shin-1さんの日記

○菜の花ウォーク

 今日は冬の寒さも和らいで、外気温が10度以上となって、戸外へ出るには絶好のお天気です。かつて私が現役の頃仕掛けた菜の花ウォークというイベントがあるというので、妻と妻の友人を誘って3人で出かける事にしました。このところ忙しくて夫婦で出かけることが殆どなかったものですから、罪滅ぼしのつもりで参加する事にしましたが、何時からやるのかもさっぱり分らず、とりあえず9時くらいからだろうと想像し、自分達の体力に合わせた計画を立てました。

 まず、妻と私で何キロくらい歩けるか予測してみました。私は無理が効いても妻は?と心配し、片道15キロ往復なしという結論に達したのです。早速準備をして早めに私と妻が2台の車に乗って、15キロ付近と思われる喜多灘駅近くに行き、リタイア用の車を駐車しました。その後私は妻の運転する田舎のオープンカーに乗ってシーサイド公園まで帰り、出発まで時間があったのでその車を自宅まで持って帰り、自宅からシーサイド公園までの1キロ余りを急ぎ足で歩き、妻と合流しました。

 今日の予定は9時から受付、9時半から開会式、10時出発だそうですが、9時になって受付が終わると、3人で早めに歩き始めたのです。海は凪、空は真っ青、周りには少し遅めの水仙と今が盛りの菜の花を見ながら快調に歩きました。日頃見慣れた車で走る景色も、歩いて自分の目線で見ると随分違って見え、日頃の世間話に花を咲かせながらのんびりゆったりです。頻繁に通る車には顔見知りもいて、手を振ったりクラクションを鳴らしたりして合図をしてくれました。

 私の計算だと私たちの歩数で大体一時間で5キロ余りを歩きます。1時間で閏住の菜の花畑へ到着しました。予想通りの時間と距離にびっくるしました。閏住地区では毎年恒例の菜の花祭りが開かれ、地区民総出で準備が行われ、餅をついたり商品を販売したり、気の早い人は缶ビールを飲んで雰囲気を盛り上げていました。

 直ぐ側のくじらという妹のお店でも弟や姉夫婦、それに妹婿の兄弟や子どもが手伝いに来ていて、一年で一番の人出を当て込んでおでんや弁当を販売していました。私たちもご相伴にあずかりおでんを食べましたが、小腹が空いていてジャガイモや厚揚げの美味しい味に舌鼓を打ちました。

 やがて日本で一番海に近い下灘駅まで着ましたが、出発時に押してもらったスタンプに次いで、ここで2つ目のスタンプを押してもらいました。驚いた事にこれらのスタンプは私が現役中にデザインして作成したものでした。

 港が一望できる浄土の坂で記念の写真を撮り、しもなだ運動公園でトイレ休憩をしました。そして街中や豊田漁港の側を通って、本村の菜の花畑へ向いました。冨貴の差し掛かったころ、直ぐ上の線路をトロッコ列車が追い越して行きました。お客さんは上灘駅で降りたため殆ど空の状態でしたが、2時半過ぎには帰りのお客を積んで長浜から上ってくることでしょう。


 私たちは12時前に一足早くラメールという馴染みの店で日替わりランチとピザを注文し昼食をとりました。海を眺めて食べる食事も格別でした。いよいよ目的の15キロ地点に差し掛かった頃には、後続のウォーカーが次々と追い抜いて行きましたが、私たちはのんびり組なので気にもせず、休憩の後私の車に乗って直ぐ側の今坊地区まで出かけました。そこは昼食時間と休憩時間が合致した地点なので、大きな鍋で猪鍋が作られ、また餅つきなどが行われていました。友人の亀田さんに猪鍋をご馳走になり、友人の津田さんに勧められて餅つきまで飛び入り参加しました。私の同級生が近くに嫁いでいて、せっせと餅を丸めていました。声をかけ懐かしい会話を交わしながら、お土産にお餅までいただきそこを後にしました。


 ゴールである長浜駅の近くで二人を降ろしゴールのスタンプをいただきました。長浜駅構内にはテントが張られお店が出ていたし、早咲きの桜をバックに嵐太鼓の面々が準備を整えてウォーカーの到着を待っていました。甘酒の接待を受け、名残惜しく私たちは大洲の風呂へ一目散に走り、軽やかな春の汗を流しました。

