shin-1さんの日記

○家の庭でホタルが飛んだ

 昨日は大学の講義日に加え生協の会議があって午後から忙しく過ごしました。梅雨に入っているため昼前からシトシト降りの雨が降る中でしたが、車での移動のため普通だとさして苦にもならないはずなのに、昨日だけはちょっと気が重かったようです。それというのも昨日からガソリンが値上げされて、新聞だと宇和島ではリッター181円とこれえまでの最高値が報じられていて、車のガソリンメーターが底をつきかけていたからです。それでも背に腹は変えれれず仕方がないと割り切ってスタンドへ入りましたが、ここは175円で入れてくれました。それでも6千円を越えて支払うと、油代の高さに悲鳴を上げるのは当然のことなのです。このところ原油の値上げを反映してか、相次いで物価が高騰し政府の場当たり的な無策が見えてくるようです。昨日は官房長官が米の減反政策の見直しを記者会見で話し、農林水産省の次官は減反政策を堅持すると全く逆の発言です。遠くヨーロッパに外遊している総理は、食糧危機の原因は農作物を原料にバイオエネルギーを作ろうとすることが食糧不足を招くので、政策転換をしようと発言していました。どれも正しい発言ですがどれも場渡り的な一貫性のない発言で、日本もいよいよ政治的末期症状だと、素人ながら思ったものです。

 会議が終わって家に帰りました。車を車庫の中に入れてライトを消し庭を歩いていると、目の前を何やら一筋の光が光りながらスーと通り過ぎました。「おっ、ホタルだ」と直感し暗闇に馴れていない自分の目で、必死にその光の行方を追いました。ホタルはまるで訳の分らない文字を書くように、またオーケストラの指揮者が緩やかにタクトを振るように幻想的な光を発しながら飛んでいました。そして「もうそんな時期になったのか」と、改めて梅雨の季節を思いました。普通だと玄関に入り妻を連れ出して一緒に見ようと誘うのですが、妻はこのところ風邪気味なので自分ひとりだけの鑑賞となりました。

 「ほたるこい」というわらべ歌があります。♭ほうほう ほたるこい あっちの水はにがいぞ こっちの水はあまいぞ ほうほう ほたるこい♯と小声で歌いながらホタルのことを思いました。

 まちづくりに深く関わった関係で、翠小学校を中心にしたホタルの保護活動に深く関わりました。お陰で絶滅したかと思われたホタルが、地域の人の手によって見事に復活し、今では県内有数のホタル保護地になり、環境庁のふるさと生きものの里百選に選定され、ホタルを介したグリーンツーリズム活動に発展しているのです。ホタルにまつわる話は書ききれないし、これまでにもブログに書いているのでここでは書きませんが、今もホタルは自分にとって分らないことだらけの小動物のようです。

 ホタルは寿命を終えるに当って命のリレーをするため卵を産み、その卵は孵化して幼虫となり川の中でカワニナを食べながら過ごします。やがて桜が散った雨の日にゲンジボタルの幼虫は一斉に上陸を始めるのです。その時既に発光していて、それは神秘的な光景なのです。私も何度か見ましたが不思議な世界なのです。上陸した幼虫はその夜のうちに土に潜り、さなぎとなるための土まゆをつくり、約40日後土まゆの中でさなぎとなって外に出て羽化し成虫になるのです。

 昨晩見たホタルは人知れずそのメカニズムを経て私の前に姿を現したのですから凄いものです。ホタルは平均だとメス15.5日、オス13.9日という短い運命であることも余り知られていないため、身勝手な人たちは捕まえて持ち帰りますが、絶対に手で触らないようにして欲しいものです。

 そのホタルは近くの草むらに止ってもなお光を発し続けていました。昨晩は何か得したような気分になり家野中に入りました。

  「目の前を ホタル飛び交い ビックリし 小雨濡れつつ 鑑賞ふける」

  「このホタル 光るまでには 相当の 苦労を経たか いとおしくなり」

  「明日の夜 翠の里の ホタル見に 行こうと妻を 誘って床に」

  「ホタルさえ 女長生き 妻だって 俺より長生き きっとするぞと」


 

 

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shin-1さんの日記

○のんびり温泉気分

 昨日は6月の第一日曜日なので、私の住んでいる灘町地区の一斉清掃がありました。自分の家の周辺の組内の人が一戸に一人出て周辺の側溝などを掃除するのです。年に一度なので周辺の側溝にはゴミや土砂が溜っており、側溝の蓋を外して中の汚物を取り出すのです。近所は他の地区に比べ比較的若い人が多いので、年配の私などは昔のように進んで重労働をしなくても、少し邪魔者扱いのような感じで手伝いました。田舎なので周辺にはまだ田んぼがあちらこちらにあって、側溝も農業用と生活用が共用しているよな物もあるのです。最近は近所づきあいも両隣以外は殆どなく、このような時でないと顔を合わせたり声をかけることもないので、積もる話に花が咲きました。

