○一枚のポスターからのメッセージ
「私たちの住んでいる双海町が一番輝いていたのはいつの頃だったんだろう」と思わせるような一枚のポスターを手に入れました。ポスターといってもそのポスターを写真で複製したものですが、本丸公園という桜の名所が鮮やかに描かれているのです。本丸というその名が示す通り、この場所は中世の城閣由並海辺城の跡です。国道のバイパスが迂回して海岸に着くまで、この本丸という場所は海を堀に見立てたお城で、今もその名残といえる石積みや大堀田などの地名が残っていますが、その後の遍歴で今はその土地が個人所有となっているため、許可がなければ張ることはできないのです。写真と手珍しかった頃ゆえ、ポスターは手書きで、鮮やかな桜の花の下にはボンボリが灯され、草ぶき屋根の東屋など何とも風情のある遊び場のようです。沖合には白い帆かけ舟がカモメとともに描かれて往時をしのぶように、看板に見立てた内容には、本丸遊園地、金山を埋む櫻樹、古城跡を偲ぶ老松、背面に牛峰連山の雄姿、前面内海随一の大観とかかれているようで、今なら誇大広告でしょうが、当時は近郷に聞こえたさくらの名所として、風流人の遊び場にふさわしく置き屋まであったそうです。
左下に目をやると今治市、松山市、高浜、三津、郡中、上灘という文字が右流れて書かれています。察するに予讃線が上灘まで開通した昭和7年当時ではないかと思うのです。会場には赤い線で航路が描かれていて、鉄道とともに海上交通もあったようなのです。残念なことに右下は破れてなくなっていますが、上灘商工会や国鉄いよ上灘駅の開通を機に観光客を誘致するための団体が設立されてその名前も連名で記されているようにも思えるのです。
ふと、新幹線の開通や駅の開業に湧く各地のことを思い出しました。JRが寂れて無人駅になった今から思えばさしたることでもないのですが、当時の人たちは国鉄開通と駅の開業は大きな福音だったに違いないのです。なにせ黒煙をはく蒸気機関車が僻地だと思ったこの地まで走って来るのですから、血沸き肉躍ったことでしょう。
その夢も泡沫の泡と消え、今は喜びに沸いた国道昇格や海岸国道全線改良も通過する町の道具にしか過ぎないのです。
でもこのポスターの時期が一番の輝きだったとするながら、二番は何と言っても私が絡んだ双海町が合併して伊予市になるまでの10年余りも、一番目の輝き以上に輝いた時期だったように思うのです。国道が開通し、シーサイド公園や下灘運動公園ができ、港も整備されて忍び寄る過疎の足音は聞こえていたものの、みんながこの町とともに輝いていたのです。
合併によって発展するはずの双海町は、急速に求心力を失い坂道を転がり落ちるように見えて、誰もが将来への不安を訴えています。また活動にも力が入らずどこかむなしい風が吹いていると訴える人もいます。「この窮状を何とかしてほしい」とよく耳にしますが、最早私たちのような人間には手の届かない所にあるのかも知れません。もしも三番目の輝きを目指せと言われたら、私たちは何をすればいいのでしょう。この一枚のポスターが私に突きつけたメッセージは一体何なのか、少し頭を冷やして考えてみたいと思うのです。
「一枚の ポスターくれた メッセージ この町いかに あるべきなのか」
「国鉄の 開通祝う 人々が 提灯行列 昔懐かし」
「本丸の 桜も枯れて 今はなし 僅かに残る 切り株哀れ」
「いつの世も 栄枯盛衰 繰り返す これから先は 枯衰の時期か」