shin-1さんの日記

○今年も今日一日で終わり

 今日は朝から忙しい一日でした。しめ飾りに裏白をつけて、だいだいや半紙で餅、米、干し柿、タツクリなどを包み水引で結んで行くのです。昔はどの家もこのような新年を迎える準備をしたのでしょおうが、今は簡素化され、神棚さえない家もあるようです。迷信や慣習全てを信じろとは言いませんが、古き良き日本の伝統は守って行きたいと思うのです。

 父と連れ立って近くにある墓地に花を供えに行きました。花といってもこの地方では綺麗な花でなくシキビ

です。今朝わが家の畑へ取りに行ったものですが、墓地も正月を迎える準備をしました。

 次男はせっせと家の窓ガラスや網戸の清掃をしていました。我が家は広くて大きいので一階、二階を合わせるとかなりの窓があり、私と二人で二日掛かりでやっとです。次男は朝早くから起こされて眠そうですが、学生の身なので文句も言わず、お年玉に期待のようでした。

 長男と私は昼を挟んでインターネットで注文して送ってきたストーブを車に積んで人間牧場へ運びました。8万円もする鋳物のストーブはかなり立派なもので、煙突は別売でまだセットできないため、使えるようになるのはまだ先のことになるようです。息子の話によると煙突は二重構造になっているものをが欲しいらしく15万円位するとのこと、ストーブを安く買えたと喜んでいたのに多少がっかりです。そろそろ第2期工事風呂整備が始まる予定ですが、オーナーとしては資金が底を付きそうで心配しています。それでも水平線の家の神棚にしめ縄と餅を飾り、ささやかな新しい年を迎える準備をしました。

 午後は私たちが仲人をして今は東京に住む知人の息子さん家族が帰省との知らせを受けて、心ばかりの品を用意し松山へ出かけました。大晦日の道路はしめ飾りをつけた車が行き交いもう正月モードです。多少道は混んでいましたが、お孫さんに心ばかしのお年玉を渡し、警察学校で正月休みになった三男を迎えに行き、一日の務めを終えました。

 妻は休む間もなくおせち料理や年越しそばを作っていました。今年は娘夫婦が大阪へ帰省して寂しいと思っていましたが、息子夫婦がやって来て、妻のおせち料理もし甲斐があるようです。

 今年一年の最後の日は忙しい一日でしたが、充実した一日でした。来年は少し余裕の日々でありたいと願っています。

  「色々なことがあったなこの一年感慨深げ年越しそば喰う」

  「若夫婦加わり賑やか年の暮れ妻はおせちに腕をまくりて」

  「ストーブもインターネットでオークション早く燃さねば風邪ハークション」

  「紅白の知る人少なし妻も歳チャンネル回すがどこもおんなじ」

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shin-1さんの日記

○えっそんなにいるの

 私には父と母がいます。父には私からいうと祖父と祖母がいますし、母にも当然祖父と祖母がいます。1・2・4・6・12・・・・・・とこれも電卓で叩いて行くと、何と私の先祖は10代前には1024人もいる計算になります。「えっ本当」は私たちの時代の疑問符、今の若者は「えっ嘘」なのです。でもこのことは嘘ではなく本当なのです。私という一枚の絵を仕上げるのには1024枚のパズルのコマが必要なのです。

 子ども会などで子どもたちにこの話をしてやりますが、子どもたちにはまだピンと来ないようです。でもこう考えてみると人間のルーツなんてものは相当不思議な世界だと思えるのです。

 私は父と母、父方の祖母は知っていますが祖父は私が小さい頃に死んだので記憶にありません。しかし祖祖母と祖祖父は長生きしたのでおぼろげながら知っています。母方の祖母と祖父は知っていますが、それより先の先祖は知りません。知らないというより教えてもらったことが殆どないのです。歳をとった父は時々先祖のことを話すのですが、耳が遠いせいで父の話はくどいものと決め付け聞く耳を持たないのも正直なところです。でも私たち日本人は自分のルーツについてもっと知りたいと思う好奇心や知る努力をしなければならないと思うのです。

