shin-1さんの日記

○いろはカルタ

 私たちが子どもの頃の正月の遊びは凧揚げやコマ回しなど、戸外で遊ぶことが多かったことを覚えています。その凧も山から切り出した竹を割って竹ひごを何本も削り、紐で縛って和紙を糊付けして丸一日で仕上げた手づくりです。新聞を細長く切り何枚も張り合わせて長い足を作り、凧を背中で弓のように張って風受けがよいように調節するのも子どもの腕ででした。父親から貰った魚網修理用の糸をつけ、助走をして冬空高く揚げた凧はまるで空に吸い込まれてゆくような錯覚さえ覚えたものです。時には電線や木の枝に引っかかり、せっかく造った凧を台無しにすることもありましたが、肥後の守というとっておきの小刀が味方して何度も作り、自分は凧作りの名人ではないかと思うほど優越感に浸ったものでした。

 コマは喧嘩ゴマという重厚な鋳物のハマがついているものが好まれ、歳の多い高学年になるとそのコマでコマ喧嘩や長い間回す時間を競ったりしました。友達や先輩の中には器用なものがいて、まるで曲芸人のようにコマを手のひらに乗せたりコマ糸であやつったりして遊びました。特にコマの表面にクレヨンで色をつけ、回る色移りを競うなど美的感覚も競い、コマ一つで何種類もの遊びを考案したものです。

 この他にもパッチンやマーブル、ネンガリなど高々100円程度の小遣いをポケットに握り締めて店先を行ったりきたりしながら小遣いで買えるものの品定めしたのも懐かしい思い出です。

 女の子の遊びは男の子の遊びに比べおはじきや双六、いろはカルタなど室内の遊びが多かったようですが、特にいろはカルタは今にして思えば多くの難しい言葉が詰まっているのに、意味も分らず「律儀者の子沢山」なんて大声で詠んでは取り合ったものです。

 昨日孫を連れてデパート内にある本屋さんへ立ち寄りました。昔は少年向きの雑誌に正月用は付録が沢山ついていて、その付録欲しさに買ったものでしたが、孫はカルタの前で足を止め、「おじいちゃん子のカルタ買って」とせがむのです。子どもの遊び方はは変わってもカルタは沢山のバリエーションが用意されていました。孫が手に取ったのはいろはカルタではなく恐竜カルタでした。恐竜に凝っている孫はこれが欲しいとせがみ千円をはたいて買いました。孫は得意になって店員さんから手渡された袋を持って帰り早速カルタで遊びましたが、私にはトンチンカンな恐竜の名前も孫は驚くほどよく覚えていて、「おじいちゃん知らんの?」てな調子です。トリケラトプスやティラノサウルス、ステゴサウルスなど馴染みの名前が出る度に僅か4歳の孫に62歳の私がかわないのです。

 「犬も歩けば棒に当たる」「せいてはことを仕損じる」「老いては子に従え」「嘘から出た誠」「論より証拠」「骨折り損のくたびれ儲け」「楽あれば苦あり」「身から出た錆」「「去るものは追わず」「割れ鍋に綴じ蓋」「「塵も積もれば山となる」などなど、子どもの頃に覚えたいろはカルタの諺は今も暮しの中に生きずいています。

 明日はお正月です。忙しい年の瀬もやっと越せそうです。今日は妻の作ったおせち料理の余分物を食べながら、また年越しそばを食べながら、お産で旦那の実家に里帰りしない娘と孫、長男夫婦、次男、それに還暦の同級会のために里帰りした弟夫婦、親父と久しぶりに賑やかな越年です。警察官の三男だけは仕事の都合で3日の帰省になりそうですが、今年もいい一年だったとしめくくり、ブログの書き収めとします。

  「いろはなど 今は昔の カルタです 孫に恐竜 カルタで負ける」

  「正月の 遊び随分 変化して 子どもらゲームで チンプンカンプン」

  「穏やかな 天気恵まれ つもごりを 掃除で過ごす 何処か晴々」

  「また歳を 一つ取るかや お正月 目出度いけれど 目出度くもなし」



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shin-1さんの日記

○年末のお客様

 今年の年末は喉と腰を痛めたせいで家にいることが多くなり、その分電話やメールで「お会いしたい」とアポイントが多くありました。年末は家の大掃除や仕事の後片付けで普通の人は忙しいはずですから、会いたいと言ってくる人は独身で家庭を持たない人か単身赴任で帰省しない人くらいなものでしょうし、家庭を持っている人だったら相手が急がしかろうと思って控えるのが普通なのです。でもこの2~3日の来訪者はそんなことお構いなしにやって来るのです。でも一日中家で忙しいという訳でもないので、来たら来たで結構楽しく話し込んでしまうのです。

