shin-1さんの日記

○夫婦仲よくウォーキング

 夫婦といいながら一緒に過ごすのは夕食から朝食までの夜くらいなもので、その夜も殆どの時間を寝ているのですから、夫婦とは時間的には意外とすれ違いが多いものです。一昨日の夜テレビを見ていると妻が、「お父さん一緒に歩かない」というものですから、その気になって「よし歩こう」と、近くの県道を片道1キロ、往復2キロ程度歩きました。下腹のふくらみや体力の衰えを気にしている妻は毎日の出勤はもっぱら歩いています。歩くといっても近所の歯医者さんに勤めているので、片道500メートルの短い距離で、片道ものの5分程度なのです。しかしこの5分でも毎日歩いていると、四国遍路八十八ヵ所のお参り歩きの際は、私が驚くほど健脚になって、むしろ私よりも速い足取りに驚くのです。

 そんなこんなで、最近夕食の後片付けをした後、このところこっそり一人で歩いていたようですが、8月に入り日没がや日暮れが少し早くなって歩く道が暗くなったため私を誘ったのです。二人揃って歩くなんて久しぶりです。ウオーキングシューズに履き替え、午後9時に家を出ました。田舎の夜道は暗く、何時もは明るい中学校前ももさすがこの時間になると真っ暗です。上灘川を渡る橋は黄色味を帯びた外灯が沢山ついてここだけが別世界のような感じです。特別養護老人ホームは24時間明かりのともっている場所で、人の気配は感じないもののどこか懐かしい感じがしました。途中にある高村電器屋さんの入口には自動販売機があって、暗闇の中に一際明るくその存在を示していました。遠くには簡易水道の機械部屋の機械の明かりが見えました。

 妻は普通独りで歩くときは高村電器屋さんまでだそうですが、私と歩くときは長岡さんのお家まで歩きます。暗闇で余り周囲の様子が分りませんでしたが、昨日翠小学校まで単車で走る時見た光景では、もうそこら辺の田んぼの稲穂も出揃い、早いものは頭を垂れて少し色づく気配です。スズメのおどしとして金銀のテープが張られ、中には手づくりの風車が風を受けて勢いよく回っている田んぼもありました。闇夜とはこれらの風景を全て消しているのです。

 暗闇の中で懐中電灯を持って歩いている人に出会いました。女性ですが通りすがりに「こんばんわ」と声を掛け合ったものの、その人が誰なのかは分らず通り過ぎて行きました。多分相手も私たち夫婦が誰であるかは知らないと思いました。暗闇の天空には星が眩いほど輝き、頬を撫でる風も心地よく、上灘川の瀬音が鈍く低く聞こえていました。

 最初の一日目はそこここを通る度に世間話をしながら歩きましたが、二日目の昨日は余り話さず歩きました。妻の健脚は相当なもので、男足の私にもしっかりとついて歩くのです。やっぱり続けることだと思いつつわが家へゴールインです。

 往復2キロだけなのに夫婦とも汗びっしょりです。早速風呂に入り汗を流し、妻の差し出す冷たいお茶を飲みながら、相変わらずチャンネル権を持つ妻の選んだ番組を無造作に見ながら時を過ごしました。その間の話は今週末に迫った伯父の初盆仏事の話と、子どもたちの話です。週末には警察官になっている末っ子が今年になって始めて帰って来るようで、妻はかかってきた電話で「何時に帰るのか。いつまで居るのか。何が食べたい」などと細々したことを聞いていたようです。

 そのうち肩がこったというので、馴れない手つきで肩や足を揉んでやりました。妻は先週末にやって来た孫二人を抱っこし過ぎて腰の具合が思わしくないと理由をつけて腰や足や背中まで揉まされました。まあこれも夫婦円満のコツとばかりのサービスです。ブログに書くようなことではありませんが、まあ夫婦仲良くやっています。

  「夫婦でも 一緒に過ごす 時間など しれたものだと 歩いて思う」

  「暗闇を 二人仲良く 手を振って ウォーク楽しむ 健康のため」

  「今晩わ 通りすがりの 声聞けど 何処の誰だか 分りもせずに」

  「マッサージ 妻の柔肌 揉むものの ムラムラもせず 視線はテレビ」

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shin-1さんの日記

○日程のすき間

私は30年にわたって愛媛県貯蓄推進委員会発行の卓上カレンダーを使っていました。手元に残る一番古いのは昭和49年(1974年)ですから、もう34年も前のものです。2000年からは愛媛県貯蓄推進委員会が愛媛県貯蓄広報委員会、2002年からは愛媛県金融広報委員会とそれぞれ改称されていますが、2004年からはこの卓上カレンダー発行が廃止され、私はそれによく似た愛媛県商工会連合会が発行しているWritinng Calendarを手に入れて、今も自分の人生リレーのバトンを引き継いでいるのです。

 手がすいた時々に30冊を越えるそれらのカレンダーを開けて見るのですが、懐かしい当時の予定がびっしりと書かれていて、その当時の匂いまでもが浮かび上がってくるのです。あんな時こんな時、あの場所この場所、あの人この人と思い出せば切りがないほどの思い出がまるでビックリ箱のように飛び出し、自分ワールドへ誘ってくれます。多分これは私だけのオンリーワンでしょうから、これからも大切にしまっておきたいと思っています。

