shin-1さんの日記

○山猿と海猿の出会い

 山猿というペンネームで私のメールアドレスに手紙を送り続けている人がいます。高知県馬路村の木下君です。彼と始めて知り合ったのは今年2月24日、えひめ地域政策研究センターが愛媛松山で開いた「地域の自立とは何か」というシンポジウムがきっかけでした。その打ち合わせを兼ねた会合が前年の11月、高知県馬路村に登壇者を集めて行われ、東谷馬路村農協組合長の声かけで参加していた地元の青年が木下君でした。木下君は参加した徳島県上勝町の横石さんや愛媛県内子町の森本さんなど四国を代表する地域づくりの達人たちが居合わせていることも知らされぬまま酒席交流の人となっていました。多分「酒でも飲みに来ないか」という高知県人お得意の気軽さからの参加だったのでしょうが、その席で私と知り合いました。勿論2月24日には東谷組合長の応援団長として愛媛に乗り込み、人間牧場も見学し多くの人と交流をして帰って行きました。以後彼は私を馬路村魚梁瀬の講演会に呼んだり、ウナギを食べたりともう10年前から知っているようなそぶりでどんどん私と深くて広い交流をしているのです。

 魚梁瀬での講演会の模様はその日のブログで書いているので割愛しますが、その折知り合った湯浅建設の社長さんご夫妻と知り合い、口相撲の約束を果たすため魚梁瀬杉の板をわざわざ運ぶため人間牧場へやって来たのです。正直いって口約束ですから何の当てもないのに、湯浅社長は奥さんを伴って山猿と一緒に12月15日、約束の午後2時きっかりにわが家へ到着しました。しかも片道5時間もかかるような遠い道のりをトラックに魚梁瀬杉の一枚板を積んで来たのです。呆れるやら嬉しいやらで、年甲斐もなく少し涙ぐんでしまいました。

?これが木下君が軽四トラックで運んでくれた魚梁瀬杉の一枚板です。埃にまみれているためまだその全容は明らかになっていませんが、3人でやっと持ち上げる重さといえば想像がつくでしょう。足にする枝木も一緒に運んでもらい、これからの作業が楽しみです。

 さてこの日は、先日までの雨も止み絶好の小春日和でした。木下君と湯浅社長ご夫妻の3人をわが愛車に乗せて人間牧場へご案内させてもらいました。風もなく穏やかな日和で、少しガスがかかっていたものの眺望はまずまずで社長さんご夫妻も満足したようでした。

 折角夫婦で来られたのに、社長さんと奥さんの間に入って写真に納まるあたり、木下君は相変わらず意地が悪いと思いました。その夜は3人が松山のワシントンホテルへ泊まるというので、別々の車に乗ってホテルで落ち合い、近くの炉端焼きのお店でささやかな交流会を持ちました。まあ社長さんご夫妻の楽しい会話には正直参りました。

 人の縁とは不思議なものです。木下君もさることながら湯浅社長ご夫妻とは二度目の対面なのにこうも楽しく、こうも奥深い話をしていいのだろうかと思うほどご縁を深めることが出来ました。人は夢を食べながら生きる動物です。夢を持った人に会うと、また会いたいと思うのです。また会いたい馬路村の方々とまた会いたいものです。

  「はるばると 馬路魚梁瀬の 山路より 約束積んで お供従え」

  「二度目とは 思えぬ程の 出会いにて 交わす盃 程よき酔いに」 

  「次は何時 会えるだろうか ワクワクと 握手の温もり 今もこの手に」

  「いい人は いい人連れて やって来る 俺もいい人 いい人連れて」  

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○中小企業の活性化

 最近は異業種交流などの会合で話す機会が多いものですから、私のアドバイスをいただきたいという中小企業の社長さんもいて、結構親しくしてもらっています。その中の一人に隣町松前町のギノー味噌の田中社長さんがいます。奥さんが双海町出身ということもあったり、奥さんのお父さんとじっ魂の間柄なので、最近急速に関係が深まりました。たまの日曜日にお風呂で会う彼は創業者であるお父さんや子どもさんと連れ立ってお風呂で出会うのですが、父親をいたわる姿や私に接する姿はまあ礼儀正しいのでこちらが恐縮するほどなのです。裸の付き合いとはこのことをいうのでしょうか、風呂でも彼は真面目な仕事の話をサウナの中で汗をかきながら話します。多分彼の頭の中は会社の経営のことでいっぱいなのでしょう。創業者から家督と暖簾を譲られる二代目の社長はこの世の中には多く、私の知ってる人でも指折り数え切れないほどいるのですが、意外と「親難儀、子道楽、孫乞食」といわれるほどに、苦労忍耐の足らぬノホホン社長も見かけます。しかしこの社長の生き方は少し違っているようで、今時珍しい子沢山な子どもを山村留学に送るなど、自分の生き方に留まらず、次の世代をも見越した壮大なスケールで人生を見ているような気がするのです。

 一昨日の土曜日、会社の社員研修に呼ばれました。休日の早朝8時からの研修は目覚めの遅い人たちからはブーイングでしょうが、8時から研修会を始めようとするやる気こそ大切なのです。50人を越える社員全員で社是や会社の基本方針を朗読唱和して確認する光景に、会社の並々ならぬ意気込みを感じました。また年商目標や粗利、経常利益など様々な数値目標からクレームへの対応に至るまでこれほどまでに気をつけなければならないのかと思うほどの厳しさを垣間見ました。