 今日高知大学の学生で双海町出身の堀川奈津さんがわが家にやって来ました。彼女は3回生なのですが一年後にに迫った卒業後の夢についてお互いで話しこみました。彼女は高校の時一年間休学をしてフランスに留学した優秀な変わり者です。親の元から離れたい気持ちがあって大学は県外を選んだようです。人文学部に在籍しながらインターンとして奈半利の町のまちづくりに半年関わり、地域の人に愛されて珊瑚の海や自然学校のある山の上での生活体験が彼女の生き方に大きな影響を及ぼしたものと思われます。先日私のメールに便りが入り、今後の身のふり方について既に農家から農場と空き家をセットで借りて準備をしているとのことでした。彼女は高知に行って坂本龍馬のおおらかな、それでいて将来を見据えた生き方を学んだのかも知れないとふと思ったりしました。

 私の町にこんな凄い若者がいるなんて今の今まで気付きませんでした。多分これから親や社会や他人に何度もはじき返されるのでしょうが、挫折することなく人生を突き進んで欲しいと思っています。でも親の気持ちを考えると優秀な女の子ですから月並みに大学を出て月並み以上の安定した会社に入社し、月並みな青春時代を送り月並みな結婚をしてささやかな幸せを追って欲しいと願う部分もあります。あどけなさの残る容姿の何処にこんなパワーが潜んでいるのか不思議です。

 彼女とは四十歳歳の離れた私ですが、彼女と話していると私の方が教えられることが多く、今日も私塾本川談義所講義録「渓声山色」という読み古した一冊の本をカバンの中から取り出し、私に読むよう勧めてくれました。パラパラと捲りながら正月休みに読んで見たい本のようだったので借りることにしました。やはり冒頭に坂本龍馬の下りがありました。なるほどなと思いつつ彼女を実家のある満野まで送り届けましたが、聞きしに勝る才女です。

 最近言い生き方をしている若者に出会うことが少なくなりました。私たちの年代には老いてなお元気で若々しい人が沢山いるのに、若者から若者らしいテレパシーが伝わってこないのは何故でしょうか。若者よしっかりといえばそれは年をとった証拠だと揶揄されるであろうから余り言いたくはありませんが、それでも若者の若者らしくない言動にはため息すら漏れるのです。そこへゆくと堀川奈津さんという女性は考えもパワーも全て私のメガネにかなった久々の人かも知れません。彼女がいい人間に育つよう陰ながら支援したいものです。

  「この歳は 俺など単純 何もなし しっかりしてる 育てやらねば」

  「太平洋 見ながら育つ ことの意味 龍馬そのまま 俺は内海」

  「幸せは 何かと問われ 禅問答 己が心の 決めるものなり」

  「この本を 読んでと差し出す 一冊に 己が生き方 書いてあるのか」 


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○新聞のスクラップ

 昔はよくやった新聞のスクラップもさすがについ最近は余りしなくなりました。新聞のスクラップは目的を持つからこそ出来るのであって、今のようにインターネットで情報が簡単に取れるようになると、スクラップブックを捲って参考にするような悠長なことは中々できないのです。それでも双海町に関係する出来事くらいはとスクラップしているのですが、この整理と置き場に困ってこの一年間は休止状態なのです。

 昨日広島県福山市の平井悦夫さんから今年最後のときめ木堂の悦びタイムス153号ハガキ通信が送られてきました。平井さんは合併前の広島県新市町の役場職員ですが、ひょんなことから知り合いになり、私の主宰するフロンティア熟の講師としてお招きして以来密接になり、私が福山市の公民館へ講演に行った折にも一ギャラリーとして参加してくれるなど、親交を温めている一人です。彼の凄さはその行動範囲の広さとハガキ通信を153号も出していることです。彼に感化されてというよりは、彼が敬愛するハガキの達人広島県向島の半田正興さんと知り合い、結局は私も芋も続いている一日三枚のハガキを20年間も続けることになったのです。

 彼のハガキ通信に感化されて、私も手書きのハガキ通信を1年365日書き、そのまとめはワープロ時代だったものですから、ワープロのソフトに整理をしていれてありますが、感熱紙での印字しかできないため未だに幻の文章となっています。この本の出版もと思っていますが、何時のことになるか分りません。

 平井さんの今月号のハガキ通信に放送作家和田勉さんの記事が載っていました。和田さんと言えば向田邦子原作「修羅場の如くを演出した敏腕ディレクターという印象が強いのだが・・・・」という書き出しで始まる文章はハガキの短さゆえ想像を掻き立てます。そして和田勉さんの呆老氣展を見て感化されたと書いています。和田勉さんは毎日欠かさず新聞の切抜きを続けているのだそうですが、彼も今は日課として新聞の切抜きに余念のない日々のようです。

