○すみません「白湯を下さい」?
友人の薬屋さんから聞いた話です。先日彼の経営する小さな薬局へ若いお母さんが2歳ほどの子どもを連れてやって来たそうです。そのお母さんは店番をしている友人を見て、「すみませんがサユ(白湯)を下さい」といったのです。聞くと今日行った小児科の病院で「薬は白湯で飲ませるように」といわれたそうです。お母さんはてっきり薬局で売っているものと思い込み買いに来たようでした。友人もてっきり薬屋であるこの場所で薬を子どもに飲ませるものと勘違いして、「白湯はありますがまだ冷めていません」というと、お母さんは不思議そうに「えっ、この薬局は冷まして売るのですか」と真顔で答えたようです。そのうち友人はお母さんの欲しいものを悟ったのか、「白湯とはお湯を冷ましたものですので、ご家庭でお作りになったら如何でしょうか」と説明してあげました。お母さんは顔を赤らめ、「私は白湯とはてっきり薬の一種だと思い込んでしまっていました。失礼いたしました」と顔を赤らめながら薬屋さんを出て行かれました。薬屋の友人は笑うに笑えず、お母さんが去った後も、コミュニケーションの難しさをしみじみ感じたそうです。それにしても「白湯」が沸かしただけのものであることを今のお母さんたちは本当に知らないのでしょうか。多分このお母さんだけが特別であると信じたいのですが、私たち世代と今時のお母さんとでは随分社会感覚が違うような気がして、知らないのも当然と思えるのです。
ご飯に味噌汁、メザシにお新香だった朝食も、コーヒーとパンになり、浴衣地のオムツはパンパースとなりました。家に包丁やまな板がなかったり仏壇や神棚さえもない家庭が増えてきました。中学生はソロバンではなく電卓を持って学校に行きます。ハーモニカはリコーダーに変わりました。何から何まで様変わりして、変わらないものを見つける方が難しい世の中なのです。孫の成長する姿を見ながら価値観を変えなければ「おじいちゃんは古い」なんて言葉を言われそうな雲行きです。
でも変えていいものは変えなければなりませんが、変えてはならないものまで帰る必要はないのです。何百年と続いた日本の古き良き伝統や文化はこの半世紀で大きく様変わりし、外国人もびっくりするくらい日本らしさが失われつつあります。言葉も日本全国標準語化され、方言は話しても注釈をつけないと分らなくなってきました。
双海町は海に面しています。魚は豊富で春のサワラや鯛は格別の味ですが、双海を代表するこの魚さえ子どもたちはまともにいえないのです。そういえばスーパーに並んでいる魚の殆どは調理をして姿形はまったく分りません。魚の絵を書けといったら発泡スチロールのトレーに入った魚を書くのだそうです。親が子どもに何をどう、何時伝えるのか、家庭教育も学校教育もそろそろ真剣に考えなくてはならないと思います。そしてもっと大変なのは平成の市町村合併によって、ふるさとまでも説明できないようになりました。いい人間をお育てるには点数や偏差値よりも、いい人間、いい町民、いい市民、いい日本人、いい国民、いい地球人を育てなければならないのです。教育基本法が出来ただけで次代を担ういい子どもはできないのです。この子どもたちは何年篭には親になるのですから・・・・・。
「白湯さえも 知らずに親と なりにけり 薬屋訪ね 白湯を下さい」
「魚書け 出来た作品 調理され トレーに乗って いかにも今風」
「まな板も 包丁さえも ない家庭 ハサミとレンジ あればばっちり」
「ああこれで 日本人だと 言えるのか 着物も着れず 嫁ぎし女」