shin-1さんの日記

○校長先生勤務地最後の日

 昨日の送別会で岡崎さんから「翠小学校の校長先生が会いたがってたよ」という話を聞いていたものですから、愛媛新聞社の方と会う約束が終わったので、午前中孫を連れて翠小学校まで出かけました。この時間だと離任式かあいさつ回りで留守かもしれないと思いつつ校門の入り口に車を止めるなり、私たちの姿を目ざとく見つけて、一目散に走って迎えにこられました。

(3人で記念の撮影です。息子の恩師宮岡先生に撮ってもらいました)

 普通校長先生は松山教育事務所管内で移動するのが常識ですが3年前、管外交流という名目ではるばる宇和島教育事務所管内から昇任校長として赴任してきたのです。当時は私も地元の教育長をしていたし、そんな関係で出迎えました。しかし今回の見送りは無位無官となった一私人としての見送りなので、むしろ晴れ晴れとした気持ちで見送ることができそうです。

 鹿島校長さんはかつて派遣社会教育主事として南予の町村で活躍した実績を持っており、特に同和教育などは得意の分野でそれなりの評価を受けていました。勿論役場職員といえども社会教育活動で県下一円を回っていた私にとっても彼は知り人の範中で、彼の来校と活躍を心密かに待っていました。「県下で一番若い校長で県下で一番給料の安い校長」などと笑いを交えて紹介した赴任を祝う歓迎会がつい昨日のことのように思い出されます。笑いのついでですが、少々頭も薄くなって風貌は年齢相応に見えるのですが、彼のフットワークの軽さと柔軟な発想力、違った視点でのものの見方は、派遣社会教育主事をしただけのことはあると思ったものです。

 彼は単身赴任でした。学校の近くの教員住宅に居を構え24時間体制で学校を守りました。PTAや時には校区内の住民を私邸?に招き入れ交流を盛んに行いましたし、学校が木造校舎ということや文化的価値があることもあって頻繁に学校を訪ねてくるまちづくり人たちと交流を続けてくれました。

 私が翠小学校に興味を持ったのはもう20数年も前のことです。当時は昭和5年の建築物である木造校舎は地元にとって「古くて危険」というイメージしかありませんでした。したがって鉄筋コンクリートの学校が町内に建つ度に次は翠小学校とみんな淡い期待を持ったものです。でも財政難や町がやらなければならない政策の優先順位は次々に別のものに先を越されて、残したくて残ったのではなく結果的に残っただけのことなのです。気が付いてみると(本当は気が付いていたのですが)県内の現役木造校舎では最も古くなっていました。関係者が今頃になって「この校舎は文化的な価値が高く」と胸を張りますが、知っている私は「よく言うよ」と呆れて聞いています。

 鹿島校長さんが赴任してからのこの3年間は翠朱学校にとっても様々な出来事がありました。私が教育長としてではなくまちづくり人として関わったミニシンポや建築関係者が取り組んだ実態調査などで科学的裏づけがなされ、環境庁の指定を受けてエコ改修の指定も受けました。その度に休日返上で見守り支えた業績は凄いと思うのです。

 私はこの学校に4つの贈り物をしました。一つはカワセミの彫刻物です。学校の名前の由来さえ誰に聞いてもあやふやだったものですから、カワセミに由来することを伝えたいと、長浜の彫刻家にお願いして掲額を作ってもらいました。予算などあるはずはなかったのですが10万円を7万円に値切り贈りました。二つ目は学校建築当時の写真です。この写真は私が写真屋に拡大を依頼しただけです。この学校の原点ともいうべき写真なので大切に飾られています。三つ目は木製の机と椅子です。当時の上田町長さんと久万町の林業まつりに出かけた折、高田課長さんと出会い、ほたる祭り加戸県知事さんの来校を実現させてあっという間にスチールの椅子と机が木製に変身しました。四つ目は学校を中心とした環境庁「ふるさといきものの里」という冠です。お陰で水車小屋も出来翠小学校周辺はほたるの里として整備が進み、翠小学校の赤い屋根が原風景となっているのです。

 鹿島校長先生ご苦労様でした。あなたの記憶にも翠小学校3年間は残っているでしょうが、翠小学校や私にとってもあなたの名前や記憶は永遠に残ることでしょう。3年間お疲れ様でした。


(校長先生と孫と私と二宮金次郎の4人で記念撮影)

