shin-1さんの日記

○友遠方より来るあり・また楽しからずや①

 埼玉県に北本市という街があります。社会教育、とりわけ公民館活動が縁でその街に住む工藤さんという人と、30年も前に静岡の朝比奈さん(全国公民館連合会理事)という人を仲立ちにして知り合いました。彼は北海道松前町出身で地元高校を出て上京し出版会社に勤めた後、自らも出版会社を興し様々な生涯学習の書籍を出版していましたが、その人脈たるや広くて深く、また生涯学習にも造形が深い人でしたから、当時日本一の公民館主事を目指して孤軍奮闘していた私の情報人として大いに気が合い今日まで、私的な厚誼をいただいているのです。

 彼との縁が社会教育に留まらず私のボランティア活動にまで踏み込んだのはこれまた工藤さんの差し金によるのです。彼が深く関わっていた北本市青少年市民会議の開いたシンポジウムに、私が講師として招かれました。当時私はは無人島キャンプなどの体験談を様々な場所で話していました。私の話を聞いた海のない街北本市の市長さんがいたく感激され、北本の子どもたちを無人島キャンプで鍛えてくれないかと、予算までつけて懇願されました。早速工藤さんたち市民会議のメンバーがが中心になって公募で選ばれた子どもたちが愛媛にやって来たのです。以来10年もの長きに渡って交流事業は継続され、私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループとともにボランティア活動に熱中し、大きな成果を上げました。

 無人島キャンプは最初の目標どおり20年で終わりましたが、事業が終わった後も私的な数人の仲間との交流は絶えることなく今も続いているのです。

 昨年は「無人島へもう一度行きたい」という彼らの希望を受け入れ、6月29日から3日間愛媛県入りし、念願の無人とへ渡って島内を散策し懐かしい思い出にふけりました。今回も無人島へという話もありましたが、原油高のあおりを受けて渡船のチャーター代が高くて断念し、人間牧場での交流と相成ったのです。

 昨日は彼ら3名は飛行機で松山入りしました。仕事の都合で大野事務局長が迎えに行き、人間牧場入り予定の17時まで、日本一細長い佐田岬半島へ小旅行しました。

 私は午前中と午後に予定が入っていて、その合間を縫って人間牧場へ出かけ、掃除をしたり草刈りをしたり、風呂の燃料を給油したりしながら彼なの到着を待ちました。今回の埼玉県北本の一行は工藤さん、松本さん、峯尾さんの3人で、柳町さんは残念ながら日程の都合で来ることが出来ませんでした。私たちフロンティアグループは大野さん、豊田さん、河野さん、藤本さんに高知県四万十市の和田さんと私を加えた6人、合計9人です。

 夕方5時30分から始めた雑談会は延々12時まで5時間半にも及びました。最初の話題は人間牧場の直ぐ目の前眼下に浮かぶ無人島でのキャンプの話でした。北本から送り込んだリーダーたちのその後の消息、参加した子どもたちの安否、その当時市長だった新井さんの話や、引率して来た教育委員会の人たちの話など、まるで昨日のことのように思い出されました。しかし人の記憶とはいい加減なもので、既に記憶の彼方に消えているものも数多く、昨日は河野さんが大切にしていた当時の新聞を持参していて、それを見ながら話題を広げていたようです。

(佐田岬小旅行の案内で疲れた様子の大野事務局長)

 順番にロケ風呂に入り、壁にかけている時計が12時を回ったので、「もう寝よう」と相談がまとまり、松本さんと大野さんは2階のロフトに、豊田さんと河野さんは外のウッドデッキに、私を始め残りの人間は水平線の家の板間にそれぞれ寝場所を確保し、電気を少な目にして夢の世界へと旅立ちました。私の横へは四万十市の和田さんが寄ってきましたが、お酒を飲んでいるからでしょうが、みんないびきがひどく、特に和田さんは私の腹の上に何度も足を乗せてきて、眠れない一夜を過ごしました。でも一宿一飯、こうして仲間が雑魚寝ごろ寝ができるのも、嬉しいことなのです。

  「沖合いに 浮かぶ由利島 二十年 よくぞ続いた 青春時代」

  「北本の 仲間訪ねし 牧場で 旧交温め 五時間半も」

  「スカートを はいた先生 無人島 蚊の大群に 内股刺され(ウフッ)」

  「もうこんな 時間か寝るか 雑魚寝する 友の太足 いびきも太く」

   

 

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shin-1さんの日記

○携帯電話でメール

 先日えひめ地域政策研究センターの清水さんから、「携帯電話でメールをすると便利だ」と勧められ、始めることにしました。センターの谷本さんに私のメールアドレスを入力してもらい始めたのですが、最初は文字の入力の仕方や送信の仕方が分らず苦労しました。でも今は何とか連絡が取れるようにはなりました。しかしパソコンだけでも持て余し気味なのにこれ以上となると大変なので、携帯メールは必要最低の使用に留めているのです。