 一昨年までは区長をしていた関係で灘町区全体の面倒を見なければならず、消毒液の手配や車の借り上げ、ゴミや土砂の運搬など多くの仕事をしていましたが、その仕事もなくなって元に戻ったため、こうして地元の付き合いが出来るのも有り難いことなのです。下水側溝に消毒液を撒いたりしましたが、早朝午前7時からの作業だったため、8時30分にはすべての作業が終り解散しました。

 前日妹の娘が結婚披露宴を挙げたこともあって、姉夫婦、妹夫婦、そして和歌山の弟夫婦で温泉に行く計画を妹が立てていましたが、和歌山の弟夫婦は所用で帰ったため、6人で伊方の亀ヶ池温泉へ骨休めに行く事になりました。夕方会議出席が予定されているため、それまでは日頃疎遠な兄弟でのんびり日帰り温泉小旅行です。昨日は梅雨に入っているのにまずまずの天気で暑いくらいでしたが、それでも佐田岬半島の潮風メロディーラインに吹く風は心地よく、途中の特産品即売所などに車を止めて買い物をしながらのんびり旅です。

 私たちの町から伊方町亀ヶ池までは長いトンネルが貫通したお陰で僅か1時間です。もう10時には到着していました。受付で見慣れた懐かしい顔にお会いしました。一人は元瀬戸町長の井上善一さんご夫婦です。もう一人は元伊方町長の中元清吉さんです。いずれもライオンズクラブの記念行事で韓国の方を招いてのイベントとかで、お客さんを案内しておられました。それぞれ在任中はお世話になった方々なので懐かしくお話をさせてもらいました。井上さんも中元さんも、勿論私も既に過去の人なのですが、かつてはお互いにまちづくりに熱い思いを持っていただけに、こうして元気な姿を見ると嬉しくなるのです。

 温泉は最近出来たため新しくて清潔で温泉の質も上々で、女性たちは岩盤浴を楽しんでいるようでしたが、私はサウナや塩サウナを楽しみのんびりとリラックスすることができました。温泉の後は食事会で、酒は飲めないものの美味しい海の幸を満喫し、思い出話に花を咲かせました。姉夫婦は老域、妹夫婦は商売とそれぞれの伴侶とともに人生を楽しんでいるようです。私たちも前期高齢者の仲間入りを目前に控えお手本と鳴なべき姉夫婦を見習って穏やかな老後の暮しを楽しみたいと思いました。

 リタイアしたといいながら毎日「何でこんなに忙しいのだろう」と妻も自分も思うほど、むしろ現役時代と違った忙しさの中で暮らしていると、目の前の自然や社会に疎くなっている事に気がつくのです。これからは少しずつ荷物を軽くして心豊かに生きて行きたいものです。それにしても昨日はのんびりゆっくりリラックスしていい一日でした。

  「温泉に 浸りのんびり 久しぶり 我に帰りて 五月を思う」

  「兄弟が 一緒温泉 行くなんて 積もる話に 花を咲かせて」

  「偶然に 出会う馴染みと 立ち話 それぞれ生きて それぞれ語る」

  「どうかしら 親父に土産 買う算段 妻の相談 嬉しいもんだ」

  

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shin-1さんの日記

○ペットは最早家族の一員です

 先日隣町の友人宅へお邪魔しました。その家に入るなり驚きました。見たこともないような大きな犬がいきなり玄関へお出迎えに出たのです。私がとっさに身構えると相手の犬も本能的に身構えて睨みつけられ、一声「ワン」と吠えられてしまいました。相次いで出てきた友人が「これっ」と叱って中に入り、私がご主人様の友人であることを告げられ事なきを得ました。

 聞けばこの友人宅では犬を家の中で囲い飼いしているそうなのです。この友人は私と相次いで結婚したため、もう四十年近くも経っているというのに子宝に恵まれず、夫婦揃って色々な治療を受けましたがついに子どもを産むことは出来なかったのです。察するに子どものいない寂しさを紛らわそうというのでしょうか、犬を飼い始めてもう二十数年だそうで、今の犬は二代目なのです。最初は毛の長いスピッツ系を飼っていましたが、その犬が死んだため、悲しさの余り「もう動物は絶対飼わない」と泣きながら話していたことを覚えています。でもその心だ犬の思い出を忘れることができなかったのでしょうが、今度はいかにも頑丈そうなブルドック系の犬なのです。その顔を見ているとまるでしわくちゃで思わず噴出しそうになってしまうのです。

 この夫婦は前回のスピッツ系の時はやれ犬の美容院へ連れて行くとか、病気になったら動物病院へ連れて行くとか、死んだ時もペット霊園に敷地を買って手厚く葬るなど、とても動物とは思えない人間並みの特別待遇で、私を感心させたものでした。