 さて平井さんは新聞のスクラップを「何のために」やっているのでしょう。和田さんのような生き方がしたいと思う動機はよく分ります。さらに新聞のスクラップは歴史の断面を切り取って保存することにも意味があります。やがて紙ごみとして消え行く運命にあるものに命を吹き込むことも意味があるでしょう。問題はその活用方法です。

 先日あるおじいちゃんの死んだ話を息子さんから聞きました。そのおじいちゃんは校長先生を最後に退職して悠々自適の生活をしていました。若い頃から写真と新聞のスクラップが好きでその数やおびただしく、おじいちゃんの死後家族が集まって、この写真とスクラップブックの処分について話し合ったそうです。生前中のおじいちゃんの宝物だけに粗末にすることも出来ず、結局は長男の息子さんが引き受けることになりましたが、部屋中にあるこれらの資料は長男の息子さんにとっては最早紙ごみでしかなく、図書館や知人友人に相談しましたが引き取り手がなく、結局はお金を出してリサイクルセンターに紙ごみとして引き取ってもらったようです。

 「死に方を考える」なんてことは、私にとってもまだ先のことかも知れません。でもふとこのおじいちゃんの生き方を思えばよく似た趣味を持つ故に他人事ではないのです。「お父さん、何時死んでもかまわんように身辺の整理を」なんて妻に言われると、「おいおいわしが死ぬのを待っているのか」と思いますが、それでもこのおじいいちゃんのように自分の趣味だった新聞のスクラップがただのごみにならないようにしなければなりません。幸いわが家では親父の趣味を親父の元気なうちから長男たる私が受け継ぎ、息子もよく似た感じで引き継いでいます。

 死ぬ前に新聞のスクラップも片付けておきたいこの頃です。

  「新聞の 切り抜き部屋の 片隅に これはごみです 他の人には」

  「スクラップ 人がやるから 俺もやる 一瞬考え 俺には無理だ」

  「一枚の ハガキ届けて 一五三 積もれば凄い 彼の生き様」

  「表まで びっしり書いても 五十円 同じ値段で 彼は得する」

 

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shin-1さんの日記

○寒くても花は咲く

 「寒いねえ」。朝晩のあいさつはこんな言葉で始まる昨今ですが、冬の寒さの中でも花をつけて咲こうとする植物があるから不思議なものです。正月の床飾りのため人間牧場へ切花を取りに息子と出かけました。あれほど雑草に覆われていた人間牧場界隈も11月の草刈から2ヶ月が経つというのにあの頃と同じで、草丈も低く風になびいていました。正月前のお墓参りのため親父から頼まれたシキビを一束切り、梅林に行きました。今年60キロも収穫した梅の木は葉は落ちていますが変わって梅の蕾が沢山ついていました。「桜切る馬鹿梅切らん馬鹿」という言葉があるので思い切って大きな二枝を生花用に鎌で切り落としました。枝振りの見事さを思うと、さぞや床の間に似合うだろうと想像しました。妻はお花の免許を持っている近所の友人に毎月一回お花の活け方を習っています。故に自己流ながら毎年正月には立派な生け花が誕生するのです。

 人間牧場の直ぐ側のわが家の畑には自生の水仙が沢山葉っぱを出しています。青々とした葉っぱの中から何輪か花の蕾を持った水仙が冬風に揺れながら寒そうに立っています。ここら辺では水仙の花を何処でも自由に取ることができるので、中には商売人までが正月前の高値の時期に取りに来るので、あたり一面に取ったけれど売り物にならない花が散乱していましたが、私が毎年取るとっておきの場所はさすがに手も入らず、軸の短い水仙を30本余り収穫しました。また林の中に行くと小鳥が仲立ちして繁殖したであろう南天が真赤な実を付けていましたのでそれも3本切り、後は若松に新芽をわが家の裏山から調達すれば全て自家製の金をかけない正月飾りが出来上がるのです。

 「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ、いつか大きな花が咲く」という言葉を思い出しました。梅も水仙も南天も全て寒い日までに花を咲かせる準備を人知れずしていたのでしょう。そう思うと梅の花も水仙の花も南天の真赤な実もいとおしい感じがしました。さて何も咲かないこの冬休みを私はどんな根を下へ下へ伸ばしたのでしょう。日ごろの節制が足らず腰を痛め、喉まで痛めるというアクシデントに見舞われ、根を伸ばす余裕などまったくありませんでした。お陰で養生の日々を少しだけ本を読むことに専念できたのは救いですが、まだまだ修行が足りません。

 残り少なくなった日捲りカレンダーの片隅に「万策尽きたとき、諦めないという妙案がある」という言葉を見つけました。そういえばかつての夕日によるまちづくりも万策尽きた時が何度もありましたが、あきらめないという妙案で乗り切りました。その時は諦めないなんて妙案とも思いませんでしたが、今にして思えば妙案中の妙案だと思うのです。

