shin-1さんの日記

○探し物の多いこの頃

 「免許証がない?」。昨日の昼過ぎ車に乗る時、自分の背広のポケットに入れているはずの免許証が見当たらないのです。居間や書斎など置きそうな身の回りを探しましたが一向に見つかりません。携帯電話だと家の電話で呼び出せば居場所が分るように着信音が鳴るのですが、免許証ばかりはそんなことも出来ず、さてどうしたものかと思案しました。「迷ったら元の場所へ戻れ」とは親父の口癖なので、ジャガイモの収穫をした場所へ行きました。すると野外東屋の机の上に免許証がポツリと置かれていました。「そうか、鍬でジャガイモを掘り、掘ったジャガイモを運ぶためポケットに入れた免許証が痛んではいけない」と、ちょい置きしたのを思い出しました。作用が万事このように、まるでアルツハイマーか認知症になったようで、探し物が多いこの頃なのです。

 この原因は一体何かと考えてみましたが、どうも近頃忙しくて身の回りの整理整頓が出来ていない事に気がつきました。書斎を見渡すと机の上は書類の山、机の下も書類の山で足の踏み込む場所もないほど整理整頓ができていないのです。そうだこの際綺麗に片付けようと掃除を始めました。私の掃除は簡単で書類類を要るものと要らないものに分けて、要らないものを捨てれば済むのです。でもその見極めが難しく、捨てると決断するのに時間がかかるのです。「あっ、こんな所にこんな物があった」などと読み返していると、ついつい捨てられなくなって元の鞘に納まるのです。

 私が一番捨て難いと思うのはハガキや手紙類です。私は毎日三枚のハガキを書くことを日課にしているため沢山のハガキや手紙が届きます。一ヶ月も貯めると山のようになるのです。特に4月は異動の季節で沢山の退職通知や転居通知が届いていて、住所録整理が追いつかないのです。仕方なくこれもうず高く積み重ねてしまうのです。整理整頓のコツは捨てることと分っていても、「勿体ない世代」に属する私は中々その決断が出来ないのです。

 昨日掃除をしていて嬉しいことがありました。紙類の中から祝儀袋が出てきたのです。祝儀袋といっても熨斗や水引のついたものではなく、簡易な封筒形式の物なのですが、中を開けて見ると何と9千円が入っていました。表書きがないのでどこでいただいたかは定かでないのですが、多分どこかの講演会場で講演お礼にいただいたものでしょうが、その日の資料の中に紛れ込んでいたのです。普通だと紙ごみとして出されたり畑の隅で焼却処分される運命にあった9千円は私の嬉しい所得となりました。本来なら妻への申告が必要なのでしょうが、そんなに申告を深刻に考えず私のポケットマネーに収まりました。目出度し目出度しです。

 紙類と同じように最近は電子文字の整理も煩雑になってきました。自分で書いた文章なのにハードディスクの整理が悪いため、文章を探すのに一苦労です。でもないと諦めて新しい文章を書く方が新鮮な事だってあるのです。最近はパソコンの記憶をいいことに、前回や前年に使った資料を焼きなおして使うことがよくあります。それは何も私だけではなく、公文書でも明らかに昨年の起案文書を直して使っているような手紙が時々届きます。直し忘れでしょうが、「第○○回」とか「○月○日(金)」「○○時から」などの間違いが多く、時にはとんだハプニングさえ起きるのです。

 物忘れ、それは歳のせいもあるでしょうが、基本は整理整頓さえしていればある程度の物忘れはカバーできるようです。大切なもの故大事にしまい忘れることだってあるのです。私のように目出度しになればいいのですが、無くしたものが全て手元に戻るとは限りません。しっかりと肝に銘じて探し物が少ない日々を過ごしたいものです。

  「紙ごみの 中から祝儀 見つけたり 妻には内緒 言っちゃ駄目だ」

  「歳のせい? それとも私 認知症? この頃ど忘れ 多くて困る」

  「眼鏡何処? かけてることを 忘れてる 親父笑って 俺も笑われ」

  「これからは 綺麗にするぞ 思いつつ 毎回同じ 進歩がないね」 


 

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shin-1さんの日記

○ジャガイモの収穫

 この頃になると毎年親父と私は親子喧嘩をします。喧嘩といっても何も取っ組み合いや罵声を浴びせるようなことはしないのですが、どこか親子の間に不協和音が聞こえるのです。というのも家庭菜園にタマネギとジャガイモを植えているのですが、その収穫についての意見の食い違いなのです。