  「また一人 記憶に加え 去る人の 姿すがしい 校長先生」

  「結果的 残りし木造 小学校 子供減りゆく 少し気がかり」

  「少しだけ 目に涙する 校長の 想いの裏に 在りし日々見ゆ」

  「次に来る 女先生 どんな人 早くも次に 歴史めくりて」 

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shin-1さんの日記

○異動の季節に移動する

 誰がどこで決めるかさえも分らないたった一枚の紙切れによる人事異動の季節がやって来ました。このところの地元紙は「そんなに記事がないの?」とか「役所の異動がそんなに重要なの?」と想うほど、これでもかといわんばかりに紙面の大半を割いて異動を報じています。私のように全県下に知人友人がいれば別ですが、伊予市に住む人たちにとって四国中央市や愛南町の人事異動の記事など何の関係もないのです。多分新聞社内部にもこんな紙面づくりで果たして良いのかと異議を唱える人も多いのでしょうが前例踏襲とは面白いものです。

 今年も異動の季節がやって来ました。異動しなかった人たちは異動した人たちの送別会をしなければならず、たった一日なのに4月1日後以降の新年度にはまた歓迎会と称する飲み会を、異動した人の分まで異動しなかった人が被ってやらなければならないのです。自分が異動した時もやってもらうのですからお互い様なのでしょうが、このところ飲み屋に少し異変が起きているようです。それは合併によって中央となった地域と支所になった地域の差なのです。中央となった地域の飲み屋は息を吹き返しつつあります。これまでの異動は小規模だったため、内示が出ると酒飲み会につきまとう煩わしさを避けて近隣の街で送別会をしていましたが、合併によって様変わりしたため地元志向が強くなって「空いていたら何処でもいいわ」てな調子で、地元の小さな飲み屋での送別会と相成るのです。飲み屋の女将さんが「合併して良かった」と言うように合併のメリットはここら辺にも現れています。ところが支所化した地域ではいつもの年の年度街には大小の宴会が入っていたのに、合併後は役場の職員数がまるで10分の1になった雰囲気で、早々と暖簾をたたむお店も出てきたのです。「合併してさっぱりだ」と嘆く人の苦悩は大変なもののようです。

 昨日は伊予市で珍しい参加者手出し、いわゆる会費性の珍しい送別会に出席しました。えひめ地域政策研究センターに出向している研究員の送別会なのです。2年間もお世話になった方々なので送別会をと思っていたのですが、酒を飲まなくなった私には敷居が高くその時期を逸してしまいました。でも心ある親友の門田さんや岡崎さんの計らいで小さいながら送別会が持てました。兵頭さんは旧津島町から、脇田さんは旧内海村から、河井さんは大洲市からそれぞれ出向して2年間の仕事を終え、それぞれ合併してなくなった旧町村へは帰ることができず、新しい町へ帰るのです。

 本来いるべき場所へ帰る喜びと、2年間の貴重な体験をした職場から去る寂しさの交錯する複雑な心境を吐露しながら終電車に遅れそうになるほど、飲むほどに酔うほどに楽しい弾んだ話をして過ごしました。

 この日は先日の内示発令でセンターへ出向することが決まった松本さんも参加して、歓送迎会のような雰囲気でした。松本さんは私が教育長をしていたころ同じ教育委員会で仕事をした心許せる人だけに内心はとても嬉しく、しかも私が代表を務めているえひめ地域づくり研究会議の事務局も兵頭さんから引き継ぐとあって、万々歳なのです。

 35年間に教育委員会から産業課へ、産業課から企画調整室へ、企画調整室から地域振興課へ、地域振興課から教育長へと35年間に僅か4回しか人事異動せず、しかも異動といっても1階から2階へ、左から右へ机を動かす程度の私の移動でした。彼らは合併という時代の流れに翻弄されながらも、また市町村職員でありながら出向という異動でそれぞれの拠点を離れ県庁所在地の松山で2年間を過ごしました。この何ものにも変え難い経験を生かして、いい仕事をするいい職員であって欲しいと願っています。

 異動の記事の尻切れに退職という欄があります。これまでは部長や課長など常にトップ近くの記事に扱われていた方々が、この記事を最後に退職されます。かつて仲間として同じような仕事をしてきた方々が退職です。虫眼鏡でしか発見できないような片隅の小さな名前に人生を感じます。彼らの中には天下りや再就職先が決まっている人もいるでしょう。私のようにあえて自由人を選ぶ人もいるかも知れません。でも職場での人生ドラマはもう終わったと自覚して、一日も早く自立ある自分本来の人生を取り戻して生きれるか、その後の生き方が問われています。

  「内示出て 異動が移動を 強いられる 夢や失望 人それぞれに」

  「2年間 ご苦労様と 酒を注ぎ 矢のよう過ぎた 日々を反芻」

  「年度末 酒屋と飲み屋 忙しい 一方客足 遠のく店も」

  「送別会 嬉しい悲鳴と 女将言う 光と影が 見え隠れしつ」  

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