 折から雨が降り出し、雨に濡れることもなく終わった早目のウォーキングに満足し、又来年も歩こうと、当てのない約束をして散会しました。


 妻も妻の友人も、勿論私も予想以上に強健である事に自信を深めましたが、若者はその日、年寄りは明くる日体に堪えるそうですが、はてさて明日の朝はどうなることやら・・・・。

  「歩く前 歩ける距離を 想定し 車を運び 準備万端」

  「そこここに 春の息吹を 感じつつ 三人仲良く 歩幅合わせて」

  「カメラマン 同行しての ウォーキング まるで芸人 二人の女性」

  「中々の 健脚だよね 褒めあって 明日朝痛い 言うかも知れず」

 

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shin-1さんの日記

○5月2日までは生きれると保証

 今年は閏年で2月が一日余分にあったためではありませんが、医者の勧めで2月の最終29日、県立中央病院へ健康診断に出かけました。昨年はどういう訳か一年中ことの他忙しく、健康診断の日と重要な会議が重なり、予定していた診断日に行けなくなり、気がつけば半年程も病院の健康診断を受けていなかったのです。妻はそのことが気がかりで、病院へ行くよう再三再四勧めてくれるのですが、「忙しい」事を理由に拒み続けていました。業を煮やした妻は私の予定表の空いた日を目敏く見つけて、勝手に予約センターへ電話して申し込んでしまったのです。1月18日に健康診断に出かけた折、血液検査などを済ませ、その結果の問診もあるので2月29日にガン検診なども受けるよう主治医から勧められました。

 前日の夜9時から食事をしないようにとの触書に基づいて、空腹でまず胆のう手術をした痕跡周辺のエコー検査をしました。半身裸の腹や背中に何やら粘々したゼリーを塗られ、二人の検査技師がパソコン画面に写っている映像を見ながら動かし回るのです。検査は10分ほどで済みましたが、腹や背中を厚い蒸しタオルで拭かれたものの、何となく気持ちが悪く違和感を感じるまま、今度は胃ガン検診です。いつも思うのですが「大腸ガン検査」とか、「胃ガン検査」とか、名前が少しグロテスクなような感じがして気味悪く感じるのです。「大腸検査」「胃検査」で充分なのに何故か「ガン」という項目をつけるため不安をあおってしまうのです。

 「胃ガン検査」にはカメラを入れる方法と外からX線で透視する方法の2種類がありますが、私は胃カメラを飲んだ経験がなく、今回もバリュームを飲んで透視する方法を選びました。胃ガン検査はまるで宇宙遊泳の訓練場のようです。検査台に乗るとガラス張りの向こうから遠隔操作する検査技師がマイクを通じて「上になって」「右になって息を止めて」などと、矢継ぎ早に指示を出して検査台がくるくる回るのです。緊張の余りに左と右を間違えたりしますが、発泡剤を飲んでいるためゲップが出そうで、バリュームを飲みながらの検査はこれまた気持ちのいいものではありませんでした。

 やがて終りを告げるアナウンスがあって外へ出ましたが、口の周りは白いバリュームが一杯ついて、お歯黒ならぬお歯白で、口を何度ゆすいでもこれまた気持ちのいいものではないようです。検査室を出る時、「検査結果が出るには一時間以上かかりますのでそれまでどこかで時間を潰してから主治医の診察を受けてください」と指示がありました。病院からは一刻も早く出たい心境だったので体内のバリュームを外に出さなければならないため自動販売機で水を買い飲みながら歩いて、えひめ地域政策研究センターまで行きました。研究員の方には悪かったのですがそこで30分余り時間を過ごし、再び診察のため病院へ向いました。

 「若松様」とクラークさんが診察室へ呼び込んでくれました。先生は前回の血液検査の結果をカルテで確認しながら様々な項目について詳しく説明してくれましたが、少し数値が高いものがあるものの今のところ異常がないとの結論でした。「休息と栄養に気をつけるように」指示を受け、次回の予約は5月2日と決定しました。

 この時点で胃ガン検査の結果が主治医に届いていないため、「何かあったら電話連絡するから」と電話番号の確認をされました。

 さてあれから1週間余りが過ぎました。外出の多い私はそのことが気になりながらも殆ど忘れているのです。昨日福岡、秋田と長旅から帰った折その事を思い出し、妻に「病院の先生から何か電話はなかったか」と確認したのですが、今のところ電話で「再検査が必要」という知らせはないようなので一応安心しているところです。

