shin-1さんの日記

○魚の絵が書けない子どもたち

 私の町は「双海町」という名前が示すとおり瀬戸内海に面した町です。私の生まれた家は海や海岸とごく小さい石垣で仕切られているだけの文字通り海と暮しが一体となっていました。そんな環境で育った私は物心ついた頃から海を見、海に親しんで育ちました。海の不思議に興味を持ったり、海に沈む夕日を美しいと思ったりしたことの殆どが、後の自分の人生を支える大きな力になったことは紛れもない事実です。夏休みの研究は海草や貝殻の標本を作り、魚の絵も随分上手く書けました。家が漁業をしていたこともあってその後水産高校に進みましたので海と魚のことは人並み以上に理解できる知識を身に付け、地域の発展にいささかなりの貢献も出来ました。

 先日ある地元小学校の校長先生からショッキングな話を聞きました。子どもたちの中にはこんなに海が近くにありながら「魚の絵が書けない」というのです。「えーうそー」と思うのは私だけではないと思うのです。そういえば町内の漁家の子どもさえ一度も親の船に乗って手伝いをさせない家が増えているのだそうですから無理からぬことでしょう。夏の海水浴もこれほど海に近く、これほど県下に名だたるシーサイド公園や高野川海岸などの海水浴場があるにもかかわらず、泳ぐのは親の監視のある学校のプールだというのですから驚きです。

 私たちの生活の中では、例えば毎日の食べ物を見ても分るように、肉や魚は切り身にしてトレーでパックされており、牛や豚、魚とは余りにも実物のイメージとは違っているのです。ましてや牛や豚や魚がどんな生き方をし、どんな場所で殺されて食べ物になるのか命の生死を目の当たりにすることは殆どないのです。生は動く、死は動かないということすら分らない子どもに命の尊さを教えるのはかなり難しいのかも知れません。ましてや人が生まれたり死んだりする命の尊厳などという倫理めいたことを伝えるのは私たち凡人には不可能な領域なのです。核家族化によって子どもたちが肉親の死に接する機会も少なくなってきました。またカブトムシなどの昆虫もデパートで手に入る時代で、そのカブトムシさえゼンマイや電池で動くと思っている子どもがいるという実態には驚くというより呆れて言葉が出ません。

 私たちの町のように自然豊かな中で暮らしてさえも魚の絵を書けば切り身しか書かない原因は、やはり親の暮しや教育のあり方が余りにも無意識過ぎるからではないでしょうか。「三つ子の魂百まで」といわれるように子ども時代に受けた感動は後の人生に大きな影響を及ぼします。漁家の子どもが自分の親の船に一度も乗らないで育って、勉強第一で都会の一流会社に就職して、果たしてその子どもも親も幸せなのでしょうか。高度成長の時代ならいざ知らず、向都離村の教育の果てにつかんだ幸せなどあぶくのようなものなのです。

 魚の絵が書けることは絵を学ぶ学校教育でも大切に指導しなければなりません。絵を書く前提として観察があります。まな板も包丁もない現代の若者の暮しには魚を丸々一匹買ってもその捌き方が分らないと、アナゴをぶつ切りしたりする結果となってしまいます。

 人間以外の動物の死を通して生を学ぶことは、命の尊さを学ぶ大切な学習です。子どもの自殺が続発する現代社会にこそ、命を学ぶ学習は必要だと思うのです。

  「絵を書けば 切り身の魚 書く子供 いつからこんな 社会になったか」

  「死を通し 生を学べば わが命 もっと大切 思うはずだが」

  「父ちゃんの ような漁師に なりたいと 胸張る子ども 育てにゃあかん」

  「海の町 ただあるだけで 海知らず 町を愛せと 言うのは無理だ」

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