○夢の始まりは「海の向こうに何があるのだろう」からでした
海で背一計を立てている人に比べれば些細な経験ですが、私くらい海と深いかかわりを持っている人間も少ないのではないかと、友人の海に関するブログを読んで思いました。
①私は家が漁家だったものですから、水産高校を出て25歳までの8年間家の漁船に乗って漁師をしました。私の眼の高さ、つまり考えの原点は漁師をしたこの海抜ゼロメートルにあるのです。瀬戸内海の中でも外洋性の強い伊予灘を漁場として、様々なことを思い、様々な魚たちと出会い、多くのことを学んだのです。
②私は16歳から3年間宇和島の水産高校に学びました。親元を離れた遊学の締めくくりは、練習船愛媛丸での遠洋航海でした。赤道を越えオーストラリア近くの珊瑚海を目指した3ヶ月余りの洋上生活はこれまた私の価値観を根本的に変えてくれました。
③私は30歳のとき、ジョン・万次郎に憧れてアメリカ行きを決意していました。幸運にも昭和の咸臨丸と銘打ったにっぽん丸に青年の船班長として乗船し、日付変更線を越えて建国200年のアメリカやメキシコ、ハワイなどを歴訪、世界ち地図の真ん中に日本のない世界地図を見ることができたのです。
④私は31歳から20年間も沖合に浮かぶ中島町由利島で、21世紀えひめニューフロンティアグループの仲間とともに、無人島に挑む少年のつどいをやり、毎年100人近くの人たちを無人島に運び、子どたちと一緒に感動の涙を流しました。
⑤私はこれまで4席の丸木舟建造にかかわりましたが、特に古代人の黒曜石のルートを探ろうと計画された丸木舟の船長として舵を握り、大分県姫島から松山市梅津寺までの160キロの航海を立て航法で行い、そのルートの解明をしました。
⑥私は15年前に双海町という小さな町で、海の交流拠点としてシーサイド公園を造る計画に携わり、反対や様々な失敗にもめげず整備をしましたが、今では年間55万人も来訪者がある、県下屈指のスポットに成長し、運営している第3セクターも黒字経営を続けているのです。
まあこんな具合に指折り数えてみれば数え切れないほどの海との出会いがあるのです。これらのことを思い出す度に海はロマンであるとしみじみ思うのです。私が大きな夢を志すようになったのは、少年時代に今人間牧場を建設している場所から時々「海の向こうに何があるのだろう。いつかは海の向こうに行ってみたい」というささやかな夢がありました。結果的にはその夢を手に入れ、今の自分があるのだと思うと、少年時代の他愛のない夢はとても大事なもののように思えるのです。
私の家からほんの数分の近い距離にありながら、気がついてみると今はなぜか海から遠ざかっているのです。「そうだ海を見に行こう」そう思いました。そして今朝意味も目的もないのにシーサイド公園の突堤から、広がる瀬戸内海の海を見ました。雨と時折沖合に閃光が走り雷雨が激しく降り、海も空もどんより曇って泣いているようにも見えました。
梅雨が明けたら水平線の彼方に入道雲が見えるに違いありません。忘れかけていた海をもう一度取り戻したいと心に誓いました。
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目覚めましたか? 新しい展望が見えてきましたでしょうか?
私の海は 心の癒しだけですね~
波の音を聞くと・・・平家の時代(?)や色々な
ことを 考えてしまいます(笑)