shin-1さんの日記

○菜の花と夕日のコラボレーション

 昨日国立大洲青少年交流の家の仕事が終り、人と待ち合わせ肱川沿いの道を長浜まで下り、海岸国道378号に出ました。淡い期待があったのは絶好の好天なのでもしや綺麗な夕日と、菜の花のコラボレーションが見られるのではないかと思ったからです。時間は5時半を過ぎていました。はやる気持ちを押さえながら背中を押すように綺麗な夕空が広がって、真赤な夕日がバックミラーに映し出されていました。

 人間牧場の丁度真下の辺りで海岸に降り、西瀬戸に沈み行く綺麗な夕日を写真に収め、急ぎ早に国道を走って閏住の菜の花畑まで帰って来ました。やっとの思いで間に合い、妹の店であるくじらに車を止めてカメラを向けました。今まさに沈まんとする2007年2月11日の夕日がバッチリ写真に納まりました。

 ご覧下さい。真冬といいながら穏やかな瀬戸内海の水平線に沈む、紛れもなく日本一と自認する双海町の夕日なのです。

 もうあたりはすっかり薄暗くなっていましたが、残照に照らされた後の菜の花畑も、フラッシュをたいて写してみました。夕日と菜の花のコラボレーションとまではいかなかったものの、それでも早春の甘い香りを漂わせて菜の花は私に愛嬌を振りまいてくれました。

 今年はこの菜の花も閏住集落への入り口となるトンネル工事で右側が通行止めになっていて、少し物足りなさを感じていますが、それでも十分見応えのある風景です。

 昨日高知県馬路村の木下さんからメールが入り、NHKのニュース番組でこの菜の花とローカル線のマッチ箱のような列車が消火されていて懐かしかったそうです。

 今年は暖冬でもう既にあちらこちらから梅の開花や菜の花の花便りがあちこちから聞こえるようになりました。本来ならまだ2月の厳寒期なのに、やはり異常気象でしょうか気温はもう15度近くまで上がって、日中は車の中だと汗ばむほどの陽気です。まだこの陽気は長続きはしないものと思いますが、それでも私たち貧乏人にとっては温かいことはスト部の灯油も節約できて大助かりです。

 この陽気で大根に花が咲いては大変と、親父はせっせと大根の葉っぱを全部取って、殺風景な大根畑になってしまいました。今年はほうれん草が大豊作で、毎日毎日ほうれん草の料理が食卓に上っています。野菜の好きな私としては嬉しい出来事です。

 菜の花を見て菜の花泥棒のことを思い出しました。菜の花を作り始めた頃、菜の花の咲き始めた菜の花畑で菜の花の蕾が盗難に会いました。菜の花の蕾は塩で揉んで重石をすると立派な漬物に変身します。ゆえに時々心無い人が菜の花を摘んで帰るのです。ある時花いっぱいに取り組んで菜の花を大切に育てていたのに、菜の花の蕾が盗難に合いました。偶然にもその現場を見つけたおばちゃんは、「この菜の花はみんなで育てている花畑ですので取らないで下さい」と厳しくいったそうです。ところが咎められたその人は取った菜の花をその場に捨てて、車に乗る際、「くそばばあ」といって帰ったそうです。このおばさんはその興奮冷めやらぬ気持ちで私に電話をかけてきました。「くそばばあとは・・・・」と絶句しました。そして「どうしたら人に気持ちを傷つけずに菜の花を取らないようにできるか考えて欲しい」と懇願されました。

 私は早速私の汚い文字で「この菜の花ただ今消毒中につき漬物にはなりません」と書いて張り出したのです。途端に取られなくなりました。今はもうこの話はもう昔々の語り草ですが、当時は私のパロディー豊かなアイディアがかなり評判になったものです。

 夕日の持つ寂しくも全てを包み込む温かさと菜の花の春を待つ温かさは何処か共通しているようにも思います。この時期、菜の花と夕日のコラボレーションをどうぞお楽しみください。

  「菜の花を 摘んで一輪 卓上に これでも部屋に 春の息吹が」

  「残照に 照らされ咲きし 菜の花を 写真に収め ブログ配信」

  「手土産に 菜花を摘んで 上京す 都会住む人 土産三越」

  「風もなく 土手に咲く花 黄色にて 青い列車が 長閑に走る」



[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○えひめ地域づくり研究会議20周年記念大会内子座で開催