 病院の健康診断で悪い結果が出ると、「もう病院へは行きたくない」といつも思い、良い結果が出ると「やはり健康診断だけは定期的に受けなければならない」などと、揺れ動く心そのままに考えてしまうのです。人間は、いや私はこのように口で大きな事を言ってはいても小心者のようです。第一病院が嫌いな最大の原因は注射が嫌いなだけなのです。「その顔で」とこれまた良く笑われますが、私は大の注射嫌いなのです。

 まあこの健康診断で主治医の先生が「とりあえず5月までは大丈夫」と2ヶ月間だけ保証してくれたのですから、有り難いと思わなければなりません。5月2日を忘れることなく次の健康診断までに体をつくりたいものです。

  「五月まで 生きると保証 してくれる 医者の言葉に 少し安心」

  「検診の 結果気になる 私でも も少し長く 生きていたいね」

  「胃の透視 結果伝える 電話なし 多分良かった 勝手に思う」

  「これからは 二ヶ月一度 病院へ 心に決めて 医者と約束」

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shin-1さんの日記

○久しぶりの秋田県

 前回の秋田県への旅は12月18日、かまくらで有名な横手市で開催された観光カリスマ講演会でしたが、今回は約3ヶ月ぶりの秋田県といっても、もっと北の能代市二ツ井で開かれた地域雇用創造推進事業でのまちづくりセミナーです。私はどちらかというと飛行機が余り好きでないので、時間的な余裕もあって東京からは前回同様列車の旅を選びました。新宿から新宿ラインで大宮まで行き、そこから北を目指すのです。途中赤羽当りから大宮駅までの車窓には日本一の富士山が遠望ながら優美な姿を見せてくれていました。いつものことながら都会の人には車窓に見える富士山など全く感心がなく、携帯電話でメールを打ったり、雑誌を見たりしていました。

 大宮では相次いで出発する各方面の新幹線がひっきりなしに通過して行きます。私が乗るこまちは別の新幹線に比べてかなり小型のような感じがしました。それもそのはず、盛岡からはの秋田新幹線は在来線のレールを走るのです。

(これは座席が5列、しかも二階建てまである普通の新幹線です)
(座席が4列の少し小さいこまち号です)
(私が15番線から乗ったのは11時22分発こまちでした)

 盛岡からは後ろにつないだはやてと切り離され、雪の峠を越えて秋田へ入ります。大曲で新幹線ながらスイッチバックして、前回は一瞬驚き慌てたことがありますが、今回は二度目なので隣の席の方に説明知る余裕がありました。その夜は秋田の駅前に一泊し、明くる日同行するシステムブレーンの斉藤さんと秋田駅で落ち合い、青森行きのかもしか1号に乗って日本海沿いを北上しました。この路線は40年前愛媛県青年国内研修のメンバーとして大阪発の夜行列車に乗り、北海道を目指した懐かしい路線なのですが、さすがに時の流れは早く、車窓に広がる景色さえもかき消されていました。

 秋田を出る時は比較的穏やかな天気も、八郎潟辺りに来るとにわかに空がかき曇り、猛吹雪です。車窓の景色は何処までも広がるただ広い田んぼが白い雪を被っているだけの、殺風景な風景に変わってきました。

(八郎潟付近の田園地帯を走る)
(3番ホームから出発する東能代駅の五能線)

 目的地である二ツ井駅の一つ手前は東能代駅です。ここから青森県深浦を通って青森県川部まで今人気の五能線が走っています。この辺りもやはり夕日の美しい所で、深浦では夕日マラソンなどのイベントが行われているようです。ぶなの原生林で世界遺産となりすっかり有名になった白神山地は秋田・青森にまたがるそうで、ここでは玄関口として売り出しているようです。二ツ井駅には市役所の小林さんが迎えに来てくれていました。講演までまだ時間があるので、能代市と合併した二ツ井町の旧庁舎にある支所へ行きました。秋田杉のご当地だけあって平成6年に建設したという庁舎はまるで教会のような外観をしており、中は秋田杉の丸太や正目板がこれでもかというほど使われた贅沢な造りでした。現在は合併後も市全体の教育委員会等が入っているようです。

(小雪舞う中に凛として建つ二ツ井支所)

(役所の中には秋田杉の巨木が4本シンボル的に立っていました。また根株は市民の受け付け用机として使われていました。職員の机も殆どが木で出来ていました。また壁の杉板は旧役場庁舎天井板をリサイクルして使っているそうです。
(左がシステムブレーンの斉藤さん、右が小林さんです)