 今回のペットは前のスピッツ系とは似て非なるブルドッグ系のものですが、これがまた大事にされて、一緒の布団に寝てみたり、風呂に入れてみたりと、私の目から見ると尋常ではなく異常なのです。ご飯だって人間が食べてもいいような高いドックフードを食べて「お犬様」のように大切に育てられているのです。たかが犬なのに馬鹿馬鹿しいと心で笑っている自分を、「子どもがいない寂しさを紛らわせるには仕方がないのかな」なんて同情はするのですが、やはり私には理解できない行動なのです。友人の家の玄関へ入ると、動物特有の匂いを感じます。最近はパブリーズなどという消臭剤があって匂い消しされているようですが、それでもかすかに匂うのです。

 先日この犬が風邪をひいたそうです。友人はこの犬を動物病院へ連れて行き、点滴までしたというから驚きです。二人で3日間県外の伯父さんが亡くなって葬儀に出かけた時は病院の宿泊部門に預けて出かけたらしく、まあ携帯電話の画面にもしっかりと写真でインプットされお犬様は存在感を示しているのです。

 気がつけばそんな家庭をよく見かけるようになりました。犬と人間の暮しを同質化させて暮らしている人が多くなって、小動物が本来持っている人なつっこい性格に愛情を感じながら、動物とお話しし日々暮らしているのです。人間の言葉が犬や猫に分るのだろうかとふと思うことがありますが、長年飼っていると分るらしく、よくいうことを聞いているようですし、犬の鳴き声を日本語に訳すことだって出来るのですから、この友人は二ヶ国語ならぬ動物と人間の二匹語を話しているのです。人間と同じように服を着せられ、人間と同じように病院や美容院に行く時代となりました。私は江戸時代五代将軍徳川綱吉が「生類哀れみの令」を出したことを思い出しました。その当時と時代背景は違いますが、社会が成熟すると人間の考えも変わるものだと思いました。

  「子どもなく 犬と同居の 友人は 二匹語話し 互い慰め」

  「ペットだと 言うのに破格の 扱いで 死ねば戒名 貰って霊園」

  「病院と 美容院にも 出かけます かなりの出費 それでも愛を」

  「ほら見てよ まるでわが子と 同じよに 携帯写真 自慢したがる」


 

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shin-1さんの日記

○限界集落を考えるまちづくり講演会

 「5月31日の夕方講演をして欲しい」と、久万高原町に住む商工会課長の旧友渡辺浩二さんから電話があり、姪の結婚披露宴がスケジュールに入っているもののバッティングもしないようなので引き受けました。私の車は妻が兄弟姉妹たちを結婚披露宴に運ぶため取り上げられ、変わって姉からミッションタイプの軽乗用車を借りて、三坂峠を登って行きました。最近は砥部町から久万高原町を経て高知に通じる国道33号線は、高速道路を利用するため殆ど通らず、久々の三坂峠越えとなりました。

 初夏のことゆえ太陽はまだ西の空に高いものの夕闇迫る九十九折れの道を、妻の注意事項である「気をつけてね」を反芻するように制限速度でゆっくりと登って行きました。結婚披露宴を早くにおいとましたため、時間的な余裕もあってラッシュ時だというのに松山から1時間もかからず6時過ぎに到着しました。最近よくやる旅の途中のプラスワンとして、笛が滝公園と五神太鼓の三島神社を選びました。笛が滝公園は若い頃キャンプに来た記憶があるからです。

 10数年ぶりの笛が滝は運動公園として整備され、近所の人が数人ゆっくり散歩を楽しんでいました。池に突き出たウッドデッキの休憩施設は残念ながら老朽化が進んで立ち入り禁止になっていましたが、木を使ったトイレなどの諸施設は木のまちづくりを推奨しているだけあって、これでもかと言わんばかりに整備されていました。


 国道を横切り三島神社へ行きました。夕闇迫る三島神社の境内は幻想的で、今にも五神太鼓の荒々しい姿が出てきそうな雰囲気でした。社殿は県指定の文化財らしく立派なもので、境内の二本の杉の大木にも圧倒されました。高台にある神社から見える久万の町並みは、早苗を吹き抜ける風とともに初夏の風を感じさせてくれました。宿場町として栄えた旧街道沿いに久万小学校のモダンな木造建築が見え、思わず足を止めてカメラに収めました。


 会場となる産業文化会館に到着したのは開会の20分前でした。既に沢山の人が集まっていましたが、顔馴染みの玉水町長さんも聴講するため見えられていて、商工会の事務所で平岡会長さんとともに談笑させてもらいました。

