○本を読む木の家
山を接した隣の町はもう内子町です。その内子町大瀬出身のノーベル文学賞作家はご存知大江健三郎さんですが、大江さんの作品に「自分の木の下で」という一冊の本があります。本屋で見つけたこの本は奥さんの大江ゆかりさんが挿絵を書いていますが、これが中々美しい絵で、特にP135から始まる小見出し「本を読む木の家」という部分を興味深く何度となく読み返しました。
-そこで工夫が必要になるのです。私はそういう特別な本を読むための場所をつくりました。-
-それらの果樹からわずかに抜きん出ているカエデの木があって、私は幹が幾股にも分かれているところに板をしき、縄で固
定して、その上で本を読むことのできる「家」を造ったのです。-
-さて私は、その木の上の本を読む家で、例の、なかなか読み続けられない本を読むことにしたのです。そうでなくても、一日に
一度は、木の上の家の具合を調べなければなりません。その際には、この本を持って木に登る。そこでは他の本は読まな
い。そうすると、いつの間にか、次のやはり難しい本に移ることができている。というふうになったのです。今私にとって、本を
読む木の家の代わりをしているのは、電車です。大人になると、これは大切な本だということが、経験によって性格にわかる
ようになります。-
-カエデの木に造った小屋で本を読んでいる私に、母親は畑を耕したり、種を蒔いたり、野菜を獲り入れたりしていながら、なに
もいいませんでした。お隣に下宿していた女の先生が、あの上で居眠りして落ちると危ないから、とあなたのお母さんにいった
ら、あの子は自分であのようにしているのですから、と相手にされなかった、と憤慨していたほどです。しかし、カエデの木の周
りは小さな石も拾って、柔らかく土をならしてあったように思います。-
-そこで私はきゅうくつな小屋の床で体を折り曲げながら本を読み、しかしどうしても難しい本なので、すぐに目をあげて、川の
向こう岸の林を眺めることになったのです。そしてほかのことを考えたのですが、それまで本を読んでいた頭の働きの続きで
-走っていると、すぐにとまれないようにー日ごろ、自分の考えているやり方より、もっとしっかりしたかたちで、考えることがで
きると思ったりもした。考えるというのは、つまり言葉で考えることなんだ、ということに自分で気がついたのは、その木の上の、
本を読む小屋でであったことを思い出します。枝の木々の一本、一本がまっすぐ立っているのを眺めるのが好きで、-それが
あったから、どうして木はまっすぐ上に向かって伸びているのか?と父親に質問したのだったように思います。-人間も(自分
も)ああいうふうであったらいい、と思いました。その人間の生き方への思いのなかには「しなやかさ」が、そして大学に入って
から知ることになるupstanding、まっすぐひとり立つ、という英語の感じが、ふくまれていたように感じます。-
凡人の私には大江健三郎さんの奥深い意味の全てを理解することはできませんが、それでも木の上の家で過ごした大江さんの少年時代が、大江さんのその後の生き方に大きな影響を与えたことは間違いありません。大江さんがそうであったように私も大江さんの「自分の木下で」という本に出会って、人間牧場にツリーハウスを造ることを思いつきました。かつて少年時代私も山の上の海の見える小高い場所に同じような木の上の家を造った経験があります。それは大江さんのような本を読んだり、空想の世界ではなく、むしろ幼稚な遊びの空間だったように思いますが、それでも遅ればせながら木の上の家ともいえるツリ-ハウスは、少なからず何かの思考をする場所になるかも知れないのです。
「凡人の 私が真似て 何になる でも木の上は 思考働く」
「読むほどに レベル高まる 馬鹿の知恵 遅まきながら 六十手習い」
「木は何故に 上に向き立つ 質問を 親父の俺は 問われりゃうーん」
「世の中は 偉い人たち いるものよ 頭は同じ 大きさなのに」