 さてリタイアしたらもうこんなカレンダーも必要ないだろうと鷹を食っていましたら、ご存知のとおり辞めてからの方が忙しいのではないかと見まがう程にカレンダーの空欄が埋まり始め、今では秘書でも用意しなければスケジュール管理ができないほど藪用が入って、日程調整も一苦労です。

 私の大まかは大学授業活動、講演活動、人間牧場活動、ボランティア活動、個人活動に分けられますが、講演活動も年々歳々活発で、遠くは北海道や沖縄などへも進出して県外へも出かけています。内容も多岐で青少年・女性・高齢者問題からコミュニティ、地域づくり、特産品開発、社員・職員研修、教育文化と幅が広くて、多芸?を披露しています。大学授業は週に一回程度なのですが、今年度から昼間主となって楽しく授業をしています。問題は人間牧場活動ボランティア活動で、特に人間牧場は沢山の方々から問い合わせや訪問希望が相次ぎ、それを日程のすき間に入れるものですから少しオーバーワークになりつつあるようです。

 人間牧場はわが家から約10キロ離れています。普通だとシーサイド公園で待ち合わせをしてスタートしても山道ゆえ人間牧場までは15分かかります。牧場に着いてから戸を開け窓を開けて中へ迎え入れ、色々な話をして見学すると四半日はかかってしまうのです。ましてや公共交通機関でやって来る人などは送迎にも手間がかかり何とももどかしい感じがするのです。

 日程のすき間はいつしか日程の主要な部分を占めるようになりました。でもかつて私設公民館煙会所が自分お主要部分を占めたように、手を抜くことなく人を迎え入れなければと肝に命じているのです。この1ヶ月で3回も人間牧場での宿泊研修をしましたが、「私を巻き込まないで」といっていた妻は相変わらず料理などに気配りをしてくれ、大助かりです。

 日程のすき間といえば、教育関係のボランティア活動も増えてきました。学校評議員や少年少女おもしろ教室など、数えれば切りがないほどの行事や会合が隙間を埋めています。これも行きがかり上背を向ける訳にもいかず、今日と明日は少年少女おもしろ教室のキャンプが翠小学校で行われるため、実行委員長とし?!A6は参加しなければなりません。また明日は上中の学校評議委員会も夜計画されています。

 声がかかる間が花と人はいいますが、そんな言葉を私に言う人は、冷房の効いた部屋で涼しい夏を満喫しているのです。

  「一冊の スケジュール表 八月を めくりてすき間 矢印埋める」

  「八月は 休む予定で スケジュール 開けていたのに 休むどころか」

  「牧場を 作った時に 予感した 通りになって 超々多忙」

  「もう限界 いいつつ笑顔 絶やさずに 人を迎える 俺の宿命」

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shin-1さんの日記

○宇和島市長を表敬訪問

 宇和島市長さんを表敬訪問するため、伊予インター近くのJA伊予駐車場で午前11時に落ち合い、伊予インターから高速道路を宇和インターまで走り、56号線を通って宇和島を目指しました。昨日の宇和島は天気予報が的中し、蒸し暑いものの少し曇っていて少しでしたがかなり強い雨に見舞われました。同行したのはえひめ地域政策研究センターの栗田所長さんと小方主任さん、それに担当の谷本さんでした。谷本さんは宇和島市役所からの出向職員のため昨日の根回しはさすがで、到着時間まで数分の狂いもなく予定通り12時に到着しました。かどやというレストランで昼食を取りました。魚どころといわれる宇和島らしい日替わりランチを注文しましたが、鯛のカブト煮もついて千円以下ですからかなりお得で、ボリューム・味ともに満足のいく昼食となりました。

 表敬訪問まではまだ間があるため、前夜祭の会場として検討している農協会館リジェールのホールを見学に行きました。何年か前講演で招かれたことがある見覚えの記憶をたどりながら2階へ案内されました。ステージ付きの600人収容の大きなホールで、少し古くなったような感じはしましたが、申し分のない会場とお見受けしました。この会場だと宇和島駅からのアクセスも一本道で近く、遠方のお客さんをお迎えするのにはぴったりのようです。

 市役所の窓口は総務課で、渡辺総務課長さんが対応していただき総務課の控え室で戸外の雨を見ながら時を過ごしました。かつて愛青連の会長だった松広さんも総務課の補佐に昇格されていて、久しぶりに短い時間ながら談笑させてもらいました。宇和島市役所は県下の市町でも飛び切り縁の深いところで、沢山の知人友人がいるため、顔を合わせる度に会釈や立ち話に話が弾みました。

 やがて、北村愛媛県市町振興課長さんたちと合流し市長室へ通されました。広い市長室からは宇和島のシンボルである宇和島城と背後に鬼ヶ城という山が聳えていました。残念ながら雨のため鬼ヶ城は小雨に煙っていましたが、中々見応えのある風景でした。