社長の説明によると、これまで経営方針は主に社長が作り、会社の名の元に実行していたそうです。今年からは社長の肝いりで幹部職員と合作の方針を作り上げたようです。私はこのプロセス転換に大きな拍手を送ります。会社は縦社会を作らないといけない部分もありますが、チームワークも必要です。トップダウンとボトムアップが上手く組み合わされなければこれからの会社は生き残れないと思うのです。

 さて私の話は「新しい発想で生きる」というタイトルでした。喉を傷めていたこともあって参加した方々には聞きづらい点もあったのではないかと思われますが、演台から見る限り反応は上々のようでした。新しい発想はものの見方を変えることから始まります。やらないことをやれないと諦めていたことでも、その気になってすれば結果は自ずから生まれてきます。「鮮やかに想像し熱烈に望み心から信じ魂を込めた熱意を持ってすれば何事もついには実現する」というポール・J・マイヤーの言葉のような生き方を社員一人一人が自覚したとき、会社は大きく成長することでしょう。この会社は新しい社屋の計画があるようで、まだまだ伸びる成長過程の会社とお見受けしました。だから私のような人間の小さく素朴なアイディアにでも耳を貸そうとするのです。

 この研修会には驚いたことに社長の友人や取引先の社長さんも招かれ、席のあちらこちらにちらほら顔見知りの顔が見えていました。このように「会社をオープンにする」ことも社員の刺激になることでしょう。更には地産地消や地域貢献といった言葉も社長や幹部職員の話の中に沢山聞かれました。「食」という人間にとって極めて大切なものを扱う商売は「安心と安全」というテーマも更には「環境と共生」というテーマもクリアしなければなりません。また「食文化」も追求しなければなりません。その上で利潤を追求しなければならないのですから、まさに奇跡の産業とでも言うべきでしょう。「店と屏風は大きくなったら倒れる」というジンクスを肝に銘じ頑張って欲しいと思います。ギノー味噌頑張れ。

  「何時の間に 味噌買うものと なったのか 合わせ味噌汁 あったかご飯」

  「脳ミソの ミソ元味噌と ある学者 それがミソだと 味噌汁すすり」

  「味噌汁も 出来ない世代 増え過ぎて 朝飯食わず 子ども学校」

  「おふくろの 味はやっぱり お味噌汁 死んでも舌が 懐かし思う」

 

 


 

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○私の映像と声が世界10カ国へ配信されました

 世の中には目に見えるものと見えないものがあります。今見えている周りの景色や新聞などは直接物体として見えるけれど、人の意識やテレビの電波などは実体のない見えないものなのです。空気も汚さずわが家の家庭に電波がそのようにして送られてきて、テレビやラジオが見たり聞いたり出来るのか、不思議といえば不思議な世界に私たちは生きているのです。まさにこれは神様や仏様のなせる業としか言いようのないものなのですが、このメカニズムを作った人がいるのですから人間の想像力や実践は大したものなのです。

 そんなこれまた不思議な大宇宙を電波に乗って私の映像と声が世界10カ国に配信されたのですから、私にとっては驚くべき重大ニュースなのです。

 つい一週間前、私はJICA本部に招かれ、その横にあるテレビ会議室で衛星で結ばれた回線を使って世界10カ国の観光関係者とテレビ会議を行いました。前回のテレビ会議は9月5日でしたから2回は3ヶ月ぶりなのです。前回はスリランカという国だけでしたが、今回は南米やアフリカ、それに東南アジアと様々な国々です。

 英語の喋れない私のために通訳までついてコーディネーターが双方のやり取りをコントロールするというものです。相手国の時間の関係から一日目は午後9時から11時まで、二日目は午後2時から4時までという二時間が設定されていました。まず簡単な自己紹介や会議の進め方をオリエンテーションした後、私がスライドショーを使って約1時間通訳されながらレクチャーするのです。そのレクチャーに対してあらかじめプリントアウトした資料をもとに討論するのですが、相手の国も観光客をどのようにして増やすか、観光によってどのようにして経済効果を高めるか同じような悩みを持っているため、楽しい会話が繰り広げられました。


 前回と同じ顔ぶれの谷口さんと徳重さんの豊富な経験に助けられて、持ち前のアドリブで彼らの欲している私のノウハウと情報を一生懸命伝えました。彼らもまた常に真摯な態度で討論し、それなりの成果があったのではないかと質問の内容を反芻しながら思っているところです。

 それにしても世の中は便利な社会になったものです。私の映像や声が双方向通信回線によって、多少の時差はあっても瞬時に送ったり」送られたりしてくるのですから情報化の進展は目覚しいものがあるようです。ふと谷口さんが用意してくれた相手国の資料と地図を見ながらまだ見ぬ国の姿を想像してみました。今回の相手国である10カ国はまだ一度も訪れたことはありませんが、是非一度は訪ねてみたいものです。

