shin-1さんの日記

○扇風機に似たハロゲンヒーター

 前年の冬はわが書斎に10月23日の秋祭りを目安にホームコタツを入れて暖を取っていましたが、「我慢大会」ではないものの退職を機に少し寒さにも慣れようと1月下旬の昨日まで、書斎にストーブを置いているにもかかわらず、点火するのを止めていました。しかし今年の寒さは尋常ではなく南国四国といえども早朝4時の気温は5度以下になることもあり、少し寒さを感じていました。これを見た妻が「それを年寄りの冷や水というのだ」と、身体を気遣って叱るものですからついに暖房の羽目になりました。しかし4畳の小さな部屋で灯油ストーブを焚くと酸欠になる恐れがあるので、只今留守中3男の部屋からハロゲンヒーターを持ってきました。

 電気が熱源のハロゲンヒーターはまるで扇風機とそっくりで、つければ直ぐに温かくなるし扇風機そっくりに首振り動作までするのです。温度は2段階ですが熱源の色がオレンジ色なので見た目に暖かく感じるのも気が休まります。ハロゲンを使っている私を見て妻は「それ見なさい。温かいでしょうが。私の意見は親の意見以上と思って聞きなさい」と私のことをまるで子ども扱いです。でも確かに温かく適度な快適さが気に入りました。こんなんだったらもっと早くと正直思っていますが、妻の手前我を張った自分の行動を少々反省しています。

 温度が入ると効率が良いはずなのに不思議なるかな人間は時間が経つに連れて眠気をもよおして来ます。昨日は早朝4時に起床して書斎のハロゲンヒーターの電源を入れましたが、2時間経った6時ころには

少し眠気がやって来ました。前の晩深夜バスの旅だったから疲れていたのかもしれませんが、大脳の働きは温かくなると鈍るということも肝に銘じておかなくてはなりませんね。

 昨夜友人が訪ねてきました。応接間は冷暖房兼用器具を入れているのですが温度が上がるまでには時間がかかります。居間は暮らしの中心ですから色々な生活用品が置いてあるのでごく親しい人でないと失礼に当るので案内をためらいます。気候のよい季節だと煙会所や夕観所へ案内するのですが、昨晩は雑多なわが書斎へ案内しハロゲンヒーターを囲んでの雑談となりました。近づけば結構暖かいので話が弾み深夜にまで及びました。

 今年の冬はこの熱源であと一ヶ月の厳寒期を乗り切りたいと思います。合言葉はハロゲンは「ハロー元気」です。

  「ハロゲンの小さきヒーター暖を取り大寒寒き夜遅くまで」

  「珍しやこの扇風機暖かい初めて見た父目を丸くして」

  「ガラス戸に映りしハロゲン赤々とわが顔染めて少し夜明けつ」

  「ハロゲンの灯り色見て思い出す裸電球ソケット吊り下げ」

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shin-1さんの日記

○書き順が違う

 人の思い込みは自分には中々気付かないものです。何年か前自分の名前を書いていると、ある顔見知りの中学生が「進ちゃんその字の書き準が違う」と唐突に言うのです。一瞬「えっ」と思いました。私は漢字で自分の名前が書けるようになった小学校2年生ごろから、多分何のためらいもなくその間違いに気付くこともなく自分の名前を書いていたことになるのです。

「若松進一」、これが私のフルネームなのですが、最初の頭文字「若」という字は草冠と右が合体していますが、草冠は十と十を別々に書く草冠と十と十が連なった草冠があります。別々だと4画、一緒だと3画で書けます。昔の人は別々に書く人が多いようですが、今は簡略化して戸籍は別々ながら連なる草冠で通しています。

 中学生が指摘したのは下側の右という字の書き順でした。私は普通右という字も左という字も全て書き順は横「一」から書いて次に「ノ」の字をいました。ところが彼女が言うのには「左」という字は「一」から「ノ」で良いのですが、「右」という字は「ノ」が最初で次に「一」を書くのが正しいというのです。役場の職員にそのことを伏せて私の名前を書いてもらいましたが、殆どの人が「一」「ノ」と書いてくれました。

