲市長浜町の今坊にある慈光寺を目指しました。国道378号を左に曲がってJRの高架橋の下をくぐり、山道へと差し掛かりました。何度か来た道ではあっても狭い道なので慎重に運転して昇って行きました。田舎らしい風情や海に突き出たようにポツンとある喜多灘小学校を横目で見やりながら、幾つもの分かれ道を、手づくり看板を目印に辿ってゆくと、山の中腹にお寺が見えてきました。何年か前に来た時は古くなったお寺の印象を持っていましたが、何と1ヵ月前に普請が終わったまるで湯気の出るような新築のお寺でした。

 久保さんという住職さんの兄弟が津島町の住職をしていることもあって、福祉の集会で頻繁にお会いをしていましたが、今は津島がすっかり遠のいていますが、この慈光寺はイチョウとハゼもみじの隠れた名所で、季節柄どうしても松本さんや坂本さんを案内したかったのです。いい思い付きでした。イチョウもハゼも今が見ごろで、すっかり紅葉した姿は、山寺ともマッチして絵になる光景なのです。今は別棟を新築中でしたが、出来上がった暁には是非再訪したいものだと思いました。幸い住職さんもいて立ち話をして去りがたい気持を残してその場を去りました。

 その後旧長浜町の商店街を走り、肱川にかかる赤橋を見ました。最近塗りなおしたのか幾分赤味が消えて赤黒く感じたのは光のせいでしょうか。それでも周囲の山々はすっかり色づいて、河口に新しく出来た近代的な長浜大橋と対比するのもいいものです。そういえば長浜町には色々と特長あるものが多いようです。肱川といい、国宝沖浦観音といい、金山出石寺といい、水口さんの日本海老根園といい、色々な素材が存在しています。残念ながら合併してその色を生かしたまちづくりは遠のいた感じがしますが、白滝のもみじだって立派な観光資源なのです。さらに草深い山道を経て土佐藩を脱藩した坂本龍馬が小船で山口県に向った記念すべき海上ルートの拠点なのです。大洲藩船いろは丸にまつわることも多く、私だったらとまるでかつての坂本龍馬のように胸をときめかせるのです。

 私たち一行は夕やけこやけラインを西に向ってひた走り、磯津に出ました。ここはもう合併して八幡浜市なのです。国道沿いの海を見下ろす小高い丘の上に銅像が建っています。この辺りを通る度に一度は訪れたいと思っていましたが時機を逸していましたので、今日は思いきって車から降りて記念公園と書かれた急な坂道を登り丘へ駆け上がりました。瀬戸内海に向って建っている銅像はシーボルトの愛弟子二宮敬作の顕彰銅像なのです。

 眼下に広がる瀬戸内の海は穏やかで空の青が見事にマッチしていました。先人はこの海を見て何を思ったのでしょう。

  「山寺を イチョウとハゼが 彩どって 行く秋惜しみ 一葉散り落つ」

  「赤橋と 並んで架かる 大橋を 通っていつも 無視して走る」

  「敬作は この地に生まれ 偉業成す われも瀬戸内 何を残すか」

  「気が付けば わが住む町は 明媚なり この地に住める 喜び感じ」

 

 

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shin-1さんの日記

○風邪を引いてしまいました

 この30年余り、風邪など引いた記憶がないほど風邪には強い男と自負していたのに、ついに風邪を引いてしまいました。「風邪を引いたら病院に行って注射をしてもらうか薬を飲んで温かくして寝ること」とか、卵酒がいい」などといわれていますが、注射の嫌いな私はまず病院へ行くと注射を打たれるという、まるで子どもみたいな理由で病院へは行かず、卵酒も体の都合で断っているためやることが出来ず、処方箋もなくただ置き薬を飲んで自然治癒力を信じてひたすら直るのを待っているのです。