その後私たちは道の駅にある観光協会を訪ね事務局の女性とお茶をご馳走になりながら談笑したり、近くの神社を見学したり、また丁度昼時だったので馬肉中華そばを食べに行ったりしながらひと時を過ごしました。

(除雪の雪がうず高く積まれた道の駅きみまち阪)
(過ぎの原生林が残る川べりの風景、最近までここから川舟が出ていたそうです)
(雪に生まれた氏神様)

(セミナー前の会場風景)
(外は深々と雪が降り続いていました)

 外は思いボタン雪が舞っていましたが、参加者は2時間の私の話に熱心に耳を傾けてくれました。いつも思うことながらもう少し時間があったらと話す方は悔やみましたが、聞く方にとっては休憩も入れずまるで機関銃のように話す私の話は、どんなに聞こえたのでしょう。講演が終わり飛行場まで送ってもらう時間が迫っているため、残念ながら後ろ髪引かれる思いで、会場を後にしました。別れ際名刺交換だけでもと追いかけてくれた人、そして秋田美人とでも言うべき市役所の笑顔が素敵な女性の手を振っての見送りに余韻を残し、二ツ井の会場を後にしました。飛行場までの道沿いは枯れ木に花が咲いたような見事な雪景色でした。

  「熱帯びて 語る私に 卒啄の 如く合わせる 笑いのこだま」

  「白神を 訪ねてみたい 春頃に ブナの芽吹きは さぞや見事ぞ」

  「枯れ木花 県都の側に このような 自然いっぱい 羨ましいね」

  「白い雪 不味い全てを 隠したる 故に綺麗と 思うのだろう」 

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shin-1さんの日記

○雨と雪

 西日本といわれる四国地域に住んでいる私たちは、一年中を通して余程のことがない限り晴れと雨しか体験しませんが、北日本では晴れと雨に加え雪の比率が多いようです。冬の寒い雨が降った愛媛を旅立ち、これまた前夜の雪が周辺の山々をすっぽり覆ってはいても、九州博多の町中は冷たい雨が降ったり止んだりのあいにくの雨模様の天気でした。こんな旅先での二日間を雨とともに過ごした私は朝早く、中継点の東京で真っ青な冬空を見ました。そして新幹線こまちで秋田へ向いましたが、それから二日間殆ど真っ白な雪景色一色の世界で過ごしたのです。更に昨夕雪の秋田空港を飛び立ち、かなり強く降る雨の東京羽田空港を経由して、晴れた四国松山空港に降り立ちました。狭いといいながら日本は広いなあと思いました。こうして日本縦断をしながら、訪ねた町や出会った人、見聞きしたことを思い出しています。人間の記憶とは曖昧なもので、たった4日前の出来事なのにもう思い出せないことがいっぱいあって、年々退化する記憶の退化を嘆きながらも、せめて思い出にとこうしてブログ日記に綴っていますが、この作業も果たして何の意味があるのだろうかと、ふと思ったりしています。でもとりあえず10年間はと目標に決めたことなので、難しく考えず記録に留めたいと思っています。

(川に架かった橋は公園になっていました。向こうに見えるのは文化財の元公会堂で修復作業が行われていました。)
(博多の街もすっかりリトル東京で、ビル群が立ち並びまるで東京と間違いそうな風景です。)

 福岡博多の朝は天気が回復したかに見えました。天神までのそぞろ歩きは絶好調でした。少し早めの午前10時頃博多に着いたので、何年か前に妻と退職記念に来た大豪公園を訪ねる事にしました。博多駅から天神駅に出て、インターネットで調べてプリントアウトした地図を頼りに駅近くの、会議が予定されているホテルのクロークに荷物を預け、デジカメと傘だけの身軽な姿で大豪公園まで歩きました。これはかなり長い距離でしたが突き当たれば曲がり、曲がれば「あれっ」という試行錯誤を繰り返しながら進んで行くと、今まで見たこともないようなものに出会うのです。例えばお城の跡や平和台陸上競技場など、これまで何度も博多の街に来ているのに訪れたことのない場所へ随分出ました。

(福岡城跡公園)
(城址公園内の櫓)
(平和台陸上競技場)
(城址公園内には梅林がありました。もう盛りは過ぎていましたが、芳しい匂いを漂わせていました。
(城址公園から大豪公園に至る城門)

