shin-1さんの日記

○カボチャ提灯の思い出

 妻が何処かで植え余った苗を貰ってきたのでしょうが、わが家の菜園と人間牧場に4本のカボチャの苗が植えられています。今年は例年より遅い梅雨明けで長雨のため野菜が思うように育たず高値だと聞いていましたが、ご多分に漏れず肥料もやらず消毒をしない自然型農業のわが家ではカボチャの生育が悪く、葉っぱはうどん粉病にやられてカボチャが余り実らず、これまでに5個ほどの収穫に終わっています。それでもその後の天候回復で作柄も回復し、今頃になって黄色い花が次々と咲いて、花の付け根に小さなカボチャがたくさん実を付け始めました。今のカボチャは通称栗カボチャという美味しいカボチャですが、私たちが子どもの頃はひだの深い在来種日本カボチャが主流でした。栗カボチャほどは美味くありませんでしたが、それでも食糧難の時代だったから美味しいと感じてよく食べたものです。

 私たちは夏になるとこのカボチャを使って中をくり抜き目や鼻や口を包丁で作り、底から釘を打ちつけ中に御神灯の小さなローソクを立ててカボチャ提灯を作って遊んだものでした。カボチャに彫り込んだ三角や四角の目や口が何とも奇妙に暗闇の中で見えるのです。時にはそれを夜の肝試しに使って友達を驚かせては楽しんだことを思い出すのです。時にはスイカも使い同じようなことをしましたが、スイカは貴重だったので一番なりのどでかいスイカを使ってスイカ提灯を作ってお袋に大目玉をくらい、お仕置きにお尻に大きなお灸をすえられたことを覚えています。

 数年前私が道の駅の駅長をしていた頃、ジャンボカボチャが高齢者の間で流行ったことがありました。外国産の飼料用カボチャは桁外れの大きさに成長するため人間一人分の60キロをゆうに越え中には100キロを越えるものまで作られて、畑から車まで運ぶのにフォークリフトまで出動したハプニングもありました。旧重信町では農業後継者が「ドテカボチャカーニバル」なんてパロディ豊かなイベントを企画し話題をさらいました。旧重信町のランドマークは当分このドテカボチャをイラスト化して使っていましたから、相当のインパクトのあったイベントだったようです。

 わが町でも高齢者の皆さんが大きなカボチャを作りその大きさを競ったものですが、その活用はシーサイド公園に展示して見てもらうだけに終わったため、その後尻つぼみで腐ったカボチャの後始末に困りついには終わってしまいましたカボチャに彫刻をして夏の夜のカボチャ提灯を提案したのですが、受け入れてもらえず夢のイベントに終わったのは返す返すも残念でなりません。

 私たちはイベントをする場合、それがどれ程の経済効果を生むかという取らぬ狸の皮算用をしがちです。勿論それも大事ですがどんな楽しい遊び心があるかによって人へのインパクトは変わってきます。カボチャを展示するからカボチャを彫刻して提灯を夜の闇で楽しめば、カボチャは様々な反響を呼ぶことでしょう。ドテカモチャは牛の飼料にしかならず食えないカボチャですが、別のカボチャを使ってスープやお菓子を作ればこれまた名物が出来るのです。カボチャ⇒遊び心⇒カボチャの展示⇒カボチャの彫刻⇒カボチャの夜祭⇒カボチャの料理⇒かぼちゃのお菓子⇒地域が活性化するなんてシナリオは誰でも考えれる知識ですが、これを知恵に変えていく実践が地域づくりなのです。地域づくりは考えたり実践したりすると中々面白く、成果が出るとこれまた病みつきになるものなのです。

  「カボチャでも やりようやれば まちづくり たのしいことが いっぱいできる」

  「カボチャ食う その度思う 母の顔 提灯造って 叱られたっけ」

  「長雨に たたられカボチャ 不作なり しょうがないから 買って代用」

  「カボチャには 栄養沢山 あるという 半信半疑 今日もカロチン」 

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shin-1さんの日記

○定期演奏会に招かれて

 「えひめグリーンクラブ」という男声合唱団のメンバーの一人から先日2枚のチケットが送られてきました。「グリ-ンクラブ」と聞けば「グリーンピース」を思い出し何か環境団体のようにも感じましたが、そのチケットに添えているご案内の手紙が和紙奉書のような重みのあるものなので忙しい予定を割いて出掛けてみました。合唱も演奏というのかとの疑問も感じながら午後2時開演なので30分前に松山市民会館に行ってみると暑い昼下がりだというのにもう長蛇の列が出来ていて、既に入場が始まっていました。

顔見知りの人も何人かいて、案内状を送ってくれたメンバーの奥さんに声を掛け中ほどの席に陣取りました。この中ホールは次男が演劇の発表によく使う場所なのでお気に入りの場所が確保できた安心感とでもいうのでしょうか、見知らぬ隣の人と談笑しながら開演を待ちました。女性コーラスや児童生徒の合唱は聞いたことがありますが男性大人の合唱など聞いたこともないので興味津々です。

 やがて幕が開きそろいのスーツ姿のおじさんたちが指揮者に合わせて歌い始めました。えひめグリーンクラブ団歌のあと4部構成のプログラムに沿ってその都度進行係が解説して進んで行くのですが、一部の日本民謡はそうらん節、貝殻節、おてもやん、五木の子守唄、最上川舟歌の5曲で、知っていることもあって小さな声で口ずさみました。

 私のお目当ては二部のえひめグリsongbookで、「ハワイ沖えひめ丸海難事故鎮魂歌「希望海」と四部の男声合唱組曲「三崎のうた」でした。いずれもわが人生にダブらせた歌だけに興味がありましたが、残念ながら夏祭りのスケジュールに合わさなければならないので四部は聞かずに退席しなければなりません。二部だけは聞き漏らすまいと熱心に耳を傾けました。

 「三崎のうた」は北原白秋の詩です。水産高校の実習船愛媛丸の基地があったのは神奈川県三浦三崎でした。その湾の入口に城ヶ島があって、「城ヶ島の雨」という白秋の歌の記念碑が建っていました。白秋は三浦三崎に住んだことがるそうですが、「雨はふる ふる雨の霞がくれに ひとすじの 煙立つ 誰か生活ぞ 銀鼠にからみゆく 古代紫 その空に 城ヶ島 近く横たふ」という詩は、「城ヶ島の雨」の姉妹作ではないかと思えるほどによく似たタッチで描かれているのです

 さて「希望海」は、私に手紙とチケットを送ってくれた水産高校の先輩玉井恭介さんの作詞詩です。鎮魂歌だけあって重厚で愛媛丸乗船経験者の私には涙の出るような響きが心にしみわたりました。

 「碧き千尋のハワイ沖 若き夢のせえひめ丸 大志途上に航跡消ゆる 学園の淵辺は涙色 帰れ母校へ九つの魂 目指せ希望の 七つの海を」・・・・・・・。愛媛丸に乗船した経験者でないと表現できない言葉の数々に40数年前の珊瑚海での実習の思い出をダブらせ聞き入りました。多分こうした事故への想いも戦争と同じように風化し消えて行くのでしょうが、戦争も事故も人間の願いとしてなくす努力をしなければならないと強く心に誓いました。

  「一通の 頼り心の 窓開け わが青春を しみじみ思う」

  「朗々と 歌う母校の 鎮魂歌 心に染みて 思わず涙」

  「男性の 合唱低い 声流れ 満員聴衆 やがて拍手に」

  「白秋が 詠いし歌で 思い出す 城ヶ島辺の あの光景を」 

  

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