 今回は話題に出ませんでしたが、私はショートコメントとして日本の観光の現状を少しだけアドリブで3つについて追加し話しました。1つは安部総理大臣の「美しい国日本」という言葉の表現以来、日本の美しい原風景が見直されつつあることです。イザベラバードの日本奥地紀行で賞賛されたアルカディア(桃源郷)として、日本の美しさをもう一度見直さなければならないといいました。二つ目は市町村合併によって観光の受け皿が大きく変わりつつあることです。3千2百が千7百になったのですから、大きな変化としか言いようがありません。その原因は少子高齢化と財政赤字であることも話しました。三つ目は日本全国で世界遺産にしようとする宇賀気が活発になっています。乗り遅れまいとする追随意識は否めませんが、世界遺産に登録されれば経済効果が期待できるという安直な金儲け主義が見え隠れしているようです。

 いずれにしても観光は国の光を見るという基本がしっかりと守られなければ末路は哀れです。いい観光の前にいいまちづくり、いいまちづくりの前にいい人づくりが求められていることを伝えました。

 外に出て東京の街中を歩きましたが、空は冬の青い空、ビルも整然、街路樹も綺麗、だけど地上やそこを歩く人間は?、少し考えさせられました。折りしも美しいクリスマスツリーの飾り付けがホテルの中にきらめいていました。

  「俺の顔 俺の映像 十カ国 電波で送られ 大いに議論」

  「日本を 知ってるつもりの 俺だけど 知ってることは ほんのちょっぴり」

  「教えたり 教えられたり するうちに 仲良くなりて 世界は平和」

  「俺に似た 人の沢山 いる会場 東南アジアは 俺のふるさと?」

 

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shin-1さんの日記

○本を読む暇がない

 最近忙しくて本を読む暇がなくて困っています。本なんて暇がなくても心がけ次第で読めるものと豪語していたのに、このところの忙しさは尋常ではなく、読書さえもままなりません。今朝も早立ちで大洲青少年交流の家へ行ったため、新聞もろくに読まずに出かけてしまいました。仕方がないので休憩時間を利用して交流の家の事務所の新聞を借りて所長室に座り読ませてもらいました。また交流の家にはあちらこちらに読書用の本が置いてあるのも有難く、時々利用させてもらっています。

 先日東京の本屋で「国家の品格」という藤原正彦の本を立ち読みしました。最近起こっているいじめや自殺について彼はこんなことを書いていました。「いじめをなくしたければ卑怯を教えよ」という見出しだったと記憶しています。「いじめを本当に減らしたいのなら、大勢で一人をやっつけることは文句なしに卑怯であるということを叩き込まないといけない。いじめるような卑怯者は生きる価値すらない。公平に戦うかぎり強いものが弱いものをやっつけてもよいという市場原理主義の考え方がいじめを誘発している。これを正すには武士道精神の中にある弱者への思いやり、すなわち惻隠の情を取り戻すことである。『命の大切さ』などというのはマスコミが垂れ流す偽善に過ぎない。本当は人の命など吹けば飛ぶような軽いものである。かくも軽く儚いものだからこそ、命は大事にしなけれいけない。たかがいじめで自殺するなどということは絶対に許されない」というのです。

 私はこの文章を読んだとき身震いするほどの感動を覚えたのです。カバンをホテルに置いてぶらっと外に出て、ぶらっと立ち寄った本屋での出来事だったので、財布も持たなかったため本を買う金もなく、店主の目を盗んで思わず背広の内ポケットの名刺入れから名詞を取り出し、名刺の裏に読んだ本の上に書いた言葉をメモをしてしまったのです。どこの街の何処の本屋さんだったかは忘れましたが、してはいけないことをしてしまいました。本当にごめんなさい。(今度東京へ行ったら探してお詫びのつもりで本を買うつもりです)

 本は時として私に大切なことを伝えてくれます。私のような学歴もなく生まれながらの凡人は、学習歴しかないと思い、人緒の話を聞いては学び、雑誌や本を読んでは学び、見ては学びと知識の習得に余念がないのですが、折角習得したこれらに知的能力も、忘れるというこれまた凡人たる私の不徳のために身につかないのです。でもこうしてメモにして書き溜めたことをブログに書き写して確認をすれば、少しは身につくようです。

 さて先程の赤字の文章の「惻隠の情」とは「いたわしく思うこと」「あわれみ」と教わりましたが、持つものが持たない人へ温情を持つようなイメージにとらえられがちな「あわれみ」ではなく、藤原正彦がいっている武士道精神にある「いたわしく思うことの方が相応しいのかもしれません。

 教育基本法の審議過程でまるで流行り病のように噴出したいじめや自殺の問題は、もう随分昔私が教育委員会にいた時代からあったことだし、今になって何でこうまで深刻な問題になったのか理解に苦しむのです。学校も家庭も社会もいじめに負けない、いじめを許さない、いじめをしないような健全な子どもを育成していればこんなことにはならなかったのです。

 私たちが結成した民間ボランティアグループである、21世紀えひめニューフロンティアグループが無人島に子どもを連れて行った二十年の軌跡はまさにそのための社会への警鐘でした。当時は物好きだとかボランティアなんてと揶揄されたものでした。成績万能、塾最高なんて親の考えや、万台が起こる度に責任逃れする社会では子どもたちの命は救えないのです。