 少し歩き疲れた頃、城門を抜けて広場を通り過ぎるとやっと大豪公園の広い広い見覚えのある池に出ました。この公園へは今回で三度目ですが、いつ来ても素晴らしい公園で、池の中ほどにある島伝いに幾つか中国風の石橋が架かっていて、これがまた庭園の趣きを感じさせて何ともいえない美しさなのです。

(公園内の全景、松の緑がとても綺麗でした)
(最初の大橋)
(カモメや鳩やカラスが同居して、人が近くへ寄っても逃げないのです)

(浮見堂)
(水面に映える石橋)

 公園の池を巡る頃に私の携帯に備えついた万歩計は、午前中だというのにもう1万歩を超える程歩いていました。凄い距離を歩いたものです。このままホテルまで帰りを歩くと、ウーン2万歩かと思う頃、少し雨が降り出しました。持っていた傘を広げて公園を横切る様な形で武道館、護国神社付近を歩き、再びホテル付近まで戻ってきました。ホテルの近くで軽めの昼食をとり、福岡アクロスまで引き返しました。ここは何年か前「がばいばあちゃん」でお馴染みの島田洋七さんと相前後して同じステージに上がった円形ホールのある所です。この施設はちょっと変わっていて、ビルの屋上が緑化されて遊歩道がついており、その時は奇抜なアイディアの施設に目を見張ったものでした。

(施設が全て屋上緑化された珍しい施設です)
(施設の中は吹き抜けになっている素晴らしい施設です)

 ビルの谷間で一足早く春を感じる綺麗な花のオアシスを見つけました。誰がどんな思い出作ったのかは知りませんがホッとする都会のセンスのよさが印象に残りました。

  「晴れや雨 変わる天気を 気にしつつ 街中歩く カメラ片手に」

  「知っている つもりで知らぬ 大都会 歩いて見つけ 一人嬉しく」

  「軒先を 束の間借りて 雨宿り 九州弁で どうぞどうぞと」

  「今回も 観光ルートに ない旅を 思いつくまま 自由な時間」 

 

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shin-1さんの日記

○一流と三流

 私は退職以来人の求めに応じて講演活動をして全国を旅しています。北は北海道から南は沖縄まで様々な地域に招かれますが、その都度色々な旅のルートを探し、どうしたら安くしかも楽しい旅ができるか考えるのです。旅は目的地へ到達するまでがいいと思います。行く目的地はどんな地域か、そこではどんな人と出会えるのか、また時にはどんなおいしい食べ物が食べられるのか、考えただけでもワクワク、ドキドキするのです。今はパソコンが使えるようになって、ヤフーで検索すると簡単にその日のたびの時間設定や金額まで表示してくれ、しかも何案も提示してくれるのですから、この上ない水先案内人なのです。

 秘書など持たない自由人の私は、普通自分の交通チケットは自分で手配しますが、最近は公務員が嘘をつく見せしめの後遺症でしょうか、半券を持参しろと口うるさく言うのです。そんなに悪いことをしていないと思いながら、半券の提示を拒むともうブーイングが聞こえてくるのです。そんな中、時折相手が気を配って手配してくれることがあります。これもなかなか不自由で、乗ったこともないようなグリーン車のチケットやファーストクラスの航空券が送られてくる時があり、貧乏人の私は勿体無いと思うと同時に、旅の興味がすっかり興ざめしてしまうのです。旅は様々な突発的な出来事に出会うから楽しいのであって、あの広いグリーン車でたった一人隔離された社会で目的地に着いたところで、私は快適な旅だとは思わないのです。ギューギューすし詰めの自由席で、席を譲って喜ばれた親子連れやお年寄りに出会ったときの笑顔は旅の醍醐味なのです。

 しかし、乗る場所によって人の考え方も随分変わるものだと思うことが幾つもあります。例えば二等に乗った場合、二等の客は人の迷惑などお構いなしの自分中心の人が多いようです。社会には一定のルールがあって、それを守れば何の問

題も起こらないのですが、自分中心の人は必ず違反をします。私がよく利用する松山観光港から小倉行きのフェリーも2等船室では、きちんと毛布が一人上下一枚が設置されているにもかかわらず、三人分を使う人がいるのです。また洗面所や便所も使う人のマナーが悪いような感じがします。その二等客の一員になりたがる私も2等な人間なのでしょうが、やはり二等人間は二等なマナーしか持ち合わせていないのか知れません。深夜にもかかわらず酒盛りを始めて周りの人に迷惑をかける人はさすがに減りましたが、それでも集団になると大きな声を張り上げて車座の酒盛りが始まり、昔の私たちがそうだったと深く反省するのです。