 今年90歳になる親父はお天気で作業をします。したがって梅雨に入ったこの頃になるとタマネギとジャカイモの収穫の日を週間予報を見ながら探ってるのです。所が今年63歳になった私はリタイアしたとはいえ大学へ非常勤講師として講義に行ったり、まちづくりの講演活動で全国行脚をしたり、前もって決められたスケジュールに沿って忙しく動き回るのです。お天道様相手の親父と人様相手の私では日程が会うはずがないのです。年に一度の親父の言い分だから聞けといわんばかりに詰め寄ってきますが、結局は喧嘩別れのような形で、この10年ほどは親父一人が終いをしているのです。しかし寄る年波には勝てず最近は自分の力だけではどうしようもなく、私の力を借らなければ成就しないのです。

 今朝親父の隠居へ行くと案の定、「今日は暇か」と訪ねました。暇ではなく締め切りの近づいた原稿書きがあるのですが、家にいて着くの前に座っていると親父の目には「暇」と映ったのか、手伝う羽目になってしまいました。堀り上げたジャガイモを入れるキャリーを用意して、鍬で掘り始めました。権兵衛が種まきゃカラスがほじくる」の言葉の如く、「息子が掘れば親父が拾う」類で作業を進めました。今日はここ2~3日の梅雨の晴れ間で土も掘り易い具合に乾いていて、しかも曇り空で随分助かりました。

(豊作の予感がするジャガイモ畑)
(土の中から出てくるよく太ったジャガイモ)
(私が鍬で堀り、親父がキャリーに入れて行きました)

 今年はジャガイモの出来は豊作で、男爵という種芋を10キロも植えたためかなりの量の収穫でした。土の中から面白いほど大きなジャガイモが次から次へと出てくるのです。キャリーに10箱も収穫し親父はこの10年で一番の豊作だと、一昨日収穫を終えたタマネギとともに豊作を喜んでいました。

 さて今晩はジャガイモとタマネギの料理が並ぶことでしょう。塩茹でした熱々のジャガイモにバターを塗って食べるのもいいしと思うと何だか口の中にツバが出そうになりました。

 何はともあれタマネギとジャガイモの収穫作業は終り、親子の間柄もすこぶるいい人間関係に戻りました。親父も90年間長男として厳しい時代を生き抜いてきました。私も親父ほどではありませんが長男という人間のサガを感じつつ63年間生きてきました。二人の長男の関係は二人が生きている間続くことでしょうが、年齢的にいうと老い先は私に軍配が上がります。軍配の下がる親父のことを思えばもう少し優しくしてやらなければと殊勝な気持ちになっています。でもすこしでも長生きしてもらうためには親子で張り合うことも大事だと妻が二人の些細な喧嘩を横目で見ながら話します。どちらが正しいのでしょうか。

  「九十の 親と息子が 喧嘩する 親父まだまだ 元気な様子」

  「今夜から 雨だと強調 親父勝つ 負けたふりする 息子気配り」

  「豊作は 俺が世話した 胸を張る 親に負けじと 掘った自慢を」

  「ああ美味い 新ジャガ食べて 幸せだ 長閑な暮らし 金に変えれず」 

  


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shin-1さんの日記

○これ何だか分りますか?

 デジカメで写真に撮るとアップし過ぎてモノクロに写ってしまいました。実はこれ石の板に彫った絵なのです。私の名刺に使っているわたなべえつこさん画の似顔絵ですが、笠岡市で開かれた講演会で、講演終了後「まなべしま新聞編集長」の森本洋子さんからお礼にといきなり手渡されました。聞けば石の産地で知られる北木島では、コンピューターに情報を入れればこのような作品が出来るのだそうです。それにしても素敵なプレゼントで、絵皿を飾るような足までつけてもらって嬉しい限りです。

 さてこの素敵なレリーフを何処に飾ろうか思案中ですが、やはり対外的に人のよく集まる人間牧場水平線の家に飾って、来た人に笠岡の島づくりの話、守屋さんの話、森本洋子さんの話などを織り交ぜながら、愛媛から岡山県笠岡市の離島の話を発信してあげたいと思っています。

 さて、「笠岡市は何県?」といわれたら賢明な皆さんは即座に正解を答えるでしょうが、笠岡市へお邪魔するに当って私の周りの人にこの質問を投げかけてみました。圧倒的に多かったのは「広島県」でした。無理もありません。笠岡市の直ぐ隣は広島県福山市なのです。失礼な言い方ですが福山の方が私たち四国の人にとっては馴染みが深く、瀬戸大橋が開通した今も、しまなみ海道と瀬戸大橋の狭間にあって中々行く機会がないのです。

 でも生きた化石といわれるカブトガニ生息地としてカブトガニ博物館があったり、秋田県八郎潟と並んで300億円もの投資をした大規模な笠岡干拓地でも有名です。私はまちづくりの優良事例をよく情報誌で読みますが、笠岡「美の浜」の水辺環境整備について、何かの情報紙で「景観賞」を受賞した記事を読んでいたこともあって、是非訪ねたいと思っていました。

 少し早めに家を出て、少し早めに到着したため付近の人に水辺環境整備の話をしながら聞きましたが、地元の人は殆ど知らず、私が「美の浜」と思い出して言えば、やっと言葉が通じたのです。