 ところが清水さんは私のメールの上達を目論んでか、朝な夕なメールをくれました。時には心許せる友人からもメールが入り、旅先へ行く列車の中で、あるいは旅先のホテルで、届いたメールに何度か返信を試みました。お陰様で最低ラインのハードルだけは越えたようです。

 最近は乗り物に乗ると特に若い人たちは、辺りかまわずメールをしているのをよく見かけます。別に周りの人に迷惑がかかる訳でもないのでそれはそれとしていいのでしょうが、私のような古い人間はついつい何か変だと思ってしまうのです。だってせっかく電車に乗っているのに車窓に広がる景色も見ずに、また隣に座った人と話もせず、ただ黙々と携帯電話とにらめっこするのは余りにも勿体ないと思うからです。

 昨日ソフトバンクモバイルは米アップルの第三世代携帯電話アイフォーンの販売を始めました。東京の直販店で午前7時から先行販売したのに続いて正午からは全国一斉に販売されました。この携帯電話を求めて午前7時には1500人もの人が長い行列をつくったそうです。

 私などの携帯電話はまだカメラもついていない旧式のものだというのに、今回発売の携帯電話は音楽プレーヤーを内蔵し、全面的にタッチパネル画面を採用していて、操作性にもこだわっているそうで、インターネットも使えるらしく、ますます格差が大きくなっていくようです。

 それにしてもデジタルの世界はどんどん進化していて、時代に遅れまいと必死になって頑張ってみたところで、所詮ついて行くことは出来ず、もうギブアップの感じさえするのです。こうした便利なものを開発するのだから人間は凄いと思う反面、生き残りをかけた熾烈な競争を見るにつけ、ここまでしなくてもいいのにと思う事だっていっぱいあるのです。

 今日の新聞に木に話しかける植木屋さんの話が載っていました。植木に向って話しかけるのだから凄いと感心してよく見ると携帯電話で話していたそうです。なるほどありうる話だと思いました。

  「アイフォーンに 千五百人の 列できる 俺の携帯 カメラもないのに」

  「やっとメール 思った矢先 アイフォーン 百周遅れて ノラリクラリと」

  「パソコンも 携帯も嫌と 強がるが 本当は使え ないだけのこと」

  「英語駄目 携帯も駄目 パソコンも ダメダメダメ・・・・・と 幾つも駄目が」 

 


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shin-1さんの日記

○ファイナンシャル・プラン

 人は誰でも「こんな人生を送りたい」という夢や希望を持っていますが、それを実現できるかを資金面から考えてみるのがファイナンシャル・プランです。しかし残念なことにこのことは、個人の秘密に属する部分が多く、みんなで学習会をしようといっても、中々具体的な部分に踏み込めず、私のように長らく金融広報アドバイザーをやっていても、これといった成果が見えぬまま今日を迎えています。 「年金がどれだけ入ってくるのか」「とりあえず貯蓄はしているが低金利で目減りするような不安がある」「私や家族の家系はこのままで大丈夫か」ならまだ良いのですが、「葬式代は一体幾ら入るのだろう」とか、「死んだ後お金はどうなるのだろう」などと先々のことを考えると不安で夜も眠れないという人もかなりいるに違いありません。こうしたお金に対する不安を解消したり、夢をかなえるためにはファイナンシャル・プランの作成はどうしても避けて通れないのです。ファイナンシャル・プラントは、それぞれの家庭の夢や希望をまとめた計画表(ライフイベント表に基づいて未来の収支状況や貯蓄残高などをシュミレーションし、資金計画を立てるもの、簡単に言えば人生の設計図なのです。

 最近は価値観もライフスタイルも多様になって、シングルで一生を終える人や二人だけの幸せな時間を出来るだけ長くとるといったDINKS(共稼ぎで子どもがいない家庭のこと)など様々です。実際にライフイベント表に海外旅行、マイホーム、車の購入買い替えなどの夢や希望を書き込み、実際に未来の家計をシュミレーションしてみたら、20年後の家計は赤字続きだった・・・・なんてケースもありうるのです。しかし将来の家計の赤信号を予測し、そのための対策を早めに立てておけることこそ、ファイナンシャル・プランを作る最大のメリットなのです。

 わが家(夫婦・子ども二人)という家族設定でライフイベント表を作る場合、家族のイベント予算が出てきます。子どもの幼稚園入園・七五三・小学校入学・中学校入学・高校入学・大学入学・成人式・入社などいくつものハード路が待ち構えています。それらの出来事には必ず臨時出費伴います。また家族のやりたいことには車の購入買い替え・マイホームの建築・国内海外旅行・家電の買い替え・家のリフォームなど、書き込めばキリがないほど夢が広がるのですが、これも資金あっての物だねなのです。