 そこへ行くと、グリーン車やファーストクラスの乗客はやはり一流の暮らしをしているのでしょうか、身なりも行動も穏やかで、コーヒーを嗜みながら読書にふける人が多いようです。その本も2等客のマガジンやエロ本と違ってかなりグレードの高い本を読んでいるようです。

 昨晩秋田駅前の東横インに予約なしで飛び込みました。ホテルは新しく快適でした。ホテルには無駄がなく必要最小限どのものしか置いていません。ホテルの使った部屋を出る時、昨晩読んだ佐藤さんからいただいた一冊の本のことを思い出しました。船井幸雄60の言葉という本です。その中にホテルを出る時のマナーのことが書かれていました。味わい深い言葉だったので、早速それを実行することにしました。いいことは即実行、悪いことは即実行して止める、これも佐藤さんの本に書かれていたことです。難しく考えず、プラスかマイナスか、プラスを積み重ねるだけで、一日がどんなに充実することでしょう。今朝はいい旅立ちができそうです。

  「いいことは すぐに始める これだけで 今日が一日 楽しくなるはず」

  「悪いこと すぐに止めるの 気構えで 少しだけれど 成長したよう」

  「今朝は雪 旅先秋田 今は冬 妻の電話は まるでウグイス」

  「さあ今日も 元気はつらつ グロンサン 愛情一本 今日も元気だ」

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shin-1さんの日記

○昨日は博多でした

 昨日は「百年企業を創る」というセミナーに招かれ福岡県博多へ出かけました。前日は愛媛県越智郡上島町弓削島にある弓削商船高等専門学校で開かれた「自殺防止講演会」に出かけているので、もう3日間も家を空けているのです。

 「自殺防止講演会」と百年企業を創る」という話は、誰に話してもその落差の大きさに驚くことだろうと思うのです。講演会のその間隔が開いていればまだしも、家にも帰らず対応するのですから私もよほど図太い感覚の持ち主なのでしょう。

 自殺防止の話は国立の施設に勤める私の友人からの紹介でした。私は最初「自殺防止」というテーマを聞いたときあまり自信がないのでお断りをしようと思ったのですが、勇気を出して引き受けました。それというのも私は弓削商船と同じようなタイプの愛媛県立宇和島水産高等学校を卒業し、あの実習船えひめ丸で遠洋航海に出かけているのです。そして冬としては珍しい低気圧の洗礼を受け、死を覚悟した海から生還しているのです。受講対象が先生たちなので、その経験を踏まえて話せばいいと思って、沢山のことを話しました。偶然にもこの学校には双海町出身の教授と準教授の二人が勤めていて、知らずに行ったものですから、最初は戸惑いましたが、1時間半の話をして帰りました。弓削島へは2週間前にも「希望の島へ」というフォーラムに出かけたばかりなので、安心して出かけましたが、この日は朝からあいにくの雨で、足元を気にしながらの往復でした。

 さて昨日の「百年企業を創る」というセミナーには15人ほどの企業経営者が集まっていました。船井幸雄研究所の流を汲む株式会社S・Yワークスというコンサルティングが仕掛けたセミナーでした。1ヶ月前奥さんというこの会社に勤めるブランドディレクターの女性から一本のメールが入りました。私は知らなかったのですが東京の東洋大学で開かれた地域資源学会で私の話を聞き、四万十市西土佐村の舟母という民宿の若主人と懇意なということで、観光カリスマ百選の私に縁の深さを感じての登板となったのです。

 昨日はラッキーでした。少し早く博多入りしたため、前段佐藤社長さんのセミナーをタダで受講することができたのです。昨日はサンドウィッチ講義で、佐藤社長さんが私の話を挟むように前段と後段を話したのです。残念ながら秋田への出発時間もあって後段は聞けませんでしたが、いい勉強になりました。私のように人の前で話す人は意外と人の話を聞く機会に恵まれないものです。これからも生涯学習の気概を持って学び続けて行きたいものです。

 しかし私にメールをいただいた人の名前が奥さんとはこれまた珍しい名前です。メールの返信文章を打つ度に「奥様」と書かなければならず、思わず一人ほくそ笑みながら書いていました。妻に話をすると、「その人に失礼だからくれぐれも落伍の題材にしないように」と釘を刺された次第です。