 寒い日は暖かい場所に居がちです。20度を超えるストーブを焚いた居間で過ごしていると、廊下の戸を開けただけでスーと冷機が入って、早く戸を閉めて欲しいと思います。ところが寒くても戸外でいると寒いから体を動かすようになり、体内からエネルギーが生まれポカポカしてくるのです。部屋の中で鼻が出て仕方がないのに外で働くと意外と鼻は止まったりするのですから不思議です。

 子育ても温かい場所だとモヤシのような子どもが育ち、少し寒い場所で育てた方がいいのかも知れないと冬休みでわが家に来ている孫を連れ出して裏山に散歩に行きました。木切れを拾ってチャンバラごっこをしたのですが、孫は夢中になって楽しく遊びました。さっきまでストーブの前で寒い寒いと連発していた孫とはまるで別人のようです。「おじいちゃん。また明日チャンバラしよう」とねだる有様です。テレビも本もいいけれど、自然に触れたり創作の遊びをさせることは親の責任かもしれません。

  「色白の 孫の姿は もやしっ子 雑草みたいな 元気が欲しい」

  「寒くても 戸外チャンバラ 面白い 明日もしようと 孫にねだられ」

  「華やお茶 金をかけずも 楽しめる 梅に水仙 南天若松」

  「ああ今日も 腰の痛さに 悩まされ 整体通う 明日こそ直れ」 

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shin-1さんの日記

○北西の季節風が吹く頃

 「正月が近いと言うのに暖かいねえ」と、朝夕のあいさつで交わしていた天気が一昨日から一変し、四国沖を通過した低気圧が関東を通って北海度沖で猛烈に発達し、東日本では季節外れの洋風を伴った大雨となったようです。台風や大雨は四国や九州の出来事と思っていたのに、最近では東日本がこうした被害に見舞われているのもやはり温暖化という天候異変なのでしょうか。

 それにしても昨日今日の北西の季節風はかなりのもので、瀬戸内海といえど北西に面した伊予灘が広がっている双海町の海はこの冬一番のような大時化で、「もがる」という言葉がぴったりするような大波が押し寄せています。当然海岸国道378号線は越波高潮現象で、大きな波が国道を走る車の上からまるでシャワーのように容赦なく降りかかるのです。町内にある豊田漁港と上灘漁港ももう年内は漁に出れないでしょうが、正月前の稼ぎを当てにしていた漁師さんにとってみれば当てが外れたようで、少し湿ったお正月になりそうです。双海町特有の黄色い船は全てロープできつく係留され深い眠りにつくのです。船の舳先には風波を避けてカモメが数十羽、まるでカモメの水兵さんの歌のようにお行儀よく並んで休んでいました。昨晩見たテレビ画面の天気図だと、等圧線の立て込みが尋常ではなく、2~3日は吹くことでしょうから、寒空での正月準備になるかも知れません。幸いなことにこの季節風で先日干した切干大根が一日で乾き、後は穏やかな日和の仕上げを待つのみとなりました。

 昨日で官公庁も御用納めとか、今日からはお休みが続きます。私の冬休みは2~3日前から痛めた腰の具合が思わしくなく、この3日間隣町の整体医院に通って治療を受けていますが、回復の兆しが見えたようで少し安心していますが、体が悪くなってしみじみ思うのは健康の有難さでしょう。ズボンをはくことも車を運転することもままならない腰痛にはほとほと参りました。それでも年賀状を仕上げ、後の大仕事は大掃除としめ縄作りです。幸い長男と次男の息子が手伝うと言ってくれていますが、大掃除は采配すれば出来てもしめ飾りは私でないと作れないので、今日は捻り鉢巻で頑張ろうと思っています。


 昨日はまだ仕事が続く娘のために孫を幼稚園へお向かいに行きました。孫の通う幼稚園はもう冬休みに入っていますが、娘のような働く女性のために子どもを預かり保育をしてくれるのです。それでもいつもは蜂の巣を突付いたような幼稚園も散閑としていていて、年齢を問わず居残り保育室の一室に集められていました。親を求める寂しさでしょうか、窓の外を眺めながら親を待つ子どもの姿も見られ、迎えに行くと一斉に子どもの視線が迎え人に向くのも何かしら侘しいものです。孫は朝母親からおじいちゃんが迎えに行くからと言い含められているので、馴れた手つき顔つきで私に愛嬌を振りまきます。孫にとっても今日から冬休みなので安心したのか「今日から冬休み」とはしゃいでいました。娘は二人目の妊娠で正月恒例の夫の家への帰省を諦め、今年はわが家での越年正月となり、夫と別々のさみしい正月となりそうです。今年の正月は例年になく賑やかな正月になりそうですが、妻は今から嬉しいため息のようです。