 人生の三大資金・費用とは子ども教育・住宅購入・老後の暮らしだといわれていますが、教育にしろマイホームにしろまとまった資金が必要で、借入金で対応する場合には返済というマイナス要因が絡んで家計を圧迫するのです。さらに大事なことは、定年退職という人生において最大の難関が待ち構えていることです。収入の道を断たれた後の暮しは、年金問題などの将来不安定要素もあって想像以上にプレッシャーがかかるものです。

 ファイナンシャル・プランを下支えするのは何といっても健康です。心と体の健康なしのファイナンシャル・プランはあり得ないのです。私は退職して3年間が過ぎましたが、体力・知力・気力はまだまだ衰えていないつもりですが、外から見れば初老の域に近づきつつあり、世代間のコミュニケーションが難しくなったような気がしています。

 若い頃、生活設計図というのを作りました。ここでいうライフイベントのことですが、私の人生はこの生活設計図で大きな価値を生み出しました。そのことを多くの人に伝えて人生を豊かなものにして欲しいと願い、金融広報アドバイザーを物好きにも三十年もやっていますが、もう少し人々のお役に立てればと頑張っているこの頃です。

  「ファイナンシャル こんな横文字 知らなんだ それでも私 設計どおり」

  「もう少し みんなに俺の 生き方を 伝え死にたい 縁起でもない」

  「ゆとりある 老後の暮らし 夢見てた これぞゆとりと 今日も楽しく」

  「ああ今日も 貯めたお金が 消えてゆく この日のために 貯めたのだから」

 

 

  

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shin-1さんの日記

○いやあ、驚きました

 今日は2ヶ月に1回予定されている定期健康診断に出かけました。胆のう摘出手術の後、もう8年間も続いている私にとっては健康を守るための大切な恒例行事なのです。10時30分の予約時間に合わせ娘と息子の家に立ち寄る時間を加味して少し早めに出かけました。私は昔の古い人間なのでしょうか、時間ギリギリに行くのが嫌で、毎回小1時間早めに行く癖があります。寄り道したこともあって今日は30分前、愛媛県立中央病院に到着、手続きを済ませ順番を待ちました。今日は診察がスムースに進んだのか予約10分過ぎの10時40分に中へ呼ばれ、簡単な問診と血圧測定、それに簡単な腹部状態を調べるだけで終わりました。いつものことながら、こんなことで分るのかな?と思いつつ、先生は血液検査の結果を総合的に判断し、「次回はエコー検査をします。今日は血液検査をして帰ってください」といって終わりました。血液採取室へ立ち寄り、会計でお金を払って病院を出たのは11時10分でした。

 それから車を走らせて内子へ向かいました。というのも今日は内子で行われる第58回社会を明るくする運動内子大会に講演で招かれていたので、何としても12時半には到着せねばと、朝から時間が気になって仕方がなかったのです。そんな気忙しさもあって、娘や息子の所へ持って行くオレンジ100パーセントジュースを車に積み込み終わった時、車の後のトランクのドアが突然落ちて、親指を負傷してしまっていたのです。何と不器用な、何と間抜けなのでしょう。

 急ぐ心を抑えて伊予市向井原の信号に差し掛かりました。私の前を走っていた車が黄色から赤信号に変わるのを無視して交差点を進みました。私は迷いましたが思い止まり赤信号が青になるのを待ちました。するとどうでしょう。信号の向こうで何やら白バイが2台脇道から飛び出し、その車をサイレンを鳴らし追いかけて行きました。信号が青になったので走り始めましたが、500メートル先でさっきの車は白バイ2台によって停車さされ、取調べを受けていました。いやあこれも命拾いでした。

 やがて旧五十崎にある内子町共生館ホールに到着し、控え室へ案内されました。町長さんや松山保護観察所長さん、大洲警察署生活安全課長さんたちとご一緒に昼食弁当を食べながら雑談に講じました。係りの人がお茶を入れながら「今日は中学生も沢山集まっています」と思わず漏らされました。「ウソー、中学生が参加するなんて聞いていない」と声を上げそうになりました。だって中学生と大人では話の中身が違わなければ理解できないのです。一瞬青ざめましたが、まな板の上に乗った鯉です。ジタバタシしても始まりません。結局話の中身を変えようと思いました。新居浜母親大会の憲法9条のことも何とか対応できたので、自分はアドリブに強いと信じて壇上に上がりました。

(社会を明るくする運動内子大会の会場は満員でした)

 そこから先は殆ど覚えてなくて、まさにアドリブの世界でした。私を紹介ていただいた内子町大瀬の仙井さんの顔に泥を塗るような結果になったことを詫びながら内子を後に帰郷しました。

