shin-1さんの日記

○岩手県一ノ関の風邪

 この30年余り風邪など引いたことがなかったのに、先日岩手県一ノ関に行った折、一日中冷たい雨だったせいもあって、少し寒気がしたようなきがしたのですが、そのことが尾を引いて風邪気味です。岩手県一関の人にこのブログを読まれれば、「それは一ノ関への言いがかりだ」と咎められそうですが、少し反省しながら書いています。一ノ関への旅は東北ゆえ寒かろうとズボンの下にはこのところはいたこともないパッチをはき、「一枚余分にはおって来るように」とメールが入っていたのでこれもこのところ着たこともない半コートを着て万全を期して行ったのですが、それが裏目に出たとしか言いようがないのです。

 寒い厳寒の時期にもシーサイド公園の早朝掃除には半袖まがいの薄着で臨んだことを思えば、まるで北極へでも行くような出で立ちでしたが、過保護はかえって体調を崩すのだということを身をもって体験した次第です。

 妻は「10月、11月の目まぐるしい忙しさでお疲れモードになってるのだ」といたわってくれるのですが、そうかもしれないと納得しつつ日々を暮らしています。でも風邪といっても別に熱が出て寝込むわけではなく鼻がシュンシュンし咳が少しだけなのです。最悪は先日NHKテレビに出演した時で、カメラに隠れてティッシュを離せませんでした。

 何とかこの風邪を治したいと、病院や注射の嫌いな性格から妻の薬を飲んだり薬用風呂に入ったりしてみるのですが一向に効き目がありません。少し荒治療かと思われるサウナにも入ったのですが一進一退です。ところが最近四国・愛媛県・伊予市・双海町にも寒波がやって来て私の風邪に追い討ちをかけました。「あー嘆かわしや」と思っていましたが、少しずつ快方に向かっています。

 一年中病気らしい病気もせず元気印で働いてきた退職後1年8ヶ月も、今後のことを考えれば少し健康に注意して運動や睡眠に気をつけたいと思うこのごろですが、こうした私の体を気遣って、最近サプリメントなる新しい健康補助食品が私の元に届けられるようになりました。食事も妻が私の健康を気遣って作ってくれているのでサプリメントなんてと思っていますが、これも私の思い込みかもしれません。サプリメントは何か薬を飲むような気がして仕方がないのです。薬嫌いな私としては当然でしょうが、サプリメント=薬との思い込みを直さなければなりません。

 テレビを見ていると有名人が次々と出てきて「○○に出会って私は人生観が変わりました」などというものですから益々信じられなくなっています。

 風邪をひいたこんな時、死んだ母はよく玉子酒を作ってくれました。熱くて甘い玉子酒をフーフーいいながら飲んで布団をかぶって寝ると体中から汗が吹き出して、汗で濡れた寝巻きや下着を変えて一眠りして随分良くなった思いでも遠い昔の思い出となりました。風邪をひいた妻の横に寝ていても前々風邪を引かず、「あなた少し鈍感なのでは」と妻に言われていましたが、これで「馬鹿は風邪をひかない」諺からすると、私は利口者ということになるのです。

  「風邪引かず 腹もうずかず 三十年 馬鹿な男が 風邪ひきました」

  「お土産に 貰った風邪で 難儀する 一ノ関だが 関は咳でも」

  「風邪予防 鵜飼とうがい 同じ文字 鵜飼の鵜たち うがいするのか」

  「北西の 風が運んだ 風邪の風 わが家流行 みんな病に」  

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shin-1さんの日記

○ハーモニカが大好評

 「大好評」だなんていわれるとその気になって山椒の木にまで登ってしまいそうなのですが、先日とある会場で吹いた私のハーモニカが「大好評」だったというのです。多分参加した人の何人かが「良かった」といえば、感動の法則で1人が7人に、7人が5人、5人が2人がいって終息するのです。つまり1×7×5×2=70人という計算になるのです。結局は150人も集まった集会でしたが、職場へ帰ってのその人の会話が増幅させたのではないかと思われます。「大好評」の決め手はハガキと電話とメールで届きます。主催者は電話で一報を入れた後ハガキや文章でお礼をしたため、参加者はハガキとメールで感想を表現するのです。

 嬉しいメールが沢山届きました。これもやはり時代の流れでしょうか。しかしそのことを書いたブログに感想が寄せられるのですが、末尾にサイトから「このメールは自動的に送信していますので、返信をご遠慮ください」と書かれているため、殆どの返信にはあて先もなく、返信のしようがなく、私のパソコン能力ではそこを越えることが出来ないのです。でも知恵ある人は私のホームページを探しホームページからメールアドレスへと入ってくれるのです。