 心配になって書き方辞典で調べてみると、中学生が言うのが本当でした。「あらあんたそれも知らなかったの」と言われそうですが右は「ノ」から書くのが正しいのです。多分国語の時間に先生は教えたはずなのに聞いていなかったのでしょうねえ。それにしてもこの中学生は偉いと思いました。私の50数年間の間違いを一発で見抜いて指摘するのですから・・・・・・。以来私はそのことに気をつけて書くようにしていますが、それでも長年の癖は抜けず急ぐ時には「一」から書いてしまいます。

 同じような間違いに気付いたのはローマ字です。私のローマ字スペルは「wakamatsu shinichi」です。ところがパソコンでは「wakamatusiniti」でも「若松進一」と出ますから、文字の少ない後者を選んで打ってます。昨年カナダ行きのパスポートを用意するため「自分の名前をローマ字で書いて下さい」と言われて「えっ」と一瞬思いました。いつも書いている後者のスペルを書きそうになってその間違いに気付きました。パソコンでは「wakamatsu」でも「若松」、「shinichi」でも「進一」と変換するのです。姓の中の「h」と名前の中の「h」が加わり、それに「ti」が「chi」に変わっても同じ日本語に変換するのですから面白いですね。

 私の名前だけでもこのように面白いことが発見できるのですから、文字にはどんな物語が隠されているのでしょう。ニュージーランドを旅した時外人が私を「しにちさん」と呼びました。ローマ字で呼ぶと「しにち」になりますね。

  「書き順が違うと女性に指摘され出来た名前は同じ若です」

  「同じよな漢字書いても右左書き順違う未だ分からず」

  「わが名前しにちと読んだ外人に私しんいちボディーで示す」

  「ケーシーが右と左を漫談でホワイトボード面白おかしく」

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○3年ぶりの復活

石の上にも3年という言葉がありますが、私の所属している「21世紀えひめニューフロンティアグループ」の代表を降りて早くも3年が経ちました。このグループは私が中心になって設立し、私が20年間も代表を務めた程の思い入れのある集団です。「今やれる青春」「一年一事業」「社会への揺さぶり」の3つをテーマに掲げ、「無人島に挑む少年のつどい」「空からふるさとを見る運動」「モゥーモゥー塾」「丸木舟瀬戸内海航海」「竪穴式住居語り部のつどい」など、斬新なアイディアと行動力で愛媛県内はおろか県外にも聞こえた名だたる集団です。  

 思うところがあって13年前に代表の座を降りたいと会員に申し入れましたが、空中分解するからとそれも適わず20年の長きに渡って小さいグループながら会をリードしてきました。「会員が念願だった20年回顧録を出版したら降りる」という条件を一方的に取り付けて、「今やれる青春」という自著本を出版し、3年前代表の座を降りました。これまでの実績が認められて「愛媛新聞賞」などという素晴らしい賞を受賞しましたが、その後の活動は私の意思を継いだ新代表の想いにもかかわらず少し空転、「社会への揺さぶり」などの3つのテーマが果たせなくなっていました。代表の病気も一要因でしたが、僅か10人余りの集団の魅力維持とリーダーシップの取り方の難しさを味わった代表は、僅か3年間でその座を降りたいと辞意をもらすようになり、私の退職もあって断る理由もなく、彼の申し入れを渋々受け入れ、再び代表となったのです。

 代表復帰は正直言って本意ではありません。この歳になって大きな荷物を背負い込むと集団を破滅させるばかりでなく、私の体力さえも奪うことになるからです。相談した妻も最初は反対でしたし私自身も心の葛藤がありました。でも後7年間はこの会を存続し30周年までは続けようと思っていたので、思い切って引き受けました。当面は会員の意思統一と夢の再生産を掲げて立て直そうと先日の総会で決意を述べました。