 干拓で出来た運河の周囲に美の浜はありました。片道1.2キロの道でしたが、私は一人最初から最後まで歩いて往復しました。

(美の浜の水辺はとても穏やかでした。1.2キロ、往復2.4キロを歩いて、僅かに一人だけしか人に出会いませんでした。土曜日の昼前、子どもの歓声が聞こえそうな雰囲気なのに・・・・)
(綺麗な花が咲いていました。思わず心が和みました)
(市民の森の入口か出口に湧水の広場がありました)
(作られた市民の森も木々が大きく繁っていました)

 会場となる文化会館に引き返し、島弁を食べました。蒸しアナゴの美味しい味に舌鼓を打ちました。守屋さんから聞いていて楽しみにしていただけあって味は抜群です。ただ惜しむらくはお品書きがないため、せっかくのご馳走の来歴が分らず惜しいと思い守屋さんにその話を提案しました。さて面倒臭いと思うか、いい提案だと思って実行するかは、島弁の行方を左右しそうです。

 課長さんと部長さんが私の希望を聞き入れていただき、干拓地の様子を一目見ようと一望できる城山へ上りました。国家や県や市の威信をかけた大型プロジェクトだけに凄い規模で目を見開きました。多分その後の農業政策の変更や農業事情の変更によって、目的とは随分離れた企業誘致などの方向に進むのでしょうが、笠岡市もご多分に漏れず人口減少に歯止めがかからないようです。この干拓地が笠岡市の切り札になるよう祈ります。

(城山から見ると、運河や離島など笠岡市は水の文化都市かも知れないと思いました。

  「石板に 俺の似顔絵 彫ってある 男前だな 実物よりいい」

  「美の浜を ゆっくり一人 散歩する 人にも会わず 花を愛でつつ」

  「住んでいる 人さえ知らぬ 散歩道 俺ならもっと 自慢するのに」

  「城山に 登りて遠望 干拓地 農業苦悩 高見見物」


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shin-1さんの日記

○真鍋島での楽しい一夜

 「若松さん、覚えていますか」と唐突にいわれました。はてさて失礼な事ながらその人の名前は「山本英司」さんで笠岡市役所協働まちづくり課の副統括をしているそうです。10数年も前、私は彼の招きで島へ渡り、漁業者の皆さんにまちづくりについて講演しているのです。「笠岡のある島へ講演に行った」「笠岡の駅前でラーメンを食べた」「市役所の人と一緒に島へ渡った」くらいの断片的出来事は覚えていても、誰と何と言う島へ行ってどんな話しをしたかまで、凡人の私の頭でははっきりと覚えていなかったのです。

 よくある、覚えていないのに覚えていそうな態度をするのも嫌なので、正直に話してしまいました。しかし当の山本さんは私の顔どころか、私の話まで覚えていて、恐縮してしまいました。それでも10数年ぶりの再会を喜びながら、記憶の糸を手繰り寄せながら思い出話に花を咲かせました。

 講演が終わって守屋さんの計らいで私たち一行はそれぞれの島に帰る人たちを見送る海上タクシーに乗って、島伝いに人を降ろしながらその日の宿を取っている真鍋島へ向かいました。別名笠岡諸島といわれる白石島、北木島、飛島などの向こうに浮かぶ真鍋島までは一時間強で、途中の白石島で白石公民館長の天野さんを乗せ、その間講演会に来ていた乗船の女性たちと船室で大声で話しながら過ごしました。そういえば昔来たことがる島は石の島北木島だったような気がしました。

 やがて船は真鍋島の裏側にある三虎というユースホステル専用の桟橋に着岸です。聞くところによると学校を移築したどこか趣のある家で、島の表にある港からは道は歩道しかなく、もっぱら船での入島が一般的と聞いて2度も三度もビックリしました。その夜はこの島宿に泊まりました。早速塩湯に山本さん、守屋さんとともに入らせてもらい、汗を流すどころか噴出す汗に大弱りほどの塩風呂効能でした。

(まるで海に浮かんだように見える島宿三虎)

 その夜はとびっきりのご馳走で、見たこともないような大きなアコウの刺身やオコゼの唐揚げ、備中の海特産のカニや海老に舌鼓を打ちながら山ほどの積もる話をしました。夕食懇談が終わった後もお茶を飲みながら居間で天野課長さん、守屋さんと三人で協働のまちづくりの進め方について意見や議論を出し合い、笠岡方式を探りました。

 私は子どもの頃から前が直ぐ海という下灘漁村に生まれ育ちました。いわば波の音が子守唄のような日々でした。島宿三虎も直ぐ下が海なので、窓越しに波の音が静かに聞こえ、懐かしかったものの、久しぶりの波の音で中々寝付かれず、思い切って電気をつけて1時間ばかり読書にふけりましたが、いつの間にか眠っていました。