  「北西の 季節の風が 吹き荒れて 切干大根 寒そ縮まり」

  「船舳先 白いカモメの 羽休め 餌も食わずに 日がな一日」

  「腰痛で じっと我慢の 暖守り 雨戸を叩く 風ぞうらめし」

  「恐竜を 中立ち遊ぶ 孫と俺 何時しか童心 我に帰りて」  

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shin-1さんの日記

○古くなったラジカセテープとビデオテープ

 私たちの年代はもう古くなったのでしょうか。目覚しい技術革新の中に生きていると若い人たちとの間には、何かリズムが合わなくなったような感じがするのです。最近までソニーのラジカセをカバンにしのばせ、耳にイヤホンをあてがって馴染みの音楽を聞いていたのに、最近の若者の前では「ラジカセなんていつの時代の物?」なんて感じで、ラジカセを持ち歩くことすらためらうような社会です。私の書斎にはかつて流行った歌を録音したテープや、色々な人の講演録が沢山書棚の引き出しに詰まっているのです。「一年使わないものは捨てる」ことが常識になった整理整頓のことを思うと、最早これらのテープは排気処分にした方がいいのですが、それらのテープ一本一本にそれぞれの思い出があって中々捨て切れません。私や役場に35年も勤めていたし社会教育やまちづくりの現場で取材を受けた私自身が出演しているものも沢山あり、せめてこれらは生きた証にと取っているのですが、まあ役に立たない昔懐古でしかないのかも知れません。

 もう4~5年も前のことでしょうか、私はNHKラジオ深夜便という番組に出ました。早朝4時から5時までの「心の時代」という、今も視聴者の多い番組に2夜連続して出たのです。ふとそのテープのことが頭に浮かんだので書棚の引き出しから取り出してデッキでかけてみました。テープを入れることさえも忘れてしまっている操作をすると、若い(当時は50代)私の弾んだ声が再生されました。夕日を地域資源としてまちづくりに熱中したあのころの姿がリアルに語られているのです。当時二日間で2時間のラジオ番組でしたが、全国から500件に余る電話や手紙をいただき、毎日お礼のハガキを書いたり自費出版の本を送ったりした忙しい日々が懐かしく甦ってきました。

 磁気のビデオテープももう古くなりつつあります。今やDVDが主流を占めるようになって、ビデオテープの数々は既にダンボールに入れられてお蔵入りとなっていますが、それでもお気に入りのテープはまだ十本余り書棚にあって、時々思い出したように見ています。

 3日ほど前、一枚のDVDが送られてきました。先日松山のパレットというリビングホームで私が話した様子を、元NTT職員だった菅本さんという方がカメラを回し、それをDVDに編集をして送ってくれたのです。表面には私の顔写真まで焼き付ける手の込んだもので、個人の技術もここまで進んでいるのですから、磁気のビデオテープなど昔々の物語になりつつあることを実感しました。

 それでも先日のNHKふれあいミーティング3000回記念番組はスタッフの方から送られてきたのは磁気のビデオテープでした。

 こうして私たちの知らない世界は今後もどんどん広がって行くのでしょうが、捨てきれないカセットテープやビデオテープに収められた小さな歴史はどのように保存すればいいのか、正直明確な方向はまだ出ていないようです。暇が出来たらこれらの記録はDVDに入れ替えて新しい時代に対応できるものとして保存したいものです。

  「テープ類 今は古いと 見捨てられ ごみに混じって 焼却処分」

  「若いねえ 昔の俺が 映ってる ビデオ眺めつ 時の流れを」

  「あの人も この人も死に 今はない だけど映像 何故か生きてる」

  「金かけて 買ったつもりの レコーダー 使うことなく 部屋の片隅」  


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shin-1さんの日記

○やっと年賀状を書き終えました

 昨日から腰の具合が変で、どうも昨日親類の漁師さんから「魚を取りに来い」と電話連絡があり、雨の中をいただきにあがりました。その時トロ箱を持った瞬間違和感を感じたのですが、大したこともないと思っていたら午後になって立ち歩きが難しくなり、ぎっくり腰で通いなれた整体へ行って揉んでもらったのですが、今朝からまたぶり返しているようで歩きにくいのです。それでも今年の大仕事である年賀状を出さなければならず、約800枚の年賀状を整理してインターネットに入力したものを補正して、印字することになりました。朝から腰の痛いのを我慢しつつやっていたら余計痛くなって、只今午後3時、印字が終わった途端に動けなくなって今は椅子に座って外を眺めながらブ痛い気休めにログを書いています。それでも年賀状の終いができて今日は充実した一日でした。妻が毎年約1000枚の年賀状を購入してくれていましたが、昨年の退職を期に半分の500枚にして昨年は出しましたが、書き始めると足らなくなって年賀状ではない市販の郵便ハガキでお茶を濁したものです。今年は300枚増やして800枚にしようと、古い人の名前を削ってしまいました。