 帰ってから夜、内子町立川の松田さんから電話が入り、「今日の話は良かった、感激した」とお褒めの言葉をいただきました。お世辞だと思い聞きましたが、参加した500人もの聴衆の500分の1でも納得させたのだからと自己満足しながら、妻に今日の出来事を話して聞かせました。いやあ驚きました。今日は朝からハプニング続きでした。それでも会場を埋めた中学生たちが眠ることもなく熱心に耳を傾けてくれた余韻だけは今も心に残っているのです。中学生の皆さん有難う。

  「中学生 前に話すは 知らなんだ どうにかなると 上がったものの」

  「生き方を 話してくれと 頼まれて 生き方よりも 生きた証を」

  「失敗を 重ね私は 強くなる 今日も失敗 はてさて次は」

  「混沌と した世の中で 辻説法 聞くか効かぬか 分らぬままに」  

  

  

 

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shin-1さんの日記

○新しき仲間たち

 私には数えても数え切れないほどの知人友人がいます。遠い人近い人、古い人新しい人、出会う人出会わない人、手紙を出しあう人出し合わない人、影響を受ける人受けない人などなど様々ですが、60歳になってから親密になった新しい知人友人もいます。私たちの町は田舎です。故に第一次産業といわれる農業や漁業、それに近隣の松山などに勤める以外はこれといった働き場所が余りないため、ふるさとで暮らしたり働きたいと思っても適わず町を離れていますが、60歳の定年を機にふるさとに帰って来た人も何人かいて、その人たちは今までの不義理を謝るように地元の役を受けるのです。しかしそのブランクが余りにも多かった人は戸惑いと落差、それに田舎が故の煩わしい人間関係に翻弄され悶々の日々を過ごしているのです。

 そんな人と集会で会うと、テキパキとその役職をこなす私などは羨望の眼差しで見られてしまい、すっかり信用されお友達となるのです。その人たちは私にとっても新鮮で、これまでの知人友人にはないタイプの人間が多く、同感同調しながら何かと理由をつけて出会うのです。




 昨日は、2ヶ月に一回の限界集落勉強会が人間牧場でありました。旧伊予市から、そして旧双海町から10数名が集まりました。約束した旧中山町からは遠隔地ゆえの敬遠か一人も参加がなかったことは少し残念でしたが、県会議員の泉圭一さんも来ていただい、かなり突っ込んだ話をしました。今回の双海での勉強会は最初地元の人の話しを聞こうと思っていましたが、その予定者が都合がつかず結局は、えひめ地域政策研究センターの松本さんに資料を集めてもらい、松本さんに話題提供をお願いし、私が私見を交えたコーディネーターとなって勉強会を行いました。

 夏の人間牧場は室内に電気をつけると無数の虫が「飛んで火に入る夏の虫」さながら集まってくるので、手提げの懐中電灯を真ん中にすえ置き、まるでローソクのような細い光を便りの車座での話となりました。いやあこれが中々風流で、こんな会議も悪くないと思いました。限界集落の問題は奥行きや悩みがとても深く、2回や3回の勉強会で結論が出るというものでもなく、また行政の悪口を言い合っても何も解決できないので、出来ることから始める、自分から始めるを合言葉に話し合いを続けていますが、これもた中々上手く行かないようです。でも私自身この勉強会はまだ3回目なのですが様々な事を学びました。そして自分の生き方の整理が出来つつあることを内心嬉しく思っているのです。そしてこの勉強会を通じてふるさとの将来を思う新しい人たちに出会いました。

 会終了後、伊予市の方が帰った後で、双海町の人たちだけでお喋りをしました。松本さん以外は私が酒を飲まないため、妻の用意してくれたビールと乾き物のつまみで懇親会です。ウッドデッキに車座になり、夏の夜空や海に浮かぶ漁火、それに眼下松山の夜景を遠望しながら楽しい交流となりました。

 参加した人の殆どは新しい友人なので、話が新鮮です。また学ぶことも多く今後の参考になるような逸話を随分聞きました。

 午後6時から始めた勉強会は2時間半、懇親会は何と2時間にも及びました。用意した缶ビールが全てなくなったのでお開くとさせてもらい、私は満席の4人をそれぞれの家まで送り、わが家へ着いたのは11時を回っていました。いい一日でした。

