shin-1さんの日記

○書き順が違う

 人の思い込みは自分には中々気付かないものです。何年か前自分の名前を書いていると、ある顔見知りの中学生が「進ちゃんその字の書き準が違う」と唐突に言うのです。一瞬「えっ」と思いました。私は漢字で自分の名前が書けるようになった小学校2年生ごろから、多分何のためらいもなくその間違いに気付くこともなく自分の名前を書いていたことになるのです。

「若松進一」、これが私のフルネームなのですが、最初の頭文字「若」という字は草冠と右が合体していますが、草冠は十と十を別々に書く草冠と十と十が連なった草冠があります。別々だと4画、一緒だと3画で書けます。昔の人は別々に書く人が多いようですが、今は簡略化して戸籍は別々ながら連なる草冠で通しています。

 中学生が指摘したのは下側の右という字の書き順でした。私は普通右という字も左という字も全て書き順は横「一」から書いて次に「ノ」の字をいました。ところが彼女が言うのには「左」という字は「一」から「ノ」で良いのですが、「右」という字は「ノ」が最初で次に「一」を書くのが正しいというのです。役場の職員にそのことを伏せて私の名前を書いてもらいましたが、殆どの人が「一」「ノ」と書いてくれました。

 心配になって書き方辞典で調べてみると、中学生が言うのが本当でした。「あらあんたそれも知らなかったの」と言われそうですが右は「ノ」から書くのが正しいのです。多分国語の時間に先生は教えたはずなのに聞いていなかったのでしょうねえ。それにしてもこの中学生は偉いと思いました。私の50数年間の間違いを一発で見抜いて指摘するのですから・・・・・・。以来私はそのことに気をつけて書くようにしていますが、それでも長年の癖は抜けず急ぐ時には「一」から書いてしまいます。

 同じような間違いに気付いたのはローマ字です。私のローマ字スペルは「wakamatsu shinichi」です。ところがパソコンでは「wakamatusiniti」でも「若松進一」と出ますから、文字の少ない後者を選んで打ってます。昨年カナダ行きのパスポートを用意するため「自分の名前をローマ字で書いて下さい」と言われて「えっ」と一瞬思いました。いつも書いている後者のスペルを書きそうになってその間違いに気付きました。パソコンでは「wakamatsu」でも「若松」、「shinichi」でも「進一」と変換するのです。姓の中の「h」と名前の中の「h」が加わり、それに「ti」が「chi」に変わっても同じ日本語に変換するのですから面白いですね。

 私の名前だけでもこのように面白いことが発見できるのですから、文字にはどんな物語が隠されているのでしょう。ニュージーランドを旅した時外人が私を「しにちさん」と呼びました。ローマ字で呼ぶと「しにち」になりますね。

  「書き順が違うと女性に指摘され出来た名前は同じ若です」

  「同じよな漢字書いても右左書き順違う未だ分からず」

  「わが名前しにちと読んだ外人に私しんいちボディーで示す」

  「ケーシーが右と左を漫談でホワイトボード面白おかしく」

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shin-1さんの日記

○3年ぶりの復活

石の上にも3年という言葉がありますが、私の所属している「21世紀えひめニューフロンティアグループ」の代表を降りて早くも3年が経ちました。このグループは私が中心になって設立し、私が20年間も代表を務めた程の思い入れのある集団です。「今やれる青春」「一年一事業」「社会への揺さぶり」の3つをテーマに掲げ、「無人島に挑む少年のつどい」「空からふるさとを見る運動」「モゥーモゥー塾」「丸木舟瀬戸内海航海」「竪穴式住居語り部のつどい」など、斬新なアイディアと行動力で愛媛県内はおろか県外にも聞こえた名だたる集団です。  

 思うところがあって13年前に代表の座を降りたいと会員に申し入れましたが、空中分解するからとそれも適わず20年の長きに渡って小さいグループながら会をリードしてきました。「会員が念願だった20年回顧録を出版したら降りる」という条件を一方的に取り付けて、「今やれる青春」という自著本を出版し、3年前代表の座を降りました。これまでの実績が認められて「愛媛新聞賞」などという素晴らしい賞を受賞しましたが、その後の活動は私の意思を継いだ新代表の想いにもかかわらず少し空転、「社会への揺さぶり」などの3つのテーマが果たせなくなっていました。代表の病気も一要因でしたが、僅か10人余りの集団の魅力維持とリーダーシップの取り方の難しさを味わった代表は、僅か3年間でその座を降りたいと辞意をもらすようになり、私の退職もあって断る理由もなく、彼の申し入れを渋々受け入れ、再び代表となったのです。

 代表復帰は正直言って本意ではありません。この歳になって大きな荷物を背負い込むと集団を破滅させるばかりでなく、私の体力さえも奪うことになるからです。相談した妻も最初は反対でしたし私自身も心の葛藤がありました。でも後7年間はこの会を存続し30周年までは続けようと思っていたので、思い切って引き受けました。当面は会員の意思統一と夢の再生産を掲げて立て直そうと先日の総会で決意を述べました。

幸い昨年自らが始めた「人間牧場」を拠点にしたフロンティアグループの活動を始めます。代表だった彼の申し入れで彼も事務局長としてコンビを組むことになりました。彼曰く「代表になる人、事務局長になる人、それぞれに器のようなものがある」のだそうです。代表を務めて初めてそのことに気がついたそうです。何はともあれ再出発しました。

  「三年の時の流れの早いこと千日以上何をしたのか」

  「異文化に触れない人は衰える輝くためにまず人に合う」

  「ジリ貧の会の再生託されて力入れたる夜なべ談義に」

  「傷をなめ慰め合うよな歳じゃない遅くはないぞ未来に夢を」

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