 今年の正月には五百枚+100枚だしただけなのに1000枚も舞い込んで、不義理をした人も随分いて文句を言われた人も多かったと、妻が300枚足して800枚購入しました。いちいち書くのは大変ですから、裏も表もパソコン筆王ソフト仕上げです。味気ないものと言われても出さないよりましだと割り切って作りました。

 私の年賀状は人のとは随分違っていて、昨年自分自身に起こった10大ニュースを取り出して、「私の青春の履歴書」として書いています。ですからやたらと文字が多く、自分の変種技術や印刷技術では一枚のはがきに書き込めないのです。ですから馴染みの印刷屋さんにお願いして作ってもらいました。その印刷が遅ればせながら今朝届いたのですから、焦るはずです。でも今年一年もこの青春の履歴書を見るとあれやこれやあったもんだとしみじみ思うのです。その内容については年賀状が届いてのお楽しみなので書けませんが、もう10数年このスタイルですから私の年賀状を10枚見ると私の10年間の仕事や暮しが分るという算段なのです。

 それにしても数日前から今年一年でいただいた名刺やハガキを繰ってみると今年も大勢の人に会っているものだと感心します。一年間に貰った名刺は書棚の中に3段も高く積まれていますし、手紙やハガキ類も始末に困るほどの量なのです。その中から年賀状を出すべき人を選ぶのは大変でこれまた頭を痛めました。

 腰は痛い、年賀状は締め切りギリギリ、おまけに何人かの炉予期せぬお客さんがひっきりなしにやって来て今日は忙しい一日でした。出来上がった年賀状の分厚い束を次男に郵便局へ投函するよう託し、今年の大仕事を終わりました。

 後は正月までに餅つきとしめ縄作り、それに家の外の窓拭きと私の決められた仕事が沢山あります。頭が痛い年の瀬です。

  「年賀状 パソコン入力 便利です でも何となく 味気ないです」

  「来年は こんなに出すまい 思いつつ 早くも十年 あっという間に」

  「住所録 繰りつつ顔を 思い出す あの日あの時 あんな出来事」

  「腰痛め つくづく歳を 感じつつ 目出度き春を 少し滅入って」 


 

 

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shin-1さんの日記

○言うたらいけんこと

 世の中は面白いもので、「言うたらいけん」と釘を刺したことが人の口から口へと言い伝えに広がり、「言うたらいけんと言われてるが、あんただけには教えるけど、人には絶対言わないように」と、既にその人は言うたらいけんことを何のためらいもなく言いふらしているのです。特に田舎はコミュニティの人間関係が深いため、言うたらいけんことを腹持ちすることが出来ず、ついつい口から出てしまうのです。特に特に言うたらいけんことがある人の女性関係のようなゴシップ話だと、その話に尾ひれがついて最初の話とは似ても似つかぬ思わぬ話となって独り歩きするのです。

 最近ノロウイルスなる感染胃腸病が病院などで感染し大きな社会問題になっていると新聞やテレビで報じられていますが、その感染源は特定できていないにも関わらず、「牡蠣が原因かも知れない」という風評がまたたく間に日本全国に広がり、ついには牡蠣が売れないという社会現象になってしまいました。牡蠣の養殖業者にとっては正月前の鍋物の美味しいこの時期に牡蠣が売れないことは死活問題となっているのです。かつてO157が流行した時カイワレ大根が原因だと言われて風評被害となり裁判沙汰になったことは記憶に新しい風評被害でした。昨今私の元へ牡蠣がお歳暮として宅配便で届けられていますが、そんな風評被害など何処吹く風で加熱すれば十分と牡蠣の好きな息子はレモン汁をたっぷりかけて牡蠣を堪能しているのです。

 私たちの身の回りにはこの風評を撒き散らすお喋りな人、つまり口の軽い人が何人かいます。「あの人に言えばその日のうちに集落の殆どに話が広がる」と言われる人です。先日も神社の総代をしているものですから、氏神様の正月用お札を25軒ほど歩いて配りました。途中その口の軽い人に呼び止められ立ち話をしたのです。その人の口癖で「ここだけの話であなたにだけ話すのだが」と麗によって前置きされ、最もな噂話を聞かされました。私が「その話誰から聞いたん」と情報源の真意をただすと「みんなが言いよる」とぼかすのです。私が「みんなって誰と誰」と話しに食い込むと、「まあこの話は私に聞いたとは絶対言わないようにしてくれ」ととぼけて去って行きました。まあこんな調子であの人は私に話したと同じ噂話を面白おかしく広げまわっているようで、帰り道その人は待った区別の人と私と話したような立ち話をしている姿を目の当たりにしました。