  「新しき 友人増えて また楽し 夜涼みながら 酒酌み交わす」

  「新しき 友はこれまた 新しき 話題提供 学ぶことあり」

  「ふるさとに 楽しく生きる コツは何 宿命じゃなく 運命開く」

  「違う道 歩みし知人 ここに来て 同じ道行く 同行数人」

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shin-1さんの日記

○久しぶりののんびり昼寝

 毎日忙しく暮らしている私にとって、ささやかな願望は人間牧場で背もたれ椅子に座って、本を読みながら昼寝をすることです。しかし残念ながらそんな余裕はなく、最近の人間牧場は来客が多くて昼寝どころか千客万来の人の世話に明け暮れているのです。今晩は人間牧場で限界集落の勉強会、週末の土日は埼玉県北本市から泊り込みの旧友がやって来るのです。私はその都度極力ありのままの生き様を見せようとするのですが、妻にとっては夫に恥をかかせるわけにもいかないと、それなりの接待をしてくれるのです。有り難いことですが人間牧場を作る時「私をこれ以上巻き込まないで」といった妻の言葉が耳に残っているのです。

 妻は私が21世紀えひめニューフロンティアグループというボランティアグループを立ち上げた時から献身的に支援をしてくれました。無人島キャンプの折は留守本部、10年で40回の塾を開いた時は夜の懇親会の料理から朝食などと、下支えをしてくれました。また私が青年のために自宅横に造った私設公民館煙会所に来る人を泊めたりもてなしたりと、これも心のこもった接待をしてくれました。もうそろそろ限界と思っていた矢先の人間牧場建設に伴うお世話に対する危惧への発言だったに違いないのです。

 私はその言葉を重く受け止め、極力妻の力に頼らないよう努力しようと心に誓いました。そして建設資金や運営資金は自分で稼ぎ、迷惑をかけないようこの3年間努力してきました。また来客時もこれまでのような飲み食いを極力控え、環境にも配慮してゴミさえも持ち帰りするよう自立・自律しているつもりなのです。

 しかし、どうしても私では出来ないことがいっぱいあって、例えば地元の人を招待することや、縁の深い恩人には妻の力が必要なのです。妻もそれを承知していて今晩のビールのつまみやビールの手配、週末の料理や朝食など、私が恥をかかない程度に手配をしてくれているようです。

 さて今日は昼まで家の周りの草刈りをしました。今年に入って3度目の草刈りなのでそんなに伸びていないのですが、それでも梅雨も上がったので親父の庭木剪定に併せて草を刈りました。人間牧場用の草刈機を先日取って帰っていたので、家の裏は見る見るうちに綺麗になって、昼に帰った妻が、「まあお父さん綺麗になったね」と褒めてくれました。作業囚虜後私はシャワーを浴びて昼食を食べ、居間で寝そべっていると、ついついウトウトして、テレビを見ながら1時間余り昼寝をしてしまったのです。気がつくと午後2時前でした。わが家は少し高台にあるため、昼間は窓を開けていると心地よい風が表から裏へと吹き抜けます。知らない間に妻は私の上にタオルケットをかけて仕事に出かけていました。サンデー毎日といいながら昼寝をむさぼるのは久々だったので、何だか身体がリフレッシュして軽くなったような気がしました。

 やわら起き上がって書斎へ行くと、窓の外では既に親父が庭木をいじっていました。私も親父の血を受け継いだのか、親父のような働き者だと自負し妻も「あなたは働き過ぎだ」とよくいわれますが、それでもまだ親父には叶いません。若い頃漁師で鍛えた頑丈な親父の体力には口こそ勝っても負けるのです。

 今年も暑い夏がやって来ました。私の人生にとって64回目の夏です。身体は胆のう手術によって13キロも痩せたころの体重とそれ程変わりませんが、人間牧場の草刈りなど野外での活動が多く顔も日焼けして随分逞しくなって野人と呼ぶに房わし感じがして、会う人毎に「若松さん、元気になったね」と褒め言葉をいただいています。麦藁帽子や地下足袋が似合うカントリーボーイになったと、鏡を見ながら思う今日この頃です。

 誰はばかることなく「昼寝が出来ることは素晴らしいことです。

  「うとうとと 昼寝が出来る 幸せを かみ締めながら 今日の幸せ」

  「巻き込んじゃ 嫌だと妻が いう言葉 しみじみ思い 自律自立で」

  「あなた恥 私の恥じよと 気配りを 何かにつけて 妻はせっせと」

  「おいどうだ 俺は昼寝の 身分だと 自慢したいが 後輩昼寝」 


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shin-1さんの日記

○提案型共同事業促進モデル事業は凄いです

 昨日は「愛と心のネットワークづくり関連事業」である、「提案型共同事業促進モデル事業」の二次選考会があり、選考委員に選任されていることもあって出かけました。最近は提案型補助金や助成金が大流行で県も市町もそれぞれ目的に沿った事業を創設していますが、その審査や選考会は事業を考えた行政と、事業を採択されようとする個人や団体、それに提案を審査したり選考する人たちの思いが微妙に絡み、想像以上に緊張しながら審査選考に当りました。

