○ほたる保存会長の河野喜由さんが亡くなりました
私の友人である河野喜由さんが亡くなりました。68歳の少し早い人生を区切った旅立ちに衝撃を受けています。河野さんが亡くなったという第一報は、年輪塾大番頭の米湊さんから出張先の八幡浜へ携帯電話でした。わが耳を疑うようなニュースに驚きましたが、「詳しいことは後ほど」という米湊さんの電話を受けながら、私の従兄の夫である豊岡強さんも亡くなっていて、通夜も葬儀も同じ時間だと困惑を隠せませんでした。こんな場合は身内の葬儀が優先するので、夕方身内の通夜に列席しました。最近は通夜も冠婚葬祭センターですることが多く、月心会館港南で通夜を済ませて、帰りに河野さん宅へ向かいました。この夜は河野さんの死を悼むように河野さん宅へ着いたころには雨がポツリポツリと、まるで涙雨のように降ってきました。
河野さん宅には既に身内や友人が沢山詰め掛けていて通夜の真っ最中でしたが、一通りのあいさつを済ませ遺体と対面をさせてもらいました。奥さんの照子さんも時折涙で顔を濡らしながら気丈にも笑いながら思い出話をしてくれました。
河野さんと私の出会いはかなり昔で、実家の跡を継ぐために就職先の愛知県から奥さんとともに実家にUターンした時からです。その頃私は町の中央公民館主事をしていて、河野さんの住んでいる三島自治公民館は夫婦学級などの学習活動が盛んで、私も月に一度程度その場にお邪魔していましたが、河野さんも奥さんもどこかと階の匂いのする異文化を持っていて、何かと気が合い何かと話し込んだものでした。河野さんは帰郷後生命保険会社へ就職し、詳しいことは分らないものの会社の所長などを経て定年退職後は奥さんと農業をやりながらのんびりと充実した暮らしをしていました。
請われて地元のほたる保存会の会長に就任してから急速に私との縁が深くなり、何かにつけてまちづくりについて大いに語り合ったものでした。河野さんは一昨年双海町も分科会場として参加した地域づくり団体交流全国大会の分科会実行委員長として事務局を担当した米湊さんとともに、実行委員会にも欠かさず参加をしていただきました。私が全国の実行委員長をしていたこともあって、まるで親衛隊のように付かず離れず名サポーターぶりを発揮してくれたのです。
穏やかながらしっかりとした理念や理論を述べる、翠小学校を中心としたグリーンツーリズムの中心人物的存在として、これからもリーダーシップを期待していましたが残念でなりません。
河野さんとはこの2年間、伊予商業協同組合理事長徳本さんとともに、私がお世話している限界集落の勉強会
にも殆ど欠かすことなく参加して、楽しいおしゃべりをしていました。
最近は健康診断で引っかかって入院するなど体調の変化もあったようですが、年末に風邪を引き少し体調を崩されたことが引き金で、あっという間の天国へ召されてしまいました。年末に丸山町長さんの葬儀で出会ったのが最後となってしまいました。
退職後も都会暮らしのダンディーさは変わらず、田舎暮らしの私などは酔わせるような河野さんのカラオケの歌声に、何度感心したことでしょう。偶然にも聖浄苑で豊岡さんと同じ時間の待ち時間だったため、葬儀には出席できませんでしたが、奥さんの照子さんやご遺族ともあいさつを交わすことができました。
年末年始は葬儀が多くこの二日間は通夜や葬儀のまるで梯子のような忙しいくも悲しい二日間でした。河野さんと豊岡さんのご冥福を心からお祈りします。
「枕辺で そんなに急いで 何処へ行く 心で語り 涙流しぬ」
「Uターン したころ彼の ダンディーな 姿見ながら 憧れました」
「通夜葬儀 まるで梯子の 忙しさ 悲しみながら 二日過ごしぬ」
「惜しまれる 人は早いと 俺に言う じゃあ俺要らぬ 人なのかしら?」