 総会を兼ねているため会場は満席でした。この日のテーマは「限界集落とその対策」というテーマなのですが、私はあいにく見なかったものの、この日テレビで久万高原町の旧柳谷が限界集落をテーマにドキュメンタリー番組として放送されていたこともあって、関心が高く反応は上々でした。田舎の厳しい現実を見つめながらどう生きるか、どう行動するかについてお話しました。

 これから日本の田舎は益々厳しくなって行きます。「どうする田舎」です。

 ①自然本願⇒このまま自然消滅するのを待つ

 ②自力本願⇒自分たちの力で努力する

 ③他力本願⇒行政の力を借りる


 ①不燃人⇒何も感じない・何もしない・何も出来ない

 ②可燃人⇒少し感じるよう努力する・少し行動する

 ③自燃人⇒自ら感じる・自ら動く・自ら相手に働きかける


 ①一人で動く

 ②この指とまれで動く

 ③組織を作って動く

 ④人の力を借りて動く


 これからの地域づくりは金と口を出す株式会社でコミュニティビジネスを興すことです。

 ①不動産屋事業

 ②村の便利屋事業

 ③ものづくり・もの売り・もの儲け事業

 ④観光交流事業

 ⑤安心安全事業

 ⑥伝統文化教育事業


  「限界と 言われる田舎 再生は 自燃人なる 気概を持って」

  「この四、五年 何故か田舎の 灯が消えて 日本もついに ガンに侵され」

  「ギブアップ したくはないが 歳とって みんなこのまま 沈没するか」

  「強がりを いってはみるが 俺だって 口は元気だ 体動かず」 

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shin-1さんの日記

○三つの落差

 忙しかった5月のスケジュールを締めくくるように昨日は、ご前中2ヶ月前に亡くなった伯父の49日目の納骨法要、午後は姪の結婚式、夜は久万高原町で「限界集落を話すまちづくり講演会と、これまた過密なスケジュールに翻弄された一日となりました。法要、結婚、限界集落とテーマはそれぞれ違うのですが、この三つはそれぞれ法要=高齢化と人の死、結婚式=若者の世相、まちづくり講演会=限界集落という、ある部分世相を反映した問題であるだけにその落差が大き過ぎて、夜も中々寝付かれませんでした。

 ①伯父の法要

 十二人兄弟の次男に生まれた伯父は先々月、85歳の天寿を全うして亡くなりました。80歳頃までは元気で夫婦仲よく息子夫婦と同居して穏やかな老後を過ごしていましたが、五年前頃から痴呆が出始め、認知症となりました。長男である私の親父は90歳ですが今もなお矍鑠としているのを見ると、同じ兄弟でも人生には随分差があることを感じさせてくれました。親父は親父を含めると男の兄弟が4人です、あとの3人は順番を間違えて既に亡く、一番高齢の親父だけが残っています。8人の女性の姉妹は2人が徴用先の大阪空襲で亡くなっているものの6人は夫婦元気に暮らしていて、ここにも女性が長生きするジンクスが生きているようです。

 昨日は生存している女性の姉妹は全員集まりましたが、夫は2人体調気を遣って欠席となりました。しかしみんなが認めるようにみんな高齢になって、夜電話がかると「もしや姉妹が終いでは」とドキリとするそうです。昨日の法要は11時から始まり、近くの墓地へ納骨に行き、昼食を兼ねた食事会が自宅で催されましたが、どの姉妹も「足や腰の不調を訴え、リビングの座椅子利用と相成りました。激しい高齢化社会です。話題は体の不調や病気のこと、年金暮らしなので年金問題や後期高齢者制度のこと、自分の家の内情や隣近所の噂話などなど、積もる他愛のない話には事欠かず、耳が遠くなったのか大きな声で話に花が咲きました。同席した私の従兄弟たちもええ年齢となり、それぞれリタイアしたりし始めていて、親と同じような話題に花を咲かせていました。

 そういえばこの2ヶ月で葬儀への出席は10件を超えました。ここにも高齢化社会の様々な問題がありました。

 ②姪の結婚披露宴

 昨日の結婚式の会場は松山全日空ホテルです。537組も結婚披露宴の司会をした実績を持つ私としては、結婚式への出席はダントツに多いのですが、自分の年齢に相応しているのでしょうか、結婚式への出席はこの5年間で3組に留まっています。つまり今日は久々の結婚披露宴なのです。実は姪は既に半年前ハワイの教会で結婚式を挙げていて、半年後だというのにこの頃になって披露宴です。仲人もない人前結婚とかで堅苦しさは全然ないのですが、友人たちが深く関わってまるで学芸会を見ているような面白さです。内容はバラエティ番組に登場している人の物真似100パーセントに近いような感じがしました。これも世相なのでしょう。