 明くる日は私の都合で早立ちのため朝食をすることなく朝6時に宿を出ました。島の向こうの定期船が発着する港までは約15分も急な山坂を上り下りしなければなりません。それでも少し上り少し下ると懐かしいような港の風景が見えてきました。

 島独特の細い路地や殆ど車の通らないスローな暮しを垣間見ながら、守屋さんの案内で路地裏に向かいました。ここには大きなホルトの樹があって中々の銘木です。早朝ながら守屋さんは勝手知ったる手合いで中に入り私に色々な説明をしてくれました。

(立派なホルトの樹)
(説明板)
(歴史の重みを感じさせるナマコ壁の細い露地)

 朝の散歩がてらの見学に終わりましたが、一度ゆっくり訪ねゴーヤを作る人、しまべんを作る人、漁火の人、木造校舎の守り人、よろづ屋の人など、守屋さんの話の端々に出てくる面白い人に会ってみたいような気持ちになり、後ろ髪を引かれる思いで高速船に乗って地方まで元来た航路を帰りました。穏やかな瀬戸内の風情に触れた一泊二日の旅は、同行して貰った天野課長さんや守屋さんとの語らいで癒しの旅となり、再びしまなみ海道を走り、伊予へと帰ってきました。

  「またおいで そんなささやき 聞こえそう 島は心が ポカポカしそう」

  「猫さえも のんびり朝寝 動きなし 島は時計が 止まっているよう」

  「その先に 浮かぶ小島は 香川県 ココは県境 四国は近い」

  「道もなく 峠を歩く その先に どこか懐かし 港が見える」


 

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shin-1さんの日記

○送られて来た画像

 昨晩出張先の岡山県笠岡市から帰ってパソコンを開いたら、笠岡市職員の守屋さんからお礼状に添えて何枚かの画像が送られていました。私がわが家へ帰るより一足早くその時の情報が届くなんて便利な世の中になったもんだと感心しながら、その画像をブログ用500KB以下に落として、ブログの記事に利用することにしました。

 笠岡へ行く前日の夜、守屋さんから携帯電話が入りました。講演が予定されている研修会に部長さんの住民基本条例説明と担当者の協働のまちづくり説明を組み合わせるために、落語形式で統一したいとの申し出です。もとより私は落語ならぬ落伍家として芸名夕日亭大根心を名乗っているので、面白い企画だと一も二もなく引き受けましたが、落伍をするには小道具が必要で、めくりや拍子木、出囃子、扇子とタオル、座布団、羽織などなどを用意しなければならないのです。その小道具は全て人間牧場の水平線の家の備品として置いているため、急遽夜遅く8キロ離れた人間牧場まで取りに行きましたが、妻が随分不思議がっていました。最初の計画では私のまちづくり講演会、次の計画では観光カリスマ講演会、最終的には夕日亭大根心講演会と二転三転も思考の結果だと思いつつ、悪乗りに遊び心で乗ってみようと思いながら、しまなみ海道を通って片道3時間の道を走りました。

 会場となった文化会館の入り口には手作りの奇妙な看板が立っていました。私以外の出演者もみんな落語の芸名がついているのです。面白い企画についニンマリしながら真打の責任の重さに少し心が沈みました。やがてダンディーな協働のまちづくり課長天野さんの案内で控え室で談笑したり、島弁という目ずらしアナゴ飯弁当を試食したりしていると、副市長三島さんやいかにもヤクザ風の髭を生やした政策部長柚木さんがやって来て、みんな浴衣に着替え本格的に落語風の姿にお色直しをして、前座の席へ姿を消して行きました。

 会場は大入り袋を配らなければならないほどの大入りで、後ろには立ち見までいて大盛況です。いよいよ私の出番が来ました。お囃子に乗って高座に上り、さあそれから背広を裂き織の高座着に着替え、楽しい話しを90分、高座本やカンニングペーパーやレジュメも持たず、澱みなく話しをさせてもらいました。会場の設えも壁に貼った私を紹介する幾つかのポスターも全て絵になる光景でした。高知県馬路村の木下さんが仕掛けた移動寄席ライブ、兼頭さんが愛媛県上島町弓削島で仕掛けた希望の島寄席ライブ以来の楽しい研修会となりました。それにしても僅かな時間に提灯を吊ったり、ここまでやるかといわれるような準備をしている守屋さん松浦さんたちのパワフルな行動力には脱帽する以外はありませんでした。



