○オホーツク海のほとり紋別に行きました(ルポ・①)
私が初めて北海道の大地を踏んだのは今から40年も前の23歳の時でした。愛媛県ではその当時青年国内研修という制度があって、東北・北海道班の募集に応じた青年の中から選ばれた20人が、幸運にも北海道へタダで行けたのです。その当時の若者にとって東北や北海道への旅など夢のまた夢のような時代でしたから、多数の応募があり、それぞれの市町村教育委員会から推薦された青年たちはいずれもつわもので、選ばれた青年もまた青年団長などの要職を歴任している人ばかりでした。当時伊予郡青年団長を務めていた私は幸運にもその切符を引き当て、メンバーの代表として参加する事になったのでした。
あれから40年の時が過ぎ去りましたが、その間北海道は段々近くなり札幌オリンピック時には再び愛媛県から派遣された青年のメンバー代表として皇太子殿下ご夫妻と一緒にカレーライスを食べる幸運を掴んだり、観光や全国大会など度々北海道を訪れました。春・夏・秋・冬とそれぞれの趣きを感じたり、北海道の厳しい自然を体感してきました。最近になっては北海道から講演依頼が舞い込むようになって、毎年のように北海道へ足を踏み入れているのです。
今回の北海道への旅は、今年の夏高知県馬路村で開かれた地域づくりの全国大会で、北海道の船木耕二さんと知り合い、網走館内の社会教育大会に招かれたのです。
愛媛から北海道へは残念ながら直行便が先月廃止されたばかりで、ましてやオホーツク紋別空港となると、東京からの便が一日一往復しか飛んでいないので、松山~羽田~オホーツク紋別と飛ばねばならず、空の便を利用すると行けば明くる日の便しかない不便な空港なのですが、それがまた魅力だと内心ワクワクして出かけました。紋別への旅立ち日が近づくと何となく北海道の天気や気温が気になって、毎日のテレビで天気予報が出る度に一喜一憂するする姿は、少年の頃の遠足前日に似ているような気がしました。
羽田を経由した飛行機は津軽海峡を渡り、札幌付近の上空を飛んでいよいよ紋別です。窓際の席を取ったもののあいにく主翼の上付近で視界は余り開けませんでしたが、それでも眼下には白く雪で薄化粧した山々や黄色く色づいたカラマツ林が開け、北海道へやって来た実感が湧いてくるのです。紋別空港はオホーツク海沿いに開けた場所にあり、飛行機は一度オホーツク海に出てから回転して滑走路に下りるのですが、その雄大な海の広さたるや、さすがオホーツク海といった感じで、湖もあちらこちらに見えました。
紋別空港は紋別の街から非常に近い場所にあり、飛行機が20分ばかり遅れ、2時からの講演に遅れるのではないかと内心気を揉みましたが、何とか余裕があって用意していただいた弁当をかき込んでの仕事となりました。
この日のテーマは「生涯教育とまちづくり」という私の十八番なので、90分の話は参加者の共感・共有・共鳴を呼び、その夜の宿泊交流会では予想以上の反応に驚いた程です。
交流会での話題を写真で三つ紹介ておきます。
(外国人英語教師、いわゆるETさんは来道以来まだ三カ月余りだというのに、日本の伝統的楽器の琴に興味を持ち、お師匠さんと見事なコラボレーションを披露しました。日本の同様をメドレーで弾いたのですが、まさに生涯学習の真髄を極めた光景でした。日本人を越えた彼の日本文化を目の当たりにして、日本人として恥かしく思いました。
(劇団の方が、高齢化社会を寸劇で披露しましました。筝曲の師匠も、劇団の座長も社会教育委員だそうで、この劇団の主宰者は大会の司会も担当していて、磨かれたその技に脱帽してしまいました。
(庭木屋さんだそうですが、紋別の歌を凄い声量で披露しました。普通のカラオケなんてものではなく、これは名人芸にも似た素晴らしい技でした。自分の街の歌をこれだけ自信満々で歌える人は珍しいと思いました)
その夜は誘われてホテル近くの飲み屋へ大勢で繰り出し、交流会は深夜にまで及んだようです。残念ながら私は旅の疲れを配慮していただいた担当者にホテルまで送ってもらい、少し早く席を立ちました。その夜の気温はかなり下がっていて、吐く息も白くなるほどでした。多分この外気温は、四国では真冬波の寒さではないかと感じ、改めてオホーツクの冬の寒さを垣間見ました。
「羽田発 往復一便 しかないと いわれて乗った 空港降り立つ」
「会場と なるべき部屋の 窓越しに 一本線引く オホーツク海」
「何処となく 冬の足音 感じつつ 紋別の街 白息吐いて」
「ひょっとして 一番遠い 所にて 講演聞かす 四国訛りで」