 私の風邪の原因は、全国を駆け巡る旅人としては特定できませんが、思いあたる節は孫尚樹が風邪を持ち込んだ形跡があるのです。先週の週末は娘の家族がわが家にやって来ました。その折孫尚樹は鼻水をゾロゾロ出して、娘が病院へ連れてゆきました。飲み薬で帰る頃には鼻水も収まって帰って行きましたが、その頃から私の体に異変が起こり、喉が痛くなって声が出なくなってしまいました。お話をすることが多い私にとって声が出ないことは致命傷なのです。自分の家で作ったカリン酒などを試してみましたが効果がなく、そのまま滋賀県米原市ルッチ大学へ出張したり、生協の理事会へ出席したりしながら回復を待ちましたが、一向に治らず、昨晩の人権教育集会への出席などは最悪で、搾り出すような私の声にさぞかし聞きづらかったのだろうと、すまなく思っている次第です。

 妻が言うのには、孫尚樹の風邪がうつったのも原因かも知れないが、このところの忙しさで疲労が蓄積しているのだと、休息するよう勧めてくれますが、スケジュールは既に組まれており、休むことも出来ないと反論しています。「命が第一」とまるで死ぬ前のような大袈裟な表現をする妻の話を聞く度に、長年連れ添い、毎日顔色を伺って暮らしている女の言うことですから、一利あると納得しながら、やれ「下着を厚く着込んで」とか、「これは風邪に良いから食べなさい」とか、まるで医者のように細々指示をして優しく振舞う妻の姿をあり難いと思わずにはいられないのです。風邪を引いてから妻の優しさに気付きました。こんなに優しくしてもらうのなら一年中風邪を引いていたいくらいな優しさなのです。やはり自由人となって心もとないながらも私を一家の大黒柱と認めているようです。

 明日は佐田岬半島の伊方町で地域づくりのミニフォーラムが計画されていて、これも休む訳には行きません。運良く昨晩研究会議の事務局をつかさどる松本さんから電話が入り、彼の車に便乗できる事になり大助かりです。県内の移動といいながら片道2時間もかかるのですから、運転しないのは何はともあれ体の負担は軽減されるのです。

 今晩は早めに寝て明日は万全とまではいかなくても、しっかりと働きたいと、早々とならぬ11時40分にパソコンを切り上げ、妻の温かい布団にもぐりこみました。おとなしく・・・・。

  「風邪引いて 妻の優しさ 身に染みる こんなのだったら ずっと引きたい」

  「厚着して 薬を飲んで うがいして まるで子どもだ ご指示通りに」

  「原因は 体の疲れ 分るけど 直ぐに止めれぬ 混んだ日程」

  「疲れると 風邪まで体 住みついて 日頃の不精 少しは悔いる」

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shin-1さんの日記

○紅葉に染まる山々

木枯し1号が吹いてから見渡す景色が何処となく寒々として、体まで背中が丸くなるような憂うつさです。それでも体を鍛えようと折に触れ体を動かしているのですが、やはり体力の衰えは年齢とともに増してゆくようです。今朝は同じ敷地に住みながら長旅でとんとご無沙汰の親父の隠居に出かけ、久しぶりに朝の会話を交わしました。九十歳になる親父は今朝も早朝散歩をして帰ったところで、私が親父の健康を気遣うべきなのに、逆に親父から、体を鍛えるようにゲキを飛ばされました。それもそのはず、2~3日前から風邪気味で顔色が冴えないのです。それを見取ってのことでしょうが親父のいうのには、今朝の私は「顔色が悪い」そうです。

 親父の話によるとつい最近まではジョギングやウォークが流行し、早朝になると散歩の途中沢山の人に出会っていたそうです。ところが先日木枯し1号が吹くと極端に歩く人や走る人が減って、今では寂しい限りだそうで、今朝は3人くらいしか出会わなかったそうです。シューズやスポーツウェアーを身にまとった若い人は、運動を単なる流行ととらえているようで、人がやるからやるようだというのです。そこえゆくと親父は立派です、余程のことがない限りはない限りは雨の日も風邪の日もウォーキングをこの20年間続けているのですから凄いと思うのです。お陰で九十歳の今日まで元気に生きているようです。見習いたいものですが、ウォーキングを止めた人たちと同じように忙しさや理由をつけて体を鍛えない自分が恥かしくなりました。