  「本屋にて 名刺の裏に 読んだ本 名文写し 何食わぬ顔」

  「惻隠の 情は日本の 美徳にて 人をいたわり 人に優しく」

  「考えは 百人百様 様々だ 俺の考え 同じ人いる」

  「ホテル出る 財布忘れて 街歩き その日に限って 買いたいものあり」

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○後退気味の父

 大正7年9月1日に生まれた父は今年89歳になりました。40歳代でガンを発病し生死の世界をさまよった経歴を持つ父にとってはその後の再発もなくここまで寿命を保っているのですから、わが家にとっては奇跡としかいいようのない出来事なのです。一年中の殆どを遠出することもなくわが家で暮し、わが家の掃除機とでも代名詞を付けたくなるような縁の下の力持ち存在には、家族誰もが感謝しています。そして先に逝った祖母や母の分まで少しでも長生きしてもらおうと、私たち夫婦が中心になって様々な気配りをしているのですが、人間は先祖がえりとでもいうべきなのか、最近とみに何かにつけて子どものような言動が目立つようになりました。まあそれも予期した老年期の症状ですからボケたり深夜徘徊しないだけでもまだましと見てみぬふりをしながら、日々の暮しを組み立てています。

 私は朝起きると、父の起床時間午前6時を見計らって隠居へ行き、その日の元気を見るのです。耳が少し遠くなったのでまるでオームのように2度声を掛けます。「おはよう」と声を掛けると振り返って「何?」と問い返してきます。私が「おはよう」と同じ言葉を繰り返すと「おはよう」と同じ言葉が返ってくるのです。そして「今日は言い日和のようだ」とか、「体の具合は」とか雑談をしながら恒例の湿布薬を肩と腰に張ってやるのです。めったに家にいない私としてはこれで父とのコミュニケーションは終りなのですが、それから父の一日が始まるようです。着替えて散歩に出かけ、帰るとパンと牛乳で軽い朝食を取り野良仕事や家の周りの清掃、庭木の剪定、飼っている鯉の餌やりなどとに角よく動くのです。昼食を済ませると軽い午睡をして水戸黄門など時代劇をテレビ鑑賞して夕方まで働きますが、夕方仕事から返った妻が夕食の準備をして隠居に運び、6時から8勺くらいお酒を飲みながら夕食です。午後7時から風呂に入って8時までに床へつくというまあ規則正しい生活です。

 最近はよく夢を見るのだといいます。長年連れ添った母の夢を見るのは、「もうそろそろ迎えに来たのかも知れない」と、少々弱気なことも口にするようになったし、「来年の正月は越せない」とか、「来年は庭木の剪定や愛蔵刀の手入れもお前がやれ」とか、「飼っている鯉も俺が死んだらどうなるか」などなど、繭を細めたくなるような言葉をまるで独り言のように私に投げかけてきます。多分私にしか話せない寂しさなのでしょうが、その度に「そんなことはない」と打ち消して勇気の出るような言葉を交わすのです。一昨日から気分が悪いと不調を訴え、仕事に出かけていて妻も私も留守だったので近所に住む姉に電話をしたようでした。早速姉の配慮で近くのかかりつけのお医者さんが往診にきてくれてどうにか落ち着いたようです。昨日も出張先の青少年の家まで妻から電話がかかり、泊まる予定を変更して帰って来ました。それでも大事に至らず昨晩帰宅後と深夜、そして今朝も様子を見に隠居へ行きましたが、ま大事に至らずほっとしています。

 人間は歳をとると気力も体力も次第に減退してゆきます。それは仕方のない出来事ですし誰もが経験することなのですが、いざ自分の親がそうなると意外と分っているようでもついつい粗雑な物言いをして、父親の機嫌を損ねてしまうことがよくあります。先日も何かの拍子で父親と私が口げんかをしました。今考えれば他愛のないことなのですが、少しムキになって口論しました。見ていた妻は「まだ県下が出来るくらいだからおじいちゃんもまだ大丈夫」と冷ややかでした。

 いずれ私も歳をとりますが、「62歳になっても常に父という存在がいることだけでも感謝しろ」と、早くに父をなくした従兄弟は私に言います。私も反論して「62歳になってもまだわが家ではトップになれない」と笑い話をするのですが、人の運命はまあ不思議なもので、自分ひとりでは決して生きてゆけないのです。

 父の目下の楽しみは正月に還暦同級会出席のために帰省する弟夫婦を一日千秋の思いで待つことです。折にふれ高校を卒業すると直ぐに大阪へ就職した弟のことを話しています。一緒にいる長男の私などどうでもいいような雰囲気です。まあこれも先祖返りのひとつでしょうか。

  「ことの他 今年の正月 待ち遠し 父は指折り 数えつ日々を」

  「口げんか しつつ仲良く 日々暮らす 親父と俺の 二人三脚」

  「二十年 すれば私も あのように 息子と喧嘩 できるだろうか」

  「背も少し 低くなったと 気付く朝 父の背中に 湿布張りつつ」

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shin-1さんの日記

○ノロウイルスならぬ喉ウイルスにやられました

 一週間前から私の体に異変が起きました。岩手県でお土産にいただいた風邪がこじれたのか、体はすこぶる元気で咳と鼻水も収まり熱など出なかったのに何故か喉の調子が悪く、二日前の広島県熊野町が終わってから声がかすれ始めました。私から喋ることを取ったら何も残らないほど厄介だと内心心配しています。まるで歌い手さんが声が出ずうたえないのと同じような心境なのです。昨晩の高知県馬路村の皆さんとの交流会も喋るのがかなりきつく、今朝は最悪な状態で松前町ギノー味噌株式会社の早朝研修会に招かれているものの、声が出ないのではと心配しましたが、約90分の講演は何とかこなし、続いて大洲青少年交流の家で開かれた「大人を考えるシンポジウム」も、午後2時半から午後5時までのコーディネーター役だけはハスキーな声で役目を終えました。交流の家に泊まるつもりでしたが、昨日から親父の体調が優れず妻からの不安な電話で夜の部の途中から失礼して我家へ帰ってきました。幸い親父の体調は大事には至らず医者の往診で妻が対応してくれたようです。