 石橋市長さんには何度もお会いをしているので市長さんも私をご存知のようで、早速表敬訪問の目的である地域づくり団体交流全国大会の冊子を開け概略を説明しました。主会場となる宇和島市には準備や運営、それに人的支援をお願いしなければならず、市長さんもそのことはよく理解されていて、全面的に協力するとのお約束をいただき、安堵の胸を撫でました。

 その後私たちは渡部南予地方局長さんを訪ねました。大森地域政策課長さんや旧友八十島さん、宮川さたちとも出会い、表敬訪問の日程を全て終って、元来た道を引き返して帰って来ました。前日の記者会見、県庁表敬、昨日の現地表敬と慌しい2日間でしたが、それなりの感触を得てホッとしています。

 今回の全国大会が県政の重要課題である南予振興にいささかなりとも役割を果たさなければなりません。表敬訪問で出会った人々の口からも、そのことは異口同音に発せられたメーッセージでした。底抜けに明るいといわれる南予に、本当の笑顔を取り戻したいものです。

 追伸

   一昨日の記者発表の内容が今朝の愛媛新聞に取り上げられていました。

  「二日間 表敬訪問 するうちに 南予振興 奥の深さを」

  「食べ物も 人情さえも 一級品 全国仲間 きっと満足」

  「懐かしき 第二ふるさと 宇和島を 久々訪ね 言葉を交わす」

  「俺などは 金魚の糞の 値打ちにて 付いて歩いて 名刺手渡す」

 

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shin-1さんの日記

○占拠せられたテレビ

 「よくも毎日行く所があるわねえ」と妻が感心するほど最近は出歩くことが多く、滅多に家にいないため、朝の新聞以外はテレビのニュースなども見る機会が少なく、僅かに車の移動時間にカーラジオでニュースを聞く程度なのです。そのため「昨日テレビで見たけど、あんた知っている」などといわれるともうお手上げの状態なのです。そのためでしょうか、家にいる時のテレビのチャンネル権はいつの間にか完全に妻に移行してしまっているのです。私が「こんな番組を見たい」と言い出そうものなら、「二階のテレビで見てよ」と冷たくあしらわれ、ついにはすごすごと書斎に入ってパソコンを打つのです。こうなったら妻と夫の関係は冷めた味噌汁のようで、温め直しても余り美味しくないのです。

 妻は最近サスペンス番組が大好きです。特に右京さんと亀山さんが登場する「相棒」は欠かさず見るし、DVDにダビングして、よく飽きないなあと思うほど何度でも繰り返し見ているのですから、その気持ちが私には分らないのです。

 息子と相談してビデオを買った頃ビデオの録画はテープでした。安売りのようなビデオテープを何本も買ってダビングしていたため、テレビの横の書棚には無数のビデオテープが並んでいました。しかしこれは故障が多く、画質も悪いことから、2年前に新しいDVD用のビデオを買ったのです。最初は操作が面倒なため息子に教えてもらっていましたが、そのうち慣れて今ではリモコンを使って予約入力するなど相当な進化をしているのです。

 妻は読書家で暇さえあれば小説を読んでいました。しかし最近は老眼になったことや、仕事に加え孫の世話、親父の世話など、余りにも仕事が多いため気の休まる時間がなく、そのはけ口としてテレビを見ているようなのです。まあ妻の唯一の趣味として認めてやらねばなるまいと思ったりしますが、それでも時々はまるで子どものようにチャンネル争いをするのです。

 最近は時々やって来る孫のためにマンガや自然、動物といった孫が興味を示しそうな番組の録画もしていて、その番組が元で孫と妻は映画鑑賞にも出かけているようです。

 私は余りテレビを見ない方です。間もなく北京オリンピックが始まりますが、日本と中国北京の時差がそんなにないことから、前回のように妻が夜更ししてテレビを見ることもないようです。

 さてこのテレビ、購入してもう十年が過ぎようとしていますが調子がよく、このままだとデジタル放送が始まるまでは使えるかも知れないと思っています。松山に住む二人の息子の家では既にデジタル放送が入っていて、行く度にわが家のテレビのみすぼらしさを感じています。まあ古いものは新しくなる訳ですから、今に息子たちが売る疚しがるようなテレビを買いたいと、今から目的貯金を始めています。

  「チャンネルを 奪われ俺の 地位いずこ 濡れた落ち葉か テレビも見えず」

  「DVD いとも簡単 操作する 俺より上だ テレビに限って」

  「この画面 何度見たやら 飽きもせず 妻は必死に 相棒見てる」

  「二の次は 私でなくて 孫らしい 落ちたものだな 亭主の地位も」

 

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shin-1さんの日記

○水不足の予感

 北陸のあちらこちらでは水害に見舞われた今年の夏ですが、西日本では連日35度を越える猛暑日が続いていて、気圧配置から考えると当分は雨の降る気配はないようです。何時もの事ながら水はあり過ぎると困るし、なくても困るし、世の中中々上手くいかないものだとしみじみ思うのです。農作物が悲鳴を上げて枯れ始めていますが、農家の方も農作物を守るために必死なようで、水を確保している近所のみかん畑では、潅水のためのスプリンクラーが涼しげに水を空中に向って飛ばしています。