 母の思い出も祖母や祖父の思い出も今の時代ですからパソコンで記録して、後の家族に受け継ぐことだって出来るはずなのです。

 出世した人はかつての貧乏暮らしを隠し、やれ俺の家はどこそこの侍だったとか、やれ家系図だとか言いたがりますが、せめて貧乏でもいいから人となりを伝えるような人間でありたいと思うのです。

 先日島田洋七さんがラジオでおばあちゃんの思い出を話していました。途中から聞いたので分からない部分も多かったのですが、苦労や貧乏の向こうにおばあちゃんの生きた言葉があったと述懐していました。あんなことなら私の母だって随分あると思うだけで、洋七さんのように文章化して本にすることなどするすべさえ知らないのです。

 少し暇が出来たら母の思い出も記録したいものです。

  「俺は何処そこから始まる人探しジジババ意外知る人もなく」

  「洋七さんあんたは偉いばあちゃんの言った言葉を覚えているから」

  「わが祖母は学校行かぬが日記帳カタカナまじり付けていました」

  「言うてたな親の意見とナスの花千にひとつのアダあるものか」

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shin-1さんの日記

○人生分割法

 私は私の人生を30万日生きると想定して5千日で6分割し、一年365日で電卓を叩いてみました。最初の5千日は約14歳で中学2年生です。次の5千日は1万日で27歳、1万5千は41歳、2万日は55歳、2万5千日は68歳、3万日は82歳になります。5千日刻みの日時計ではありませんが、何と驚くなかれ現代人の節目をものの見事に言い表しているのです。

 5千日    14歳は元服です。昔の子どもはここから働き始めました。

 1万日    27歳は大学を卒業しても親のすねをかじった若者が結婚をして新しい旅立ちをする年齢で     

         です。ちなみに私は26歳で結婚しました。今は晩婚で30過ぎないと結婚しない人もいるよう   

         です。

 1万5千日  41歳です。男の厄年は42歳ですが、数えでいくとピタリ厄年3万日の半分、人生の折り返

         し点です。

 2万日    55歳です。昔はこの歳が定年でした。ここから老後が始まっていました。

 2万5千日  68歳です。60歳で定年退職し再就職、年金生活が始まるのです。

 3万日    82歳です。男の人の平均寿命といったところでしょう。

 昔の人は僅か5千日で大人社会の荒波に船出しましたが、その分55歳という若さでリタイアしていました。しかし70歳過ぎから急に衰え死んでいたのです。今の若者が一端大人になるのは大学を出てから3~4年してからでしょうから、昔は早くフライとして早くテイクオフ、今は遅くフライとして遅くテイクオフするから実質働く時間は今も昔も変わらない計算になるのです。

 このように人間の一生を5千日刻みで考えたり参考にしながら生きると面白いものです。私の場合1万日までは冒険の時代、1万5千日までは量の時代、2万日までは質の時代、2万5千日までは仕上げの時代、

3万日までは楽しみの時代と目標に書いています。

 また1万5千日までは信頼の癖を付ける、2万日までは信頼される行動をする、2万5千日以降は信頼される人になるよう努力したいと思っています。

  「5千日区切りをつけて人生を考え生きるも悪くないかも」

  「人生という長旅はどの辺り荷物降ろして少し休むか」

  「目標は3万日ですわが人生今日は2万余りの峠を越えぬ」

  「親父さん字余り人生生きている手は上振って下で振るなよ」

 

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shin-1さんの日記

○好きか嫌いか・損か得か・善か悪か

 この歳になると随分世の中や人々のものの考え方が見えてきて、損得勘定が先に立って、ましてや好きか嫌いか直情的に決めて二の足を踏んで行動するきらいがあります。若い頃は希望に燃えていたため、相手がどんな受け止め方をするかも考えずに、また自分の立場もわきまえず善か悪かで直情的に動いていました。歳をとって昔を懐かしむのは、若さゆえのエネルギーに満ちた行動が出来なくなった証拠なのかも知れません。