 肝心の私の喉はどうしたものか今日一日交流の家の職員さんが心配してくれた喉飴をなめながら午後のひと時を過ごしました。日ごろ健康な私だけに体調が崩れるのはこのところのハードスケジュールがたたったのかと少し反省しながら、この文章を書いています。ふと部屋のストーブが目に入りました。僅か3畳の部屋にストーブを置いているのですが、どうもこのストーブが喉の痛みに因果関係があるのではないかと思い始めました。

 今日拘留の家の所長さんと話していたら、所長さんは以前鳥取県にいたことがあるそうですが、鳥取県の人が東京へ行く度に風邪をひいて帰って来るという話を聞きました。鳥取県はご承知の通り「弁当を忘れても傘を忘れるな」といわれるほど湿気の多い地方です。特に冬になると鉛色の雲に覆われる日が多いそうで「山陰」という知名そのものなのです。ところが冬の東京は関東の冬晴れといわれるように乾燥した風が吹くのです。そのため慣れていない山陰地方の人は喉を痛めるのだそうです。

 今晩家に帰って妻に話すと思い当たる節があるのか、同感の答えが返ってきました。わが家の今には同じように石油ストーブがありますが孫や娘が来るために除湿機を入れて適当な湿気を保っているのです。

 私たち、いや私は普通常識で考えれば乾燥した方が風邪のような細菌は繁殖せずむしろ湿気でじめじめする所には細菌類が繁殖すると思いがちです。同じようなことに活性酸素という言葉があります。酸素が活性化するのですからこれ程体にいいことはないだろうと思いきや、まったく逆の減少なのですから、最初に名前を付けた人の頭はどうなっているのだろうと疑ったりするのです。

 このまま喉が潰れて喋れないということはまずないと思っていますが、それでも喉の異変はとに角心配でなりません。明日は交流の家に戻って最後の詰をしなければなりませんし、明後日は自治会長として大切な集会も控えています。でもどうにかお喋りの仕事もこれにて一件落着ですので、年末年始はしっかりと休養を取って元気を回復したいものだと思っています。

 突如として起こった喉の異変は黄色の信号かもしれません。赤信号に変わらないようにしたいものです。

  「喉飴を なめなめ喋る 講演会 まるで進一 違う進一」

  「喋れない 俺の最も お得意を 神様どうか 元に戻して」

  「乾燥の わが部屋だから 喉痛い 明日からストーブ 止めてみようか」

  「痛くても 声を張り上げ 話する かえって悲壮 相手感動?」

 

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shin-1さんの日記

○海を渡っても日帰り

 私たち四国に住む人間は本州に行く場合、必ず乗り物に乗って瀬戸内海という海を渡らなければなりません。橋もかからず飛行機にもそんなに乗らなかった時代は船でのんびりと渡ったものです。山口、広島、岡山、淡路など幾つものルートがあって、目的地や仕事の内容によってそのルートを決めたものです。印象深いのは高松~宇野航路で、修学旅行や遠洋航海に出かける時、宇高連絡線に乗るため高松駅から船までわれ先に走ったことを思い出します。しかしそんな古きよき時代はすっかり過去の夢物語となって、夢の架け橋三橋時代となって、本州日帰りなんて便利な社会となったのです。

 昨日は広島県熊野町の観光ボランティア養成講座に招かれて松山堀江~呉阿賀を結ぶルートを選んで3時の船に乗りました。

私の古い時刻表だと3時半の出講予定だったのですが、少し早めに桟橋に着くと既に船は入港しようとしていました。急いで身支度を整えて船に乗りましたが、もし時間に遅れていたら間に合わなかったのではないかと、早めの出発を喜びました。港には戦中から携帯で電話連絡していたので、日の丸タクシーなんて威勢のいい名前の小型車が迎えに来ており、阿賀港から山越えで熊野町まで夕暮れの雨降る中を走りました。曲がりくねった山道の途中では見返り坂と名前をつけたくなるような呉市街の夜景がとても美しく見え隠れして、なんだか得をしたような気持ちになりました。

 港から熊野までは僅か30分足らずで到着し、文化センターロビーの筆の展示を見たりしばし談笑して時を過ごしました。今回の研修会は急に決まったことなのですが、不思議なことに担当者からは何度もメールが届き万全の打ち合わせをしたのですが、私が留守がちだったため担当者の声すら聞かずに研修会のお手伝いが成立したのです。インターネット時代の凄さをしみじみと味わいました。


 熊野町は全国の筆生産の80パーセントのシェアーを持つ有数の産地です。何年か前商工会の方々が中心なって私の町へ視察に来られたことがあったので、その存在をよく知っていたし、熊野町にもそのことを覚えている人が何人かいて、出席をされていました。最近は安い中国産の筆に押されて筆の世界も不況とか、それでも筆を作る技術を化粧のための刷毛に応用し、活路を開いている話を聞いて、いい話だと思いました。熊野町は広島市に隣接している町なので高度成長時代以降流入人口が増え今は3万人で、平成の大合併もせずに単独で生き残っていますが、団塊の世代など少しずつ町民の暮しにも高齢化やふるさと意識などに対する変化が現れ始めているようです。伝統工芸士が中心になって若い後継者の育成に乗り出したり、今回の観光ボランティアの育成講座を開いたり、様々な新しい取り組みが始まってるようですが、結構なことだと感心しました。