 親父が言うのにはこのところの冷え込みで周りの山々が紅葉しとても綺麗のだそうです。私の町は海沿いなので紅葉は余り綺麗でないと言われてきました。しかし言われて辺りの山々を見渡すと、ハゼの木が真赤に紅葉し、クヌギの黄色とマッチしてそれは見事な深まり行く秋景色を見せているのです。確かにモミジはないがハゼは沢山あります。ハゼは体が被れると皆さんは敬遠しがちですが、触らなければどういうことはないのです。ハゼの赤はナナカマドに匹敵するような紅葉を見せてくれるのですから、どこかにハゼの木を意識的に群生で植栽すれば観光地になること請け合いです。ふと隣町長浜の今坊のあるお寺を思い出しました。お寺の名前は忘れましたが、久保さんという住職さん親子がハゼとイチョウを沢山植えていることを思い出しました。「そうだ明日は岬半島へ行くので、今坊のお寺へ立ち寄って紅葉を楽しもう」と思いました。

 昨日は大学へ行くため松山の平和通を通ったのですが、既に何本かは風邪で黄色い衣を脱いでいましたが、黄色いイチョウの並木がそれは見事に秋の景色を演出していました。ちょっと車を止めて散策しようと思ったのですが、残念ながら車が混んでいて駐車できず、赤信号で止まったスキに持っていたデジカメで車の中からパチリ一枚失敬しました。この景色も来年まで見られないのかと思うと、何となく愛しい気持ちになるものです。

 砥部町の友人丹さんと井伊先生から砥部町楽学大学のお礼状が届きました。丹さんはそのハガキの中で冒頭に「もみじの紅は年輪を一枚残す木々の営みでしょうか」と行く秋を風流に表現していました。味わい深い言葉です。あくせく働くのもいいのですが、せめて行く秋を感じるような心のゆとりを持ちたいものです。

  「色あせぬ 間に周り 見渡して 行く秋まざと 楽しむ余裕」

  「ハゼの赤 クヌギの黄色 交じり合い 秋は次第に 深まりゆくか」

  「もう二日 すれば師走の 声聞くに どこか可笑しい 紅葉の便り」

  「一枚の ハガキに書いた 季の言葉 年輪一つ 残す営み」

 

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shin-1さんの日記

○滋賀県米原市へ行って来ました(ルポ・②)

 滋賀県米原市とのご縁はもう7~8年も前に遡ります。合併する前の山東町は国の天然記念物に指定されているホタルの生息地ですが、ホタルの保護活動のネットワークを作ろうと全国の自治体に呼びかけてワーキング組織を立ち上げました。その中心になっていたのが山東町でした。この会は全国持ち回りで会場を移して勉強会を行っていましたが、そのご縁で世話をしていた教育委員会のの中川澄子さんと知り合い、そのことがご縁で同じ教育委員会に勤める坪井さんとも知り合ったのです。旧山東町には生涯学習センターのような施設があり、その施設の名前を取って、地域づくりの勉強会をするのルッチ大学なのです。学ぶ意欲の旺盛な方々が参加していて、私も毎年のように講師のひとりとして招かれましたし、ルッチ大学の修学旅行に双海町をご指定いただき、深い深いご縁となったのです。

 今回のルッチ大学も、9月8日に面々が双海町へこられそのお世話役が藤田女史なのです。この手の塾のような学習組織は行政の後押しがなければ中々続かず未熟・半熟・塾々で終わってしまうのですが、中川さんや坪井さん、藤田さんの努力で合併後もここまで続けられた成果は凄いと思うのです。

 この日の集会は午後7時30分から始まりましたが、坪井さんと中川さんが表敬にやって来てくれました。中川さんは定年を待たず合併を機に退職し勤労青少年ホームの館長として指定管理者制度の一翼を担っているようでしたし、坪井さんも合併後2年半、市長の秘書をしていたそうですが、今は健康福祉部こども家庭課の参事として活躍しているようです。合併という大きな時代のうねりの中に飲み込まれ色々あるようですが、退職後自由人になっても臣下を目指している私の姿を見ていただくのが一番と、三人で束の間の積もる話をしました。二人は私の話を聞いていただき恐縮しています。