 小学校時代の私は通知表が殆ど「音楽2」でした。ところがどういう訳か中学校になったら通知表が「音楽4」若しくは「音楽5」なのです。多分中学校一年生の時の担任が西岡圭造という音楽の先生で、その若い先生に憧れたのか大事にしてもらったのか分りませんが、2階級も3階級も特進を続け、高校受験の時は音楽は満点だったのですから人の能力は分らないものです。当時の高校受験は今のような英・数・国・理・社の5科目受験ではなく音楽や職業家庭、保健体育、図画工作といった様々な9科目があったのです。私たちのような田舎者は5科目が出来なくても後の4科目で点数を稼ぐことができたのです。ひょっとしたら私たち田舎者がバランスの良い人間に成長する素地を身に付けていたのかも知れないと思うのです。

 中学校になって音楽が何故よくなったのかは今でも分りませんが、小学校の頃苦手だったハーモニカは今でも苦手な楽器です。でも苦手だからと遠ざかっていただけなのかも知れないと思い、吹き始めてみると意外や意外、下手糞ながら譜面も読めないのに適当に吹けるのです。嬉しくなって吹くと少しずつ上達する「豚も褒めれば木に登る」が如く、次第に吹けるようになりました。通信販売で妻が買ってくれた2本のハーモニカを愛用して、人に聞かれると恥かしい者だから主には車の中で練習というよりは楽しむ形で吹いてきました。人間は人目に晒され失敗しないと上達しないと思うようになって、こともあろうか講演の一部に夕日とハーモニカのコラボレーションを大胆にも取り入れました。これが案外好評でその褒め言葉に乗っかって・・・・という具合です。

 体感音楽という言葉を聞いたのは、私がNHKラジオ深夜便「心の時代」という番組に出演した時でした。東京のある目の不自由な方から番組を聴いたと電話がかかってきました。「私は夕日が綺麗といわれても生まれた時から目が見えないので分りません。でもあなたのハーモニカを聞いて涙が出て止まりませんでした。死んだ母を思い出したのです。母の背中で赤トンボや夕焼け小焼けの歌を子守唄代わりに歌ってくれた歌を聞いていたのでしょうね。これは私の体感音楽だと思うのです」と。そういえば私たちは子どもの頃から今日まで多くの歌をテレビやラジオから聞きながら育ってきました。

 先日中島の金本房夫先生から「心が押し出す涙」という先生の講演録をいただきましたが、その中にも「向都離村の教育」の中で、「早く帰ってこ」「りんご村から」「別れの一本杉」「お月さん今晩は」「ああ上野駅」「僕はないちっち」「ふるさと」などの今は懐かしい望郷歌が紹介されています。確かに私たちの体には童謡や演歌といった様々な歌がまるでDNAのように組み込まれているのです。ハーモニカはそんな体にしみこんだ歌を思い出させ、その歌につながるふるさとや人々を甦らせてくれるのです。私のはーミニかが上手いのではなく、ハーモニカは記憶再生の道具なのだと思うと納得するのです。小学校からハーモニカが消えて久しいけれど、私が話す対象者の殆どはハーモニカを吹いた経験者なのです。

 これからも、磨きはかからないものの少し練習をして、人々の古きよき日本的記憶を甦らせる道具として使いたいものです。

  「ハーモニカ 聴いて思わず 泣けました メール届いて 反響びっくり」

  「下手糞な ホラより吹きたい ハーモニカ 人の記憶は 何かの道具で」

  「夕日など 目が見えないから 分らない 体感音楽 教えたあの人」

  「ハーモニカ 車の中で 吹いてたら 窓が開いてて 不思議顔され」 

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shin-1さんの日記

○私のパソコンのメンテナンス

 私のパソコンにはつい最近、訳の分らぬメールが沢山入り内心困っていました。その迷惑メールは大きく分けて二つです。その一つは女性との交際をしないかというお誘いのメールです。最初は自分の名前を書いて送ってくるものですから、何事かと一瞬自分の顔も忘れて持て心をくすぐるような文章にドキッともしましたが、仕事柄メール友だちというものかと思って、無視していましたが、毎日のように波状攻撃でやられるともううんざりで、娘婿が見つけ次第消していたようですがそれもままならず、結局は長い間×印で消す作業を最近まで続けていました。もう一つは英語の文章が次から次へ送られてくるのです。英語の読解力の無い私はこれも変な対応をしたらお金が発生すると思い、一度も開封することもなく×印の対象として処理をしていました。しかし先日のように3日間も家とパソコンを空けるともうパソコンの画面は英語一色になって、100を越す件数を消す時間は相当な無駄時間に思えてきました。