幸い昨年自らが始めた「人間牧場」を拠点にしたフロンティアグループの活動を始めます。代表だった彼の申し入れで彼も事務局長としてコンビを組むことになりました。彼曰く「代表になる人、事務局長になる人、それぞれに器のようなものがある」のだそうです。代表を務めて初めてそのことに気がついたそうです。何はともあれ再出発しました。

  「三年の時の流れの早いこと千日以上何をしたのか」

  「異文化に触れない人は衰える輝くためにまず人に合う」

  「ジリ貧の会の再生託されて力入れたる夜なべ談義に」

  「傷をなめ慰め合うよな歳じゃない遅くはないぞ未来に夢を」

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○厄払い

 私と妻は年齢が一つだけ違い私が上の申年です。妻は酉年なのでこの4年余り、還暦の前厄・本厄・後厄と毎年のように厄年がやって来て、その厄払いのために菊間町のお寺へお払いをしに毎年行っています。昨年は娘の33歳の厄年とかも重なり、一緒に出掛けたのですが、今年は娘婿の厄除けもからめて孫と3人で先週の日曜日に出掛けました。

 好天に恵まれ吹く風は寒く感じられるものの太陽の光はもう春の足音を感じさせるような強い日差しを感じました。厄除けの仏様とあって参拝客や願掛け願解きの人も多く、境内はかなりの人でした。間もなく立春ですがその日は縁日なので混雑を避けたつもりでも、厄払いの仏事は少し待ち時間があるほどでした。

 私たちが本道に案内され、さあいよいよ護摩法要という時になって同行の孫が、大きな太鼓の音と、護摩を焚き読経が始まると異様な雰囲気に恐れて泣き始め、車の中で寝ていたこともあってオシッコを漏らしてしまいました。結局後厄お願いに来た当の妻はその処理に追われてしまいました。

 孫のオシッコで濡れた妻のズボンも孫のズボンも全て厄だったのだと思うと何か軽い気持ちになって、途中のスーパーでズボンを買って履き替え、帰りに温泉で洗い流す結果となりました。まさに予期せぬことで厄払いが出来たと、孫だから思えるのでしょう。

 厄払いで全ての厄が払われるとは思いません。事実初詣に行く途中、あるいは88箇所参りに行く途中で事故に会う人だって要るのですから一寸先は分からないのです。私も本厄の一昨年、チェンソーで足を切って入院の羽目になったことだってあります。妻は風呂上りに私の足の傷を見ながら「よくそのくらいな傷で済んだねえ」と言ってくれますが、これもご利益と考えれば有難いことなのです。

 人間は文明の発達によって目に見えない神仏や迷信などは科学的な実態がないだけに信じない傾向があります。そこへ行くと文明の発達していない地域では神仏は絶対的なものとして崇められています。子どもの頃のような神仏に祈る年中行事が廃れたのもそのためのような気がします。でも人間は神仏を忘れ自然の偉大さを忘れてはならないと厄払いをするためお経の経典でお坊さんが背中を思い切り叩く痛さを感じて思いました。

 「ああ私も妻も還暦という人生の節目まで生かせてもらった」「有難う」と感謝せずには要られません。これからは「自分で出来る幸せ」はもとより、「人のためにしてあげる幸せ」を少しでもして行きたいと心に念じました」

  「孫小便妻にひりかけ小厄だと笑い転げてお札授かり」

  「前厄も本厄さえも超えてきた後は後厄妻よ元気で」

  「酒さえも飲めぬ体になりました還暦生きて後は何年」

  「同年のあの人逝きしあの世とはどんな世なのか一度は行かねば」

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shin-1さんの日記

○大学見つかる

 二宮金次郎の銅像は日本全国の学校に今でも多く建っていますが、私が質問した限りでは二宮金次郎が左手に持っている本の中身が何であるか、知っている人は少ないようです。ある人は「修身」や「論語」などと言う人もいますが、中身は中国の古書「大学」の一節なのです。