 つい最近第一線で働く奥さんのような人に会うと、こちらが逆に勉強になります。仕事に取り組む態度に熱心で、そこら辺の役所に勤めている同じ年代の不平不満を言っている男どもをみて、情けなくみすぼらしい感じさえするのです。やはり夢を持ち夢の実現に向けて頑張る人は輝いて見えるものです。

 佐藤社長さんがいわれた「10年後の自分」の意味をしみじみと思いました。

 東京から秋田に向かう大宮の駅で、二人の姿を思い出しながらハガキを書きましたが、残念ながら切手の手持ちがなく、秋田からの投函になってしまいました。

  「旅に出て ふるさと離れ はや三日 妻の電話で ふとわれ返る」

  「奥さんと 書いたメールに われ一人 思わずウフフ 笑ってしまい」

  「立ったまま ブログを打つや 旅先で 束の間時間 書斎思いて」

  「目の前を 通る学生 覗き込む この人何を しているのやら」

 

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shin-1さんの日記

○思えば遠くへ来たもんだ

 新宿西口人に会い、東京経由の目的を果たしたので、4番線から新宿ラインに乗って大宮まで出て11時22分発の秋田新幹線こまちに乗り込みました。今日は移動日なので急ぐ旅でもなくのんびりと東北の景色を眺めながら行こうと決め込み、駅弁とお茶を買って乗り込みました。今日は天気もよく車窓に流れる景色もどことなく早春の雰囲気が漂っていました。この季節、乗り込んだ人それぞれにどんな目的があるのか知りませんが、列車は満席でした。私のような気楽な一人旅はいないのでしょうが、みんな列車に備え付けの雑誌に目を通したり弁当を食べながら思い思いに過ごしていました。雑誌には東北の新幹線に沿線の旅の見所や食べ物が紹介されていましたが、この日の雑誌の特集は奥州平泉の藤原三代についての記事でした。雪のないころなら平泉へも立ち寄りたいのですが、このところの寒波で少し交通事情が悪いため、いきなり秋田へ乗り込むことにしたのです。

 東北本線の駅の数は秋田までざっと数えただけでも150を越えます。新幹線はその駅を位置も簡単に飛び越えて、秋田まで僅か3時間半の旅なのです。今更ながらに便利さにはただただ驚くばかりです。

 明日の会議は秋田県能代市です、ここから更に特急に乗って北を目指さなければならないのですが、行き当たりばったりの旅を楽しむ私としては、今晩は秋田に泊まり、きりたんぽやハタハタも食べてみたいと思い。駅前からアクセスされている東横インを選びました。東横は全国どこへ行ってもロビーにパソコンが置いてあって、3日間も留守をして書き込みができていないブログを書くことができる魅力があるのです。しかし欠点はロビーにパソコンが2台しかないため、時々私のように長い時間占有している人がいると、利用できないのです。

 今日はチックインの4時までにはまだ間があるため、私以外使う人もなくラッキーとばかりに秋田発のブログを打っているのです。一番最初沖縄に行った折、ブログを打とうとして、自分のアドレスが開かず娘に電話をした初歩のころの苦労も今はなく簡単にメールを開いてブログを打てるのですから、アナログ人間を自称する私としては偉い進歩なのです。

 秋田はえらい雪です。東北の山脈を越えると車窓の景色は一変し一面の雪化粧でしたが、秋田市内は思ったほど雪の量はなく、明日の飛行機便は飛ぶだろうと安心しているのです。

 旅の途中だというのに私の携帯電話には相変わらず様々な人から電話が入ってきます。講演依頼や打ち合わせ、それに音信とまあ尋常に居眠りしながら列車の旅を楽しむ余裕はないのです。ポケットのバイブレーションが響く度に列車の出入り口まで走り対応するのですが、隣の席の人に迷惑をかけないようにしても窓際に座っていればその都度席を空けてもらわなければならず中々厄介なものです。

 隣に乗った方は51歳になったのを機にJR旅の会員になったので有給休暇を利用して1週間のんびり旅をするという、何とも羨ましい人でした。私の話を聞いて羨ましい生き方だとお世辞を言ってくれました。縁もゆかりもない人とこうして話ができるのもいいものです。今晩はお互い秋田泊まりなので「どうです一杯」と誘われましたが、酒も飲めない私としては、丁重にお断らした次第です。

 旅に出ると私の体のことが気になるのか、妻から朝、昼、晩と電話がかかってきます。今夕も秋田に着いたことを見透かしたように夕方4時電話がかかってきました。「亭主元気で留守がいい」はずなのに・・・・。