 正直こんな人は信用の出来ない人です。ですからこんな人は選挙の度に上手く利用され、「あの人は通るかもしれない」という噂話を流す人として悪用されるのです。言ったらいけないことを言う人に限って、言わなければならない時に言えないものです。本当の人間の値打ちは言ってはならないことを言わず、言うべき時にはっきりと主張を述べれる人だと思うのですが、相変わらず田舎の口は広がりを見せているようです。

 私もそんな私自身の風評に驚いたことがあります。もう7年も前のことです。私は健康診断で胆嚢にポリープが見つかり入院手術をして胆嚢を取りました。癒着していたこともあってかなり病気が進行していたようでしたが、幸いなことに全て摘出して一命を取り留めました。その後順調に回復したかに見えたのですが、私の体重は最高68キロまであったのが55キロまで一気に減って、別人と思わせる体型になりました。それを見た人たちが「若松さんはガンかも知れない」と思うのは当然かもしれません。結局前述の口の軽い人たちによってまたたく間に町中にこの話が広がり、「若松さんはガンだ」と烙印を押されたのです。私がその話を知ったのは少し後からでした。ある日私がシーサイド公園の人工砂浜を掃除していると、ある人が「若松さんあんたガンじゃとなあ」と唐突に言うのです。「誰からきいたん」「みんなが言いよる」でした。しかし本人に「あんたガンじゃとなあ」はないでしょう。

 噂はつきもの、噂の標的にされるのは脇が甘いからとも言われます。まあ田舎は情報が少ないから噂話やとっぽ話を楽しむのもコミュニケーションだと思えば腹も立ちますまい。でも人を陥れるような噂話だけは慎むべきなのです。

  「ねえあんた こんな話を 知ってるか 噂話は 犬猫食わず」

  「牡蠣食うて ノロウイルスに なった人 いないはずだが 牡蠣が悪者」

  「ああ俺も 脇が甘いな ガンにされ 噂広まる あの糞親父」

  「この話 広めたいなら あの人に 頼めば直ぐに 町内広まる」

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shin-1さんの日記

○格差社会のはざ間で

 今晩妻と二人で食事をしながらテレビを見ていたら、ニュースの報道特集で大阪西成区愛隣地区のホームレスのことが紹介されていました。世の中は暖冬だと騒いでいるのに夜は5度以下になる厳しい寒さの中で毛布一枚とダンボールで路上生活をしている人が5000人もいるというのです。昔からこの地区は人生の吹き溜まりといわれるように貧民生活を余儀なくされている人が集まり、日雇い作業で得た収入でその日暮しをしている人が多いのです。日本の景気が神武や岩戸景気を抜いたと政府は発表しているのに、こんな社会があるなんて誰も信じ難いことなのです。私も上阪の折一度そのまちの実態を見ようとホームレスの溜まり場である三角公園を通りましたが、折りしも寒い真冬のことでしたので、テレビの光景と同じ場面でした。

 こうした世間から見放された低所得者層に光を当てるべきだと主張するNPO団体は寒空は冷たかろうと食事にありつけなかった人に握り飯を配ったり毛布を配ったりの人助けや、一週間に2度の炊き出しを行っていますが、増え続ける難民にも似たホームレスの人全てに施しは出来ない状態です。府としても夜だけは寒さをしのいでもらおうと仕切りのある大部屋を用意していますがそれも僅かに800人が限界なのです。

 これがCNP世界第2位を豪語する日本かと目を疑うような実態が都会の片隅にはあるのです。彼らの中には夢破れて貧民街に紛れ込む人、リストラされて行く当てもなく仕方なく身を投じている人など様々ですが、最後は見る人もなく死んで行く末路を思うと寒さはことの他身に染みることでしょう。

 最近マグロや高級な和牛の肉がよく売れると犬猫ペットフードの店が、師走の話題としてテレビで相次いで放送されました。マグロや輪牛肉といえば、セレブな人たちの食べ物と思いきや、何とこれが犬や猫の餌として売られているというから驚きです。今は少子化や核家族が進行してその寂しさを紛らわせるためペットを各家庭が急速に増えてきました。私たちが子どものころは和牛肉やマグロなんて一年に一回も食べれないような高嶺の花でしたが、今はペットの餌なのです。犬や猫はこのような高級なものを毎日食べるから犬猫の世界では人間社会と同じように高血圧や脂肪肝などの成人病のような病気に冒されるのだそうです。愛隣地区では働きたくても職もなく植えないと言うのに一方ではこのような贅沢な社会がまかり通っているいるのです。その前の番組で徳川時代の大奥という番組が紹介され、お犬様を可愛がる江戸時代の姿が放映されていました。大奥と私たち庶民の暮しとは比べ物にはなりませんが何かおかしい現代版お犬様に思わず笑ってしまいました。

