shin-1さんの日記

○残暑の中水仙の球根堀り

 地域づくりには地縁・人縁というのがあって、それらを大切にしないといい地域づくりはできないのです。地縁・人縁は同じ場所に住む人たちとだけではなく、交流によって生まれた地縁・人縁もまた大切なものなのです私にとって高松市三谷地区のコミュニティのメンバーとは公園に二回も招かれたというだけでなく、地縁・人縁において特別な意味を持った地域なのです。

 まちづくりで活発な活動をしているところの共通点は、①あさつができて時間が守れて人の集まりが良い、②その街にある公衆トイレが美しく掃除されている、③街の至る所に綺麗な花が咲いているという3つの点です。三谷地区はそのいずれもが揃っていていい地域なのです。そこの溝渕さんとひょんなことで知り合いとなり、昨年はバス一台を仕立てて夕焼けコンサートに見えられましたが、今年は人間牧場訪問とからませてやって来るようです。そんな夕焼けコンサートの押し迫った8月31日、10人の花の会の方々が水仙の球根堀にやってきました。朝7時に香川県を出発したという一行は9時過ぎにはシーサイド公園に到着し、早速双海花の会の圃場で水仙の球根掘り作業に取り掛かりました。目安は2千個と言うことでしたが、前もって私が1日がかりで草刈りをしていたためと畑の状態が非常に良くて、残暑厳しい中ではありましたが、やはり10人もの人数ゆえ思いの外作業がはかどりました。

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(三谷の皆さんの球根堀り作業風景)

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(私もそれなりに働きました)
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(香川県高松市三谷の球根、麻袋を用意する周到さに驚きました)

 実はこの日、大分県日田市大山町のひびきの里からも、水仙の球根堀のグループがやって来ることになっていたのです。大山町と言えば「梅栗つくってハワイへ行こう」というキャッチフレーズで有名になった村おこしの元祖みたいな町なのです。ひびきの里の支配人は元大山町企画情報課長であった緒方さんなのです。彼とは古い付き合いで、肝胆相照らす仲なのです。前回大分県へ講演に招かれた時、水仙の球根の密約が交わされていて、この日に来ることになっていたのです。ところが直前になって緒方さんが来れなくなり松原部長さんともう一人のお二人で見えられました。三谷のみなさんにはそのことを前もってお伝えして、ボランティア活動として大山町の分まで掘って欲しいと懇願し、潔く応じていただきました。三谷のみなさんが彫り終わって食事をしている時彼らも食事をしていてばったりでした。

 大山の二人に理由を言ってイモ掘り作業をして貰い、その間に三谷の一行は人間牧場見学をしました。三谷のみなさんは一度人間牧場へ来ていると思ったのは私の勘違いで、少し道に迷うハプニングもありましたが、瀬戸内の穏やかな眺望にみんな感心していました。

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(大分県大山町の球根)

 三谷の皆さんとは牧場の近くでお別れし、急いで引き返しました。あれから1時間半近くも経っているのでさぞや暑かろうと気をもみましたが、お二人は三谷のみなさんが掘ってくれたものと合わせて、軽く10箱もの球根を既に道まで運び出していました。帰りのフェリー便の予定もあるので私のトラックに積み込んで、亀の森の車まで持って行って積み替え、やっと忙しい一日の午前の部と午後の部を終えました。時計は4時過ぎを回っていたので、急いで引き返して車とキャリーを水洗いして収納し、シャワーを浴びて夜の部に備えました。

 少しの時間に沢山のメールが入っていたので返信をしようと思いましたが、どういう訳かワープロ機能が働かず、ついには諦めて夜の部の会場へ向かいました。すっかり日焼けした私の顔を見て「お父さん大丈夫」と冷えたリポビタンを一本飲ませてくれました。「ファイトで行こうリポビタンD]って感じです。人と会い、人と会うための段取りをし、予定をこなすのはさほど苦労とは思いませんが、パソコンの故障は疲労に追い打ちをかけるような出来事でした。これも夏休み最後の淡い夏の思い出として記憶に残ることでしょう。それにしても大山町のために水仙の球根を掘っていただいたみなさんに、心から感謝いたします。


  

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shin-1さんの日記

○パソコン故障は台風襲来に似ている

 私の一日はパソコンの前に座ってブログを書くことから始まります。昨日もその前の日もそんなことを繰り返し、余程ことがない限りこれからも当分はブログへの書き込みによって一日は何となく始まり何となく終わっているのです。ところが昨日の夕方メールの整理をしていて突然ワープロ機能が働かなくなり、文字の入力ができなくなってしまいました。仕方がないので娘婿に助け船を出し直してほしいと頼みましたが、残念ながら夜遅かったことと、今日から今週末まで仕事が忙しくて対応ができないとの返事でした。続いて息子に連絡を入れると息子は11時前にやってきて対応してくれましたが、残念ながら治りませんでした。息子はパソコンを修理するため私のパソコンをさっさと持ち帰ってしまったのです。さあ困りました。今朝は机の上にいつも置かれているパソコンがなくなり寂しい感じがしたものですから、早朝読書を試みましたが、何となくリズムが狂ってピンときませんでした。

 ただならぬ私のため息を見てとったのか妻は、「お父さん、今日は午前中予定が空いているようなので娘のところへ行ってブログを書いたら、そして娘のパソコンを借りて帰ったら」と勧めてくれました。急な思いつきで8時に自宅を出て娘のマンションへ着いたのは先ほど午前9時でした。娘はパソコンで買い物をしているので一週間もパソコンを書くことはできないと突っぱねている矢先、息子から携帯電話が入り、「dynabookの会社である東芝に電話をかけてトラブルを解決して治った」というのです。うれしく連絡でした。

 孫の朋樹は今日から学校で留守です。孫尚樹はテレビを見ています。娘は私と孫を残してさっさと買い物に行きました。しばらくすると帰ってくるのでしょうが、帰りに息子の会社に立ち寄ってパソコンを受け取りかえりたいと思います。

 私のイライラの一番の原因は目下のところパソコンの不具合です。パソコンが故障するたびに娘婿や息子に頭を下げて直してもらったり苦情を聞いてもらっていますが、毎度のことなので適当に対応してくれています。メールの整理や返信も少し遅くなったり忘れていたりするものですから、相手から催促や督促が入ります。その度に自分の非力を嘆き、進化を誓うのですが退化はしても一向に進化もせずイライラは募るばかりです。

 もし娘婿や息子たちがいなかったらどうなるのだろう?とまさかの時に依存できる大樹の影に甘んじている自分を発見するのです。色々書きましたがパソコンの故障は関東に接近した台風とどこか似ているようにも思いました。日頃はパソコンも当たり前のように酷使していますが、故障すると大騒ぎをするのです。昔は台風の通り道は九州か四国と通り相場が決まっていました。ゆえに九州や四国の人は台風に備えた日々の暮らしができていたのです。ところが関東では台風など滅多に来ないので備えもなく、漫然と過ごしているのです。備えとはやはり学習だと思います。もっと学習を続けて備えを固くしたいと思いました。


  「パソコンが 治った通知 携帯で イライラ治り やっと正常」

  「非力なり つくづく思う わが知能 これから先も 思いやられる」

  「今日だけは 息子の力 信じよう パソコン治し 俺の手助け」

  「パソコンを 使い過ぎだ 妻が言う 奏かもしれぬ 優しく使う」

 

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