  「旅つなぎ 遠い秋田へ 一人旅 ここは雪だと 妻に電話を」

  「この地さえ 知り人多く ホテルまで 会いに来てくれ 感謝感激」

  「雪のなき 国に暮らせる 幸せを 除雪の人を 横目見ながら」

  「便利だね こんな遠くで ブログ書く 旅のつれづれ 文字にしたため」

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shin-1さんの日記

○今日から上島町弓削島~福岡県博多~秋田県能代市へと日本縦断の旅に出ます

○旅の思い出近日ブログ公開予定・乞うご期待。

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shin-1さんの日記

○ひな祭り

 日本の各地からひな祭りのニュースが届くようになりました。昔はどの家庭でもお雛様と鯉幟は子どもの健やかな成長を願う伝統行事として広く定着していた子どもの伝統行事でした。ところが住宅事情の変化や少子化の影響によってお雛様や鯉幟を飾る風習が段々消えて、子どもの記憶から消えようとしているのです。昔を懐かしむ人にとって復活を望むのは当然の成り行きかもしれません。

 そこで登場したのが地域づくりの手法です。家庭で持て余している伝統的なお雛様を譲り受けて商店街に飾ったり、大規模な町では体育館に飾って人を呼び寄せ、村おこしで成功を収めた所だってあるのですから面白いものです。人形を飾るひ毛氈やきらびやかな衣装と対照的な何処か寂しそうな憂いをこめたお雛様の顔立ちは、まさに日本の伝統文化である詫寂の世界で、見る人を幽玄の世界へ誘ってくれるのです。

 一昨日ふたみシーサイド公園のイベントホールへ出かけてみると立派なお雛様セットが飾られていました。もう恒例行事になりましたが、漁協女性部の皆さんが飾ってくれているのです。

 「これをイベントにしたらお客さんが来て、何ぼ儲ける」と、野暮な事を考えてイベントを仕組んだ昔が懐かしくなるほど、お雛様の飾りつけは女性たちの手で素朴に飾られていてついつい嬉しくなりました。

 そして最も嬉しいことは前日の土曜日、猫の手も借りたい忙しい手を休めて漁協女性部の皆さんは雛豆を作っていました。私たちの町では古い風習として雛節句には豆入りというのを作ります。干し飯をホウロクで炒ってはじかせます。同じように旧正月ころに色とりどりのアラレを作っておき、アラレもホウロクで炒って膨らませます。それらを水あめや砂糖を溶かして煮詰めたもので絡めモロブタに入れて熱いうちに切り分けるのです。これは少々硬くて歯の丈夫な人でないと食べられませんが絶品で、物のない時代に育った私などは記憶の片隅にちゃんとおご馳走レシピとして残っているのです。お雛様に供えた豆入りを何度くすねて食べ叱られたことか、今では淡いお袋の思い出なのです。

 漁協女性部の皆さんはひな祭りが月曜日ということもあって一日早い日曜日にこの豆入りをジャこ天の店に来訪した子どもたちに無償で配るのです。大判振る舞いといえば聞こえはいいのですが、こんなささやかなおすそ分けが、行列の出来る店の隠された秘密であることを知っている人は私くらいなものでしょうが、「感謝と真心、そして本物を売る」ことに徹したからこそ年間6千万円もの売り上げを記録するまでに成長したのです。

 団体をリードする指導者は余程カリスマ性がないと誰からも慕われるような運営は出来ないものです。しかもまるで暖簾のように長年続けることは容易なことではありません。漁協女性部を長年リードしてきた富岡喜久子さんや松本洋子さんはその点凄いリーダーで、私のいなくなったシーサイド公園のジャこ天部門を見事に発展させてくれているのです。「信用は石垣の如くひとつひとつ丁寧に積み重ねる」、そう肝に銘じた14年間は確かに苦労の連続でした。しかも折角積み上げた信用の石垣も、一瞬のうちに吹っ飛んだ苦い経験も幾度かありました。それでも諦めずまた一から積み上げてきたのです。豆入りという小さな善意が今年もまた多くの仲間によって成し遂げられました。嬉しいの一言です。

  「信用は 心幾つも 積み重ね 手間暇かけて 造るものなり」

  「ひな祭り 今年もお裾 分けしたる 豆入り配り 感謝の気持ち」

  「お雛様 どこか寂しい 顔してる 子どもの数が 少ないからか」

  「嬉しいね 心の出来た 人に会う 何処かほのぼの 春風のよう」

 

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