 禅問答のような話ですが、今日ある人と話しこんでいたらその人が「もし若松さんだったら」と前置きし、「悪で得と善で損な話の場合どちらを選びますか」と聞かれました。私は難しい質問だなあと前置きし、最近世間を騒がしている建築偽装問題を例にして話しました。姉歯建築士という人は一級建築士という職を得て建築という住の仕事に携わっていました。当然建築法を守り人々の住環境を安全快適にする責務を負っていたのです。ところが仕事を得るために、建築に関わる人々の儲けに加担し、「悪」とは知りつつ「得」を得る人になったのです。その時は「損」をしても「悪」に味方せず「善」を貫き通したら「損」はしたけどこんな結果にはならなかったのだろうと思うと、本人の「後悔は先に立たず」のはずです。

 社会が不景気になると一つの仕事に沢山の人が群がるし、薄利多売をしないと競争に負けて時には倒産もします。でも「悪で得するより善で損する」話の方がはるかに有益と考えます。一流企業はその辺の見極めが出来ているから一流なのであり、木村建設は二流以下だったのかも切れません。人間も一流の人と二流な人とはそこが違うのではないかと、思い浮かぶ周りの失敗した人や成功した人の顔を思い浮かべるのです。

 「若松さん、あなたは一流か」と自分自身に聞いてみました。私は日々貧乏な煩悩に悩まされている一人です。でも「喰えたらいいいわい」や、「お金はあの世へは持っていけぬ」と思えば、多少損をしても善の道を進む一流を目指す男であると少々の自負をして日々生きています。

 他人の足を引っ張ることのない、本物レベルを目指しましょう。

  「あなたなら悪得善損どちら取る突然言われドキリ考え」

  「痛みます息子も同じ建築士分かれ道来て損をしてでも」

  「一流を目指して今日まで生きてきた結果死ぬとき少し間がある」

  「命絶つ人が何と3万人悩み土産にこの世旅立つ」

 

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○様変わりの餅つき

 いよいよ正月が近くなってきました。昨日は藁の袴を取り除いて水で清め、しめ飾りを作りました。昔は囲炉裏の側で父親が器用にしめ飾りを作るのを見て、見よう見まねで縄を編んだものです。しかしどうしても上手く出来ませんでした。それでも父は男の3人の息子にしっかりと手ほどきをしました。お陰で私は中学生になった頃にはいっぱしのしめ縄が作れるようになっていました。あれから45年も歳月が流れましたが、遠洋航海で珊瑚海にマグロを追い正月不在だった高校3年生の時を除けば、毎年しめ飾りを作るのは長男たる自分の仕事と肝に銘じ、しっかりと受け継いできたのです。

 最近はしめ飾りもホームセンターなどに行けば裏白やだいだいが付いたものが売られて、田舎は別ですが殆どの家庭で買ったものを使っているようです。

 私は4種類のしめ飾りを作りました。まずおたまじゃくしといわれるおたまじゃくしに似たしめ縄を10個作りました。車や仏様、水神様用です。玄関は本宅と隠居にありますが、隠居の玄関はおたまじゃくしの大きいのを作りました。本宅は縄暖簾のような格好をしたそれは立派なもので、竹笹に結んで使います。神様は海老の形をしたものです。途中人が訪ねてきて中断しましたが、2時間ほどで仕上がりました。寒い頃なので隠居で父と談笑しながらの作業となりました。多分こうした奉り事をしっかりと受け継いでいる長男を頼もしく思ったに違いありません。

 今日餅つきをしました、餅つきといっても昔のように臼と杵でつくのではなく、生活改善グループの人に頼んで特産品センターの加工場で私も加わってつきました。加工場には立派な餅つき機あって、ひと臼4升ものもち米が蒸気蒸し器から移されてペッタンペッタン自動でついてくれます。つき上がった餅は切取り機で大きさも同じ餅になって出てくるのです。この餅つき機は私が担当していた頃入れたので思いも一入です。

