shin-1さんの日記

○二枚の懐かしい写真に出会いました

 年末年始の慌ただしい日々も一段落したので、昨日は久しぶりに尻に火がついた形で色々な仕事を片づけました。年輪塾のチーフプロデューサーである清水塾頭が年末から年始にかけ、腕まくりして今年のテーマである二宮尊徳に傾注している姿を見て、塾長も動かねばと止むに止まれぬ行動です。清水さんから「塾長の年頭のあいさつをメールで」との督促もあり、急いで書き上げました。また今月で廃刊となる予定の「自悠くらぶ」の連載エッセー記事を書いてメール送信したり、はたまた動き出した今年の仕事の段取りメールもしたりと、パソコンもフル稼働しているようです。

 昨日は二宮金次郎銅像探検隊などと戯言のような名前をつけ、一人で町内の小学校3校を訪問し、居合わせた校長先生たちとその来歴や二宮金次郎について意見を戦わせました。双海町の由並小学校と翠小学校には二宮金次郎の立派な銅像があることは知っていたのですが、私の母校である下灘小学校には私の記憶の彼方には二宮金次郎の思い出があるものの、銅像が二宮金次郎から野口英世に変わっていて、そのルーツも興味があったので、ぶらり立ち寄ってみました。

若松進一ブログ
(由並小学校の二宮金次郎)
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(翠小学校の二宮金次郎)

 辻井校長先生とは一昨年、青少年赤十字大会の記念講演を頼まれたりして面識があるので、気ままに案内された校長室でお茶をいただきながらお話ししたところ、学校の史料室からアルバムを探して持ってきてくれました。早速お目当ての写真を探していると、何と私たちの卒業記念写真が出てきました。私が下灘小学校を卒業したのは、昭和31年ですから双海町という町が合併誕生した明くる年なのです。

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(私が写っている昭和31年度卒業記念写真)

 古い木造校舎をバックにして、先生全員とともにお行儀よく写真に収まっている自分の顔写真を見て、歴史の重みをしみじみと感じました。お目当ての二宮金次郎の銅像の写真もほどなく見つかりました。

 記憶をたどれば、「二宮金次郎が何の本を読んでいるのだろう」とこの銅像の台座によじ登ったのは確か小学校2年生の時でした。運悪く通りかかった黒田丈衛校長先生に見つかり、校長室で天罰として1時間正座をさせられました。校長先生は私に、「お前はなんであんな危な所へ上がったのか」ととがめました。「何の本を読んでいるか調べたかった」、「バカたれ、あの本にはいろはにほへとしか書いていない」と戯言のお叱り言葉を返されました」。私はその後も二宮金次郎の読んでいる本は「いろはにほへと」とばかり信じていたのです。

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(見つかった幻の下灘小学校の二宮金次郎写真)


 早速卒業記念写真と二宮金次郎の銅像写真を、西尾先生にお願いしてスキャンしてCDに入れていただきました。自分の卒業写真もさることながら、下灘小学校の思い出の二宮金次郎に出会えるなんて、思いもしなかっただけに大きな大きな発見でした。

 ちなみにその後この金次郎は受難したエピソードがあるので付け加えておきます。下灘小学校は運動場が狭く、子どもたちや地元の人がソフトボールをするのには窮屈で、少し大きなフライを打つと講堂の屋根やシンボルのイチョウの木によく当たりました。その都度勝手に決めたルールのエンタイトル2ベースなどが適用されるのですが、このボールが二宮金次郎の手に当たり、ポッキリ折れてしまったのです。ゆえにかなり長い間この二宮金次郎は身体障害を余儀なくされたのです。こうした学校の裏話はもう私のような古い人間とともに記憶から消えて行くのでしょうが、願わくば金次郎の銅像の思い出は長く伝えて欲しいものだと思いました。


  「偶然に 見つけた二枚の 写真見て 感慨深く 少し涙が」

  「この台座 上がり校長に 見つけられ お仕置きされた 昔懐かし」

  「バカたれが いろはにほへとと 書いている 嘘を教えた 校長悔し」

  「この写真 やっと陽の目を 見ましたね 皆に言っても それがどしたん?」 

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