 昨日の中國新聞の朝刊にその模様が出ていたのでしょか、その新聞の切り抜きも写真に添えられて送信されていましたが、落語風で新聞に載ったのは勿論初めてです。


 それにしても笠岡市の市役所の何とフットワークの軽いことでしょう。普通こんな企画をしても「馬鹿なことを」と一蹴されるに違いありません。この企画は多分天野課長、柚木部長、三島副市長と上がっていったのでしょうが、課長も部長も、何と副市長までもが浴衣に着替えてあいさつをするとは嬉しい限りです。人口僅か5万人余りの市でありながらも、このような遊び心で市民に分りやすい行政を心がけている姿に深い感動を覚えたのです。協働のまちづくりもまちづくり基本条例もある意味難しく話せば難しく市民は受け止めます。しかし協働も基本条例も市民が主役であることを考えれば、自分たちの暮らしをよりよくするためのものですから、分り易くしなければ何の役にもたたないのです。まちづくり基本条例があるから街がよくなるのではなく、市民がまちづくり基本条例を必要とするとき街はよくなるのです。いやあ勉強になりました。

 「部長さん 副市長さんまで 浴衣掛け 楽しなければ 先へ進めず」

 「新聞に 落伍姿が 載るなんて 赤面になる 今頃になり」

 「はい私 夕日亭の 芸名で 高座に上がり 笑い誘いて」

 「高座降下り 求めるままに サインする 本まで売れて 嬉し恥かし」   

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shin-1

○ストーブを片付けました

 「えっ今頃?」と思われそうです。このところ風邪気味な妻の体調が思わしくなく、本来5月の連休が終わると空焚きしてストーブを別棟倉庫の二階へしまうようにするのですが、延び延びになっていました。今日出張先から帰ると、長男が四つのストーブを掃除をして納屋へしまってくれている作業の真っ最中でした。多分妻が当てにならない私を見越して頼んだのでしょうが、面目ない話です。

 それにしても私の住んでいるのは南国四国でどちらかといえば日本列島の中でも暖地に分類される地域で、ストーブなど縁遠いと思っていたのに、約半年もストーブのご厄介になっているのです。最近は灯油の値段がべらぼうに上がって本来なら節約対象の物件なのですが、若い頃ならいざしらず老域に達しつつある私たちにとって暖を取るストーブは欠かすことの出来ない生活必需品なのです。

 最近までフキや苦汁菜、マーマレードジャムなど春の山菜を使った保存食を作っていましたが、実は反射タイプのストーブは保存食作りには欠かせない必需品なのです。下ごしらえしたものを鍋でコトコト弱火で煮詰めて行くのにはストーブの余熱が最適で、随分重宝したものです。また煮豆のようにゆっくりと時間をかけなければならないものもストーブの余熱だと、別の用事をしながら焦げることもなく仕上がるのですから有り難い使い方なのです。

 空焚きされたストーブはビニールのゴミ袋で包まれ、これから約5ヶ月深い眠りにつくのですが、このストーブと面会する10月下旬には私もひとつ歳をとり、64歳になっているものと思われますが、ストーブを見る度に月日の経つのが早くなったような錯覚を覚えるのです。

 ストーブのなくなった台所、居間、書斎、応接室は部屋中がどこか広くなったような気がします。デンと居座り続けていたストーブも、人間とは身勝手なもので邪魔者扱いです。変わって夏の主役である扇風機がお目見えしました。扇風機を見ているだけで夏の暑さや涼を求める気分になるから不思議です。わが家はどちらかというと大きな日本建築の家のため、夏向きの家です。近頃建てられる家のように細かく仕切られていません。襖や障子を取り外すとまるで大広間のように使われる構造になっていて、しかも家のある位置が上灘川沿いの深い谷筋の高台にあるため、夏も冷房が殆ど必要ないのです。窓を開けて網戸にすれば天然の風が気持ちよく吹き込んできます。したがって冷房設備も一部屋だけしかなくそれも殆ど使うことはないのです。

 ストーブの話しを今頃するのは気恥ずかしく、わが家の恥のような感じがして妻から怒られそうですが、わが家はやっと夏モードになりました。私の衣替えも一週間遅れて半袖を今日から着ようと思っています。昨晩久しぶりに出会った孫たちは体が燃えるのでしょうか、半袖で短パンでも汗をかいている姿を見ると、やはり新陳代謝の違いでしょうか。

 今日は雨だろうと予想しながら雨にも会わず二日間の旅を終えた私ですが、今年の夏も健康に注意して乗り切りたいと思っています。

  「今頃に なってストーブ しまうとは テンポずれてる 老域夫婦」

  「高くなる 天井知らずの 油代 ストーブ灯油 これから皆無」

  「孫たちは 見るから夏と 思うよう 私見るから 真冬のようだ」

  「窓の外 モミジの枝葉 涼しげに 夏風揺れて 季節を告げる」 

 

 

 