 愛隣地区に住むホームレスは自分の生活設計も出来ず生きてるからこんなことになるのだと、目くじら立てる人も多くあまりそんな人に税金を使うな、甘ったれるなと言われそうですが、それでも私たちは日本人みんなが明るい正月を家族とともに笑顔で迎えられるような日本にしなければならないと、つい優しい意心が顔をのぞかせました。

  「恵まれぬ 人あり都会 ホームレス この寒空を 毛布一つで」

  「俺はガン 告白しても 知らんふり 病院さえも いけず酒飲む」

  「犬猫に マグロや和牛 食べさせる 同じ動物 食うものとてなく」

  「大奥の 時代に似たり お犬様 何か変だぞ これでいいのか」 


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shin-1さんの日記

○笑顔の絶えない楽しいおばちゃんたち

 一昨日の日曜日、同じ伊予市に住むといっても旧伊予市の方ですから峠を越えた随分離れた所に住んでいるおばちゃんたちが人間牧場にやって来ました。例によってシーサイド公園で待ち合わせていざ出発です。都会ではないが都会のような平地に住む人にとっては人間牧場への山道は何か別の世界にでも行くような感覚を持つ人も多く、ましては33ナンバーの車などに乗って来る人には、「道が狭いから大丈夫ですか」と前置きして話すのですが、「この人は北海道までも運転する達者な人ですから」と豪語するので断るすべもなくご案内しました。町道から農道に変わる時もそんな声賭けをしましたが、「大丈夫」というので私と妻が先導して走ったところついて来ないので不思議に思って振り返ると、まるで牛歩のようなノロノロ運転です。農道から私道に入ると更に狭くてきつい勾配にもうブレーキの連続です。「あの道を引き返すのかと思うとゾッとする」と、先程の元気は何処へやら、すっかり青ざめている様子でした。それでも水平線の家の室内に入ると我に返ったようにはしゃいで、さっきの青ざめた顔に笑顔が戻っていました。

 このおばちゃんたちは伊予市上三谷に住む水口マリ子さんたちの楽しい集団です。彼女と出会ったのは一昨年更生保護婦人会の総会でした。私が記念講演を頼まれ伊予市中央公民館で話してからでした。もう随分昔のことですが水口さんは私が双海町の町民会館でどなたかの結婚披露宴の司会をした時出席し、私の司会ぶりに感動されていていつか会いたいと思っていたそうですが、更生保護婦人会の役員をしていて総会の記念講演に私の話を是非ということで実現したのです。またそのことがご縁で農家の水口さんからは何度もトマトやキューリが届けられ、更には絶品と私が折り紙をつける丹波黒豆の水口さん自身が炊いた煮物を頻繁に届けてくれるのです。また先月は上三谷の高齢者集会にも招かれて講演し、もう100年も前から出会っているような錯覚すら感じる間柄なのです。

 私が講演でさわりだけ話したものですから、「人間牧場へ是非行ってみたい」ということになり今回の来訪と相なった訳です。今回のツアーには男性二人も運転者として同行しました。先日上三谷集会所で出会っているのですがお一人は愛媛大学の先生だった人ですから博学な人で、言うことが何処か知的なようでした。

 前列左端は私の家内ですが、いつも贈り物をとどけていただく後列右2人目の水口さんに出会いたいと昨晩天草を炊いて果物ゼリーを作って参加しました。和気藹々の中にも終始笑顔が絶えず、皆さんはロケ風呂で足湯を楽しみました。

 皆さん気に入った様子でロケ風呂に座って話に花を咲かせました。この日は冬だというのに穏やかな日で風もなく、あいにくの春霞を思わせるようなガスがかかって遠望は出来ませんでしたが、温かい一日でした。

 皆さんが楽しんでいる間に私の車を含めて4台の車を全て狭い場所ですが帰りの向きに回転させました。デッキからその様子を見ていた人たちは私の機敏なハンドル操作に感心しきりでした。再会を約束し不安な気持ちで山道を登りやがてみんなの車が木陰に消えたのも見計らって、妻と二人で後片付けや風呂の湯を抜き、カギ終いをして下山しました。

  「足湯する 大根のような 太い足 十本まとめて 一山なんぼ」

  「穏やかな 師走の陽気 誘われて 人間牧場 笑いこだます」

  「この道を 帰ると思うと ゾッとする それでも帰る 緊張した顔」

  「笑顔ある ツアー集団 ホッとする 幸せなんだ この人たちは」

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