 わが家でも親父が庭の隅にある井戸の水を畑や庭に潅水していますが、焼け石に水といった感じで、さほどの効果もないようで、トウモロコシがついに枯れ始めました。今年はトウモロコシが豊作で沢山食べましたので思い残すことはありませんが、それでも折角つけた実も食べれなくなって処分とは勿体ない話です。

 県内からは早くもダムの貯水率表示が新聞やテレビで報道され、松山市でも公共施設の蛇口に減水工事が施され始めました。簡易水道に頼るわが家ではまだそんな気配はないようですが、みんなで節水に心がけ、何とかこの夏を乗り切りたいものです。

 昨日、松山市の公共施設のトイレに立ち寄ったら、便器の前面壁にやたらと「節水にご協力を」という貼り紙が貼っていました。その貼り紙の下に小さなステッカーが利用者の心を促すように貼っていました。「節水とは水を使わないことではありません。水を必要以上に使わないことです」と・・・・。誰が考えたかは知りませんが、短文ながら的を得た諭しの言葉だと感心しました。私たち男性は余りしませんが、特に女性はトイレに入るとまず水洗便所のコックで水を流してから使用するそうです。用を足した後出る前にもう一回流すのですが、トイレに入って流す最初の動作は果して必要なのでしょうか。折りしも隣の女性トイレに若い女性が入って行きました。別に側耳を立てる野暮な気持ちはありませんでしたが、確かに入るなり水の流れる音が聞こえました。多分使用後は必ず流すでしょうから、この女性も2回流したようです。2回は1回の倍です。女性全てが一回だと相当な節水になるはずだし、ステッカーのメッセージどおり、必要以上に使わないという精神が生きてくるのです。

 まちづくりも様々な目的や方法がありますが、夏になると毎年「節水のまちづくり」が議論になります。しかしこれも夏の間のデモンストレーションのようなもので、やがては忘れ去られてしまうようです。結局は一人では何も出来ないけど、一人から始めないと何も出来ないことをしっかりと意識しなければ節水のまちづくりは出来ないのです。

 夏になると打ち水が恋しくなります。夕方夏の暑さに焼けた庭に打ち水をし、タライに張った水の中で行水をした子どもの頃の懐かしい思い出が蘇ってくるのです。打ち水効果といって、打ち水をすると温度が下げることは色々な実験データーで証明されていますが、肝心の水がなくっては打ち水どころか飲み水にも事欠くことになりかねないため、当分はお預けしなければなりません。

 私の町は海の町で、町の北側には飲めない水ながら海水を満々とたたえた瀬戸内海が広がっています。水が恋しい季節ゆえ、海を見ているだけでも何処となく癒されるのは、人間が海から生まれた由縁かも知れません。せめてこの海で海水浴などを楽しみたいものですが、海水浴を終って陸に上がるとこれまたシャワーで塩抜きをしなければなりません。水の少ないわが町にとっては痛し返しの苦悩の日々が当分は続きそうです。

  「節水は 水を使わぬ ことでなし 必要以上 使わぬことだ」

  「打ち水の 庭でタライの 行水を 懐かし思う 俺は古いな」

  「人よ来い 人は来たけど 水使う 痛し返しの 夏は当分」

  「俺ぐらい 思う心が 集まれば 不足不足で 間もなくピンチ」

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shin-1さんの日記

○県庁で記者会見をしました

 私が愛媛県青年団連合会長の要職にあった38年も前に、国立青年の家の誘致問題で、県庁の記者クラブで記者会見に臨んだことがありました。当時は若くて居並ぶ新聞記者の前で滅茶苦茶緊張して、質問にも答えられなかった苦い経験がありますが、今日同じ記者クラブで記者会見に立ち会いました。11月に開催予定の第26回地域づくり団体全国研修交流会愛媛大会の記者発表を行うため、実行委員長を務める私と副委員長の北村県市町振興課長さん、栗田えひめ地域政策研究センター所長さんの3人に加え、事務局の小方主任研究員と谷本研究員の5人が席に付きました。
(ポスターを貼った前に陣取り記者発表する面々)
(テレビとプレスへの同時発表)
 実行委員長の私が「この大会は、全国各地の地域づくり活動に携わる関係者が一堂に会して、情報交換をおこなうことにより、自らの活動を活発にする『地域づくりの智恵』の獲得と、より地域を元気にしたいという『地域づくりにかける情熱』を高めあう契機とするため、開催するものです。平成6年の東京での開催から始まり、各都道府県の持ち回りで開催され、今回の愛媛大会で26回目となっています」と、愛媛大会の開催趣旨を説明しました。

 続いて「お配りしている資料の愛媛大会募集要項冊子をご覧下さい。冊子の表紙に記載しておりますとおり、『きなはいや伊予の国~広げよう地域づくりの輪』を大会テーマに、11月14日と15日の2日間にわたり、南予文化会館での全体会及び県内15会場で分科会を開催します。開催地は全体会は宇和島市の南予文化会館で、分科会は南予地域を中心とする13市町の15団体で実施します」と延べ、大会参加募集などについて粗方を述べて、私の説明を終りました。