 ルッチ大学で、藤田女史から私に与えられた講演テーマは「地域改革の仕掛け人に学ぶ」でした。私のこれまでの地域づくりの取組について、また今後目指している方向について話し、また現代課題についてみんながどう向き合っていくべきか、全国各地を講演で回っている中で出会った事例を交えながら話して欲しいということでした。

 二日前わが家にやって来た孫が置き土産に置いて帰った風邪を映され少し熱っぽい感じがし、心配しましたが、どうにか勤めを終えることが出来ました。

 私は今日午前中と午後、それに夕方は大学の授業があるので、泊まることが出来ず、米原から新幹線に乗って広島へ出て一泊し、早朝広島から高速船で松山に渡り、飛行場の駐車場に止めていた車を取り戻し、今日の全てをキャンセルすることもなくつないだのです。

 本当はルッチ大学のみなさんともっとディスカッションがしたかったし、中川さんや坪井さんとも話がしたかったのです。加えて藤田さんとも交友を深めたかったと積んだスケジュールを組んだことを大いに反省しました。またいつの日か巡り合いたいものです。

  「遠い土地 思っていたに 近くなる 人のつながり 更に身近に」

  「後ろ髪 引かれる思い 残しつつ 新幹線で 夜道急ぎぬ」

  「スケジュール これほど込むと 疲れます 今しか出来ない 焦燥感じ」

  「合併の 愚痴を聞きつつ 日本中 旅して見える 自治とは何か」

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shin-1さんの日記

○滋賀県米原市へ行って来ました(ルポ・①)

 生まれてから今日まで、風光明媚な瀬戸内海を見続けている私にとって、日本一の湖といわれる琵琶湖の景色はそんなに珍しいものではありませんが、それでも行く度に新しい発見があって、訪れる度にどこか懐かしさを覚えるのは、琵琶湖周辺に暮す知人友人が増えたことや水の持つ魅力なのでしょう。

 本来なら伊予市双海町(車)~松山空港(飛行機)~大阪伊丹(バス)新大阪(新幹線)のルートを経て米原市へ行くのでしょうが、男時とでもいおうか伊丹からのバスが大阪駅に着いたこともあって、時間もあるし思い切って大阪発新快速に乗ってのんびり琵琶湖の東線を走る事にしました。大阪駅14時30分の列車に乗る前、担当の藤田女史にメールで聞いていた携帯番後に「15時51分に米原駅に着くので迎えを頼む」と連絡、藤田女史からは「気をつけて起こし下さい。米原駅には東と西口があるから東口に降りるように」と指示され、比較的空いている電車に乗り込みました。この日は雨こそ降らないもののどんよりした曇り空の天気で、夕闇を感じさせるような雰囲気でした。隣に乗り込んだ中年の女性が私のカバンを目敏く見つけ、「まあ珍しいカバンをお持ちですね」と話しかけられ、本を読みながら車窓を眺める予定だったのに、女性ゆえの嬉しさか名刺を好感するまで親しくなり、「袖すり合うも何かのご縁」とばかりに話し込みました。彼女は彦根駅で降りたため次の米原駅で降りるようにご指導を受け、間違うこともなく下車しました。

 東口には藤田女史が待ち受けていました。彼女とは今年9月8日にルッチ大学の学生とともに人間牧場を訪ねて以来の出会いとなりましたが、第一印象は今まで会った女性の中ではかなり知的な女性で、そこら辺の役所の女性とは違うなという印象でした。というのも今回のルッチ大学への私の招聘が間近に迫ってから、「遅い夏休みを取ってドバイへ行って来ます」と突然言うのです。中近東のあのドバイです。驚きましたが迎えに来た姿にはそんな勇気を微塵も感じさせないおしとやかさで、私にも真似のできない勇気にただただ感服したのです。

(手づくり公園の入口に建てられた臥龍公園の記念碑)
(狢会の広報板)

(中心施設である茅葺の立派な家)

(足湯、これも手づくりだそうです)