 昨日私は尼崎市で開かれた研修会に講師として招かれましたが、講演が終わって大阪に出て、梅田の駅近くにある古本屋通りを時間つぶしに歩いていました。さすが大阪古本といってもグレードの高い本が店先から奥までぎっしりと積まれた店がズラリと並んでいました。とある一軒の店に入り、無造作に置かれている古本の山の中に、これまた古くなってノジの抜いた一冊の本が目に留まったのです。柿渋を塗った表紙を開けてみると何とこれが捜し求めていた「大学」だったのです。

 明治41年に出版されたその本は薄っぺらい和紙の袋綴じで多分版木印刷されたもののようでした。全部で15ページ程度の本ですが、凡人の私には漢字ばかりで読めないため意味さえも分からないのです。しかし二宮金次郎が読んでいる「一家仁一國興仁一家譲一國興譲一人貪戻一國作乱其機如此」という箇所は確かに9ページに載っているのです。少しばかりでしたが私は身震いするのを覚えました。

 早速店番のお姉さんに「これ幾らする」のと尋ねました。「社長があいにく留守をしているんで分かりません」というのです。「お客さん幾らだったら買うんですか」と逆に尋ねられたので、「そうですね古いのは古いんですがノジが抜いて紙切れ同然で判読も難しいので千円以下じゃないですか」と切り出しました。骨董的価値からすると5千円くらいはするだろうなと思いつつ、「いいですよ。じゃあはるばる四国から来られているので700円に負けときましょう」で商談成立と相成りました。「お客さんもお若いのにこんな趣味があるのですか」などとお世辞を言うお姉さんと、口相撲をとりながら「社長が帰ったらどうしよう」と内心「シメタ」と思いながら、千円札を出して300円のおつりを頂き店を後にしました。

 それからの旅は言うに及ばずこの古い大学の本と首っ丈、近所にいる人が物珍しそうに見たのも無理はありませんでした。安い買い物をしたものです。社長さんが帰って報告したら多分叱られたに違いありません。でも私は合意の基にかったのですから、ホルエモンみたいに捕まったり罰せられたりすることはないのです。

  「長年の夢がかなって見つけたり大学古書がたった700円」

  「ノジ抜きしカビの匂いの大学を誰が持ちしか思いを馳せる」

  「間抜けなり店番姉さん俺に惚れ大学売ってまだにお釣を」

  「行燈の灯り頼りに読んだ人今はあの世で俺の来る待つ」

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shin-1さんの日記

○金で解決できないことはない

 ライブドアという会社の堀江社長さんが捕まりました。ホリエモンという愛称で呼ばれ、彼の言った「想定外・想定内」という言葉は昨年末流行語大賞を受賞するなど、様々な分野で注目を集めていました。東大在学中に会社を興し僅か700万円の小さな会社を700千億円の大会社にしたのですから、想定内どころか想定外の偉い出世でした。ライブドアの躍進によってインターネット産業の株価は留まるところを知らないほどの成長を遂げ、日本テレビやプロ野球に進出しようとした姿を見て、このままだと日本の全ての会社を乗っ取るのでhないかという勢いさえ感じさせるようでした。彼の発言や行くところ必ず話題が生まれ、新人類として落選はしたものの岡山選挙区で立候補し政界にまで触手を示しました。

 今晩会合が終わって自宅に戻ると、妻はテレビの前に座ってこのニュースの行方をじっと見ていたそうで、風呂の元栓を締めるのも忘れて流しっぱなしなったと興奮気味に話すのです。任意の事情聴取の後逮捕され、今晩は氷点下の独房で眠れぬ一夜を過ごすのだと報じていました。

 経済界、しかもインターネット業界のことなので、我々庶民にはインサイダー取引だの何だの言われてもピンと来ませんが、要は汗水垂らさなくても、頭を使ってキーボード操作で巨万の富を築いたその手法が人をだました行為に当るというのです。人を殺したような犯罪なら分かりやすいのですが、我々庶民には何ら関係のない話のようにも思えるところが大きな特徴なのです。

 プロ野球を買収しようとした時彼は取材に対し「金で解決できないことはない」と豪語していたのが印象的でした。事実金で巨万の富を築いたのですからこれまでの彼の人生は文字通り知識が生み出したマネーでした。しこしこれからは果たして金で出来るかどうかまでは想定外のことだったのかも知れません。

