○「ありがとう」はどっちのセリフ
私たちは毎日自分以外の沢山の人間と暮らしています。日々の暮らしはよほどのことがない限りは平凡で、意識もせずに流れて行きます。平凡が故に昨日のことなど余り覚えていません。昨日何時に起きて何をしたか、極端に言えば何を食ってどんな大便や小便をしたかまでは覚えていないでしょう。ところが仮にこの一週間便秘ぎみの人が、便通があったらそれは大きな喜び事として覚えているでしょう。
毎日の暮らしの中で人から「ありがとう」と言われたこと、自分が人に「ありがとう」と言ったことを思い出してみると以外と多くの人に「ありがとう」と言われながら無視してきたことは多いのではないかと思い返すのです。
先日所用で北海道へ行きました。遠路なので飛行機を使いましたが飛行機の搭乗員スチュワーデスさんは、さすがに社員教育が行き届いていて、至れり尽くせりのサービスをしてくれますが、飛行機が目的地に着くと乗客は直ぐに先を争うように降りてゆきますが、スチュワーデスさんはその一人一人の乗客に「ありがとうございました」と丁寧な言葉を掛けるのですが、殆どの乗客はまるで無視するように無造作に進んでゆくのです。そんな時「ありがと」の言葉を返したらどんなにか気持ちがいいだろうなあと、私はいつも「ありがとうございました」と言葉を返しています。北海道帯広空港でも、東京羽田空港でも、愛媛松山空港でも「ありがとう」を言って飛行機から降りました。ところがそれまで無口だった前列の人の次に降りようとした私が大きな声で「ありがとうございました」といったものですから、私の後ろに続いた乗客までもが私につられて「ありがとう」を言っているのです。嬉しい出来事でした。
洋服を買う、店で食事をする。いつも店員さんは「ありがとう」の言葉を投げかけます。そんな折「ありがとう」を言いますかと尋ねたら、「何を言うか、こちらはお客で買ってやったのだから、『ありがとう』と言うのは
当たり前だろう」と叱られるかもしれません。「金を出しているから当たり前」という心を「飛行機に乗せてもらっている」「洋服を交わせてもらっている」「食事をさせてもらえる」なんて考えれば「ありがとう」の言葉は自然と出るはずなのですが・・・・・・・。
先日友人の家の完成式に招かれました。その席で家主の友人は「この家を建てたのは自分の力だと最近まで思っていました。しかし毎日家の建築現場に足を運んでいるうちに、自分の考えが変わってゆきました。設計図を作る、土台を練り込む、柱を削る、壁を塗る、屋根を葺く、この家の完成までにどれ程の人が関わってくれたでしょう。瓦など私の知らない場所で作られているのですから。私は棟梁はじめそんな多くの方々に心から『ありがとう』と感謝の言葉を言います」とあいさつされました。いい言葉だったと思いました。
お互いが感謝しあって生きる。わが家でも「ありがと」の言葉を自然な形で言おうと自分自身の心に決めていると、毎日の暮らしが何故か明るくなります。それは妻へのいたわりでもあり、息子への有言の教育でもあるのです。息子も最近「ありがとう」の言葉を言うようになりました。言葉は結局オーム鳥と一緒で、「ありがとう」と言えば「ありがとう」と返ってくるのです。
「ありがとう そのくらいなら 言えるはず その一言で 家庭明るく」
「生かされて 生きてることへの 感謝です ありがとうとは ありがたきかな」
「スチュワーデス 俺に気がある そぶりする 何てことない みんな一緒だ」
「ありがとう 言ったお陰で 得をした これおまけです 飴玉五つ」