shin-1さんの日記

○やるべきことをやる

 人間牧場構想を思いついた時、二つの考えが浮かびました。一つは相談した誰もが「それは素晴らしいアイデアです。人間牧場ができたら是非行ってみたいです」と私の考えに同調してくれました。もう一つは相談した誰もが「そんな夢見たいな話、第一資金はどうするの。誰がやるの」と否定的でした。普通だとこのような場合二者択一を決めるのは私ですから、前者の同調をいいことに夢を実現するため、何のためらいもなく突っ走ったに違いありません。しかし後者の否定的な話に耳を傾けた私ははやる気持ちをぐっと押さえ一年間準備期間を持ったのです。家族への理解や資金計画、場所選びと夢を実現するためにクリアしなければならない様々な計画を入念に塗りつぶして行きました。やがて退職という適期を選び汗と知恵を出しながら計画に沿って第一期、第二期、第三期と順次着工して今日に至っているのです。いつも口にしている言葉は「やりたいことと出来ることは違う」ということですが、しかし私はあえて「やりたいことと出来ることは同じである」という夢の叶え方を実現したのです。今にして思えば「夢はドリームではなくターゲットである」というこれも私の持論を実証しました。

 イギリスの詩人ジョン・ドライデンは「はじめは私たちが習慣をつくり、それからは習慣が私たちをつくる」という名言を残しています。誰でも新しい事に挑戦する際は莫大なエネルギーを必要とします。この一年人間牧場づくりにかかわってみて、途中で挫折してしまいそうな状況が突発的に目の前に現れることが何度かありました。しかし仕事ではありましたが夕日によるまちづくりやシーサイド公園建設で体験した反対や失敗に比べたら大したことないやと思いながら事を進めたのです。多分それはジョン・ドライデンの言葉どおり私の体にいつの間にか習慣が備わり私の計画が実行されたのです。よき習慣とはやれば必ず出来るという強い信念と継続の習慣です。人は誰でも壁にぶち当たれば逃げたくもなるものですが、そこを逃げずに我慢してコツコツ努力すれば必ず道は開けてくるものなのです。

 私の周りには、私の逆で悪しき習慣を持って生きてる人がいます。周囲を省みず自分勝手に物事を進め、できなかったら人や社会のせいにして説明責任も果さぬまま逃げ出してしまう人たちです。こんな人は成功はおろか人から信用などされるはずがありません。

 自分がやると決めたことは自分との約束ですから安易に妥協せず、志を持って淡々縮々と行うことが自分自身を輝かせる事になるのです。その点私は昨年の自分より輝いています。少なくとも私の生き方の中に今までなかった「人間牧場」という智のコンテンツが増えたことは、私の大きな力になっているのです。

  「俺男 やるべきことを やることが 自分の格に 更に磨きを」

  「習慣は 怖いもんだね 信じれば 夢が実現 ほらホラでなし」

  「風呂敷を 広げて見せる 俺の夢 次は一体 何が飛び出す」

  「反対を 説き伏せぬなら 最初から なかった話と 諦めるべし」   


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shin-1さんの日記

○去年の今頃

 一年の時の流れとは早いもので、人間牧場へ入植し(入植といえるかどうか)開拓を始めたのは丁度今頃でした。自由人になって自分の行く手も見定まらないまま下灘池久保の地に入植の鍬を入れました。雑木とカズラの山を前に、少しだけおののきながら妻に買ってもらった地下足袋と麦藁帽子の出で立ちで、遠くにかすむ周防大島や由利島を見ながら、少年の頃に同じ場所で見た風景とダブらせながら、カズラを鎌で刈り、鍬でカズラの根っこを掘りおがし、チエンソーで雑木を伐採し、火をつけて焼却しながら次に進むという作業を繰り返しました。様々な作業を経て息子の設計による水平線の家が建前を迎えたのは7月29日だったと記憶しています。

 デジカメの使い方さえも分らないのに、地域振興課長を退職し教育長に就任した時仲間がお祝いにくれたデジカメを箱から取り出して、記録にと使い方も訳も分らずに撮り続けました。その写真ももう有に00枚近くになっています。その中に当時の雑木生い茂る写真がありました。