(公園内には親水広場まで作っていて水車もありました)
(公園内は広くて運動場まであるのです。凄いですねえ)
(左のケースに入っているのが狢という動物です)
(囲炉裏を囲んでの語らい、左が代表の堀内さんと藤田女史)
(熱弁を振るう事務局長さん)
 電話では少し聞いていたのですが、「早めに着いて時間がるようだと見て欲しいものがる」というので、狢会(むじなかい)の拠点である手づくり公園へ案内されました。いやあ案内されて驚きました。荒れた土地を開墾しそこを手づくりの公園にしてるのです。拠点の家は茅葺の本格的なもので、講演の中には水車や中庭、植栽も様々な樹木が植えられていました。堀内さんという代表と事務局長さんが、茅葺家の囲炉裏に火を入れて待ってくれていましたが、私の目指す人間牧場のような施設が既に完成しているのです。14、5人のメンバーが手弁当で平成12年ごろから作り上げたという施設は素人とは思えない手の込んだものでした。臥龍公園と名付けられた名前にも興味を持ちました。愛媛県に大洲という場所があります。そこには臥龍山荘という立派な建物があります。大洲は近江聖人中江藤樹先生の教えが色濃く残っている街なので、近江と伊予の不思議な結びつきを感じました。藤田女子の持参したヨモギ餅を焼いて食べながら話す堀内さんの話は実学だけに面白いものでした。お陰で昨日はとっても得をしたような感じがしました。

 私は只今のところ一年中全国を旅していて、行く先々で色々な人に会いますが、臥龍公園やそれにまつわる人の話はいいお話で予想もしなかった出会いだけにこれからも交流したような感じがしました。ただこうした取組は自己満足に終わる危険性があったり、学びの場を忘れると伸び悩むので、今後の活動に期待したいと思っています。

 ところで、「同じ穴の狢」という言葉がありますが、浅学な私は「狢」という動物を見たことがありませんでした。茅葺屋根の囲炉裏の部屋に「狢」の標本が置いていました。狸ともハクビシンとも思えるような風貌で私を温かく迎えてくれました。「狢会」という集団名にも納得しました。集落の荒れ地を開墾し、ユートピアを作ろうとする姿に、これぞまちづくりという印象を持ちました。

  「見たことも ないよな狢 目の当たり 一つ利口に 知恵を授かる」

  「あき深し ヨモギ餅焼く 囲炉裏端 夜のとばりが 茅葺包む」

  「遠近く 雪を抱きし 伊吹山 暖取る囲炉裏 赤々燃えて」

  「今回も 達人たちに 出会う旅 ほのぼのとして なお去りがたし」  


 

 

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○今日から滋賀県米原市へ旅に出ます

 間もなく滋賀県米原市のルッチ大学での仕事のため旅に出ます。明日は別の会議に出席して帰りは夜です。皆さんご機嫌よう。

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○夢に出た私

 昨日の朝妻と二人で朝食をとっている所へ一本の電話が入ってきました。昨日は2期15年間無事務めた妻の民生委員の任期が終わる最後の集会があるので、そのことについて話しながら食事をしていました。妻も15年間とは長らく務めたもので、仕事と両立は大変だっただろうとねぎらいの言葉を掛けながら、この15年間に知り合った方々の顔を思い出していました。「ところで長浜の菊池さんは元気なんじゃろうか」と、妻がいうのです。菊池さんは長浜町の役場に勤め、若い頃は公民館主事として私とともに活動した人です。知的な人で公民館の論文募集に応じて全国の最優秀賞を勝ち得た折は、私が公民館優良職員として全国表彰された時と同じだったため、夫婦揃って東京へお互い子どもを連れて行ったことがありました。また私が愛媛県公民館連絡協議会の主事部会長の折は、副部会長で、小松の辻中さんとともに、公民館三羽烏として愛媛県内の公民館活動をリードしたものです。主事集団「煙仲間」を組織してゲリラ戦法を試みたのも今は懐かしい思い出です。

 菊池さんは私より年齢が下ですが既に合併した大洲市役所を退職し自由人となっていますが、退職後まもなく民生委員に選任されたと聞いていました。妻との朝の会話に出てきたのは前置きが長くなりましたが民生委員菊池さんとしての話題でした。