 一度パソコンに詳しい娘婿に相談しようと、大学の授業日に彼の研究室を訪ねたのですがあいにく留守で、実家に帰っていた娘にそのことを話しておきました。すると先日娘婿が夕食を食べにわが家へ立ち寄ったので、メンテナンスを依頼しました。私にはまったくチンプンカンプンの操作ですが、1時間半もの長時間で迷惑メールと、ウイルス対策を完了してくれました。

 迷惑メールにはなお沢山のエッチなメールや英語のメールが後を絶ちませんが、それでも必要情報の受信メールだけが整然と並んですっきりしてきました。私はまさにこのことは「無知によって生ずる不幸は知ることによって避けられる」ものだとしみじみ思い、娘婿の能力と技術の高さに感謝してしまいした。

 パソコンでブログをやり始めて困るのは、書いた文章がいきなり消えたり登録できなかったりすることです。折角書いた文章があっという間に消えてしまった時の悔しさやむなしさは何と言えばいいのか分りません。ワープロで原稿を書いていた幼稚な時代から比べると私のパソコン能力は格段に進歩しています。ワープロの電源を妻に抜かれて大喧嘩したあの頃のような騒動はないのですが、それでも書いた文章がなくなるのはショックです。私の書斎は電話の本体から一番遠い場所にあるため電波反応にしているのですが電波が届きにくいため天井近くにコードを這わして書斎まで引っ張ってきているため、大事な通信をしているとき電話でも架かればもうお手上げです。一度その辺のことも考えて電話回線をいらってもらうことを考えなければならないかも知れません。

 打った文章が消えて、同じような文章を書こうとするのですが、絶対という言葉で表現したいくらい二度と同じ文章をかけないのですから、余程慎重に扱わなければなりません。小まめに登録を心がけているのですが、夢中になるとどうも上手くいきません。

 今年の正月休みはこれまで書きためたブログの文章を暇を見つけてプリントアウトしたいと思っています。それというのも日本中には3人も私のブログをせっせとプリントアウトして一冊に綴っている人がいるのです。ご本家の私がしていないことをされている私としてはぜひそのことをと願っています。私のような古い人間は電子文字のように何時消えるか分らない不安がいつもよぎっています。その点プリント文字だと火で焼けない限りは大丈夫だと思うので、早く実現したいと思っています。

  「文章が 消えて悲しや 八つ当たり 名文迷文 どこへ行ったか」

  「デジタルの 時代に何故か プリントを 信じる私 やはり古いね」

  「名刺売る 書いた途端に メール着て そんなにお困り 買ってあげると」

  「もう二度と 同じ文章 書けません 岩手で書いた 原稿失い」

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shin-1さんの日記

○NHKふれあいミーティングに出演しました

 「ミーティング」といえば、つい最近話題になっている文部科学省の教育基本法議論を思い出させ、まるで賛成者だけの仲間内議論のようですが、NHKでは一連の不祥事が連鎖した視聴料不払いに対して、経営を立て直すために全国で3000回ものふれあいミーティングを実施してきたそうです。その3000回を区切りとした模様をテレビで公開討論することになり、私にもパネラーの一人として出演するよう依頼がありました。比較的若い人の意見を取り上げたいと思ったのでしょうか、6人のパネラーでは私が一番年上なのです。これまで私はまだ若いと思っていただけに多少のショックはありましたが、故に責任もあるだろうと控え目な積極性を前面に押し出して議論に絡みました。

 数日前東京のNHKから唐突に「徳田ですがお元気ですか」と一本の電話が入って驚きました。東京のNHKで活躍しているあの徳田アナウンサーなのです。もう二十年も前に松山放送局に在勤中、私の取材で役場に来たことを思い出しながら懐かしく話したのですが、その徳田アナウンサーと「おはよう日本」の首藤アナウンサーが進行役という相当贅沢な顔ぶれだし、相手は永井副会長や番組総局長、理事、松山放送局長というそうそうたる顔ぶれで、この仕事への執念を垣間見ました。