 これは現在五右衛門風呂の出来ている辺りから撮影したものでしょうが、凄い姿でした。私の人間牧場開拓史の中の貴重な一枚です。下のもう一枚の写真は現在ジャガイモ畑に変身している畑のカズラです。

?下の写真はそのカズラを刈りつけて焼却処分にしている風景です。焼却した雑木や雑草はおびただしく、何度も何度も足と手が棒になるほど運びましたし、その都度赤い炎と煙が天高く舞い上がって、まるで狼煙のような雰囲気でした。

 来年のこの頃、「去年の今頃は」と再び人間牧場のことを思い出しながらブログに書くのでしょうが、デジカメで撮った写真をブログに入力するなんて出来ませんでしたから、「人間牧場の写真が見たい」とかメールで言われても「そのうち」としか言いようがありませんでした。したがってお蔵に入った写真を取り出そうとするのですが、これがまた難しく、この2枚の写真を縮小して入力するのに1時間もかかってしまいました。それでも娘婿と長男のアドバイスもあってどうにかホラこの通り写真が入りました。二人の息子が言う通り、パソコンは自分がいじって失敗した経験をしないと先には進めないものだということも実感しています。

 さてこの一年は人間牧場づくりに明け人間牧場づくりに暮れました。今年は人間牧場をどのように使うかです。せいぜい楽しく使いたいものです。

  「来年の この頃去年を 思い出す こうして毎年 歳をとるのだ」 

  「火に消えた 雑木雑草 限りなく 今では肥やしに なってジャガイモ」

  「この写真 今では大事な 貴重品 人間牧場 開拓歴史」

  「デジカメで 撮りも撮ったり 五百枚 暇が出来たら アルバム作ろう」

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shin-1さんの日記

○軒先を借りる

 軒先には軒の上と下があります。普通軒先を借りるというのは、軒先が雨露をしのげる空間になっているからの言葉でしょうが、ツバメの世界での軒先は天井の延長線上にある軒先なのです。わが家でも4月に入って車庫の軒先ではなく軒中に盛んに巣作りが始まっています。数年前ツバメの営巣のことで妻と大喧嘩をしました。軒先に営巣していたツバメがその年はどうしたことか軒中にし始めました。軒先なら許せるが軒中は車も汚れると思って営巣し始めた巣を壊してシャッターを閉めてしまったのです。ところがツバメはどうしても軒中に巣を作りたがって一向に止めません。私は車で出かけるのですが、ツバメは24時間家にいいます。面倒臭いのでシャッターを開けたままで出かけ、帰ってみるとまた巣を作り始めているのです。その様子を見ていた妻は「お父さん、ツバメは遠い国からはるばるやってくるのだからツバメの好きなようにしてあげたら」と言うのです。「車にウンコをいっぱして困る。車を洗うのはわしだから」と売り言葉に買い言葉の口喧嘩でした。多分あの時は3日間ぐらいお互いに口を利かなかったことを覚えています。結局は私が折れて何事もなく営巣し子育てをして秋には南の国へ飛び立って行きました。

 今年は事もあろうか車庫の中の天井にある蛍光灯の傘の上に営巣をし始めたのです。最近車の上に鳥の糞が沢山落ちているその正体はツバメだったのです。結局は私の車を外に出し車庫はツバメに占拠されてしまいました。若いツバメではありませんが、「ツバメと私とどっちが大事ぞ」と妻に詰め寄りたいのですが、妻は「そりゃあツバメが大事」と多分言われるので、逢えて喧嘩はしたくありませんので、結局は私の車は外にはじき出されました。連休前に車の糞を洗い落としワックスをかけた愛車も、昨夜来の激しい風雨でものの見事に汚れてしまい、ツバメに対して嫉妬と怒りの心持です。

 でも妻が言うようにツバメは遠い国からはるばるこの地この家、この軒中を選んで営巣するのです。これは自然の営みだと考えれば、人間の都合はツバメの都合の次の都合にすれば済むことなのです。間もなく卵を産み、雛が孵って子育てをする長閑な姿を見届ける余裕も私には必要なのかも知れません。

 昨日妻が「お父さん、車庫にツバメが巣作りをしよる。何年か前のように車庫のシャッターを閉めるような馬鹿な真似はしないようにね」と釘を刺されました。おいおい「俺は馬鹿か」と思いましたが、返す言葉もありませんでした。