 審査をするに当っては審査員の共通認識が必要で、課題の認識、課題解決の手法、協働による相乗効果、事業の効果、費用の妥当性、実現性、実施能力などなどを採点するのですが私のような凡人には中々判断しづらいほど微細なチェックが求められ、厳しい審査のプロセスを垣間見ました。あらかじめ公募に応募していたものの中から第一次審査でふるい落とされ、さらにそれらの中から選ぶのですから責任は重大です。

 まずNPO登録された団体がそれぞれ7分のプレゼンテーションを行います。その説明に対して委員6人が質疑応答をするのですが、昨日は二次審査に残った11団体の話しを興味を持って聞かせてもらいました。

 団体説明は途中休憩を挟んだものの11団体ですから3時間20分にも及ぶ長丁場です。その後今回の事業の特徴である担当課の意見聴取を1時間に渡って聞きました。そして審査会を経るという何とも凄い厳格さです。

 私は提案型事業に応募してプレゼンテーションした経験はないのですが、審査は毎年のように何度も立ち合っています。書類審査もさることながら提案型事業はプレゼンテーション能力が大きくものをいいます。前述したような採点基準で採点するのですが、決められた8分の時間を使ってどれだけ要領よく発表が出来るか、まさにプレゼンテーション能力が必要です。タイムキーパーが一分前に予鈴を鳴らし、予定の時間が終了すると終了鈴が鳴らされるのですが、練習をして来たであろう時間は、パソコンのスライドショーに翻弄され、あっという間に終わってしまうのです。さらにその緊張から解きほぐされる間もなく審査員から矢継ぎ早な、ある意味意地の悪い質問が浴びせられるのですからたまったものではありません。

 プレゼンテーションは落ち着いて分りやすく、自分の団体の簡単な紹介、事業の必要性と目的、期待できる効果と波及などを話さなければなりませんが、概して発表と書類やスライドとのコンビネーションが悪く、主張が伝わりにくい感じがしました。

 若し私がプレゼンテーションするのであれば、11団体の中で選んで欲しい一番アピールする個性は何かを鮮明にすることを考えます。この日ある団体はバイオリンとビオラの違いを表現するために助っ人に演奏までさせて審査員に聴かせました。一目瞭然でした。

 提案団体はいずれも県下各地で活動をしている立派な団体だし、プレゼンテーションに立ち会った人たちの中にはそれぞれ馴染みの人もいましたが、審査の公平を期すため私心を捨てて審査に望みました。結果は審査員の点数を重んじた合議によって決まり、やがて一定の手続きを経て知事さんに報告され、これまた一定の手続きを踏んでそれぞれの団体に結果通知されることでしょう。

 団体の活動に順番などありませんが、審査がある以上順番をつけなければなりません。採択された団体は助成金を使って県民の納得いく成果を上げねばなりません。残念ながら選に漏れたところは平常心で活動を続け、次の出番を待たなければなりません。団体活動は資金が全てではないけれど、資金がものをいう社会です。特にNPOにとって助成があるなしは天国と地獄ほどの違いで、選に漏れた団体のことを思うと、暑い夏は余計身に堪えるようです。

  「選ぶ人 選ばれる人 入り乱れ ホットな論議 冷静審査」

  「口下手や 饒舌話す 人ありて 話聞き入り 我に帰りぬ」

  「久しぶり 四時間半も 会議する 少し疲れて わが家を目指す」

  「一連の 事務の足跡 見る度に ご苦労さんと 思わず感謝」 

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shin-1さんの日記

○愛媛県町村会研修会に参加して

 3年前愛媛県の市町村が合併して、70の市町村が20市町になりました。それまでは市に比べ圧倒的に多かった町村ですが、市が13に増えたのに比べ、町の数は松前町・砥部町・久万高原町・内子町・上島町・鬼北町・松野町・愛南町の8つに激減してしまったのです。これではどう頑張っても町村会の馬力はつきにくく、当分は苦悩の日々が続くことでしょう。

 昨日はその町村会の招きで、中級職員16名と係長職員15名合同の研修会に招かれ、「合併後の地域づくり」について、えひめ青少年ふれあいセンターで講義を行いました。少し早めに出かけたため昼食までご馳走になり、午後1時から1時間50分にわたりお話をしましたが、私の紹介を研修生として参加していた愛南町の脇田さんが担当するなど、端々で知人友人にも出会い旧交を温めましたし、講義が終了すると次の講義を担当している町村会の会長である松前町長の白石さんにもお会いすることが出来ました。