 熊野に新天地を求めてやって来た人にとって、熊野は行きずりの地だったかも知れませんが、その子どもたちに熊野町を「ここが君のふるさとだ」と胸を張って伝えるふるさと教育は学校教育や社会教育を問わず大きなテーマではないかと思われました。自分の町を語る物語と語り部育てがこれから益々重要になってくることでしょう。

 「若松さんあなただったらどんなまちづくりをしますか」と唐突に尋ねられました。折りしも清水寺で二日前、今年の漢字が「命」と揮毫されました。あの筆を熊野産の筆にして奉納し全国に紹介してもらおうか。清水寺の向こうを張って今年の漢字を熊野でも全国公募して有名人に書かせたら面白い文化財も残るかも。なんて楽しいアイディアを考えたりしました。

 午後7時から始まった講座は盛会のうちに午後9時終了、再びタクシーで阿賀港まで送ってもらい午後10時発のフェリーで松山を目指しましたが、片道1時間50分の最短コース船の旅といいながら、我家に着いたのは午前一時近くになっていました。近いようで遠い土地、遠いようで近い土地熊野まで、日帰りの旅となりました。お土産にもらった化粧用美顔筆で妻はどんな美人に返信するのでしょうか。眠気眼で起きて待っていてくれた妻は嬉しそうに受け取り、まるで少女のように枕元に置いて夢の世界へと旅立ちました。

  「遠くても 近いと思う 日帰りに 少々お疲れ 充実しきって」

  「喉が変 喋り過ぎたか 風邪なのか 朝起き気付き ウガイすれども」

  「面白い 途中参加の 議員さん そんな声かけ メールも届く」

  「美顔筆 寝床に並べ 夢心地 妻の寝姿 何とも少女」

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shin-1さんの日記

○今年最後の山陰への旅

 9月19日の伯耆町への旅を皮切りに島根県西ノ島、北栄町、江府町、米子市と続き、今回の日野町への旅で年内の山陰巡りは一応の終息です。中四国と一くくりでいわれながらこのエリアは高速道路を使っても高速道路の向こうが更に遠く、公共交通機関を使えばなお更、近くて遠い場所なのです。今回は旅のアクセントとして往復まったく別の道を通りたいなんて私の身勝手も、東京行きの立て込んだ仕事の関係で松山道・高松道・米子道を一直線に結んで突っ走るハイスピードな旅になりました。

 山陰への道すがら何気なく通る日野町の光景も、根雨という宿場町の地名も見慣れた光景なのですが、いざその町に踏み込んでみると、隣町江府町と同じように素敵なところとそれなりの悩みが見え隠れして、今回もいい勉強をさせてもらいました。伯耆町、江府町とまるで追っかけのように必ず顔を出してくれる町会議員の田中幹啓さんから、事前にその町の鳥取県における位置や文化度などの情報が寄せられるものですから、今回は「生涯学習とまちづくり」というテーマでもあったので少し内容を変えた話にしました。夕日によるまちづくりという話への期待感もあったのでしょうが、多分評価は分かれるところだと承知のうえで生涯学習に重きを置いて話したつもりです。明くる日早朝、出張先の東京新宿駅に田中議員さんから反響についての一報が入り、少し安堵の胸を撫で下ろしました。

 伯備線特急やぐもに乗って通り過ぎる根雨の駅前に役場と文化センターは並んで建っています。文化センターの下は図書館になっていて田舎町ながら施設の充実度や人々の暮しが文化的でかなり質が高い町民性を有しているとお見受けしました。それは人の集まりと話への感度からも十分読み取ることが出来たし、何よりも発表と講演のつなぎアトラクションに参加した子どもたちの真摯な姿が感動ものでした。私に対応していただいた教育長さんと女性課長さんと3人で文化センター出演者控え室のモニターテレビで説明を聞きながら見せてもらいましたが、いい子どもたちがいい教育環境の中で育っていると思いました。特に最後に登場した町民ミュージカルは、間近に迫った公演のPRも兼ねていたようですが、実に活き活きと輝いて見えました。近くだったら見に来るのにと思ったほどでした。最近はどこの街でもこうした市民ミュージカルが活発で、田舎はややもすると古い文化の伝承活動を重んじる余りに創作文化を忘れているきらいがありますが、4回も続いている市民ミュージカルに大きな拍手を送りたいと思います。多分町民は私たちの町と同じように演歌カラオケ大会の方に興味を示すでしょうが、新しい文化とは白いご飯に石ころが入っているようなもので最初は受け入れ難いものです。安心と安全にあぐらをかく人たちでも、何回かミュージカルを見ているとミュージカルが分るようになるのです。私の町だって夕焼けコンサートが受け入れられるのに21年も経っているのです。