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shin-1さんの日記

○軒に吊り下げられたタマネギ

 岡山県笠岡市へ一泊二日の旅に出て、途中家に帰らず二つの会議をこなし、今夕やったわが家へ帰って来ました。頑丈な身体ゆえに疲れた様子もないと思っていましたが、娘の家族とと長男家族がほたる祭りを見学するため昨日からわが家へ泊まりに来ていたようで、前もって妻から「帰宅時間は何時頃になるの?」と電話がかかっていたので、午後7時過ぎと予告していたので、みんながw足しの帰りを待っていてくれて、賑やかな夕食会となりました。特に一歳とゼロ歳の孫は頭の真に堪えるような賑やかさで、食事が終わって三々五々引き上げた後はまるで嵐の後の静けさで、拍子抜けがして疲れがどっと出てきたような感じになりました。それでも五歳の孫は「おじいちゃんとお風呂に入る」と待っていてくれて、久しぶりに二人で仲良くお風呂に入り旧交を温めました。

 帰って、昨日出かけに畑で引き抜いて出かけたタマネギの処理が心配でしたが、親父は昨日と今日の二日間で、タマネギの古い皮をむいで何個かをビニールの紐で縛り、綺麗に軒先に吊るしているのです。日頃から几帳面な親父のことゆえそれはまあ見事で、まるでタマネギを吊るした様はインテリアとでも言うべき美しさで感心してしまいました。

 わが家のタマネギはこれまで10年以上にわたって魚網を縫い合わせた袋に入れて、煙会所の軒先に吊り下げていました。こうすることで茎が枯れてもタマネギは落ちることはなかったのです。ところが毎年同じ袋を使うためかどうか分りませんが、半年もするとタマネギの袋で鎖が出始め、その腐りが袋全体に及ぶという悪循環を繰り返してしまい、最後ごろはタマネギの腐った汁が地面に落ちて美観どころか衛生にも悪いので、今年から昔のように茎を縛って吊るす方法に切り替えたようなのです。

 90歳の親父ながら、昨年までの失敗をちゃんと反省し、新しい方法を編み出しているのです。私などはその事に気付いていても改善せずそのままで処理しようとしていたのですから、穴があったら入りたい心境なのです。

 昨年までは私も手伝って土の付いた古い皮を取り除く作業をしていましたが、これだけのタマネギの皮を剥く作業は大変だったんではないかと、思わず親父ながらその勤勉さに頭が下がる思いです。

 夕闇が迫り、折り悪く間もなく振り出しそうな空模様なので、今日は写真撮影は断念しました。明日の朝綺麗なタマネギの行列を皆さんにお見せできそうです。

 娘も息子も今日は帰りにタマネギとジャガイモを沢山親父から貰って帰って行きました。どちらの家も料理が得意なようなのでタマネギとジャガイモを使って美味しい料理を作ってくれる事でしょうが、多分カレーか肉じゃがくらいが定番で、余り期待できそうにもありません。

 先月誕生日を迎えた尚樹は伝い歩きが出来始めていますが、8月末に誕生日を迎える希心はまだやっと寝返り程度で、メタボではないかと悪口を言われるほど太って、抱きかかえるとずっしり重さが伝わってきます。2ヵ月半も早く生まれた尚樹は後発の希心に体重では追い抜かれそうな雲行きです。

  「タマネギも 軒に吊るされ インテリア 田舎演出 趣きあるね」

  「九十に なっても懸命 この二日 親父はアリで 俺キリギリス」

  「この二日 天気味方の 取入れを 終わりタマネギ 軒に吊るされ」

  「お疲れさん 足腰肩に サロンパス 貼って親父の 苦労慰め」


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shin-1さんの日記

○タマネギの収穫

 年寄りとはホトホト身勝手なもので、今朝起きて隠居へ行くと親父の姿が何処にも見当たりません。毎度の事ながら菜園にでも行っているのだろうと思い、菜園へ行って見ると、朝早くもタマネギの収穫をしているのです。今年のタマネギは豊作のようで、大きく太ったタマネギは地中深く根を張っているため、親父の力では中々引き抜くことが容易ではありません。すでに作業を始めているので私は急いで自宅へ帰り長靴に履き替え、パジャマのままで畑に出ました。外の空気は初夏ながらひんやりとして肌寒い感じさえします。親父と一緒にタマネギを引き抜きました。親父が一列、私が二列のスピードで引いて行きますが、親父は時折背を伸ばしながら作業をしていました。僅か20分ほどでしたが全てを引き抜きました。

 親父の話によると今夜あたりから雨模様とのことです。親父の暮しはお天道様中心です。雨が降ったらお休み、晴れた日には野良仕事です。一方私は仕事中心です。今日は岡山県笠岡市へ講演に出かけるため二日ほど留守をするため、タマネギの収穫は手伝えないと言っているにもかかわらず、今日を吉日と定めた親父の予定に合わさなければならないのです。それもそのはず、今は梅雨の真っ最中なので雨の周期に会うとタマネギの収穫は一週間も二週間も遅れてしまう恐れがあるのですから、仕事中心の私よりお天道様中心の親父の方が正しいのです。このままほおって置いて行く事も出来ず、パジャマのままの畑仕事と相成った訳です。それでもお陰様で少しはお役に立つことが出来、少し安心をして旅に出られるのです。