 「策士策に溺れる」という言葉があります。若さゆえに突っ走り、彼の側近も彼のアクセルの踏み過ぎに対してブレーキを掛けることを勧めなかったのでしょう。

 明日の新聞はこぞって一面トップ記事で「堀江社長逮捕」を報じるでしょうが、これも長い時の流れの中では、平成17年の10大ニュースの一項目として記憶の彼方に消えていく運命にあるのです。

  「昨日までチヤホヤされてたあの人が今は冷たい拘置所の中」

  「庶民には何のことやらチンプンカンノーネクタイにどんな罪なの」

  「風呂さえも元栓忘れ釘付けに妻も馬鹿だなそんなニュースで」

  「金もなく被害さえない我が家にはホリエモンさんお気の毒です」

 

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shin-1さんの日記

○親子への話は難しいものです

 毎日仕事であくせく働いていると(自由人ですから講演等が仕事といえるかどうか)、勤めていたころに比べ曜日の感覚が余りありません。「今日は日曜日」だと言われても、サンデー毎日の私にはあまりピンと来ないのです。かつては日曜日が待ち遠しい感じがありましたが、今は日曜日なんて何の意味もないのです。

 今日は日曜日ながら、市内の北山崎小学校の子育て講演会に招かれました。何気なく講演依頼に応じていたのですが、出発間際になって講師派遣申請を見たら、何と小学校5・6年生もPTAの皆さんと一緒に話を聞くようになっているではありませんか。少々驚きましたが仕方がないこととあきらめて学校へ出掛けました。これまでにも親子で一緒に話を聞く企画は何度もありましたが、話す本人としてはこれが中々難しいものなのです。親のレベルに合わせると難し過ぎるし、子どもに焦点を当て過ぎると少し幼稚だし、どっちを取ればいいのか本当に迷ってしまいました。

 それでもやはり子どもを中心にしなければならず、そんな話に終始しました。幸い学校側がワイヤレスマイクを一本用意してくれていたので、子どもにインタビューしながら1時間程度の話を組み立てました。最初は私のインタビューに多少たじろいでいた子どもたちもそのうち心の扉を開いてくれて、活発なやり取りが出来ました。校長先生の話によるとこの学校でも年々生徒数が減少しているらしく300人余りの児童ですが、各学年2クラス合計12クラス、全て40人学級以下だそうです。講演会終了後花束までいただき学校を後にしましたが、迎え方送り方にほのぼのとした温かさを感じました。

 その後所用を終えて家に帰ってインターネットを開いてみると、参加したある女性から素敵なEメールが入っていました。私の話を聞いての感想ですが、こうして反応があるのはとても嬉しいもので、早速お礼のメールを送りました。いやはや便利になったものです。

 子どもにとって私の話はどう感じたのだろうと少し気がかりです。まるでNHKの「課外授業」ばりのざっくばらんな授業だったので面食らったところもあるでしょうが、日ごろ聞いている先生方の話とは一味違う話に興味を持ったことは体感反応として感じました。

  「5・6年子ども相手に授業するまるで蜂の巣みんな元気だ」

  「君の夢マイク向ければサッカーの選手なりたい言う子どもあり」

  「この子らは100年生の木と同じ残った人生あと80年余」

  「ふと漏らす会長リストラされるとは世の中厳し雪の重みか」

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○舩木上次という男

 今日は私が代表を務める「えひめ地域づくり研究会議」の年次総会フォーラムです。松山のにぎたつ会館と郵便貯金会館を会場に夕方遅くまで勉強会が繰り広げられます。毎年この集会に県外からめったに聞けない人の話しを聞こうと講師を招くのですが、今年はこの2年間私と急接近している山梨県清里萌木の里の舩木上次さんをお招きしました。舩木さんは既に昨日の飛行機で愛媛入りしていますが、昨晩彼の歓迎会をごく内輪の人間だけでやりました。