 今日は朝から雨です。でもツバメは雨の中でも平気で飛び回り草や土でせっせと営巣に余念がありません。折角ワックスをかけたわが愛車もまるで形無しです。でも妻が言うように「洗えば綺麗になる」のです。その仕事は、ハイ私の仕事です。

  「今年また ツバメ数匹 やって来て 軒中巣作り 愛車台無し」

  「軒先を 貸した代償 糞(運)の尽き 糞(運)がついたと 思えば気楽」

  「どの国で 冬を越したか 軒ツバメ 知る由もなし 今年も飛び来」

  「妻強情 巣作り事で 口利かず 三日も無視の 苦い経験」

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shin-1さんの日記

○梅の一生

 昨晩梅畑のブログ原稿を書いたら「梅酒大好き」という人から早速メールが入りました。嬉しいものです。わが家の食卓のテーブルの上には常時小さな梅壷とラッキョウ壷が置いてあって、家族誰もが思い思いに食べています。ラッキョウはカレーを食べる時に、梅干はお茶漬けにと主食に寄り添う形で食べられて名脇役をこなしています。孫はまだ3歳なのに梅干が大好きで「シュイー」と口を酸っぱくさせて食べています。このように日本人の暮らしには梅干が上手に使われているのですが、最近は成人病が何かと心配で減塩梅などが売り出されているようです。

 もう何年か前のことでしょうが、私の友人女性が編集していた「あいり」という田舎の雑誌に「梅の一生」というのが載っていました。これは面白いと思って当時使っていたワープロに入力した記憶があるので、古いワープロを引っ張り出して、片っ端から検索してみました。なにせ100枚を越えるフロッピーの数ですから、若番で見つかるとラッキーだと思いながら、フロッピーを指し込み目次を検索し始めました。100枚のフロッピーを最後まで調べると心に誓ってやり始めたのですが、30枚目くらいで何となく不安になり、「ひょっとしたら異動の時処分したかなあ」とか、「なかったらムダ骨だなあ」なんて考えが頭をよぎり始めました。その時です。「梅の一生」という目次が目に飛び込んできました。何か宝くじにでも当ったような嬉しさがこみ上げてきました(実は私は生まれてこの方、宝くじは買ったことがありません。したがって「宝くじが当った」ような表現はものの例えなのです)

 嬉しくなって画面に出しましたが、残念ながら感熱紙がありません。カートリッジの印字用リボンも既になく、結局は感熱紙を入れていた直射日光を避ける入れ物に入っていた既に印字されている感熱紙の上に印字し、混在する文字の中から読み取って以下の文章を完成させました。苦労の末の作品ですのでとくとご覧下さい。

       梅 の 一 生

             (大正初期の国語読本より)

二月三月花ざかり

うぐいす鳴いて春の日の

楽しい時も夢のうち

五月六月実がなれば

枝からふるい落とされて

村からまいへ持ち出され

何升何合の計り売り

元より酸っぱいこの体

塩につかって辛くなり

紫蘇につかって赤くなり

七月八月暑いころ

三日三晩の土用干し

思えばつらい事ばかり

これも世のため人のため

しわが寄っても若い気で

小さい君等の仲間入り

運動会にもついて行く

まして戦のその時は

なくてはならないこの私

 いやアー、実によく表現してますねえ。当時は国民皆兵、戦争を戦(いくさ)というあたりに時代がしのばれます。私はこの文章の面白さもさることながら、文章を再生したワープロという機械にも頭が下がるのです。電子文字はペーパー化すると膨大なものですが、これを機会とばかりに検索すると出ること出ること、他の仕事をそっちのけで見入ってしまいました。でもこのフロッピーももう消え行く運命にあるのかと思うと、エネルギッシュに夜なべをして文章を打ち込んだ昔が懐かしく思い出されました。

  「思い出し ワープロ取り出し 文字を出す 出た出た欲しい 梅の一生」

  「へえ凄い 昔の子ども こんなこと 習っていたのか 暮らしの知恵が」

  「戦など なくなり世の中 平和です 兵隊さんに ならなく済んで」

  「一粒の 梅にもあった 物語 教え伝えて やりたし孫に」

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