 親父の言うのには、このまま夕方まで畑で乾かし、夕方キャリーに入れて納屋に仕舞い込めば雨に合うこともないのだそうです。

 タマネギはわが家の一年分の食糧です。と同時に親類縁者へのお裾分けもしなければなりません。わが家へは漁村らしく年中色々な季節の魚が親類縁者から届けられます。そのお返しは菜園を持たない漁師さんにとってみれば有り難い贈り物だそうで、タマネギボジャガイモもおすそ分けとなるのです。

 昨日妻は夕食に肉じゃがを作ってくれました。新ジャガイモに新タマネギは格別の美味しさで、ご飯によく合っておかわりをしてしまいました。妻はもうそろそろ新タマネギと新ジャガイモを使って飛びきりのコロッケを作ります。自分で言うのも何ですが、妻の作るコロッケは最高だと思うのです。結婚して以来ずっとコロッケはわが家の初夏の自慢料理になっていて、この頃になると子どもたちがコロッケが食べたいというのです。妻はコロッケを沢山作り子どもは勿論親類縁者に送るのです。これまた喜んでもらうものですから、その気になって作るという循環です。

 私はその都度、コロッケに小麦粉をつけ、卵にくぐらせパン粉をつける最終段階の手伝いをさせられます。あのヌルヌルした感触は一番嫌な行程なのですが、妻の言うがまま従っています。

 今日からの旅は間もなく始まります。畑に干されたタマネギのことも気になるし、親父が果してこの処理が出来るかどうかも心配です。今日はほたる祭りで娘一家、息子一家もやって来ます。本当は息子にタマネギの収穫を手伝って欲しいのですが、私が留守をするためそのことを頼みもできず出かけます。

 早くも隣の部屋では有線放送がほたる祭りの告知放送をしている音が聞こえています。ああ今日はほたる祭りが雨にならなくてよかったと思う朝でした。

  「タマネギが 仲良く並んで 梅雨晴れ間 甲羅干しする やがて首切り」

  「親父より 少し体力 多かりし タマネギ親子 ウンコラドッコイ」

  「タマネギを 引き抜き頼む 家を出る 後の作業は 親父一人で」

  「ご苦労さん 声をかけたし タマネギに 八ヶ月とは これまた長い」


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shin-1さんの日記

○見方が違う見方

 昨日は町内の101歳で亡くなったおばあちゃんの葬式に出かけました。幾つになっても人の死に年齢の不足はないと思うのですが、葬儀に参列した人の見方は人によって違うように思いました。「おばあちゃんの年齢は幾つ?」「101歳だそうです」「うんそりゃあ大往生じゃな」と年齢から考えて長生きし寿命だと割り切る人がいます。一方で親類の人は目を真赤に腫らし、「もう少し生きて欲しかった」とお別れを辛そうにお話しされました。確かに肉親との別れは幾つになっても辛いもので、私の母も80歳、祖母は88歳であの世に旅立ちましたが、肉親の私にとっては「もう少し長生きして欲しかった」というのが本音で、母が死んで8年余り、祖母が死んで20年余りになるというのに、未だに私の心の中に行き続けているのです。

 お葬式は滅多に会うことのない人に会います。私は若い頃教育委員会に務めこの地域に度々足を運んで自治公民館活動の手助けをしていました。したがって当時はどの家にどんな家族がいて、犬が何匹まで殆ど知り尽くしていました。当然殆どの住民が顔見知りでそれは楽しい日々でした。しかしあれから三十年近くが経つと、いつの間にか若かった人たちはみんな30歳歳を取り、膝腰肩に不調を訴え、何らかの病気を持っていると訴えていました。

 「若松さん、えらい痩せたがどがいしたん」?とは、長い間であっていない人の弁です。「はい少し病気をしまして痩せました」「どこの病気ぞな?」「胆のうを患いまして」「ほうそりゃ気をつけないけませんよ」「はい有難うございます」「○○さんも胆のうを取ったそうじゃが、あの人は昔以上に肥えとりますよ」「そうですか、私は痩せる方なんでしょうかねえ」「胆のうを取った人はなんぼでもおりますから、心配することはありませんよ」「はい私もそう思って頑張ります」、てな調子で会話が弾みました。

 ところが時々出会う人は、「若松さん元気そうになったねえ。顔色もいいし毎日講演などで忙しそうですね」「はいはいお陰様です」「こないだ新聞に載っているのを見ましたが、あれはどこでの講演だったのですか」「はい金融広報委員会から頼まれての講演でした」「ほう、また偉い所ですが、どんなお話ですか」「はい人生の生活設計についてでした」「ほうまた難しいお話ですね」「いえいえ、大したことはありません」「まあ忙しいのはいいことですが、余り無理をしないように、お互い歳ですから、このおばあちゃんのように長生きがしたいですね」「はい」、てな調子でした。