 一斗二升の餅つきは僅か1時間ほどで終了し美味しそうなお餅が出来上がりました。

 餅もしめ縄もおせち料理までも買う時代、正月の意味もあったものではありません。これでは神様や仏様も戸惑っているのではないでしょうか。あーあー、世も末です。

  「縁起など言わぬは良いこと違いないでも正月は目出度くもなし」

  「しめ飾り我は伝統受け継いだでもわが長男興味示さず」

  「もち米が餅になるのを知らない子雑煮食べつつ何と説明」

  「しめ縄を作るわが家の年の暮れみんな元気は神のお陰か」

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shin-1さんの日記

○本の売れ行き好調とか

 5年前の2000年3月31日(20世紀最後の夕日が沈んだ日)を期して出版した「昇る夕日でまちづくり」という本が、まだ売れていると聞いてびっくりしました。元々あの本は3000部を自費出版したのですが、何と1年で3000部全てが売り切れるという田舎ではベストセーラーになった本です。出版会社の勧めもあって2版目を2000部出しましたが、その後私と出版会社が注文を受け付け、その度に全国へ細々と送っていました。今日出版会社の社長さんが見えられ、名古屋の有名な本屋さんから70冊の注文が舞い込んだそうで、本を200冊取りにきました。

 普通自費出版の本は自分で販売すると1500円の本代は全て自分のものになるのですが、本屋さんや出版会社を通すと20パーセントずつの手数料が必要となり、実入りは半額の750円程度になるのです。しかし販売網を利用しないと本は自分で抱えなければなりませんから、自然と本の流通ルートを選ぶようになるのです。経済はこのような還流があってこそ活性化するのですからそれも致し方ないのです。

 それにしても、私の書いたつたない本が4000部を超えて多くの人に読まれ、また5年経た今も注文が来るロングセラーになるのは一体どうしたことでしょう。実はその裏には仕掛けがあって、私が講演に行くと必ず私のプロフィールが用意されます。その末尾には講師の著書として「昇る夕日でまちづくり」とか「今やれる青春」とかが期されるのです。勿論私の話が悪ければ本など読むような気分にはなりませんから、私の話を聞いた人が注文してくれる算段なのです。

 今回の名古屋の注文は2月に講演に出掛ける所が情報の発信源のようで、気を引き締めねばと新たな闘志が湧いてきました。

 多い時は一つの県だけで400冊の注文をいただいた時だってあったのですから驚きです。何気なく人に勧められて書いた「昇る夕日でまちづくり」の本も、「今書きなさい」と言われても書く力がありません。やはり物を成し遂げるには適期があるのかも知れません。ブログを書くのもひょっとしたら今が適期なのかも知れないと思うと、拙文ながら無性に書きたくなってしまう今日この頃です。

  「俺の本未だに注文来るという驚き桃の木山椒の木」

  「酒止めたお金を溜めて本作る努力が何と金を生む」

  「書いてると筆が進むは当たり前恥も掻かずば大くなるまい」

  「まだあった本屋の隅の本棚に捨てられもせず俺書く本が」

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○モーニングセミナー

 早起きの私は毎日朝4時に起床します。今日は倫理法人会の招きをいただいて6時30分からのセミナーに出席しました。元気の良い朝のあいさつや幾つかの心の戒めを唱和するのですが、澄んだ空気を腹いっぱい吸い込んでの言葉は、自分に「頑張って」と応援をしているようでした。

 今までにも倫理法人会だけでなく早朝勉強会に講和を頼まれて参加しましたが、今日は立見席も出来るほどの盛況で、話す私もしゃんと胸を張って45分間話をしました。話しながら会場を良く見渡すと知った顔が幾人もいて、懐かしくも面映く感じましたが、進化した私のこのごろをお話して、今は無事役目を果たせてホッとしています。

 朝早起きをすることの効用は誰もが認めるところですが、今年の冬のように寒いとついつい布団の温かさが慢心を引き起こし、中々起きれないものです。でも諦めず早起きを繰り返すと今日のような良き出会いが生まれるのです。今朝は卓話が終わって名刺の交換が始まると40枚も持参した名刺があっという間に空になってしまいました。ここでもリニュアールした似顔絵入り人間牧場の名刺は人気度抜群で、会話が弾みました。中には「私は名刺を持っていませんがお名刺だけいただけないでしょうか」と頼みに来る女性もいるほどでした。

 今朝は会場が国際ホテルだったものですからセミナー後は朝食をご馳走になりました。 バイキング形式なので私は和食コースを選択し、ご飯、味噌汁、玉子焼き、焼き魚、海苔、納豆、梅干、豆腐、漬物を自分で選んで皿にとって食べましたが、会話しながらの食事は実に楽しく食べることが出来、食後は朝の光を受けてようやく動き出した職場へ三々五々散って行きました。