 その後記者の方々から質問を受け、課長さんや所長さんが補足説明して記者発表は10分ほどで終わりました。あっけないような気もしましたが、資料に基づいてこの程度で記事を書くのですから、ジャーナリストは偉いものです。

(発表を聞き取材する記者の皆さん)

 そのご局長さんや後総務部長さんにもお会いし、知事さんと副知事さんの所へごあいさつに伺いました。役所に勤めていた頃は町長さんの随行で何度も知事さんや副知事さん、それに総務部長さんにお会いする機会がありましたが、リタイアして野に下ってからはそんな晴れがましい世界から姿を消したため久々の表舞台でした。

 それでも知事さんはしっかりと私の顔を覚えていていただき、全国大会の話題は勿論のこと、私が国土交通省の観光カリスマに選定されていることを話題にして優しくお話していただきました。そして「願わくば全国大会への出席もお願いしたい」とご依頼したところ、直ぐに11月の予定表を取り寄せ、出席する旨の快い返答をいただきました。県知事さんに何の前触れもなく大会への参加を直訴することなどあるまじきことなので、退席する時自責の念に駆られましたが、にこやかな笑顔で見送られそれが救われた思いでした。これで実行委員会のメンバーの大会への思いもさらに高まるものと思われます。

 続いて副知事室を訪問しました。就任して一度もお会いしていませんでしたが、雑談でお互い若い頃コミュニティの仕事をご一緒したことや、その折私に講演を依頼しており、ひょっとしたら県庁で私に講演を依頼した第一号ではないかなどと笑って話されました。知事にせよ副知事にせよ、私のような下野の人間をよく覚えているものだと感心しました。

 秘書課の課長をしている井上正さんも知事応接室へ面会に来ていただきました。夢工房の仲間でありながらこのところ出会いがなかっただけに嬉しい限りです。

 県庁へは今は余程のことがない限りおいとまをしています。目障りになってはいけないという思いと、自分の値打ちを考えてのことです。たまには立ち寄ってと、友人や知人からお誘いを受ければ受けるほどその敷居は高くなるようです。県庁の廊下でばったり元県議会議長の俊成さんにお会いし、声をかけていただきました。俊成さんは未だに誕生日の祝詞ハガキをいただいています。

 はてさて久しぶりの県庁は少し疲れました。明日はいよいよ合戦の舞台となる宇和島の市長さんを表敬訪問する予定です。こうして少しずつ着実に全国大会の準備は整い、近づきつつあるようです。さあ気を引き締め成功に向けて頑張りましょう。

  「マスコミに 大会概要 説明し 記者の質問 無難にこなす」

  「これ最後 多分もうない 記者の前 頭を下げる 場面じゃなくて」

  「知事さんが 観光カリスマ 引き合いに 出していきなり 驚きました」

  「偉い人 みんなそれぞれ 苦労あり 下野の私に さえも気遣い」


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shin-1さんの日記

○愛媛大学のフィールドワークで長浜町を訪ねる

 学生たちにとっては8月~9月と2ヶ月間の長い夏休みが始まりました。アルバイトに勢を出す学生にとってはかき入れ時とばかりに働く学生もいるでしょうし、久しぶりの休みをふるさとへ帰郷して久しぶりにのんびりする人もいるでしょう。また旅や遊びを友人たちと計画して楽しむ人もいるようです。まあ2ヶ月思う存分充電して欲しいものです。

 本来なら7月28日に計画していたフィールドワークの授業が、学生たちの期末試験の都合で、夏休み中にずれ込んでしまい昨日実施する事になりました。授業の組み立てから折衝まで全て自分がしなければならないため、最初は多少戸惑いましたが、6年目になるとさすがに要領を得たもので、あらかじめ大学に提出したシラバスと予定表に沿って今年は中島町、中山町、長浜町と偶然にも「な行」から始まる三つの旧町を選びました。既に中島町と中山町は終わり、昨日事前に足を運び依頼していた長浜町の役場を訪ねました。

 学生たちはもう大人なので、最初の頃のように大学入口から引率することはせず、汽車の予定時刻や到着時刻を知らせ、私は長浜駅まで車で出かけ、到着時間を待ちました。何時もの事ながら一人ぐらいは都合が悪い学生がいるもので、岡本君は家のご不幸で欠席通知が事前にありましたし、長浜へ向う途中学生から列車に乗り遅れたと携帯が入りました。次の列車で遅れても来るように指示を出し、揃ったので日差しが照るつける中を長浜町支所へ向って歩きました。意識して商店街を歩きましたが、商店街も次第に活気を失いつつある姿が印象的でした。


(支所2階の会議室での研修会)
(西岡支所長さんのレクチャー)