 昔のような家と家の結婚という古めかしくも重い空気は完全に払拭され、若い人たち中心で事が運んで行きましたが、さすがに花束贈呈だけはシュンとセンチメンタルになりました。それにしても少子化です。結婚式はこのホテルでも激減したと支配人から聞きました。今や結婚式場は斜陽化産業、葬祭式場は隆盛産業といわれ、総裁業者は度々展示説明会を開いて会員獲得に乗り出すなど激しい顧客獲得競争に躍起です。

 私はこれから最低2組の結婚式に出席できる権利を有しています。未婚の息子が2人いるからです。でもそれは淡い夢に終わる事だってあるのです。婚期は年齢が高くなり、未婚だって随分増えました。若い人たちの結婚に対する考えの変化は即日本の家庭事情でもあるようです。

 ③限界集落をテーマにしたまちづくり講演会

 この話は別立てで考えをメモしておきましょう。

  「宗教も 宗派変われば しきたりも まるで演歌か 見紛うほどに」

  「早四十九 時の流れの 速いこと 俺も坂道 下るが如し」

  「茶番劇 見ているような 披露宴 これが世相か 首をかしげて」

  「限界の 人が限界 考える 限界だろう 思いつ話す」

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shin-1さんの日記

○私のパソコン上の戸籍

 「若松さんですか、メールを送りたいのですがアドレスを教えてください」と、何度も電話がかかってきます。その都度私は「ドット」や「スラッシュ」「コロン」などと話すのですが、パソコンの苦手な私にはその言葉がまた苦手で、覚えている訳でもないから自分の名刺を取り出して、相手に変な言葉でアドレスを伝えているのです。

 E-mail wakamatsu@yuuhi.JP

HP      http://www.yuuhi.jp

 これが私のEメールアドレスとホームページなのですが、これが中々覚えることができないのです。最近友人の勧めで携帯メールを始めましたが、これは緊急用でごく一部の関係者だけにしか教えていないため、案外スッキリした利用状態のようですが、Eメールもホームページも公開の原則が行き届き、最近はブログ「shin-1さんの日記」も人気が出て毎日千人を超えて読んでくれていますので、個人情報もくそもあったものではなくなりました。しかし私はそんな情報に晒されても自己責任の時代ですから一向に構わないのですが、私を通して出す情報に個人を出すことには慎重にならないといけないようです。

 私はブログで時々「今日は○○へ旅に出ます」と書いて予告旅に出ます。これを見つけた娘からクレームがつき始めました。「お父さんがどこへ行こうと勝手だが、旅に出ると書けば留守をすると宣言しているようなもの、家にはおじいちゃんとお母さんしかいないのだから、絶対止めて」と叱られました。確かにそうだと自責の念に駆られながら、「俺のブログを読んで泥棒に入るような知的で?間抜けはいないだろう」と鷹を食って先日も長崎旅の予告をして出かけました。

 というのも、私のブログは旅に出ていると書けないものですから、愛読している友人から「二日間ブログの書き込みがないのですがお体でも悪いのですか」などとメールや電話が入り、できれば行き先を知らせて欲しいとメールが入るのです。それは大切なことだと思って始めたのですが、ココにも小さな個人情報の壁があるようです。

 それでもEメールアドレスは娘婿の手で登録手続きをしてくれたのですが、随分分りやすいアドレスになっていて、最近はとっさの電話にもメールアドレスを宙でいえるようになりました。私にとっては大きな進歩です。でもこの世界は日々進化して大変奥が深く使えば使うほど迷路に迷い込むような錯覚すら覚えるのです。私のパソコン能力はまだ小学生の知識以下で応用や故障対応はまるでできないのです。

 先日写真を送付するよう依頼があり、色々といじくってはみたのですが結局容量が大き過ぎて送れず、「そんな時の神頼み」の友人に頼んで送ってもらい事なきを得ました。画素など全く理解できていないのですからいい加減なものです。

 最近は講演依頼の文章に、「パソコンをお使いになりますか」と注意書きが書かれています。私は今流なスライドショーなどを利用すると話が上手くまとまらないし、薄っぺらくなるような気がして「使いません」と答えるのですが、それでもスライドやレジュメを求められます。時代の進歩について行けてない部分が自分の持ち味だと強がって生きています。「時代遅れ」という歌の文句ではありませんが、そろそろ限界が近づいたようです。

  「もう俺は 時代遅れな 人間か いやもう少し 流れ掉さし」

  「パソコンを 使えぬ自分 嫌になる そりゃあそうだ 昭和だもんね」

  「アドレスを 住所と間違い 愛媛県・・・・ いやいやメール 電話でお辞儀」

  「書かなけりゃ トラブルもない ブログ書く 娘の指摘 無視して旅と」 

 