 コムズ5Fの特設会場は一般視聴者が三方から囲み、視聴者の意見も交えての番組収録です。2時間半の長い時間をNHKへの意見や批判、提言といった様々な意見をからめながら、それぞれに楽しいお喋りをさせてもらいましたが、左程の緊張もなく無事終了しました。この模様は早速昨夜の全国ニュースで流れたようで、「テレビに出とった」と電話をかけてくれたりしましたが、いずれ編集の後番組として放送されるようです。

 白い服の方が首藤アナウンサー、私とツーショットは徳田アナウンサーです。

 私とテレビとのかかわりは物心ついた少年の頃からです。白黒テレビから始まってカラーテレビ、ハイビジョンと、またアナログからデジタルへと技術革新著しい情報化社会のなかで育ってきた私にとってテレビは私の知的能力の殆どだといっても決して過言ではないほど大きな影響を受けてきました。力道山や若乃花といったテレビ草創のころの思い出も今は懐かしくまるで三丁目の夕日のように過去の彼方に消えていますが、日本人のDNAはテレビと言われるような大きな影響力を持っているのです。

 私の場合最初は特にNHKとの関係が深く、第14回NHK青年の主張の愛媛県代表になった昭和43年、僅か23歳で早くもテレビ出演やラジオ出演を果たしているのです。その後も公民館や村おこし、まちづくりの節々に私の活動と町の話題がテレビやラジオを賑わかせました。「明るい農村」「人間マップ」など今も手元に残る古ぼけたVTRを見る度に当時を懐かしく思うのです

 でも時代は大きく変わり、2003年には全国の家庭からアナログテレビが消えるのです。誰がどんな意図でデジタルに変えるのか知るよしもありませんが、便利という名の社会がそこまで来ているのです。多分10年後に協の議論をVTRで見た人は、笑い話として片付けることでしょう。

 先日妻と息子のマンションを訪ねました。松山市では既にデジタル放送が開始され息子たち夫婦はデジタル放送の恩恵を受けて暮らしています。私の町にはまだその電波も届かずそれを受信するテレビもありません。しみじみ情報格差を感じつつ、息子の説明を聞きながら便利さに期待をした次第です。流行と不易という言葉がありますが、不易なものまで流行に押し流される現代に寂しさを感じる年代になったのかと、積み重ねた62年の重みを感じる今日この頃です

  「徳田です 二十年ぶり 電話にて 偉いものです 忘れず事前に」

  「歳の順 言われてハッと 気がついた 俺もそんなに 若くないのか」

  「カメラ前 ハラハラドキドキ したっけな 今はときめ気 動じもしない」

  「デジタルが 俺の家にも やって来る アナログテレビ もう直ぐゴミだ」 

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shin-1さんの日記

○わが書斎にストーブ入る

 このところの冷え込みで南向きとはいえ日当たりの少なくなったわが書斎も、朝夕はめっきり寒くなって妻からストーブを入れるように言われていたのですが、しまっている納屋からストーブを出すのが面倒臭くてついつい延び延びになっていましたが、先日一ノ関でお土産に貰った風邪気味が直らず、ついには昨晩ストーブのご厄介になることに相成りました。

 ここ数年間は書斎にコタツを用意していましたが、電話回線でパソコンにインターネットを接続した関係で机の方が便利なのでストーブに切り替えたのです。4畳半の小さな部屋ですので小さな石油ストーブでよく、昨年買ってもらったものなのでまだ調子がよく、一変で点火し部屋はまるで春のように変化しました。温度設定は只今18度に設定しているのですが、今朝の室内温度は10度を下回っていたようです。

 私は他の人に比べ比較的暑さや寒さに強いほうで、いつもの事ながら下着はランニングで位置年中を過ごしているし、昨年まではズボンの下にパッチをはいたことなどありませんでした。しかし日本全国を移動する旅に出る最近はさすがに東北などの寒さが身に堪えると、妻もうるさくいうものですから、パッチとコートがわが冬の必需品となりつつあるようです。「パッチもはかず、コートも着ずに風邪をひいたらそれこそ年寄りの冷や水だ」と妻は、私の体を気遣って私をいさめるのです。

 私の部屋の大きな吐き出し窓は、直ぐ外へ出られるようになっていて、スリッパも用意しています。最近はハクビシンや狸も私の水虫臭いスリッパに愛想をつかしたのかさっぱり姿が見えなくなって、スリッパ泥棒の被害にも遭わなくなりましたので、毎朝ここから戸外に出て親父の隠居へ6時過ぎには様子を伺いに行くのです。88歳の親父の健康状態は脛病院騒動も収まって比較的安定しているようで、相変わらず家の外回りの掃除や庭の手入れをブツブツ言いながらもやっているようです。