 長浜町支所では案内された冷房の涼しい2階の会議室に案内されました。この会場はかつて私が現役の頃、予讃線海岸回り存続のために設置された協議会の総会などで度々訪れている懐かしい会場です。今はこの建物全体が登録文化財になっていて、古い建物の威厳と重みを感じさせてくれました。10時半から始まった研修会は西岡支所長さん自らが講師になって、あらかじめ作製していただいた資料に基づいて微細なお話をしっかりとレクチャーしていただきました。長浜町は旧他市町村と違い埋め立て造成地による企業誘致を政策の柱に掲げて町政をやった町です。合併前と合併後のまちづくりもさることながら、企業誘致の思惑と現在の様子を比較する絶好のサンプルとなるお話なので、しっかりと勉強するよう学生には事前に話しをしておきました。

 レクチャー後質問座談をしましたが、学生たちは食事の時間を割いて質問をし、支所長さんも熱心に答えていただきました。西岡支所長さんはじめ役所の方々の中には顔見知りも多く、今回のように無理をいって受け入れてもらい、お礼の言葉もないくらい感謝しています。

(長浜高校水族館の入り口)

(珍しいクマノミ)

 食事が終った午後からは現地研修です。歩いて行ける距離ということで長浜高校と赤橋の2つの地点を選んでもらいました。最初に訪れたのは長浜高校です。生徒数も減少している長浜高校ですが、ここは普通科ながら学校内に手づくりの水族館がある珍しい学校です。その中心的な役割を果たしている松本先生はあいにくクマノミの件で沖縄に出張中でしたが、角田校長先生が生徒とともに出迎えてくれました。聞けば角田先生は大洲市田処の亀本耕三さんを通じて出合ったことがあるらしく、懐かしく話しを聞きました。小さな田舎の高校でもこうしたオンリーワンの輝きがあるのですから、やる気になれば面白いと思いました。学生たちは始めて見る不自然な自然に目を見張り、生徒さんの説明を熱心に聞き入っていました。お礼のつもりで募金箱にもみんなで御芳志を入れさせてもらいました。

(赤橋)

 次の目的地は赤橋です。有形登録文化財になっている赤橋をボランティアガイドの山本会長さんに説明してもらいました。そして私たちのため車を止めて赤橋を稼動させ上げて貰いました。こんなサービスまでして貰い嬉しい限りです。

 赤橋のたもとに見落としそうな江湖の港があります。ここは脱藩の道をたどった坂本龍馬が肘皮を小船で下って入港し、山口県へ出港した港として歴史家には有名ですが、地元では忘れ去られたような存在のようで、余り関心がないようです。近くにある龍馬宿泊の旅籠跡も見学させてもらいました。

(山本さんの説明に聞き入る坂本龍馬ゆかりの江湖の港)
(坂本龍馬宿泊地)

 その後あいさつのつもりで村上薬局に立ち寄りましたが、知人の店主村上さんからよく冷えた栄養ドリンクを学生の数だけいただき、恐縮してしまいました。学生たちは4時10分長浜駅発まで約1時間を暑いがゆえに散策もままならず、苦労したと思いますが、これも修行と思い私は次の予定があるので、早々に長浜をおいとましました。

  「合併で 次第右肩 下がってる 地方の嘆き 上に届かず」

  「いいものが 沢山残る 隣り町 古き値打ちに 思わずゴクリ」

  「暑いのに ガイド引き受け 切々と 語る額に 玉汗光る」

  「有り難い 昔馴染みの よしみにて 気配りもらい 学生学ぶ」

  

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shin-1さんの日記

○三井典行さん55歳のご逝去

 最近私の身の回りで、私より早く人生を終える人が目だっています。今日は前双海町商工会長だった三井典行さんが亡くなり、その通夜が営まれるというので伊予市の葬祭場へ出かけました。最近は葬儀どころか通夜までも葬祭場でするため、私の町のように葬祭場のない地域では車で出かけなければならず、車に乗れないお年寄りは参列したくても中々参列することが出来ず、心残りな人もいるようです。

 それでも三井さんの生前の幅広いご厚誼を物語るように通夜には沢山の人が参列していて、在りし日の三井さんを偲びました。

 三井さんは私の末の弟勝彦とおない年の55歳です。若くして商工会長の副会長や会長を歴任し活躍したため、それ相応の年齢に勘違いされましたが、今朝の新聞のお悔やみ欄を見て皆一様に歳の若さに驚いたようです。今日は喪主の奥さんと典行さんのお父さんが列席していましたが、若くして夫をなくした奥さんも、自分より先に逝くお父さんも無念の涙を流し、参列者の涙を誘いました。

 三井さんはいわゆるUターンです。広島に支店のある銀行に勤めていた頃奥さん(多分広島県尾道辺りの出身では)と知り合い、船に乗ってお輿入れした瀬戸の花嫁なのです。この話題は数年前NHKのテレビで小柳ルミ子が下灘駅にやって来た折全国に紹介されました。

 彼はUターン後酒屋と旅行業を興し、様々な活躍をしました。小さな田舎の酒屋でありながら全国の名だたる銘酒を扱い、特に銘酒の誉れ高い久保田の特約店として、松山辺りからも買い求めにやって来るほど知名度の高いお酒屋さんなのです。旅行業を営むため酒店はもっぱら愛嬌のいい奥さんが切り盛りしていましたが、おしどり夫婦と呼ぶに相応しい仲でした。旅行業も小さな田舎ながら活発に展開して、何度も一緒に旅をしましたし、その都度遅くまで夢を語りながらお酒を一緒に飲みました。

