○いずれ人間は必ず歳をとり死ぬ
昨日所用で近くの特別養護老人ホームへ出掛けました。昼下がりのホーム内は一階でディサービスに来た人たちが賑やかに歌を歌っていました。顔見知りの人も多く私の顔を見つけると、大きく手を上げ嬉しそうに言葉を掛けてくれました。私も応じるのですが何せ20人もの人が一斉に声を掛けるので、手前の人から順番に話しかけ手を握ったり肩を叩いたりして応じました。この人たちとはつい最近まで社会教育や産業団体、それにまちづくりの現場でよく出会っていたので、感慨も一入なのです。
やがて一通りのあいさつを終えた私は、2階の老人ホームへ叔父の見舞いのため上がって行きました。普通の部屋にいるはずの叔父は病室のベットに移され静かに横たわっていました。左官をしていた叔父が仕事場で脳卒中で倒れたのは2年前でした。それまで殆ど病気もせず町の消防団長も務めた聡明な叔父を知っている人なら、ベットに横たわる叔父の姿はまるで別人ではないかと目を疑うような変貌ぶりなのです。力仕事で鍛えた腕や足は衰え骨と皮と筋だけで、目もうつろで記憶はしっかりしているのでしょうが反応も鈍く、握る手に伝わる力も意思も弱々しく感じられました。医学の進んでいなかった昔ならとっくに死んでいたかも知れないと思いつつ、一命を取り留めた叔父の力強い生命力に改めて感動したのです。手足をさすりながら一方的に私が叔父に話しかけ、叔父もかすかに反応しながら5分余り対話をしました。「進一だが分る」。言葉に反応して首を少しふっているように見えました。「また来るから元気でね」と部屋を出る瞬間、叔父の目から涙がこぼれ、何と不自由な手を振ってくれたのです。
2階の老人ホームでくつろいでいる方たちも殆どの人が歳を取ったりふけたり、また少々ボケていますが見覚えのある顔ばかりです。痴呆の老人の殆どは今生きてることの意識は少ないのですが、何故か昔のことをよく覚えているものです。「おい進ちゃん元気か」と声を掛けてくれる人もいれば、こちらが声をかけても「どちらさんですか」てな具合の人もいます。
昔北欧の老人ホームのドキュメンタリー番組をテレビで見たことがあります。当時世界一といわれた北欧の高齢者福祉について詳しく紹介していましたが、まさか日本が世界一の長寿国になって、高齢者福祉施設がこれほど日本全国に出来ようとは夢にも思っていませんでしたし、三世代同居の家が多かったあの頃には、歳をとって老人ホームで暮らすなんて、これも夢にも思わなかったのです。うつろな表情で過ごす老人ホームの人々を見ながら、「いずれ人間は必ず歳をとるし死ぬ」という運命を感じずにはいられませんでした。
殆どの人が「自分は死なないし老いない」と思っているに違いありません。ですから親を粗末にしたり親孝行をしないのです。いずれは自分がそうなるであろうと思うのなら、もっと親に忠孝を尽くすはずなのです。昔は人間の一生も短く、50代・60代であの世へ旅立ちました。ところが今は80代・90代はざらなのです。長生きすればするほど老いを生きる期間は長くなりますが、老いへの備えは長寿国日本になってまだ日も浅く、万全とはいえません。気力と体力、知力と財力などのバランスを保ちながらいかにボケずに老いを迎えることが出来るか、日本人の挑戦はまだ始まったばかりです。
「おいお前 歳は幾つと 問うたなら あんた何ぼと 聞き返すなり」
「人は皆 必ず老いて 死んでゆく 俺は例外 てなことはなし」
「人間の 死亡率はと 尋ねたら 百パーセントだ 必ず死ぬぜ」
「水を打つ 老人ホームの 昼下がり 生きているか 死んでいるのか」