 ストーブで暖を取りながら原稿やブログを書き、こうして今年も無事で師走を迎えることができました。早いものだとこの一年の時の流れを感じつつ早くもメールでは来年の予約が入り始め、慌しさは来年も続くのだろうと予感をしています。給料生活を35年続けた後、まったく予定のたたない無給料になって早くも一年八ヶ月が過ぎました。家計のやりくりも大変だっただろうとわが家の大蔵大臣の苦労を垣間見つつ、ようやく62歳の年金受給者となってホッとしている妻の姿が目に浮かびます。

 幸い親父もまだどうにか元気で介護も必要とせず、妻もパートを続け、次男も目出度く就職も決まり、少しずつ肩の荷が下りつつありますが、これも健康あってのことなので健康には特に注意しようと、忙しさの余り長らく中断していた健康診断を受けようと今朝心に決めました。

 昨日、定年退職し再就職した友人に会いました。元気で頑張っているようでしたが、最近体の不調が気になってもうそろそろ辞めようかと相談を受けました。それは本人が決めることだからと前置きしつつも、残り少ない人生を大いに楽しんでいる私のもぎたてテレビ出演様子(先日放映)が気になるらしく、一度相談に伺うとの問いにどうぞと答えました。60にして惑わず生きている私が羨ましいと、去り際の言葉でした。

  「お父さん 辞めてよかった 妻が言う 俺も同じだ 夫唱婦随で」

  「裏山に 椎などないぞ 羨ましい 金はないけど 自信満々」

  「気を使い 長男夫婦 時々に 泊まりに来るが 妻も気遣い」

  「年金が 出る歳俺も 歳なのか 若いつもりで いたけど年金」

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shin-1さんの日記

○看護連盟の会合

 高校3年間を宇和島市桝形町に住んでいた私ですが、その下宿していた場所の目と鼻の先にあるニュー兵頭サプライムホールという場所に出かけました。勿論私が住んでいたその頃はそんな洒落た建物はありませんし、斬新な施設なので最近建ったものではないかと思われます。例によってカーナビに施設の電話番号で入力し、ひたすら宇和島めがけて国道56号を南下しました。宇和島も近くなったもので、7時に出たのですが土曜日の早朝ということもあって、交通量も少なくわずか1時間半ほどで迷うこともなく一発で到着しました。

 駐車場には昨年のカナダ旅行の打ち上げ会で知り合った鈴木さんが待っていてくれ、喫茶コーナーでお茶をいただき簡単な事前打ち合わせを行いました。

 愛媛県看護連盟南予支部という聞いたこともない大層な名前だけに少し緊張気味でしたが、喫茶に集まる人々が「若松さんの本を読んだ」とか「若松さん少し痩せましたね」と言い寄ってくるものですからすっかり打ちとけてその気になってしまいました。

 会場は結婚式の披露宴をするであろう素敵な部屋で、感心したのは二人掛けの席は前から後まで全て満席という記憶にないほどぎっしりで整然と座っているのです。しかもその殆どが素敵な女性ですから私の張り切りようは相当なもので、日ごろの話とは少し違った切り口で話してしまいました。

 私の娘が助産婦、次男が看護学生ということもあって、また無人島キャンプで知り合ったボランティアの看護婦さんや山本芙美子さんから教わった少しかじりの話しも織り交ぜながら面白おかしく「心豊かに生きる」という演題で90分間楽しい話しを話しましたが寝る人もなく終始和やかに話を終えました。

 それにしても看護関係の仕事は大変だと思います。命を預かる補助的な仕事ですが24時間体制で働かなければなりません。娘が日勤、準夜、深夜など3交代でバトンをつないでゆくのです。ミスの許されない職場だけに緊張もするでしょうし、娘のように家庭を持っているとこれまた心労は耐えないようです。わが家もそのお陰で孫の面倒を見なければならない親馬鹿ぶりを発揮していますが、親も子も、ましてや孫もそれぞれに大変なようであります。女性が外で働くことが当然と言わんばかりの社会風潮はこれからも続くものと思われますが、旦那の協力もこれまた必要とされているようで、私のような古い時代の人間は役に立たなくなりつつあるようです。

 喫茶コーナーで紅茶をいただきましたが、その席には「ご自由に食べて下さい」と篭にみかんが盛られていました。そのみかんの美味しかったことは格別でした。宇和島地方といえば吉田町など全国有数のみかんどころですから、美味しいのは当然かもしれません。でも来所者に地域特産品でサービスをするこの太っ腹なところが南予のおおらかさでしょうか。こんなPRも面白いと思いました。