 何がどうなっているのか、菊池さんの話をしていると菊池さんからの電話です。電話に出た菊池さんの開口一番は、「夕べ若松さんの夢を見ました。ある会場でエレベーターに乗ったら若松さんが乗って来て、『菊池ですがお元気ですか』といったら、『あんたなんか知らん』と言われました。忘れられては大変と電話をしました」というのです。そんなことを言うはずがないと思いつつ近況を知りたく電話をしたそうです。

 1年ぶりの電話は懐かしくて長電話になってしまいました。自分の近況、地域の変貌、合併後の市役所の様子、仲間の消息、家族の状態など多岐にわたって話しましたが、菊池さんは私のブログを毎日読んでいるそうで、私のことは実によく観察していました。それに比べ私は奥さんが保育園に務めているくらいしか近況が分らず、大変失礼な対応となってしまいました。

 菊池さんも私も晩年働き過ぎ?が原因で体調を崩し、今もその尾を引いていますが、健康にはお互い気をつけようと確約し、再会を約束して電話を切りました。

 私には菊池さんのような素晴らしい仲間が全国に散らばっていて、こうして離れていようとも気遣ってくれるのです。中でも菊池さんとは青年団、NHK青年の主張県代表、役場中途採用、公民館主事、県公連主事部会など、比較的よく似た経歴を持つだけに、三崎町の塩崎満雄さんと同じく長い間変わらぬ交友を深めているのです。それにしてもお互いいい歳になりました。六十路を越えて自由人を選んだ二人ですが、彼は草の根の民生委員をやり、私もまた昔の夢が捨て切れず、こうして活動の場を全国に求められるのは、若い頃菊池さんとともに様々な学習をしたからだと、菊池さんに恩人としての感謝の心を持つのです。

 願わくばお互い元気で、これからの余生を社会のために尽くしながら生きて行きたいものです。

  「夢を見た 電話の向こう 親友が こちらもあなた 話題にしてた」

  「懐かしき 日々蘇えり 長電話 また会おうねと 再会約す」

  「ご苦労さん 五期十五年 勤め上げ 今日で終りの 民生委員」

  「東京へ 揃い出かけた 若き日を 昨日のように 思い出しつつ」


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shin-1さんの日記

○当選と落選

 先日の夕方、「奥多摩の明るい未来を作る会」の発起人である鈴木賢一さんから電話が入りました。鈴木さんは今年の6月4日、議会の視察研修でわが町にやって来た奥多磨町議会議員のひとりです。熱心な視察研修姿勢だったため人間牧場まで案内したのでよく覚えているのです。その折、「もし都合が付けば奥多摩まで話に来て欲しい」と打診がありましたが、議会議員の選挙が近づいているため変に勘ぐられてもいけないと、私を招く講演会は選挙後というお話でした。先日かかってきた電話では「選挙にトップ当選した」との喜びの声と、「講演会を行うので来て欲しい」という依頼のお話でした。この講演会を催すにあたり鈴木さんからの依頼で、私の出版物などを送り準備を進めていますが、12月14日にお邪魔する事になったのです。それにしてもトップ当選とは中々やるものだと感心し、電話で祝福をさせてもらいました。

 今日外出先から帰って郵便受けを開けてみると見慣れた名前の封書が届いていました。長野県南佐久郡南牧村村長中島美人さんからでしたが、何故か村長のの肩書きの前に「前」と手書きで書き加えられているのです。悪い予感が一瞬体中を走りましたが、封を切って手紙を開けると予感どおり選挙の結果落選したという手紙でした。中島村長さんとは観光カリスマの一人である山梨県清里の舩木上次さんを介して知り合い、行ったり来たりの交流が続いていた数少ない知的友人なのです。手紙には2期8年の村長職としての実績を「夢幻の如く」と書いていました。「産業振興と住民福祉に立脚した自立する南牧村」を掲げた中島さんの手腕は誰しも認めるところでしたが、4年前と同じ現新一騎打ちの激しい選挙戦の結果、400票という大差で苦杯をなめたのです。