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shin-1さんの日記

○未だにどっちが正しいのか分らない

 昨日NHKのラジオを聞いていたら、ことばおじさんこと梅津アナウンサーが乗りのいい三味線のテーマ音楽にのって登場し、薀蓄含蓄のある話をしていました。ことばおじさんの話には関心がありいつも感心しながら聞くのですが、ラジオゆえに分らないことが沢山あり、カーラジオなのでメモすることも出来ず、ついには「どっちだったかな?」とかえって疑問を広げることが多くなっています。特に外来語のようなカタカナ言葉は、私にとって自信が持てず使っているだけに、恥をかきそうなので小声でしか話せないのです。

 私は木のカバン、通称木になるカバンを持ち歩いていますが、これがアタッシュケースだとばかり思っていました。ところが正式にはアタッシュケースではなくアタッシェケースだったのだそうです。パソコンで文字にすると間違ってアタッシュケースと入力してもこれがカタカナ言葉で出てくるし、アタッシェケースでも出てくるのですから余計こんがらがってしまいます。まあアタッシェケースのことですので、ケースバイケースとゆきたい所ですが洒落にもならない間違いに気付かず、今日まで使っていたのですから赤面の至りもんたりです。

 コミュニケーションという言葉もコミニュケーションとよく間違って使う人がいます。こちらはパソコン入力すると「コミュニケーション」はきっちり変換しますが、コミニュケーションは込みニュケーションと変に変換されますが、普通の発音は後者を使う人も結構多いのではないでしょうか。

 私はかつて小さな町の役場に勤めていました。その当時の役場は長閑なもので、パソコンもなく流行りだした「コミュニティ」、「アメニティ」などの横文字は机の引き出しにしまっている外来語辞典などで調べて対応すればそれなりに用が済んだものでした。ところが企画調整室でまちづくりの仕事をするようになると、議会対応とでもいうべき質問に対する町長の答弁書書かなければならず、議員さんが訳も分らず連発する横文字に苦笑しながらやんわり皮肉って正しい言葉の使い方や意味を投げかけたものでした。

 特に今も忘れられない面白かった出来事が思い出されます。ある議員が町長のシンポジウムの予算説明を聞いて手を挙げて質問しました。「町長質問」、議長の許しを得て質問に立ったその議員は「シンポジウム」と言わなければならないのに「インポジューム」と発言したのです。すると神聖な議場のあちらこちらでクスクス笑いが起こりました。するとその議員は「私がインポジュームの予算について質問しているのに笑うとはけしからん」とやり返しました。町長は開いた口を塞ぐように「シンポジウムは町を興すためにやりますが、インポジュームでは町は起きません」とやり返しました。その議員さんの横に座った同僚議員が間違って使った議員の裾を引っ張り、小声で「インポとシンポは違うぞ」と諭しその議員は間違いに気付き、議長の了解を得て失言取り消しと相成りました。めでたしめでたしです。

 シミュレーションとシュミレーション、これもパソコンではどちらもカタカナで変換されて出てきます。普通は後者のシュミレーションと発言する人が多いようですがさて「あなたはどちらが正しいと思うでしょう」なんて質問をすると、「えっ、どっちだっけ?」となるのです。

 今はあの分厚い広辞苑やイミダスも本棚の隅に追いやられ、ノジが抜くほど使うことが少なくなりました。もっぱらパソコン辞書で索引するのですが、それにしても言葉の乱れは目を覆うばかりです。私のような古い人間は若者たちが使っている日常語だってすっかり理解できず、コミュニケーションが取れなくなってしまいました。「ナタデココ」という食べ物を、「ナタデココどこを切るのと父が言い」と言ったという川柳はもう遠い昔の川柳になって、「ドットコム」も「ドットコムどこが混むのと父が言い」になってしまいました。私は古い人間の組内になってしまいました。

  「分らずも 分ったような 顔をして 平気で使い 赤恥かいて」

  「この言葉 格好いいから 使ったが 説明しろと 言われてアウト」

  「もう古い 私は古い 組内だ 若者言葉 まるで外国」

  「武士言葉 流行る世の中 分らない お主中々 やるではないか」

 

 

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shin-1さんの日記

○「山奥組」ってどこの組?

 「お父さん、明日はどこへ行くの」と決まったように妻は寝る前私に聞きます。そして明くる日の朝も「お父さん、今日は何時に出るの」と聞くのです。その都度私は「今日は野村町の山奥組へ行く」と、具体的に場所と集会名と、概要について話してやるのです。土地勘のない妻にとって私の話はチンプンカンプンで、「野村町は分るけどどこと合併して何という名前になったの」と聞き返します。県内ならすらすらいえるのですが、これが県外となると地図を広げて説明しないと、説明する本人さえも心もとないのです。