 20年前といえば1987年、11月14日・15日の出来事をこんなにも鮮明に覚えているものだろうかと感心するくらい、内子座という芝居小屋に入った瞬間記憶が甦ってきました。何故にこんなに?と記憶を辿れば、その日11月15日はご存知坂本龍馬の誕生日であり命日なのです。私のような凡人でも志を持つ人間にとって歴史上の人物と言えども坂本龍馬の生き方には深い関心を持っています。奇しくもその日に産声を上げたのですから覚えていないはずはないのです。私はその日を期して「風おこしのちかい」なる短文を書きました。今は手元になく人間牧場に置いていますが、その発想の原点は紛れもなく大政奉還に影響を与えた坂本龍馬の船中八策に刺激されてのことだったのだろうと、その未熟さに苦笑するのです。あの日私は初代事務局長として壇上の隅で司会進行をしていましたが、祝辞を述べられた河内宏一町長さんが合併したとはいえ同じ内子町長として壇上に上がった奇遇も見逃すことは出来ないのです。

 この日内子座に訪れた人は述べ250人にも上りました。20年の時を越えて続いたえひめ地域づくり研究会議に集まった人は確かに私のように20歳年齢を加えたのかもしれません。しかしこのえひめ地域づくり研究会議が私を始め多くの町や村に地域づくりの輪を広げ、多くの人たちの心を育ててきたことは紛れもない事実だと思うのです。やはり内子座は私たちまちづくり人の原点なのだと思い感慨深いものがありました。

 内子盆地の気候は梅の花が咲き始めた暖冬といえども底冷えのする一日でした。上浮穴郡久万高原町の川瀬歌舞伎という愛媛県指定の無形文化財公演という願ってもない素材にも恵まれ、前人気は上々で、内子座の升席は満員の盛況でした。運営委員で歌舞伎の太夫を演じる渡辺浩二さんの芸域の広さと長年の精進は感動もので、改めて川瀬歌舞伎の伝承を目指す一座の凄さを垣間見ました。歌舞伎を一目見ようとファンが多く訪れたのも大きな収穫だったように思います。


 会議は流暢な近藤誠さんの司会で進行しましたが、開会式では森原直子さんの詩の朗読と、亀の首という奈落から開会あいさつをする私がハーモニカで童謡を吹き競り上がる奇抜なアイディアで幕を開けました。

 その後内子町の石畳地区や小田地区、五十崎地区のそれぞれの地域づくりに関する発表があり、法政大学名誉教授の田村明先生によるまちづくりと景観の記念講演が行われました。

 先生もかなりご高齢になって、最近は2年前の肺の病気で体調を崩されていたため、さすがにかつての迫力はありませんでしたが、軽妙な語り口は少しも衰えずいい話を聞けました。田村先生とはNIDOでの出会いや私の「昇る夕日でまちづくり」という自著本にメッセージを送っていただくなど最も親しい学者先生だけに何時までもお健やかにと祈るばかりです。


 今回の記念大会の座談会は私がコーディネーターを務め、大先輩岡田さん、フンクさん、田村先生の話を聞きました。県下各地で昨年行ったリレーフォーラムの報告を間に挟んだり短い時間に欲張った計画だったため、時間が足りず舌足らずの感はありましたが、それでも時間通りに終りまちづくり締めや全員で記念撮影をして集会を終わりました。終了後は県外組みも交え近くのホテルで夕食交流会を持ちましたがここでも懐かしい顔々に出会い、積もる話をいっぱいしました。


 二次会・三次会と続いたハードな交流は午前二時まで続き、宿泊したあくる朝、ホテルの一室から綺麗な朝日を拝みました。霧にけむる内子の町が印象的でした。その後運営委員会を開き内子を後にして国立大洲青少年交流の家で開かれている四国ユースフォーラムへ出席するため車を走らせ、忙しい一泊二日を締めくくりました。帰路えひめ地域政策研究センターでインターンとして働いている兼頭さんから携帯が入り、余韻を確かめながら家路へ・・・・・・・・。

  「二十年 あの頃みんな 若かった 今も私は 歳こそとれど」

  「内子座で 川瀬歌舞伎の 見事さに 思わずジンと 心しみ入る」

  「それぞれに 人生生きた 道を経て ここに集うか またそれぞれ」

  「あれほどに 飲んだ酒さえ 飲めなくて お茶で濁して 思い出語る」


 

[ この記事をシェアする ]