 日野町はおしどりの里としても有名だそうです。おしどりはその羽色の美しさから色々と紹介されているし、おしどり夫婦なんて言葉も仲のよい夫婦の代名詞に使われているようです。鶴が一生相手を変えないのに比べ、おしどりはあくる年別の鳥に求愛することを揶揄する話も聞きますが、まあ賢明な人間ですら不倫をする時代ですから余りそのことを詮索しない方がいいのかも知れません。

 おしどり観察小屋の見える料理屋3階の部屋で短い時間ながらお歴々とともに昼食をいただきました。鴨肉を陶板で焼いて食べる定食は中々の味で、下を流れる川や根雨橋を遠望しながらひと時の懇談をし、小雨そぼ降る中をインターに向けて走りました。

 帰り道金持神社の看板や金道下・金道上なんて地名も珍しく眼に入りました。何でもこの地名や神社の名前が最近有名になって、山陰の旅ツアーにも組まれているそうです。まちづくりアイディアマンの私としては是非この地名を使ったまちづくりを提案したいものです。差し当たり金持神社の横に宝くじ売り場を設置したいと思います。そうすればどんどん人がやって来て、噂が噂を呼んでくるに違いありません。人間はお金持になりたい、幸せになりたい、長生きがしたい、成功したいという4つの願望は殆どの人が持っているのですから、成功間違いなしだし、経済的効果も期待できるでしょう。

  「目に付いた 金持神社の 看板に アイデア色々 必ず儲かる」

  「おしどりは 不倫の鳥と 揶揄するが そんな人ほど 不倫に期待」

  「ミュージカル それより演歌 言う人が 多い田舎は これからつまらん」

  「根雪より 根雨の響き 雨情詩が 似合う宿場に 小糠雨降る」 

  


















 

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shin-1さんの日記

○田舎と都会

 田舎の反対は都会でしょうか。定年でサラリーマン生活をリタイアした私には出張など縁遠いものと思い、都会への旅はもう旅行にでも行かなければ高嶺の花だと諦めていましたが、私のリタイアを知った多くの方々から講演のお声がかかるようになって、再び田舎と都会の往復が出来るようになりました。つまり私は当てはないけれど不定期的な田舎と都会のパスポートや情報回路を手に入れたのです。これは私の人生にとって極めて大事な出来事で、今やそのことが日々の暮しにメリハリをつけてすこぶる充実した日々を送っているのです。

 一昨日まで東京で2日間過ごしました。このところ頻繁に行く東京ですが、さすが東京は世界に誇る街だけあって行く度に様々な新しい発見があって、何か分らない新しい風を感じるのです。多分私が普通は田舎に住んでいるからその異文化ギャップの大きさを感じるのかも知れません。だとしたら田舎に住むことは都会を感じる一手段だと思えば、うかうかと田舎に住むのではなく、都会から帰って感じる田舎の良さも悪さも含めて少し勉強しなければならないのです。

 私の町に住む人たちの殆どは田舎暮らしに満足したり不満を言ったりしながら日々の暮しに明け暮れていますが、都会という対立軸にある社会をさも知ったかぶりで一方的にののしったり、田舎の良さを誇張しているのです。「都会は人間が信用できなくて治安が悪い」「都会は騒音がひどく大気が汚い」「都会の水は臭くて飲めない」「都会は人が沢山いてごみごみしている」などなど、都会の悪い面が強調され、結果的に「都会は悪い」というレッテルを張るのです。

 じゃあ反対に都会から見た田舎はどうでしょうか。確かに田舎が主張する都会の悪さはある面であるにしろ、田舎だって五十歩百歩だと思うのです。「田舎はのんびりしているというがハエが止まっても分らないような田舎ののんびりは如何なものでしょうか」「2時間に一本しか来ないような列車を待たなければならない不便さは如何なものでしょう」「雨が降れば濁る水は果たして衛生的で美味い水といえるでしょうか」「人の噂を噂話としてあることないこと話して喜ぶ社会は正常でしょうか」。なんて考えると田舎の住みにくさも随分考えさせられる部分があるようです。

 水は必ず高い所から低い所へ流れます。人間は文化の低い所から高い所を目指すのです。じゃあ文化が田舎にないかとお叱りを受けそうですが、決してそうではありません。むしり田舎には都会にない誇るべき文化が一杯あるのです。でも田舎はその持てる文化に気付かず、時代の流れと片付けてどんどん失っているのです。このような田舎では過疎になって住む人がいなくなるのは当然のことかも知れません。水が美味い、空気が美味しい、人がいいだけで人は住めないのです。事実私の町でも水が美味しいのに、空気が美味しいのに、人がいいのにこの50年間で人の数は1万人から5千人に半減しているのです。つまり田舎は田舎らしく生きる知恵をこの50年間持たなかったのです。空気が美味く水が美味しく人情が豊なのに自分の子どもには「こんな田舎に住んでいたら父ちゃんみたいに田舎にくすぶって生きなければならない」と「向都離村」の教育をさせ、優秀な子どもに育てて都会へと送り届けてきました。田舎は都会人になるための「都会人養殖場」だったのです。結果的には長男がいやいや残る社会となりました。役場も過疎地脱却と称してそれを後押しし、都会の真似をすることがさも過疎対策だと言わんばかりに横並び幕の内弁当のような文化会館を無造作に建てたりしてきました。嘆かわしいのはこれほど時代が田舎のスローな暮しを欲しているのにそのことに気付かず、いや気付こうともせず相変わらず田舎の何であるか分らぬままに一方では田舎の良さを過信し都会の悪口を言いながら何もせず暮らしているのです。