 「山奥組って何をする団体なの?」と、山奥組の人に失礼な質問が返ってきました。私は少々ふざけて「山奥組とは山の奥の方のイノシシが出るような場所に住んでいる人たちのまちおこしグループだ」と話したら、夜遅く帰るものですから「お父さんイノシシが出るなんて大丈夫?」と真顔で話すのです。「馬鹿じゃないか、そんな所じゃないわい」と正気に戻って話すのですが、はてさて「山奥組」とは誰が名づけたのかは知りませんが偉い大そうな名前です。でもネームバリューはあるようです。

 さて、山奥組とはいかなるものか、結成以来4年目を迎え事務所まで持っている旧野村町のまちおこしグループなのです。会員は130人余りもいて四つの部会を持っています。

 送られて来た山奥組通信によると、

 第一部会(環境・生物資源)では、野村の自然遺産である巨樹・巨木35種類91本を記載した「野村の巨樹」を発刊したり、「十文田の森の植物」も刊行、リンドウの里作りにも取り組んでいるのだそうです。

 第二部会(地域農業・農産加工)では、野村の清流米の定期購入、特産品の開発、健康食品にも力を入れているようです。

 第三部会(伝統・伝承技術)では、昔盛んだった竹細工の教室を開いて興味関心を広げようとしています。

 第四部会(交流・人材育成)では、小松山荘を拠点に都市と農山村の交流を進めているようです。

 限界集落が増えて、ほおっておいたら自然消滅しそうな地域を何とか活性化したいと願う人たちの理論や理屈ではない活動に頭が下がる思いがしました。

 私はこれまで何度も野村町へは行っていますので、荻野会長さんはじめ多くの方々と顔見知りで、講演もさることながらその後の懇親会でも膝付き合せ、額を寄せて様々な話しをさせてもらいました。

 いやあ皆さん元気です。「俺所へ泊まりに来い」「今度はいつ来る」と早速交流の話が持ち上がりました。海のない町と海のある町という異質な文化を持っていて、「今度は人間牧場で会おう」と再会を約束して別れました。

 この日二人の珍しい人に会いました。一人は愛媛県内水面会長の那須熊市さんです。もう相当前に貯蓄推進の会で知り合った人ですが、今も元気に活躍しています。また松山大学准教授の甲斐朋香さんとは初めての対面でしたが、山奥組に何故参加しているのかも興味があるのです。世の中は面白いとしみじみ思いました。残念ながら従兄弟の通夜があって中座しなければならず、後ろ髪を引かれる思いで、夜の雨道を引き返しました。

  「限界も 歳も山奥 糞食らえ 俺ら生きてる 山奥万歳」

  「そのうちに みんな歳とり みんな死ぬ 生きてる間 花を咲かそう」

  「こりゃあ何だ 机の上に お茶ペット 都会を真似た 会議意義あり」

  「会長の お礼の言葉 気に入った 俺流生きる 俺流話す」

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shin-1さんの日記

○松山の景色は素晴らしい

 このところ長崎への旅が長くて、スケジュール表に書きとめているブログ用のメモをブログに書くことが出来ず、少しイライラしていました。しかし未熟ながら長崎の旅物語も写真も一応整理がついたので、最近の様子を振り返りながらメモしておきたいと思います。

 先週の日曜日、松山市PTA連合会の招きでPTA正副会長研修に出かけました。会場は南堀端にあるリジェール松山です。案内の文章をいただいた時、「えっ、リジェール松山って何処だっけ」と一瞬頭の中の回路が回り始めました。私たちというより私は古い時代の人間なので「農協会館」といえば分るのですが、リジェールといわれると「?」となるのです。道後にある「郵便貯金会館」だって今はメルパルク、伊予市の厚生年金会館も厚生省の払い下げを受ける前から愛称で呼ばれ、その愛称も買収で似たような名前になって訳が分らなくなってしまいました。ひと頃「○○会館」などの名前が古臭くて利用者に悪いイメージを与えるからと、公募による愛称募集をした時代がありました。店舗改装などの際にすればいいのですが、中身も変わらないのに名前だけ変えた所は、結局余計利用者に敬遠されて閑古鳥が鳴いている所だってあるのですから、名は体を現すので気をつけなければなりません。

 郵便貯金会館も農協会館も一時は結婚式場として名を成し、私も結婚披露宴司会537組という実績の何回かは司会のステージに経ちましたが、年を経てそんな勇気も活力も減退して、今は研修会のステージに上がっているのです。

 さて、リジェール松山ですが、今回の研修に招かれ改めてその眺望の素晴らしさを再認識しました。8階ホールの東側は全面総ガラス張りで、その窓いっぱいに松山のシンボルといえる城山がまるで一服の絵のように見えるのです。時あたかも新緑の季節で、城山の木々の緑が眼に鮮やかに飛び込んでくるのです。

(南堀端側から見た城山)
(天守閣の遠望、樫類の淡い緑が何ともいえない目の覚めるような色合いです)