 今日の収穫は交換した名刺とお願いしていただいた倫理法人会の教科書ともいえる「万人幸福の栞」という一冊の本です。特に皆さんがこぞって朗読した49ページから始まる「子は親の心を実演する名優である」は感心して聞き入りました。親の生き方が子どもの行動を作るのですからうかうか出来ませんね。いい勉強をさせてもらいました。

  「人寝てる間に起きて学ばんと集まる人の意気込み凄し」

  「業績を上げてる会社の社長さんさすが陰徳見上げたものよ」

  「日本人何時の間にやら忘れてる倫理一から教え学ばせ」

  「世の中は利口と馬鹿が同居する考え一つで馬鹿が利口に」

 

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shin-1さんの日記

○病院のロビーは賑やか

 今朝9時過ぎ、私の元へ一本の電話がかかってきました。「お父さん大変、おじいちゃんが交通事故に遭った。直ぐに来て欲しい」と妻からの電話でした。場所は妻の勤めている歯医者さんの近くだというので、車を走らせて現場に駆けつけました。事故のショックでしょうか父はがっくりとした姿で道端に座っていました。

父の自転車に軽四輪をぶつけたおじさんも心配顔で「大変なことをしてしもうた」と動転しているのです。私は父の状態を確認しましたが肩や首筋、それに肘が痛いという以外意識もはっきりしていたので、とりあえず7キロ離れた診療所へ連れて行きましたが、診察したお医者さんから「紹介状を書くから伊予市の専門医院に連れてゆくよう」指示されました。車の中では父が少し血圧が上がって吐き気寒気がするというので、暖房を少し高めに設定し、病院へ行きましたが、何と病院のロビーは満員状態で座る席さえない有様です。

 ロビーを占領している人の殆どは高齢者で、耳も遠い人たちばかりですからつけてるテレビの音などかき消されるような、大きな声で話し合っているのです。受付順番を常とする病院なので、急患といえどもおやじの順番は中々回ってきません。10時に受付をしたのに診察が始まったのは12時近くで、おやじもへとへとのようでした。結局レントゲンの結果肩の骨にヒビが入っていて全治3週間と診断され、白い布で左手を吊り下げる痛々しい姿となりました。事故を起こしたおじさんも心配なのか病院まで駆けつけてくれましたが、「わしは悪くない」という父の不注意もあるだろうから、心配しないように言って帰ってもらいました。もし交通事故にすると大変でしょうからと気をつかったのですが、おじさんが帰って家族と話したのか、夕方警察から連絡が入り、事故処理のために自転車を持って現場へ来るよう、家にいた息子に伝言があり、息子が立会人で出掛けてくれていました。

 まあ、なんだかんだとありましたが、頭も打たず後遺症の心配もないようですからひとまず安心と言ったところでしょう。明日も病院へ連れてゆく予定です。

 それにしても病院は今や高齢者のサロンのようです。足や腰が痛いと注射や物療に、わが町から大勢の人が病院にやって来ていました。顔なじみの人が多く、なにやかにやと話しかけて、その度におやじが・・・・と同じような話をしなければなりませんので、私も多少疲れてしまいました。20年後私も確実に今日拝見した人たちのように年をとるのかと思うと何かしら寂しくも感じ、考えさされました。

  「何処悪いはいじいちゃんが怪我をして問われる度に同じこと言う」

  「病院は今や年寄り楽しみ場会話弾んで痛さやわらぐ」

  「あの薬飲めば満腹なるくらい貰って帰るばあじいちゃん」

  「病院は年寄りつかめば儲かると何処かの医者が豪語していた」

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shin-1さんの日記

○冬の花

 わが家の庭には様々な木が植えられています。松・マキ・クロガネモチ・ヒイラギ・金木犀・ツツジ・ツゲ・南天・モミジ・柏・アセビ・椿など様々ですが、よく観察してみると冬咲く花木がありました。山茶花と椿と梅です。椿は早春の花で少し先になりますが、それでももう早咲きの椿は一輪二論花を咲かせ寒さに震えながらも凛としています。梅は開花宣言が出ないと咲かないのですが、選定をした切れ端を水に差しておくと何と台所で花が咲いているのです。