 昨晩愛媛大学で藤目先生に出会いました。立ち話もなんだからと先生の研究室で話しました。前回会った時はグリーンツーリズムをお互い進めようと張り切っていた先生が、少し落胆するような話をするのです。愛媛の、特に南予を活性化しようと愛媛県庁がやっきになっているようです。多分来年早々行われる県知事選挙の対策と思われますが、それでも遅れている第一次産業を活性化しようとする方針には大賛成です。でもかつて南予レクリェーション都市構想をうたい、莫大な資金を投入した惨めな結果は誰も責任も取らず説明責任を果たさぬまま風化している現実を思うと、手放しで喜ぶ分けにはいかないのです。自分たちの地域を自分たちの手で起さねば幾ら補助金を投入してもいいまちは出来ません。グリーンツーリズムはその意味で南予活性化の大きな知恵ですから、藤目先生の意見には大賛成なのです。あれ程地域を二分する激しい議論を経て合併した市町村も、過ぎてしまえば新しいまちづくりの胎動どころかくだりのエスカレーターのような有様です。広島に次いで合併先進県と胸を張るだけで地域づくりはできません。

 田舎と都市という対立軸を往復しながら、そのギャップを肌で感じ、是々非々を伝え行動をすることが私の使命かも知れません。

  「田舎いい 何処がいいのと 尋ねたら ただ何となく それでもいいか」

  「都会など 住むとこじゃない 言うけれど 住んだことなく 高言吐くな」

  「ノロノロと まるで亀さん みたいだね 田舎に帰って いつも感じる」

  「東京が 俺の頭を 刺激する 今度も少し 風に当たって」 

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shin-1さんの日記

○ファーストフードの店

 どこの旅先でも私一人であれば殆ど日本食の店に立ち寄ります。特に朝食などはあったかいご飯に味噌汁と焼き魚なんてメニューが自分の食生活に合っているのです。ですから駅前にあるファーストフードのマクドナルドやロッテリアなどにはこの2~3年入ったことがないのです。この3日間東京での仕事があったので、思い切って新宿西口駅構内のロッテリアのお店に入りました。注文の仕方もたどたどしくモゾモゾしていると、店員さんのマニュアル通りの気持ちのいい対応にすっかりその気になってサラダバーガーとオレンジジュースを注文してしまいました。これにフライドポテトがついて450円です。店の中には若い人が多く止まり木のような椅子に座って携帯メールに熱中する人、新聞を読む人、雑談にふける人など様々でそれぞれの自由を楽しんでいました。私もお盆に注文の品々を乗せて椅子を確保しましたが、ラテン系のBGMが何か都会的な雰囲気を醸していました。

 お盆の上には店のこだわりの言葉が随所に赤い文字で書かれていました。例えばフライドポテトのジャガイモはロッキー山脈の雪解け水で育ったとか、揚げる油はベジタリアンだとか、さも健康に配慮しているようなお店の主張です。紙のコップにも物語が書かれていて、こんなお店に慣れていない人でしょうか、私ぐらいの年配の人が、コップをぐるぐる回しながら私と同じように熱心に読んでいました。ハンバーガーのパンはまるで餅のようにモチモチした食感でレタスとハムがバランスよく美味しい味でした。

少し若者になったような気分で今日の会議の資料に目を通し、コーヒーの飲めない私はオレンジジュースを赤いストローでゆっくりと飲み干しました。外の通りはひっきりなしに通行人がコートの襟を立てて無造作に行き交い、師走の慌しさを醸していました。

 街はどこもクリスマスの飾り付け一色で、地下街は昼間だというのにイルミネーションの電球が華やかに飾られ、モミの木の下には赤い葉っぱのポインセチアが沢山置かれていました。

 ファーストフードの店は、私たちの年代には縁遠い店ですし、ファーストフードは何か体に悪いなんて思い込みをしている人も多いのではないかと思われます。確かにファーストフードは若者向きだし体によくないものもあります。でも全てが当てはまるとは限らないのです。便利さや安さだけでなく健康にだって気をつけているお店もあるのです。そして何よりもいいのはそこで若者文化が感じられるのです。時代感覚のズレは相手の立場に立たなければ分らないものがいっぱいあります。音楽もファッションも、日々の過ごし方も雑踏の中にこそ見つけられるのです。味噌汁とご飯と焼き魚も結構ですが、たまにはマクドナルドのお店に入って若者の食べている、飲んでいる、聞いている、そんな風を感じたいと、決して「都会かぶれ」でない都会の風を感じて帰りました。

 私たちの日々の暮しを見てみると随分古い暮らし方をしていることに気付きます。古さは決して悪いことではなくむしろ消されつつある古さの中にいいものも沢山あります。でも変化の少ない田舎暮らしや変化を望まない年代ゆえに、少し視点を変えた新しい暮らし方をして見たくなりました。都会で感じた異文化ギャップを少しだけ取り入れて見ましょうか。面白いかもしれませんね。

  「二年間 一度も行かぬ 店に行く 若者どんな 生き方してるか」

  「楽しいじゃん だってさー俺 チョー美味い バーガー食ったもん」

  「雑踏に 体ゆだねて 東京の ヒルズを歩く 夜の街中」  

  「新宿の ビルが頭に落ちてくる そんな錯覚 大口開けて」


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