 久しぶりに出会った人の見方と、時々会う人の見方はこのように同じものを見ても随分と違います。どちらも正しい見方なのですが、さて私は土地rを信じましょうか。「えらい痩せた」という話しを考えると私は明らかに病後を引きずっています。「元気になったねえ、顔色もいいし」だと嬉しい見方です。体重計に乗った時思う「もう少し肥えたい」という不安な思いと、毎日鏡を見て日々の暮しや初夏の日差しで日焼けした精かんな?顔つきを思えば「うん大丈夫」とも思うのです。

 人間は言葉一つでこうも心が動くものなのです。「少し痩せたね」といえば、それを喜ぶ人もいれば皮肉と取る人もいます。言葉は魔物です。

  「何処悪い? 痩せた体を 見て言われ はて大丈夫? 少し心配」

  「顔の色 いいじゃないかと 見て言われ 俺は元気だ 少し安心」

  「裏表 見方によって 違うもの いいよう思い いいよう生きる」

  「告別の 席でお互い 消息を 語り合うのも 変な話だ」


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shin-1さんの日記

○梅干しと梅酒づくり

 人間牧場の梅も今年は裏作で梅の実の収穫が昨年の半分以下なのです。それでも天の恵みとでもいうのでしょうか、11本の梅の木から今年はキャリー4箱、計80キロの梅の実が採れました。普通の家庭だと「えっそんなに多い梅をどうするの?」と鳴るのでしょうが、わが家では梅干し40キロ、梅酒30キロ、残り10キロをおすそ分けに回しました。普通だと梅の処理をかいがいしくやる妻が、このところ風邪気味で体調が優れないため、今年は初めて私が挑戦しました。妻が「お父さん、梅の処理は手間とお金がかかるのよ」と言う通り、塩と砂糖それに梅酒用の瓶とホワイトリカーなど必需品を買い求めることから始めました。昨日生協の理事会が終り、帰りにスーパーとホームセンターに立ち寄りましたが、お目当てのものが全て揃わず四苦八苦しました。昨日は梅を選別して水洗いし水気を取り梅干しの漬け込みです。私の作業を遠目で見ていた妻はぎこちない私の作業についつい手を出し共同作業となりました。倉庫から取り出して洗っておいた梅干用のプラスチック樽三つに分けて塩20%で漬け込みましたが、梅酒の作業が全て残って日没終了です。

 今朝は妻が仕事で留守なので、私一人が8リットル10本の梅酒専用ガラス瓶に洗って水切りした梅を3キロずつ軽量して入れて行きます。本来ならホワイトリカーと氷砂糖を使うのですが、私がアルコールを飲まないのと、人間牧場にやって来る子どもたちのためにアルコールゼロの梅ジュース主体で仕込んで行きました。それでも人間牧場へは大勢の呑み助がやって来るので、その仲間たちのリクエストに答えてホワイトリカー入りの梅酒も4本仕込みました。

 一人の作業は中々はかどらず作業が終わったのは12時近くになってしまいました。今日は午後1時から町内の101歳で亡くなったおばあちゃんの葬儀があるため、急いで跡片付けをして帰ってきた妻と昼食を済ませ出かけて行きました。今日は梅雨の晴れ間ながら天気がよく外は汗ばむほどの陽気でした。

 昨年はこの瓶を人間牧場の押入れに保管しましたが、今年は鯉が死んで使わなくなった池を地下室に改造したため、そこへ入れる事にしました。この地下室だと温度も余り上がらず、しかも暗室のため梅酒の熟成には最適だと思ったのです。今朝その入口の蓋を開けて中に風を通していたため地下室はかび臭くもなく、10本の梅酒の瓶を丁寧に中へ入れ、瓶の上にナイロンの袋を被せて一通りの作業を終わりました。昨年の経験からいうと9月には新酒が試飲できるようですが、昨年仕込んだ2年物の梅酒もまだ残っているので、ゆっくり一年をかけて熟成したいと思っています。

 本当は仲間を集めて梅酒を造る作業もワイワイガヤガヤやりたいのですが、いかんせん私の予定が立ちにくく、明日は泊り込みで岡山県笠岡市へ出掛けなければなりません。多分来年は梅が表作なので、梅酒を造るプログラムを人間牧場のメニューに入れてみたいと思っています。

 急がず慌てず、それでも今年の仕事はきっちり片付けて、来年につなげる、これが人間牧場の仕事なのです。

  「梅干しと 梅酒を造る 中腰の 作業で腰が 少々変だ」

  「今晩は 梅酒で祝い せにゃならぬ 畑の恵み 神々感謝」

  「醸造の 瓶から取り出す 梅酒梅 煮詰めてジャムを 作ってみよう」

  「今年こそ 梅酒を瓶に 入れ替えて 手づくりラベル 張って中元」 


  

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