 「私はこれから別の人生を歩みます。たった一度の人生ですから、何か夢を探して旅をしたいと考えております」という文面には、ただただ心痛むばかりでした。

 私の友人や知人には、選挙に立候補して当選したり落選したりする人がいて、悲喜こもごもです。勝てば官軍負ければ賊軍、そして勝てば天国負ければ地獄といわれる人たちの結末を、これまで何度も見てきました。その度に人生のはかなさや悲哀を感じつつ、「私は政治には絶対手を出さない」と堅く心に誓って今日まで生きてきました。負けたり勝ったりは戦国時代から変わらぬ男のロマンです。でもその男のロマンの陰で泣く家族の事を考えればそんな勇気はありませんでした。「お父さん、選挙に出るんだったら離婚しよう」とまで三行半を突きつけられている甲斐性無しの私には、そこまで踏み込む勇気などなかったのです。

 先日大分県佐伯市の矢野大和さんに東京と島根で会いました。大分県宇目町の役場職員から身を起こした彼も民主党から参議院議員選挙に立候補して、悲しいかな政争の果てに落選してしまいました。明るく振舞う今までの彼の姿が印象としてあるだけに、その後の身の振り方が気になるところです。

 選挙は結果です。クリーンな選挙をしなければいけない時代だけに、また無党派層が多いだけにまるで手探るのような選挙を戦わなければなりません。勝った人、負けた人それぞれがまた新しい人生に向かってチャレンジしてゆくのでしょうが、矢野さんや中島さんの前途を案じながら、鈴木さんの健闘を祈っています。

  「出なければ 勝ち負けもなし 選挙戦 勝てば天国 負ければ地獄」

  「選挙戦 出れば離婚と 三行半 離婚怖いか 未だに出れぬ」

  「前と書く 村長肩書き 侘し過ぎ それも運命 再起を期待」

  「当選の 弾んだ声に 安堵する わが事の様 四年安泰」



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shin-1さんの日記

○叙勲祝賀会に参加して

 秋の叙勲がマスコミを通じて発表されました。私の知ってる人も何人か叙勲に浴され、インタビューされた喜びの声が新聞やテレビで紹介されていました。叙勲などにはまったく無縁の私にはその賞の重みや種類がどの程度あるのか知る由もありませんが、長年その道一筋に生きてきたことが認めれれての受賞だけは間違いありません。その事を素直に喜び受賞者に対して大きな拍手を贈るのは当然のことなのです。しかし同じような仕事をして、同じ若しくはそれ以上の功績を上げているにもかかわらず、一方は受賞し一方は受賞しないあいまいな受賞基準や、人に序列をつけるような制度に対し叙勲の度に問題になっていることも事実のようです。また教育文化や社会福祉といった崇高な功績ランクが下で、公務員や政治家などが上位ランクを占めるのもどこか可笑しい気がしないでもないようです。

 昨晩は双海町で医院を開業している梶原忠弘先生の叙勲祝賀会があり、ご案内をいただいたので出かけました。先生の今回の叙勲は学校医としての功績だそうですが、先生は長年文化協会の会長を務めるなどむしろ医療分野より地域文化の貢献の方が相応しいほど地域の文化活動に貢献をされていて、昨晩集まった方々もその方面の知人友人が多かったようです。八十歳を過ぎてもなお矍鑠として往診に回る姿を見ながら、見習いたい生き方だと頭が下がるのです。あれもこれも叙勲に値すると思いながら発起人や祝辞を述べる人の話を聞きました。先生はお礼のあいさつで自分の少年時代の思い出に触れ、大分県耶馬渓町に生まれ中津の中学校へ進学した頃の社会情勢を話されました。戦時中だったため多くの仲間は戦争に行き特攻隊などで命を落としたようですが、先生は体に自信がなかったため生き残り医者になったそうです。

 母親の思い出にも触れられ、自分が今日あるのは「三つ子の魂百まで」と言われるように母親の教えが大きく影響しているとも述べられました。

 人は一度は死ぬ宿命を持っていますが、死ぬまでの生きている間をどう生きるかは本人の努力次第でいかようにも変えられるものです。何かの望みを持ち、しかも世の中のために尽くすことは容易なことではありませんが、それでも少しでも世の中のお役に立って死ねたらいいと思います。残された余命を軸足を少しだけ「世のため人のため」に移して生きてみようと、殊勝にも思いながら満月の夜道を胸を張ってわが家まで歩いて帰りました。妻が待つわが家へ・・・・・。