 彼と知り合ったのは2年前、東京で行われた観光カリスマシンポジウムでした。観光カリスマ100選という制度は内閣府や国土交通省が中心になって観光立国を目指して、特徴ある観光地を仕掛けた人たちのノウハウを全国に広めようと国内から選りすぐりのカリスマを剪定しているもので、既に100人の人が選ばれています。及ばずながら私も撰ばれてその末席を汚していますが、選ばれている人はそうそうたる顔ぶれで舩木さんもそのうちの一人です。

 2年前東京高輪のプリンスホテルで開かれたシンポジウムで舩木さんと私が登壇者6人の中のそれぞれ一人として意見を述べたのですが、それ以来気が合って交遊を続けています。先日も山梨県で予定も立てない旅の途中で連絡がつき、楽しい出会いを重ねたところです。

 舩木さんは凄い人です。ポール・ラッシュの精神を受け継ぐばかりでなく、清里フィールドバレーの公演をもう17年も続けている人です。

 昨日は東京へ出るため高速道路を猛スピードで走っていてパトカーにつかまったそうですが、そのことも笑いのネタで笑い飛ばし、スーパーマンのTシャツを着てさっそうと登場して参加者をあっと驚かせるパフォーマンスを繰り広げました。

 彼の口利きで私も随分全国を講演で回っていますが、南牧村の中島美人村長さんたちとの出会いは深くて交流の輪は大きく広がり新しい時代の到来を予感させてくれます。

 今日は彼をメインゲストに物語を進めますが、多分大きな収穫が参加者にもたらされることでしょう。

 人との出会いは不思議なものです。長い友達もいれば舩木さんのように短い間に濃密な関係が出来る人もいます。私にとって舩木さんという人間の存在は観光カリスマとしてでなく、人間牧場構想の北極星のような存在かも知れないのです。

 今日は舩木上次さんの全てをしゃぶります。

  「人に惚れ人に惚れられ人を掘る掘り出し物の宝に出会う」

  「まだ四・五度だけしか会わぬこの男百年前から知っているよな」

  「人違うポールを目指す二人だが生き方似てる強く生きよと」

  「甲斐は山伊予は海なるお国にて見る目視点が全然違う」

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shin-1さんの日記

○平成の傘地蔵物語

 昔々ある所におじいさんとばあさんが住んでいました。年の暮れも押し迫ったある日、おじいさんはまちまで傘を売りに出掛けました。しかしその日はどういう訳か7枚持って行った傘は一枚も売れませんでした。傘が売れれば正月用の餅を買おうと思ったのですがそれも適わず帰路につきました。帰りの峠道で雪が降り始めました。峠には8つのお地蔵さんが寒そうに立っていました。心の優しいおじいさんは持っていた7枚の傘を「お寒いでしょう」と被せ、足りない一枚は自分の被っている傘を取ってお地蔵さんに被せて家へ帰りました。おばあさんに訳を話すと「それはいいことをしました。傘はまた作ればいい」と喜んでくれました。

 その夜二人が布団にくるまって寝ていると雪を踏みしめる足音がしますが二人とも昼間の疲れで寝入ってしまいました。あくる朝鶏の鳴き声で起き、外に出てみると沢山の足跡とともに戸口に沢山の餅とお金が置いてありました。     

 これは多少表現は違いますが久万地方に残る、ご存知傘地蔵物語の要約の一節です。

 今日久万高原町立明神小学校で開かれた人権教育研究大会に招かれました。国道33号の急な坂道をどんどん登って三坂峠を越え明神小学校へ行きました。道の両側には白い雪がまだ残る寒い一日でしたが、私は凄いものを発見しました。明神小学校の玄関に二宮金次郎の銅像が寒そうに建っているのですが、その銅像の首に何とネッカチーフが巻かれているのです。普通であればこんな偉い人の銅像に布を巻くとはけしからんとお叱りを受けるのでしょうが、私はこれこそ平成の傘地蔵物語ではないかと思ったのです。校長先生にお聞きすると、金次郎さんが雪で寒いだろうと子どもが首にネッカチーフを巻いたのだそうです。私は嬉しくなりました。殺伐とした世の中にあって明神小学校の子どもたちの心根の何と優しいことか、時あたかも人権教育の大会だったものですから、そのことを参加者に話しました。そして帰り際運良く持参していたデジカメで一枚パチリ写しました。「明神小学校万歳」と叫びたい心境でした。