 商工会は今年の春中山町と双海町が合併し双海中山商工会となりましたが、合併直前の会長であり新組織の副会長に就任していましたし、そのご縁でシーサイド公園を管理運営する第三セクター有限会社シーサイドふたみの代表取締役として活躍されました。数日前も所長さんと三人で話し合った矢先の訃報に驚いてしまいました。三井さんは銀行に務めていたため経済に明るく、それでいて新しいことにも挑戦するなど常に前向きな人でした。1年前くらいから体調を崩してただでさえ痩せた体がさらにほっそりして、周りを心配させていましたが、それでも気丈な方で弱音を吐かず最後までシーサイドの運営についても心配をしていたようです。

 今日の通夜では久しぶりに何人かの人に出会いました。親父の同級生で今は他所の町に住んでいる井上サカエさんは90歳ながら変わる様子もなく矍鑠として通夜に参列していました。「お父さんは元気」と親父のことまで気にしてもらい恐縮です。三井典行さんと親類の三徳電器社長の三井新太郎さんとも久しぶりの再会です。新太郎さんは私の直ぐ下の弟と同級ですがご活躍で、これまで様々なご支援をいただいているので懐かしい出会いです。また元商工会長で私と従兄弟の西下芳雄さんとも久しぶりに出会いました。奥さんが少し病弱で炊事をするなど苦労しているようですが、まあ元気に歳をとっていました。また関西汽船の浜田さんにも出会い、さらには懐かしい私の生まれ在所の方々の顔にも出会い旧交を温めました。これも三井典行さんのお導きと考え、冥福を祈りながら葬祭場を後にしました。

 明日は重要な仕事があって葬儀には参列することが出来ず、帰り際最後の分かれてして亡き典行さんのご尊顔を拝ませていただきました。穏やかな死に顔でした。

  「また一人 早いあの世の 旅立ちを 涙ながらに 寂しく送る」

  「穏やかな 死に顔拝み 葬祭場 フロントガラスに 消えては浮かび」

  「酒愛し 旅を愛した 男逝く これも生き方 短き命」

  「抹香を 手向けて煙 立ちのぼる 涙こぼれて ハンカチ拭う」  

 

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shin-1さんの日記

○新しいパソコンが届く

 パソコンに不具合が生じると決まったように電話をかけて何かと世話になっている娘婿に、不具合の状態を診てもらっていましたが、パソコンの中から異音が聞こえたり、アクセスが出来なかったりするようになって、いよいよ末期症状だと余命宣告されていました。「今の間にパソコンに入っているデーターを移佐内と、故障してからでは遅い」という娘婿の助言を受け入れ、ついにパソコンを買う事にしました。まあパソコンの値段は高いといってもひと頃ほどではないといいながら、リタイアのこの身では妻をないがしろにして臨時出費をする訳にもいかず、妻の財布から出してもらう事にしました。

 娘婿は私の都合を聞き、どの程度の機能を使いこなせる能力があるか、またどの程度の資金が適当かを判断し、インターネットで注文をしてくれました。2~3日前に娘を通じて電話が入りパソコンが手に入ったので夏祭りを兼ねてわが家へ来てデーターの移動をしたいということで、昨日わが家へやって来ました。娘や孫は前日から来ていたため予讃線海岸周りの鈍行列車に乗っての合流です。私はあいにく入れ替わりで3時から友人の葬儀に出席しなければならず、日頃は余りつけない客間のエアコンをつけて、その中での作業でした。葬儀から帰ってみるとその作業は仕上げにかかっていたようでしたが、私は孫の面倒を見ながらその時期を待ちました。

 やがて夏祭りの花火見学にやって来た長男家族も揃い、賑やかな食事の後、そろってシーサイド公園への花火見学です。前夜長浜の花火見学をしているため、私たち夫婦と孫朋樹にとっては花火の梯子とでも言えそうです。

 昨日の今日とでもいうべき花火の比較が出来ましたが、やはり長浜の花火の規模から比べるとふたみの夏祭り花火はかなり見劣りがしました。でも花火を見る角度やシチュエーションは劣ることなく、むしろ一枚上のような感じもしましたが、これも我田引水なのでしょうか。


 花火の寄付を集め花火の打ち上げ計画を立て、許可を得て当日の運営をするといった裏方としての20年に比べると、他岸の花火としゃれ込むのは何とも贅沢な感じがしましが、今もかつての私と同じように努力する裏方がいるのですから、花火が上がる度に人一倍大きな拍手を送りました。今年の花火もいい花火だったと見学した誰もが満足して帰りました。5歳になる孫は花火より夜店での買い物、1歳になった孫2人は花火よりも眠気と、花火が終った頃には花火の音など何処吹く風でスヤスヤ眠っていました。

(孫尚樹君とお母さんとおばあちゃん)
(孫希心君とお母さん)
(孫朋樹君)