  「叙勲者の 祝賀の宴の 帰り道 まん丸月に 精進誓う」

  「学校の 先生死んだら 叙勲する どこか可笑しい 言いつつ酒を」

  「勲章は 戦功あれば 貰うもの そんな話を 子ども心に」

  「瑞宝章 言われ聞いても どれ程の 値打ちなのかは チンプンカンプン」  

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○二宮尊徳の教え

 私の町の由並小学校と翠小学校の校庭に二宮金次郎の銅像が立っています。教育にいささかなりとも関わったことのある私は、何かにつけてこの金次郎の銅像を思い出し、二宮尊徳の教えを書いた本を今日まで無造作に読んできました。日本の歴史の中で、亡くなった後150年余りも経っているのにこれほど長く敬愛されている人物は他にはいないと思いつつ、様々な角度からその教えを見つめてきました。

 二宮尊徳の教えを紹介する本は「報徳記」「報徳論」「二宮翁夜話」「二宮翁道歌解」「報徳分度論」などがありますが、それを一冊にまとめたのが「報徳要典」といわれています。私が初めて二宮尊徳の本に接したのは「二宮翁夜話」でした。青年団や青年学級に学んだ若き頃、青年学級の指導をしていた先生からこの本をいただき、熱中して随分夢中になって読んだものですが、その中身は残念ながら断片的にしか覚えてはいません。

 先日待ち時間があって大阪の紀伊国屋に立ち寄り、「報徳訓」なる内容を立ち読みしました。欲しい本だと思いつつ、手持ちの荷物が多いため、気になった所を走り書きしましたが、その後のドサクサでメモしたことなどすっかり忘れていました。昨日久しぶりにカバンを整理していたら、外側のポケットからくしゃくしゃになったメモが見つかり、しわを伸ばして読んで見ました。走り書きなので正確ではありませんが次のような言葉が書かれていました。

  父母ノ根元ハ天地ノ令命ニ在リ

  身体ノ根元ハ父母ノ生育ニ在リ

  子孫ノ相続ハ夫婦ノ丹精ニ在リ

  父母ノ富貴ハ祖先ノ勤功ニ在リ

  吾身ノ富貴ハ父母ノ積善ニ在リ

  子孫ニ富貴ハ自己ノ勤労ニ在リ

  身命ノ長養ハ衣食住ノ三ニ在リ

  衣食住ノ三ハ田畑ト山林ニ在リ

  田畑ト山林ハ人民ノ勤耕ニ在リ

  今年ノ衣食ハ昨年ノ産業ニ在リ

  来年ノ衣食ハ今年ノ困難ニ在リ

  年年歳歳ニ報徳ヲ忘ル可カラズ

 偶然にも数日前に買っただけで読んでいなかった寺田一清偏「二宮尊徳一日一言」という本に、その略解文が載っていました。

 「いかに天地大自然をはじめとし、父母・祖先・夫婦・子孫の恩恵にあずかっているか、計り知れないものがあります。そればかりか、生存の三大根本である衣食住にかかわる田畑と山林それに従事せられる人民の勤労、それを総括して産業の社会充実発展の寄与によるもので、思えば無限の恩恵にあずかっているこの身この生が生かされ守られているのです。この恩徳に報いる「報徳」精神を人間は決して忘れてはならぬという偉大な訓えです。」

 なるほど報徳とは幾つもの因徳関係によって成り立っているものだと、読みながら思いました。一人で大きくなったような傲慢さや、自分の不幸を社会や人のせいにするような愚かさは恥ずべきことだし、報徳訓をもう一度日本の国づくりや人づくりの根本に据えて教育を考えなければならないような気がしました。

 立ち読みで見つけた恥じらいがまだ心のどこかに引っかかっているようで、今度あの本屋に行った折は恩返しに本を購入したいと思っています。

  「立ち読みで 気が付きメモする 悪い癖 今度は一冊 買わせください」

  「尊徳の 銅像あるが 教えなど 訓えず終わる 学校教育」

  「気が付いて 親父に優しく する吾に 今日は変だと 親父気付いて」

  「恩徳に 報いる心 持ちたいと 思うけれども 実行伴わず」



 


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