 その夜の集会で明神小学校での金次郎の首巻についてあいさつ代わりに話しましたら、みんな感心して話を聞いてくれました。これぞ現場主義なのです。

 私たちは人権について様々な知識を持っています。しかしいざ自分のことになると本音と建前の違いがもろに出て中々実行できません。学校で靴をきちんと並べられる子どもが家では何故並べられないのでしょう。まさに本音と建前の違いなのです。授業参観では人権や差別の現実を発達段階に応じて微細にすばらしい授業が行われていましたが、空想の世界を教材にするのも指導要領に沿っているからいいのかも知れませんが、金次郎さんという生きた教材を使うことも教員には必要な知恵かも知れません。

 教えに行って教えられた今日の出来事は私の心に長く残り、他所で語ってあげたい美談でした。

  「ふと見れば首に布巻く金次郎雪寒かろう子ども優しく」

  「全国に金次郎さんは多かれど首巻きつけた見たの初めて」

  「この子らにこんな優しい心根を持たせし親や導く学校」

  「司馬遼も峠という本出している越えた向こうに理想のふるさと」

 

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shin-1さんの日記

○仕事辞めても来る手紙

 3月いっぱいで仕事を辞め4月から自由人になった私には、手紙など縁のないものと思っていましたが、今でも手紙類は量で我が家に届きます。看護士を目指し専門学校に通う息子が毎日登校前にポストから取り込んでくれるのですが、「何でうちには毎日こんなに手紙が届くの?」と驚くほど届くのです。先日も3・4日家を空けているとダンボールで作った手紙入れは満杯になるほどの量でした。一つ一つ封を切って見るのですが、これが中々の作業なのです。見かねた息子は「お父さんアルバイトでお父さんの秘書になってあげようか」とも言われますが、私にか分からない書類だけに人にも任せられず見処理のものがうず高く積まれています。

 先日ある仲間から「原稿依頼の文書を送ったが見てくれたか」と電話がかかってきました。「えっ、そんな文書いつ送った?。見てない」、「いや確かに送った」のやり取りの末手紙類を調べてみるとありました。直ぐにお断りの電話を入れ、忙しいながら徹夜をして原稿を書き上げて送った始末です。

 これ以外にも講師派遣申請なる文書が沢山舞い込みます。「プロフィルを送れ」「何時に何処へ着くか連絡を頼む」「講演に用意するものは何か」「振込先を同封の用紙記入の上返送してくれ」などなど、もうそれは大変です。相手のスケジュールにあわせ期限を切られるのですが、こちらはそのことをいちいち覚えていないので結果はご承知の通り遅れる始末です。ましてや最近はインターネットで届いたメール返事も余分な手を取られます。

 今年の年賀状も現役のころと変わらぬ枚数でした。出した人、出さなかった人様々なのですが、現役のころのようなチェックが出来ず不義理をしている人もあると思うのですがご容赦下さい。

 えひめ地域づくり研究会議代表運営委員、金融広報アドバイザー、広報区長、観光カリスマ、愛媛大学法文学部非常勤講師などが只今私の公職ですが、その一つ一つに文章がついて回るのです。もう少しの辛抱でしょうが、当分は忙しい文書処理の仕事をこなさなければなりません。手紙を見る度に憂鬱な日々が続きます。

  「出す人がいるから手紙届きます私の名前書く人多し」

  「秘書を置く余裕もなしの身分にて遅れお詫びの電話度々」

  「弁護士の封筒届きギクリする何だ元気か時候あいさつ」

  「女性から私に届いたハガキ読む妻驚ろかずもっと驚け」

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