  松山が生んだ俳人正岡子規は「春や昔十五万石の城下かな」とか、「松山や秋より高き天守閣」と名句を残していますが、非凡な人間だったらこの景色を見れば一句浮かぶほどの景色で、私は講演が終わって懇親会が始まる前に持ち歩いているカメラでパチリ撮らせてもらいました。

 松山市民はこの素晴らしい景色を当たり前の景色として捉えているのでしょうが、せめて日常の景色でも愛でるような心のゆとりを持ちたいものです。

 さて研修会ですか、「たくましい子どもを育てるために」と題して90分お話をさせてもらいました。特に強調したかった親の生き方で、親が変われば子どもが変わるとばかりに、父親の出番についても少し踏み込みました。丸三書店の井門社長さんや、松山市教育長さんなど馴染みの顔々が会場に見え隠れして、何とも恥かしい講演となりましたが、沢山の知人友人と旧交を温めることが出来ました。感謝します。

  「窓越しに 城山全て 初夏の色 何とも贅沢 景色肴に」

  「PTA 遠くなったな あの頃は ワイワイいいつ 血気盛んに」

  「さて何を 思う間もなく はい終わり 何を言ったか 分らずままに」

  「壁越しに 噂話が 筒抜けだ 今日は良かった 俺も良かった」 

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shin-1さんの日記

○九州ぶらり見て歩き③福岡県小倉編

 諫早から乗った白いカモメ号が博多に近くなるにつれて私の心は揺れ動きました。「博多から新幹線に乗って広島まで出て、宇品から松山へ高速船で帰れば今日の日のうちにわが家へ着くルートを選ぼうか」「小倉を散策して今夕小倉からのフェリーに乗って明日の朝松山に着く手もあるなあ」などと考えながら車内報ミニコミ誌を読んでいると、記事に小倉城のことが載っていました。

 カバンの中から予定表を取り出し明日のスケジュールを確認すると、明日は午後1時30分からアシスト事業の審査会があるようだが、ご午前中は予備空白のようなので、「そうだ小倉で降りよう」と思い立って博多から特急に乗り、終点小倉で降りよう」と決心しました。家内にその旨を電話で伝え、小倉の駅のコインロッカーに荷物を預け、駅の総合案内で観光パンフレットを何枚か仕入れ、カメラ片手に散歩です。私は小倉~松山間のフェリーを利用するためフェリー乗り場のある北口はよく知っているのですが、南口は余り行ったことがないのです。

 観光地図を広げNHKのある川沿いまで歩いて行きました。陽は西に傾き始めているので日陰の濃淡が随分はっきりしていて、日陰を通るとひんやりした爽やかな風が頬をなでるのです。NHK前の川沿いは広い親水公園になっていて、沢山の市民が行き交ったり思い思いの格好で風情を楽しんでいました。


 小倉の街も随分発展して大きな建物が目立って増えました。博多と同じくここはまるでミニ東京か、ハングル文字で書かれた看板を見ていると、どこか東南アジアの国々に似ているような気もするのです。

 目指す小倉城は小倉駅南口から歩いても近く、川の直ぐ横にありました。北九州はやはり東南アジアに近いだけあって、顔も身なりも日本人と変わらない人たちが沢山お城の見学にやって来ていました。いやあ驚きました。こんな立派なお城が街の真ん中にあるなんて思っても見なかったのです。


(正面から見た天守閣)

 平城ながら整備も行き届いて、城山をぐるっと一周して眺めましたが、夕暮れで逆光部分があるため写真写りは悪くても、威風堂々としたお城なのです。

(裏から見た天守閣)


 私も旅すがら日本全国のお城を見てきましたが、小倉城は外観は素晴らしいものでした。残念ながら中へ入ることはできませんでしたが、次の機会に是非訪れてみたいものです。

 お城の側の道路を歩いていると乃木希典大将がこの地に住んでいたという石柱が建っているのを目敏く見つけました。歴史上の人物として有名な方なので説明版を写真に収めました。案内地図を見ると無法松の墓とか訪ねたい魅力もいっぱいあるようでしたが、今回は日暮れ時間切れとなりました。

 最後に訪れたビルも変わった風情で内面から天空を覗くと面白い格好に見え、建築の世界も新しい発想がどんどん増えていることを感じました。

 こうして、二日間の短い北九州見て歩きの旅は終わりましたが、私にとっては今回も感性を磨く上でとても貴重な経験になったことは確かです。今度九州に来るのはいつになるのでしょうか。

  「旅先で 異文化ギャップ 感じつつ 新た発想 心フツフツ」

  「スピードも 大事だけれど ゆっくりも 心耕す やはり必要」

  「大都会 ビルの谷間に 乃木大将 俺が見つけた 小さな歴史」

  「ハングルが 巾を利かせる 北九州 日本人だか 外国人だか」



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