shin-1さんの日記

○忘れられたカギ

 「今日は人間牧場へ草を刈りに行くので作業の出来る服を出しといて」と妻に言って、間近に迫ったふたみの夏祭り用七夕飾りの竹を切りに近所の竹薮へ、自治会の役員4人で出かけました。元町長さんの竹薮は保育園の近くにあって便利なことから、昨年に引き続いてのお願いです。七夕飾りは町内の皆さんが各戸で笹飾りをするとともに5つの丁目毎に大笹飾りを造るのです。したがって私たちの役目はその大笹飾り用の大竹を5本切り出すのです。4人で5本は意外と楽勝で30分程で終わり、各丁目の代表に笹を渡して作業を終えました。

 家に帰って妻と息子の3人で朝食を取り、作業着に着替えていざ人間牧場へ出発です。水平線の家のカギやデジカメ、それに作業で喉を潤すための水筒と余念なく準備をしましたが、作業ズボンのポケットに手を突っ込むと何やらカギのような物が出て来ました。何とこれが見覚えのあるシーサイド公園の管理用カギだったのです。

 今は年間55万人もの来訪者で賑わうシーサイド公園ですが、私は当時課長以外まったく部下のいないたった一人だけの日本で一番小さな課の課長でした。平成7年3月21日にオープン以来、教育長に就任する平成16年までこのカギは私の体と一心同体で離れることはありませんでした。真冬の水槽掃除も、水が不足して貯水槽のブザーが鳴って警備会社から深夜の呼び出しがあった時も、また花火で眠れないと近所からクレームがあった時も、このカギで機械警備のセットを切って中へ入り対応したものです。教育長就任後も掃除を続けたため返す機会を逸し洗濯したポケットにしまわれ今日の日を迎えた事になります。

 それにしても今頃になってこんな忘れられたカギが出てくるなんて思っても見ませんでした。懐かしさの余りに頬ずりでもしたくなるようなお宝との出会いなのです。早速明日は役場担当の武田さんと一緒にシーサイドの池田所長さんへお返しに行きたいと、離れることへの寂しさを感じながらも机の上に置いて一日中ぼんやりと眺めていました。

?「このカギであそこを開けてこんなことをした」なんて思い出すと12年間がまるで昨日のことのように頭に浮かんできました。カギは道の駅の駅長としての責任もついて回りましたが、今はその責任から逃れており、誰かがその責任をしょってくれているのでしょう。

 今の世の中はかなり物騒でピッキングやガラス戸を割って内部に侵入する不届きなものもいると聞きます。幸い私がこのカギを預かった12年間は泥棒に入られることもなく平穏無事にお勤めを終えましたが、不特定多数の人間が出入りするシーサイド公園のことですから、カギを返す時、くれぐれもそのようなことがないように今一度お話をしたいと思っています。それにしても大それたごめんなさいでした。

  「このカギが 私の分身 十二年 何の失態 なくて感慨」

  「ポケットを まさぐる中に カギありて 驚く私 妻も驚く」

  「このカギが 最後の別れに なるかもと 返す明日が 何か寂しく」

  「この三年 ズボンに眠る わが過去に あらため帰る 懐かしきかな」 

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shin-1さんの日記

○早くも・・・・・・

 年齢を重ねたからそう思うのでしょうか。世の中の流れは十年一昔と言われた昔に比べ、一年一昔と言われるような速さでどんどん今が過去になって、自分の後ろへ消え去っています。ある人が「自分が小使いを人から貰う立場の間は盆や正月が待っていても中々来ないと思うから一年が長く感じられ、自分が小使いを人に渡すようになると盆と正月が待ちもしないのに早く来てしまうから長く感じるのだ」と言われ納得したりもしました。

 今朝5時前ひぐらしがカナカナカナと物悲しくも賑やかに鳴いて、今年は例年より10日も梅雨明けが遅れた日本列島に昨日やっと梅雨明け宣言が出されたばかりだというのに、「早くも」秋の気配を感じました。東北では青森ねぶた祭りが開幕し、武者絵のねぶたや「ラッセーラ」と言いながら踊る独特の「はねこ」が威勢良く踊る姿が、テレビで放映されていました。東北の「青森ねぶた祭り」「秋田竿灯」「山形花笠祭り」などは、冬の厳しい地域だけに華やかでより強烈な印象を与えているようです。「ねぶたが終わると東北では早くも秋の気配を感じる」とアナウンサーが「早くも」をコメントしていました。

 近郷では本来秋の味覚であるはずの秋の果物が出回り始め、「早くも」観光ぶどう園や梨園がオープンしたと、新聞や折込チラシが報じています。わが町でも海の見える小高い山の中腹に夕陽丘観光梨園があって、例年ファンが集まって来るようですが、梨園オープンを告げる看板類が道路の要所要所に「早くも」取り付けられ始めました。観光果樹園は果樹の糖度が生命なのですが、今年は梅雨が長かったので味の方が心配です。

 近所の田んぼを見ると昨日まで青かった稲に出穂が見られ「早くも」実りの準備が始まっています。田植えが1ヶ月も早い分だけ出穂も1ヶ月は早くなったと思いつつ周りを見てみると、田んぼの上を無数のトンボが「早くも」飛んでいました。動物も植物も人間社会の「早くも」にせかされて生きているように思われる今日この頃なのです。

 「狭い日本そんなに急いで何処へ行く」という交通標語がありましたが、このところの日本人の急ぎ過ぎた生き方は異常と思えるほどです。意の向くままに自然に生きればよいものを、自然に逆らって不自然に生きているようです。不自然に生きるためには何かを犠牲にし鳴ければ生きて行けません。たとえばハウスみかんを作るためには畑に温室を作り、化石燃料を使って不自然な温室空間を作らなければなりません。みかんの木は人間の作った不自然な環境で花を付け実を結ぶのです。少数の価値とでもいうのでしょうか、そうして「早くも」作られたみかんはハウスみかんとして高値で取引されるという市場原理が働き、生産者の所得は一見上がったような感じがします。しかし自然全てを温室に変えることは不可能ですから、人間は自然と不自然を往復し、知らず知らずの内に違った環境の中で体を壊してしまうことだってあるのです。「早くも」ハウスみかんが出回り始めました。今年は高値のようで、他人事ながら喜んでいます。

 聞き飽きた「早くも」という言葉がテレビから流れる秋先取りの季節を迎えました。ひょっとしたら「早くも」は一年中使っている最も流行の言葉かも知れません。

  「早くもと 言う流行に せかされて 気付いて見ると 俺は早くも」

  「早くもと そんなに急いで 何処へ行く あの世近づく 冥土は遅く」

  「大根は 冬の食べ物 何故に買う 美味くもないが 焼いた魚に」

  「お寺より 棚行行くと 知らせあり 迎え火焚かず 坊主早くも」 


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