 ほのぼのとした気持ちで北西の風の強くなった法華津峠を越え、帰りに大洲青少年交流の家に立ち寄りました。私が実行委員長を務める「大人を考えるフォーラム」のが間近にせまっているのでコーディネーターとして事前打ち合わせをするためです。運良く四国各地の青年団事務局の面々が立ち寄っていて、青年談義に花を咲かせました。

  「北西の 季節風吹き 始めたる 宇和島訪ね 話し花咲く」

  「看護師と 名前を変えた 人々が 集う会場 華やかでした」

  「散髪も せずに出かけた 男前 いやいやこれは 女前です」

  「これ程に 人に会いたる わが身でも 今日も初めて 会う人ありて」




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shin-1さんの日記

 役場を退職して1年半を越えたというのに、私の元へは相変わらず沢山の郵便物が届いています。昨日も市役所双海支所へ行ったところ、教育委員会の職員に呼び止められ、「若松さん郵便物が届いていますよ」とかなりの量の郵便物を手渡されました。教育委員会には私の私書箱のような場所まで作ってくれていて、支所へ行く度に持ち帰るのですが未だに教育長という肩書きもあるようですが、過去は中々捨てきれないものだとしみじみ思いました。講演の依頼や講演の肩書きも元教育長などと書く人もあるようですが、元や前などの名前など何の役にも立たないし、存在しない過去の名前にすがって仕事をするほどいやらしいことはないと自分を戒め、人間牧場主やどうしても使いたいときは愛媛大学非常勤講師などを肩書きにしています。先日も「あなたの最終学歴は?」と電話で尋ねられましたので、「最終学歴などを聞く所へは行きません。どこを出たかではなく、何をしてきたかでもなく、何が出来、何をしようとしているのかが人間の値打ちでは?」と問い詰めたところその人は恐縮して、「えらい失礼なことを申しました」と訂正されました。日本人はやはり肩書きに弱いようです。

 数日前地元の新聞が編集しているaccrete(アグリート)[共生]という雑誌を見つけました。後から読もうと食卓の上に置いてたのですが、残念なことに妻は紙ごみとして既に処分していたのです。出入りの「えひめ地域政策研究センター」へ行った折、見せて欲しいと頼んだところ、ここでも紙ごみとして梱包された後でした。お願いして処分される運命のゴミの中から取り出してもらい持ち帰ったのです。

 その薄っぺら委雑誌「風の散歩道」に、目の覚めるようなマリンブルーの海を背景にした双海町串駅付近の鉄橋の様子が紹介されていました。この写真の原風景は全国の各駅に張られる「青春18切符」のキャンペーンポスターとして紹介されたこともあって一躍有名になったカメラアングルなのですが、写真もさることながら大早直美さんの記事が何とも素敵な表現だったので大切に保管しようと思いました。何故ならこれまで色々な雑誌や新聞でまったく触れられていない予讃線存続への私の思いを代弁しているように思えたからです。

 ー前略ー『速さを求め、日本列島は新幹線や高速道路をはじめとした高速輸送網を張り巡らせてきた。鉄路や道路は都市と都市を結び、あるいは人や物資を都市に集約する集約するための流露となって、全国各地を結ぶ。一見、僻地の人たちにも便利さをもたらすかに思われた施策の数々は、地元の期待とは裏腹の「ストロー現象」を起こし、過疎化を進めた村、さらには失われてしまった集落さえある。美しい景色、長閑な自然に恵まれた村が、今も日本のあちらこちらで、静かに消えていく。

 しかしこの美しい景色には、素晴らしい価値がある。そう教えてくれるのが、伊予市双海地区の試みである。串、下灘、いよ上灘そして高野川の各駅、海をすぐ目の前にしたこれらの駅を持つ双海地区は「しずむ夕日が立ちどまる町」というキャッチフレーズで、旧双海町から継続して町おこしを行っている。毎夏、海に沈む夕日を主役に開催される「夕焼けプラットホームコンサート」は、今年で二十一回目を数えた。無人化が決定し、やがては路線自体廃止されるのかと危ぶまれた中で誕生したこの企画は、無人駅となった下灘駅を、あちこちから夏を惜しんで集まって来る人々の目的の駅にまでなってしまっている。