 このところ毎年のように講義を担当している私がこの研修で最も強調したかったことは、合併しなかった町が何処か置いてけぼりのような錯覚にとらわれがちですが、大きいことはいいことという風潮より、むしろスモールモアビゥティフルの考えを持つべきという考え方です。確かに愛媛県内はまるで遺伝子組み換えのように、大きな市が周辺の弱小町村を飲み込んで誕生しましたが、合併して早くも3年、合併して誕生した新しい市では早くも中央優先あるいは中央横並び、中央軸足の傾向が出始めており、端々では限界集落や学校統合などの問題が徐々に出始め、住民は将来への募る不安におののいているようです。

 そこへ行くと小さな町は小さな政府を目指してそれなりの血の通った行政が出来ているようで、既に様々な新しい取り組みや斬新な企画が打ち出され実行に移されているのです。役場職員は時代の流れと住民のニーズを的確にとらえ、住民が将来への夢や希望を持って暮らしてゆけるようしなければなりません。風通しのよい血の通った行政が出来る職員の存在こそいい町をつくる大きな力なのです。

 職員も町長も議員も、町を愛する、町のためにする、町を正しい方向に導くという共通の意識さえ持てばいい町は必ず出来るのです。

 私は講義のために壇上に立ち、私の話を聞く研修生を見渡しながら話しましたが、確かに眠ることもなく熱心に話を聞いてくれましたが、どこか迫力がないような気もしました。多分それは問題意識が弱いのかも知れません。また日頃の仕事に熱が入っていないのかも知れません。かつて私がそうであったように、研修会に何かを求め、研修会で得た成果を仕事や人生に生かせるような職員になって欲しいものです。

 講義が終わって3人の研修生が控え室に私を訪ねて来ました。二人は顔見知りでしたがこんな小さな出会いだってこれからの大きな一歩になるのです。

 「人は人によりて人となる」はある人の本の題名ですが、今までも今も、ひょっとしたらこれからも人は人によりて人となります。いい人に巡り会い感化を受ける、このくらい素敵な学びはないのです。私のような凡人に会うだけでも少しは前進の糸口になるかもしれないのです。「小さな町よ頑張れ、小さな町の職員よ頑張れ」と私はこれからもエールを送り続けます。

  「小さいと 心の通う 行政が 出来るはずです あなた次第で」

  「もう少し 元気を出して 歩こうよ さすれば明日は いいことあるよ」

  「職員が やる気を出すと 住民も 元気になって 町も元気に」

  「冷房の 効いたお部屋で 涼しいな 眠っていても 給料もらえる」


 

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○使わなくなった風呂敷

 先日ある会合に貰った有名なお酒を持って行きました。わが家では長家を貰うともっぱら親父が寝酒程度にたしなむ程度なので、いつの間にか古くなって料理酒として使う程度になってしまうのです。私が酒豪?だった頃は知人・友人・親類からのお中元やお歳暮はもっぱらビールだったし、講演で招かれていただくお土産も地酒でした。しかし身体の都合で8年前に酒を断ったことを知っている人は、酒を私にくれなくなったのです。でも初対面で知らない人も相変わらずお酒をくれるのです。

 先日いただいたお酒は木箱に納められ、いかにも高そうなお酒です。私は思案した挙句その酒を風呂敷に包んで持参したのです。

 一枚の布でどんな形の物も包め、何度も繰り返し使える風呂敷は近年エコアイテムとして注目されるようになっていますが、その起源は定かではないようです。奈良時代に立てられた正倉院には、所蔵品が収納専用の布で包まれており、これが現存する最古の風呂敷とされています。こうした包み布は平安時代には「ころもつつみ」、室町時代には「ひらつつみ」と呼ばれました。包み布が風呂敷と呼ばれるようになったのは江戸時代で、もともと日本古来の風呂は蒸し風呂で、座る板場に布を敷いたり、布の上で着替えたりしていました。徳川家康の形見分けの記録「駿府御分物御道具帳」は初めて風呂敷という言葉を見ることが出来る文献だそうです。ここに記されている風呂敷は風呂の敷物のことで、徳川泰平が進むようになると庶民が銭湯にに通うようになると風呂道具や着替えを包むようになって風呂敷包みとなり、包み布全てを風呂敷と呼ぶようになりました。

 江戸時代以降庶民の間で急速に普及した風呂敷は物を持ち運ぶ道具としてだけでなく、屋号や家紋を染め抜き、今でいう包装紙のように利用されたり、婚礼の道具として使われるようになりました。明治になって生活が洋風化されても戦後間もなくまで風呂敷は庶民の暮らしに欠かせない持ち物として使われましたが、昭和の高度成長によって紙袋やレジ袋が登場し風呂敷は片隅に追いやられました。しかし近年環境への関心が高まり、再び何度も使える風呂敷への関心が高まろうとしているのです。