 今は山茶花が沢山花を咲かせています。生垣のつもりで植えた山茶花は殆ど赤い単弁なのですが、親父の手入れが良いのか地の利を得たのか、幹回りも茶碗程度に太り中々見応えのある木に育っています。

 山茶花はその名の通り茶花なのでしょうが、葉っぱも幹も花までも椿にそっくりです。椿と違うのは椿の花のように首からそっくり落ちるのではなく、花弁が散って何とも風情があります。先日のように山茶花の幹に雪が積ると雪の白と花の赤、それに木の緑が見事にマッチして、思わず抹茶をいただきながら一句ひねりたい心境になります。木の下はこれから少しの間散り行く花の花弁が赤く地面を染めてくれるのも風情です。これまではただただ日々が忙しく、季節の移ろいを感じぬまま時が流れていましたが、「小さい冬見つけた」の心境は風流にもデジタルカメラに収めました。

 今日は人間牧場へ上がって畑の水仙を切ってきます。畑には野生化した水仙が早くも花を咲かせています。正月用に梅の枝も切ってきて欲しいと妻から頼まれました。いよいよ今日から正月の準備作業が始まります。勤めている妻が家を出るとき様々な仕事を頼んで行きます。サンデー毎日の私としてはこれも仕事と割り切って毎日遊んでいます。

  「花愛でる余裕が少しできたのか庭に咲く花綺麗と思いつ」

  「山茶花の宿という歌口ずさみ一輪切りて書斎飾りぬ」

  「花の赤雪の白さに際立って自然織り成す姿をパチリ」

  「末息子記念に貰いしモチの木が切らず育って背丈を越える」

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shin-1さんの日記

○合併で市町村名がグチャグチャ

 私のパソコンには筆王なる住所録ソフトが入っており、幾つかのジャンルに分けて知人友人、それにお世話になっている方々の住所や氏名が登録されていますが、この2~3年で氏名こそ変わらないものの、その人たちの住所は大きく様変わりをしました。特に愛媛県内は昭和30年前後の市町村合併以来半世紀、殆ど変わらず70市町村を数えていました。ところが今回の平成の大合併でその数は20市町となり、愛媛県内から村という自治体は姿を消しました。

 多分移行期間で郵便局では旧の市町村名でも届けてくれるでしょうが、そうもいかず住所録の変更と相成りました。しかし県内はそれなりに変更出来るのですが、県外の住所はいちいち覚えているわけでもなく、年間をかけて直さないと対応出来ないことに気づき、今年は旧市町村名で出すことに決定をしました。

 それにしてもまあ凄い変化です。約千名の住所録の変更がこんなにも時間がかかるものなのかと思うとつい手も進まず、結局昨日は夜遅くまでかかってしまいました。それでも住所録を変更しながらその人の顔を思い出し「ああ、あの人はついぞご無沙汰だが、元気なのだろうか」とか、様々な記憶の人と巡り会って良かったです。とりわけ今年亡くなった人の思い出は鮮明で、喪中のハガキを頼りにその人の名前を消してゆく作業は身につまされました。

 退職を機に年賀状の整理をしようと思って始めたものの、その人の名前は捨て難くついつい残す決断をすると、結局はそんなに減ることもなくその作業は来年に持ち越しとなりました。

 遅ればせながら今日は年賀状の印刷です。昨年までは馴染みの印刷屋さんに印刷を依頼しましたが、今年は自分で私恒例の10大ニュースを書いて印字しようと試みましたが、あいにく上手くいかず、結局は長男の所へ届けて印字をしてもいました。

 私は自分の優柔不断さから、毎年このように年末押し迫らないと年賀状が出来ません。住所録を作った時の「来年こそは」の意思も腰砕けでした。でも来年こそは郵便局に迷惑がかからないようにしたいと思います。

  「あの人のまちの地名は何だっけ慣れぬ名前は辞書にも載らず」

  「俺の町郡を市にするだけでよい合併騒ぎ昨日のようだ」

  「合併し9ヶ月程経ったけど俺の暮らしは殆ど変わらず」

  「えーとえーとと首をかしげて思い出す思い出せない新し地名は」

  

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