 列車は見飽きることのない景色の中を走っていく。コトリと進み、コトリと停まるが吐き出し、そして呑み込んでいく乗客は、明らかにその土地の人々に思われた。この路線は、通勤、通学、買い物などの生活の足なのだ。折りしも夕刻、部活帰りであろう高校生たちのグループがにぎやかに乗り降りしていった。通学の朝に夕に利用する彼らは、この路線にどんな思い出を刻むのだろうか。』

 青文字の文章は凄い文章だと思いました。浅学ながら文章を毎日書いてる私としては見習いたい描写です。やはり才能の違いでしょうか。

  「何気なく 開けたページが 目に留まる ふるさと上手く 書いて感心」

  「紙ごみに なりゆく雑誌 命乞い 手元に置いて しばし眺めぬ」

  「ガタゴトと 毎日走る 列車だが 存続危機を 乗り越え今に」

  「見る人は 見てる吾らの まちおこし されど今では 跡継ぎもなし」  

  

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shin-1さんの日記

○昔の名前の名刺ではない名刺

 今日は私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議の運営委員会が持たれました。二月に一回のこの会議は、間近に迫った行事の運営や近況を報告しながら自らの意識を高める大切な会議です。この会議のお世話をもう二十年もやっていると、余り変化の内容に見える団体でも去る人来る人、また亡くなった人など様々な人間模様が浮かび上がって結構楽しいものです。

 今日の会議に飛び入りで今は合併して愛南町となった旧御荘町の山岡強さんが久しぶりに顔を見せてくれました。彼は旧まちづくりセンターへ2年間出向職員として派遣された頃知り合い、えひめ地域づくり研究会議の事務局としてお世話してもらった経験を持っており、膝つき合わせて策を練った昔が懐かしく感じられました。彼はその後役場に帰り、音信は年賀状程度のやり取りでしたが、道の駅に出向していたこともあって、折につけ何かと気になる存在でした。

 私と彼との間柄を考えれば名刺の交換など必要ないと思いましたが、私の近況と彼の近況がかつてとは違っているので、名詞の交換と相成りました。彼の名刺をもらった時、名詞の表面が何かごつごつしていることに気がつきました。名刺の表面に、愛南町の特産品であるヒオウギ貝の稚貝を貼り付けているのです。黄色い愛らしい稚貝は海のイメージが連想され、さすが観光振興の部局にいるだけのことはあるなあと感心しました。

 よく見ると私以外の人と名刺交換している別の名刺にも少し違ったヒオウギ貝の貝殻が貼り付けられて、オリジナルな表現をしていました。ある人が「この名刺楽しいけど持ち運びにかさばるよなあ」と感想を述べましたが、「それが難点なんです。でも私の名刺は名刺のケースの一番上に置いてください」と話していました。

 毎日のように何気なく交換する名刺の数々、ややもすると埋没して二度と浮かばれない名刺の何と多いことか、その感想は退職時に私が畑で焼いたダンボール数箱分の膨大な名刺が物語っています。重要だったり余程特徴がないと相手に覚えてもらって保存してもらうことは難しいのです。

 私の名刺もイラスト入りなので随分目だって、最近では名刺の売れ行きも好調なので、この分だと最初の計画通り名刺一枚100円の販売事業に取り組むのもそう遠いことではないと思っています。「えっ名刺を売るのですか」はいその通り、役所を辞めて給料の出なくなった私には名刺一枚も疎かにすることは出来ないのです。実はもう名刺を販売した経験があるのです。ある集会が終わった懇親会の席上、この話をしたら「その話し乗ろうじゃないの」と声を掛けてくれ、声を掛けた人がさっさとポケットマネー100円を集めてくれたのです。その金額は3700円、つまり37人の人が集まっていたのでそうなりました。私はこのお金を名刺貯金として大切に保管しています。このお金は名刺がなくなって次に作る時出資したいと思っているのです。

 名刺で金儲けなんてと呆れる人の顔を見ながら、今度はどの懇親会をターゲットにしようか虎視眈々です。だって酒を飲むとみんな頭が馬鹿になり、金銭感覚がなくなるからです。だって縁もゆかりもない飲み屋に5000円も払うのですから、縁もゆかりもある私に100円くらいの投資をしてもバチは当りますまいが・・・・。てな調子でたった一枚の名刺の話題をこうまで楽しい文章にして今日のところは夜もふけてきたのでお休みなさい。