 風呂敷の大きさは横の長さ「幅」で表しますが、一幅は36cmで基本となるサイズは中幅から七幅まで10種類のようです。最近はその包み方や結び方にもデザインが考えられ、随分おしゃれになってきましたが、男の私などは無粋な結び方で、味もそってもないようです。女性が和服で風呂敷包みを持ち、和傘などをさして下駄で石畳を歩く姿は何とも風情のある姿です。

 昔から大言壮語な出来もしない話をする人を称して「大風呂敷な人」と呼ぶようですが、風呂敷は広げるだけでなくに包み込むことも寛容でしょう。

 私は随分前は風呂敷包みを持ってどこへでも出かけていました。しかし風呂敷包みを持ったら田舎物で東京ぼん太に似ているといわれ、木のカバンを手に入れてから、風呂敷包みにおさらばしましたが、今でも風呂敷包みへの郷愁を忘れていません。木になるカバンの中には小さな風呂敷を入れて持ち歩いていましたが、それもいつの間にか机の引き出しにしまわれてしまいました。もう一度風呂敷包み復活といきましょうか。

  「風呂敷に 酒を包んで 会合へ 粋な計らい 感謝されつつ」

  「若い頃 風呂敷包みを 持ち歩く 思い出彼方 そろり復活」

  「風呂敷は 風呂に使うが 語源とは 知らぬことゆえ 酒を包みて」

  「日本人 風呂敷ひとつで 用をなし 暮しの智恵は 今も生きてる」 

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shin-1さんの日記

○ブルーべりーが届く

 わが町に西岡栄一さんという人がいます。この方は昔役場で町長さんの公用車の運転手をしていましたが退職後は奥さんと二人で農業をやっています。在職中から人の面倒見がよく、同じ職場だったこともあって何かと気心の知れた間柄で、時には先輩として、時には同僚として、時には行きがかり上部下として付き合ってきました。西岡さんは私など比べものにならないほど二代の町長さんに同行して様々な地域や場所を運転手ながら訪ねていて、視野の広さは町内随一で、私も一目を置く人なのです。加えて実行力があってよいと思ったことはすべからく直ぐに実行に移すのです。 

 在職中にイチゴの高床式ロックウール栽培を奥さんが主動となってはじめ、苦労の末双海のイチゴ園の先鞭をつけました。言い方は悪いかも知れませんが、後に始めた3軒の農家はいい所取りのような感じもします。でも西岡さんは直ぐにそのことを見越してイチゴとブルーベリーを組み合わせた観光農業をしているのです。今でこそブルーベリーは一般的になりましたが、がまだ珍しい頃から取り組んで、今では立派なブルーベリー園として経営の主要な柱になっているようです。

 西岡さんの凄さはそれを自分だけのものにせず、翠校区で取り組んでいるグリーンツーリズムの主要リーダーとして他の人を引っ張っていることです。既に校区の溜まり場にピザ釜も4つ造って土日には予約を受けて活動しているし、自らも蒟蒻を作るメニューをしっかりとこなしているのです。

 西岡さんは運転手を長らくしました。町長さんとは同級生だったこともあって大変だったと思うのですが、悪びれることもなく立派に勤め上げましたし、辞めてから何が残るか考えたら真の勝者は西岡さんではないかと思ったりするのです。

 私は西岡さんの生き方を見ながら、自分も目的や計画を着実に実行している部類ですがまだまだ西岡さんには適わないと、自らの見本としてこれからもせいぜい見習わせて欲しいと願っています。

 一昨日西岡さんがトラックに何やら大きな植木を積んでわが家にやって来ました。見ると粒をたわわにつけたブルーベリーの鉢植えです。今年から一鉢オーナー制度を考案し、希望者にブルーベリーの鉢をシーズン中貸し与え、自宅で居ながらにして収穫を楽しもうとするものです。「試験的に食べてみてください。収穫が終わったらまた取りに来ます」とあっさりわが家の庭に降ろし置いて帰りました。

 驚いたのは家族です。また娘や息子も一応に驚き、早速熟れた実を試食していました。残念な事にわが家に来た人が「まあ珍しい」と一つ一つ摘み取って口に入れるものですから、熟れるのを楽しみにしていた私などはまだ一個も口にしていないのです。

 まあこれも西岡さんの宣伝だと思い、来客に自慢をしながらいただいています。「水は3日に一度たっぷりやって下さい」というご指示通り、今朝は汲み置きした水をバケツにいっぱいたっぷりやりました。孫が次に来る頃には熟したブルーべりーを摘ませることができるかも知れません。

  「見習って 強く生きよと 思う人 身近に住んで 身近お手本」

  「これ食べて いきなり鉢が 降ろされて 嬉し収穫 居ながら自宅」

  「人間の 値打ち一体 何なのか 生き方次第 値打ち高まる」

  「たっぷりと 水やる朝の 爽やかさ この水吸って 美味い果実が」

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