 「お父さん、パソコンは一応使えるようになりましたので、何か不具合があったらこの箱の中の説明書を読みながら使ってください。分らない時は電話してください」といって、家族とともに帰って行きました。真新しいパソコンは私の机の上に、新旧比較という感じで並べられています。今日は大学のフィールドワークの授業があって出かけるし、明日から今週は忙しい日程が組まれているため、本格的な始動は来週からになりそうですが、さてこのパソコン、私のいうことを聞いて働いてくれるでしょうか。

 使いこなせるようになるためには、これまた私の進化が必要なのかも知れません。パソコンが2台になって何となく安心していますが、妻はこの際私のパソコンを下取りしてインターネットを始めようかと、要らぬ考えを持ち始めています。「不味い」と思っています。これまで妻の悪口を散々ブログに書いているだけに、読まれてはいけないのです。これからは想定外のことを想定に入れて書かなければならないようです。少し憂うつです。

  「新しい パソコン入荷 娘婿 半日かけて データー移す」

  「黒基調 若者向きの パソコンが 机の上に 眩く光る」

  「機能より 使いこなせる 技術力 妻の財布に 感謝をしつつ」

  「ただ唖然 見ているだけの わが身にて パソコン使う 婿の頼もし」

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shin-1さんの日記

○ホタルを愛した友人の死(福岡親一郎さんを悼む)

双海町の上灘川に生息するホタルは、ある時期絶滅したのではないかと思うほど激減していました。原因は特定できませんが地域の特産品であるみかんの最盛期は、見た目の美しさを追及する余りに何の疑いもなく農薬をかけ、耕して天に至ると形容されたみかん畑から多くの農薬が川に向って流れ込んでいました。又人々の暮しの近代化によって各家庭の台所から出る雑排水も川に流れ込みました。そうした諸々の原因が複合的に絡み合い

川に住むホタルはいつの間にか姿を消していたのです。

 しかし若者たちが中心になってホタル復活運動が起こり、その運動は地域ぐるみの大きなうねりとなって見事にホタルが復活し、環境庁ふるさと生きものの里百選に選ばれるなど、地域づくりの大きな成果を上げてきたのです。その中心になった人々の中に福岡親一郎さんがいました。彼は若い頃から地元のタクシー会社に就職しタクシーの運転手をしながら、ホタルの保存運動に取り組み、ホタルの増殖活動や普及啓発に大きな足跡を残しました。福岡さんはその後タクシー会社を辞め土木業の会社に勤めましたが、ホタル保護活動はその豊富な経験を持って絶えずリーダーとして活躍してくれていたのです。しかし昨年暮れ辺りから体調を崩して通院・入院となり、8月1日に亡くなったのです。

 病院に一度だけ見舞いに行きましたが、そのころは入院中とはいいながら未だ元気で、「元気になって早く帰り、みんなでまたホタルの活動を始めようぜ」と握手をして分かれたのでした。

 歯に衣を着せぬ口調は滑らかで、酒も好んで飲みました。私もホタルによるまちづくりに深く関わっていたため、深夜まで盃を酌み交わし議論を戦わせましたが、親ちゃんの愛称で呼ばれた彼の早過ぎる死は惜しんでも余りあるものがあるのです。

 今日は葬儀が伊予市にある葬祭場であり列席しましたが、奥さんや子どもさんのこともよく知っているだけに、何と言葉をかければいいのか迷うほどでした。和尚さんの読経や引導の儀が終了し、最後のお別れの時お顔を拝ませてもらい花を手向けましたが、180センチもあった大柄な彼のかつての姿はなく、細く痩せていたゆえに辛くて辛くて涙がこぼれました。この上は心から冥福を祈るばかりです。

 福岡さんの功績は上灘川にホタルを呼び戻したこともさることながら、近隣市町村である松前町へホタルの指導をしたことも特質されます。その橋渡しを二人でやったので、余り人に知られていませんが、伏流水の池にホタルを飛ばそうと何度も足を運びました。

 人は誰もいずれ死ぬ運命にあります。早い死、惜しまれる死など色々ですが、福岡さんの死は早い死、惜しまれる死かも知れません。6月7日に恒例のふたみホタル祭りが開かれた折、一時帰宅して車椅子でホタル祭りを見学に訪れていたいたそうですが、あいにく私は岡山県笠岡市へ出張していて顔をあわせることが出来ませんでした。出会った人の話によるとかなり痩せていて、一応に驚いたという話を聞きました。

 今年は彼のこんな姿をホタルは予期したのか、例年になく多くのホタルが乱舞しました。彼にとってこれが最後のホタルとなったようですが、彼の目にホタルはどのように映ったのでしょう。この上はホタルの光に導かれながら天国へ行って欲しいものです。ご冥福を心からお祈りします。

  「田舎にて ホタルを愛した 男死ぬ 乱舞見届け ホタルとともに」

  「プラスワン ホタルに思い 寄せながら 短い命 ついに消え去る」

  「死に顔に どこかホタルの 匂いする 花に埋まった 友に別れを」

  「また一人 仲間が死んで 消沈の 夏は盛りと セミの鳴き声」



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