 私のブログを毎日読むという同じ伊予市市民の門田さんの感想が聞きたいね。

  「名刺見て ブログの話題 今夜書く 夜が遅いと 諭す妻見つ」

  「毎日々に ブログ書く癖 つきました 随分早く 書けるも特技」

  「この名刺 一枚十円 売りましょう そんな商売 繁盛するかも」

  「おい俺の 名刺一枚 買ってくれ 売れた売れたよ 三十七人」

 

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shin-1さんの日記

○町内を回る

 私は300戸足らずの小さな自治会の区長(自治会長)をおおせつかっています。小さいといっても旧双海町では最も大きな自治会で町内には27組もの小組みという組織があります。毎月月初めにはこれらの組長さん宅を回って、市から届く広報を配布しなければなりません。本来なら小回りのきく愛用のヤマハメイトで家々を配るのですが、次男が病院の実習中なのでその単車を貸しているため、今朝は妻の軽四愛車に重い広報を配達順番に積んで出掛けました。早朝5時過ぎの町内は田舎らしく早起きの人が多く、あちらこちらで「お早うございます」と元気なあいさつを交わしながら配って回りました。今朝の外気は何時になく寒く吐く息も白くなるほど冷え込んでいました。それでも約1時間を小走りしたお陰で随分体が温まり、これも役得かと思いました。

 役場を辞盆踊り、秋祭りなどの恒例行事が一段落したこの頃は余計そんな感じがして、自治会長としての責任もあるので少し暇を見つけて町内を回らなければならないと思ったりもしました。

 私の町内でも近頃は独居老人が増えているようです。妻が民生委員をしているので、わが家の入り口にあるお地蔵さんの縁日を毎月21日と決めて、その日は妻が赤飯を作り近所にお接待と称して近所や妻の受け持ち区域に住んでいる独居老人宅へ私が宅配するのです。「おばあちゃんその後いかがですか」と近況を聞くと、まるで日向ぼっこの亀のように玄関からちょこんと首を出し、「いつも気をかけて下さりありがとう。お陰で何とか元気です」と会話を交わすのです。

 先日も面白い会話を交わしました。「若松さん、役場を辞めたそうなが選挙に出たらどうぞな。私らはいつも色々してもらって何のお返しも出来ん。選挙にでも出たら一票入れてあげるんじゃが」と、まあこんな会話です。長話も出来ないので、「選挙に出る時には頼みます」と笑いながらその場を立ち去るのです。選挙になど出る力もその気もないのを知っての話でしょうが、面白い表現をするものだと一人苦笑しました。

 田舎の高齢化はもう数年前から問題になっていて、高齢化は田舎だけかと思いきや、何と大阪の千里ニュータウンなどかつては若者が住んだ街が急速に高齢化して社会問題になりつつあるというショッキングなニュースが、今朝の新聞で報じられていました。確かに半世紀近く経てば20歳の青年は70歳になるのですから当然かもしれません。しかし高度成長に沸いたその頃は50年後の未来年齢なんて誰も想像しなかったに違いありません。人は誰でも確実に一年で一歳歳をとるという現実や、歳をとると車に乗れなくなるという文明の裏側を忘れてしまっているのです。その歳になって何とかしろと文句をいったって誰も助けてくれないのが世の中なのです。若い頃は何でも自分でできるから個人主義がまかり通ります。誰にも束縛されない現代の自由な社会はまさにそれを象徴しているようです。しかし歳をとったり体が不自由になったり、震災や災害にあった時は近隣の力添えがなければ決して一人では生きてゆけないのです。そのことに気がつくのが遅いと人間は人生の仕上げの大切な時期に不幸になるという末路は、今までの小説や身の回りの事例でよく分るのですが、まだそんなことに気付かず相変わらず愚かな暮しをしている人々が何と多いことか・・・・・・。

 「人は何のために生きるの」と訪ねたら、「生きるために生きる」「食うために生きる」「働くために生きる」「人々の幸せのために生きる」「目標を成就するために生きる」「子孫繁栄のために生きる」など人それぞれでしょう。今からでも遅くはありません。ちょっと立ち止まって、鏡に自分の姿を写しながら、自分に向かって「何のために生きるか」「誰と共に生きるか」などを自問自答するのも

大切かもしれません。秋は人恋しい季節です。

  「街歩き 会話重ねる いいもんだ ばあちゃん元気 お陰様です」

  「三十年 後には親父の 歳となる あんなになるのか 少しいたわり」

  「よもぎ餅 隣近所の おすそ分け ハアハアフウフウ 焼いてやきもち」

  「風邪気味で 親父隠居に 遠慮気味 俺より丈夫 昔鍛えし」 


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